kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

「桃の花」に想うことをつらつらと。

桃花源記(とうかげんき)

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 古代中国の王朝である晋から、南北朝時代の宋にかけての時代(5世紀あたり)に活躍した詩人、陶潜(とうせん)が書き記した物語です。武陵(今の湖南省)の一漁夫が俗世間から離れた平和な別天地を訪れたという話。今でいう理想郷を語っているのです。「桃花源」は、「桃源」へと姿を変え、今馴染みの「桃源郷」が誕生です。

 この時代の日本はというと、近畿地方を中心に連合したヤマト政権が成立していた古墳時代であることを鑑みると、すでに文章として物語が遺るという古代中国文明とは、いかほどのだったのか。しかし、当時の中国は、五胡十六国時代という争乱期であるため、ならず者が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)していたことは想像に難(かた)くありません。だからこそ桃花源の世界を想う。

 陶潜が想い描く桃花源は、もちろん浮世離れしたものですが、ユートピアのような別世界ではありません。見るもの聞くもの触れるもの、全て変わったものではい。しかし、それぞれが美しい。人々は笑顔で集い語り合い、主人公である漁夫を歓待する。何をもって美しいと感じたのか。

 悟りを妨げるのは108にも及ぶ「煩悩(ぼんのう)」だと釈尊は弟子に語る。中でも、「欲」「怒り」と「愚痴」は、「三大煩悩」と呼ばれいます。自分さえ儲かればいい、認められれば良いという「欲」。言ってはいけないことを言う、行動に移すことで引きおこる「怒り」。妬(ねた)みに恨み、そして憎しみの「愚痴」。全て、大小にかかわらず、人間が引き起こす争いの原因です。

 陶潜は、この人心の乱れによる厭世(えんせい)観はびこる世界に嫌気がさしたのではないか。遠い遠い別世界ではなく、煩悩を抑え込むことで、和やかな人間関係となり、素晴らしい世界になるのだと。物語の漁夫が再訪を試みるも、桃花源へは辿り着くことはできませんでした。桃花源の世界を探し求めても見つからない、個々の人間が煩悩を無くすことで導かれる世界なのだ。そう教えてくれている気がいたします。

 では、なぜ「桃」だったのでしょう?百花の王「牡丹(ぼたん)」でも良いのではないか?

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 古代中国では、桃の実は長寿の祝いにつかわれ、枝は不吉を除くといわれていました。「桃弧(とうこ)」は厄災を祓うために桃の樹で仕上げた弓のこと。さらに、「桃符(とうふ)」とは、桃の樹で作った「おふだ」のことで、魔よけのために門の脇に飾るのだといいます。桃は、何か神聖な霊力のある仙木としての役割を担っているようなのです。

 さらに、桃の花が紅色に美しく咲き誇り、すでに咲き終わった柳の樹々は、新緑美しい葉が列々(つらつら)と繁らせた枝を風になびかせる。この「桃紅柳緑(とうこうりゅうりょく)」とは、中国でいう春の美しい光景のこと。

 陶潜は、桃に備わる霊的な力と、春の美しい光景が、人々を我に返らせるのではないかと考える。物語の中で、桃花源へと導くため、乱れ切った心を癒(いや)すため、そのキッカケとしたのが「桃」だったのでしょう。5世紀から人口に膾炙(かいしゃ)しているといことは、個々の心に多少なりとも響いたことに他なりません。

 

 中国が原産という「桃」の樹は、実を食用としてというよりも、何か不老長寿の薬効を含み、百鬼をも退かせる呪力が宿った仙木であるという、古代中国の思想とともに、日本に持ち込まれたようです。

 悠久の時の流れを遡り、日本で最初に登場したであろう国家らしき「邪馬台国」。小学校で学ぶ日本の歴史に登場するこの名称を、知らない人はいないのではないでしょうか。いまだ謎のベールに包まれ、いったい日本のどこにあったのかすら、未解決。その有力候補と地として名が挙がるのが、奈良県桜井市周辺。この地で見つかったのが「纏向(まきむく)遺跡」です。

 難解な漢字を使う名称だけではなく、不可解な点が多いのがこの遺跡なのです。人々が集まる地だからこそ、文化文明が生まれるもの。しかし、この遺跡には人の住んでいた形跡がなく、まさに古墳群によって形成されたかのような場。そこからは貴重な出土品が多くすべてを鑑みると、ここは祭祀の場であっただろうと。そして2010年、3世紀に掘られたであろう土坑という穴から、2,000個にも及ぶ桃の種が見つかったと発表がありました。

 このような大量の種が出てくる事例は他にはありません。桃に邪鬼を祓う力が宿っていると信じられ、その樹や実が、古代祭祀の道具や供物として使われていた。かつて、この場で大規模な神事が執り行われた証ではないのか。今は、歴史ロマンに魅せられた人々が、太古の雄大な夢を想い描きながら集う場所になっているようです。

 

 日本の誕生を書き記した「古事記」によると、黄泉国(よみのくに)にいる愛する妻イザナミノミコト(伊邪那美命)に会いに赴いた夫イザナキノミコト(伊邪那岐命)が、約束を破り妻の変わり果てた姿を目にしてしまう。怒り心頭に発したイザナミノミコトは、逃げるイザナキノミコトを見るも恐ろしい醜女(しこめ)に追わせるも失敗。

 そこで、八種(やくさ)の雷神(いかづちがみ)と、1,500にも及ぶ黄泉の軍勢を差し向けました。命からがら、黄泉国の出入り口である黄泉比良坂(よみひらさか)に達したとき、近くに育っていた桃の樹から得た桃の実3つを追手に投げつけることで事なきを得たというのです。ほぼ同時期に編纂された「日本書紀」にも、多少の違いこそあれ、同じようなことが記載されています。

 

 桃の樹に宿る霊力。今でもこの名残を残しているものが、2月3日に執り行われる「追儺(ついな)」という宮中行事です。我々には「節分の豆まき」の日ですが、このルーツともなる神事だといいます。

 季節の変わり目が「節分」、新しい季節を迎える前に今の季節の厄「鬼」を祓うため、「桃の樹の弓で、葦(あし)の矢を射る」というのです。五穀や小豆をまくこともあったようで、これが我々馴染みの節分の豆まきとして今に至るのでしょう。鬼(厄)を退治する(祓う)といえば、我々に馴染みも「桃太郎」の昔話。なぜ桃から生まれたのか?もうお気づきかと思います。諸説あるかと思いますが、このお話は納得していただけるのではないでしょうか。

 さらに翌月の3月3日。この日は、皆様ご存知の「ひな祭り」です。もともとは「上巳(じょうし)の節句」といことで、中国から遣唐使によって、この風習が持ち込まれたようです。陰陽五行の中では、「陽(奇数)が重なると陰を生ず」と言われ、霊的な力のある植物の力を借り、邪気を祓おうと考えました。

 そういえば、日本の童謡の中に「うれしいひなまつり」という歌があります。歌詞を口ずさんでみてください?「明かりをつけましょ♪ぼんぼりに~♫お花をあげましょ♩」

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桃の花~♬」です。

 旧暦の3月3日であれば、新暦の4月あたりのために、「桃の花」も開花しているでしょう。ところが、新暦に移行する際に、そのまま3月3日に設定してしまったのです。南の熊本県でも桃栽培をしていますが、さすがに3月3日に桃の花芽はほころびません。ひな祭りに飾るには、枝を切り温室に活けることで、開花を早めているのだといいます。桜の花咲く順番は、「梅」→「桜」→「桃」です。

 

 今回、桃の花の画像をいただいたのは、和歌山県紀の川市桃山町で、桃栽培を代々続けてきている豊田屋さんです。出会ってから、5年経つでしょうか。毎年、この上なく素晴らしい白桃を、Benoitへ送っていただいております。彼らの桃畑では、すでに桃が大笑いしていました。

 ワイン用のブドウの場合、開花してから110日ほどで完熟を迎えるといいます。もちろん、その年の天候次第に左右されることは、自然の産物なのでいたしかたないこと。ワインをどのように仕上げるか?収穫や発酵の段取りにより、収穫するタイミングを決めてゆきます。

 どうやら桃もまた同じようで、開花から約90日前後で完熟を迎えるようです。列々(つらつら)と咲き誇る桃の花、昆虫たちの助けをかりながら受粉してゆき、3か月後にはたわわに実ってゆきます。しかし、このままでは実が押し合いへし合いする上に、養分の取り合いが起きてしまいます。そこで、開花と同時に彼らが行うのが「摘花(てきか)」という作業です。

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 樹々の剪定(せんてい)もそうですが、先を見越しての作業ゆえに、経験がものをいいます。教科書に選定や摘花のことは書いてはいいるでしょう。しかし、環境や樹形は千差万別、一筋縄では行きません。さらに、これらの作業の失敗は、桃の品質と収穫量に直結するのです。さらに、厄介なのが一年に一度しか収穫できないのが果樹であるということ。

 Benoitが営業自粛している最中、丹精込めて育てた「桃を皆様にお届けしたい」と、彼らの想いながら春の陽射しの中で粛々と作業を続けていたのです。なぜBenoitが毎年のように豊田屋さんから桃を購入するのか、「美味しい」という理由以外に、「安心・安全」であるからということ。

 豊田屋さんの桃栽培を担当しているのは、長兄の豊田孝行さんです。実は現役の医師でもあり半農半医をこなしているのです。彼に、ご職業は何ですか?と伺うと、「桃農家です」と言い切ります。そのため、半農半医という語順なのです。昨今の新型コロナウイルス災禍のこともあり、豊田さんにお話を伺ってみました。以下、彼からいただいた皆様へのメッセージです。

 

 「4月7日に緊急事態宣言が出され約1か月が経過しました。日本でのコロナウイルス感染の流行はまだ先が見えず、いつまでこの状態が続くのか?不安を抱えながら生活されている方も多いと思います。生活に対する不安、ウイルス感染への恐怖でストレスフルな毎日ではありますが、今回の騒動の中でじっくりと考えていただきたいことがあります。

 それは “” についてです。

 私は医師をしながら、農業をしています。まだ完全ではありませんが、肥料、農薬を使わない自然栽培に取り組んでおります。それは、自分が以前に体調を崩した経験、医療現場における病気の方の増加、耐性菌・耐性ウイルスの増加、環境破壊の進行などを考え、できるだけ環境負荷を減らし、農家への負担を減らし、身体にやさしい果樹・野菜を育てたいという思いからきております。

 人の身体を作っているのは食物です

 どんなに良い薬ができたとしても、食物が悪ければ免疫は維持できず、ウイルスや細菌に負けてしまいます。また、栄養状態が悪いと精神的なストレスにも弱くなり、気分が沈んだり、眠れなくなってしまったり、落ち着かなくなったり、というような症状が出てきます。最近は、診察をしていて、栄養状態の悪い方が増加していると強く感じます。

 食事はバランスよく摂っておられますか?

 炭水化物・糖質過多ではないでしょうか?

 ファストフード・インスタント食品が多くなっていませんか?

 毎日の食品添加物の摂取量はご存知でしょうか?

 調味料はどんなものを使っておられるでしょうか?

 日々の生活に追われ、忙しい中での食生活はどうだったでしょうか?

 今回、こんな時だからこそ、ぜひ今までの食生活、さらに、生活習慣を振り返る時間を持っていただければ幸いに思います。まずは、健康でいることでなければ、思考も偏ってしまいますので。

 食料自給率少子高齢化医療制度改革年金問題…あげればきりがないほど、私達は沢山の問題を抱えています。凹んでいても状況は何も変わりませんので、この機会に皆で考えていきましょう。

 一人一人の総意でこの社会はできています。目指す方向が同じなら、手を繋いで皆で乗り越えていきましょう。その先に必ずより良い未来がやってくると信じています。

 農業の話ではなくなってしまいましたが…(笑)。今年の夏もブノワさんでピーチメルバをいただけることを楽しみにしております。」  豊田孝行さんより

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折りてみば 近まさりせよ 桃の花 おもひぐまなき 桜をしまじ  紫式部

 詞書(ことばがき)に「桜を瓶(かめ)にたてて見るに、とりもあへず散りければ、桃の花をみやりて」と書き記されています。花瓶に桜を挿し活けるも、すぐに花を散らしてしまう。惜春の想いは募るばかり。庭に目をやると、そこには美しい桃の花が笑っているではないか。折り取り、あなたを花瓶に活けて楽しませていただきます。人の気持ち知らずに、散りゆく桜にはもう未練はありませんよ。

 「おもひぐまなし」は、相手のことを考慮しない、自分本位な、という意味です。桜の花は、決して我々のことを無下にしているわけではありません。自然の機微を的確に捉え、我々に季節の到来を教えてくれ、散りゆくのが運命であり、この潔さにも美を感じます。昨今の「おもひぐまなし」とは、新型コロナウイルスでしょう。我々日本人にとって、世界中の人々にたいする無慈悲なまでに「時」を奪い去りました。

 しかし、失った「時」を嘆いてばかりでは何も始まりません。豊田さんの話にもある通り、「食生活の見直し」を図る機会かと思います。「人の身体を作っているのは食物です」、その通りです。

 しっかりと食べ、よく眠る。食生活を健全にすることで、健康となる。その健康は、我々に正しい思考を与えてくれる。正しい思考なくして、理想の社会などありようわけもありません。一人一人の意識改革が、架空のユートピアではなく、桃花源へ我々を導いてくれるのではないでしょうか。その道しるべとして、「桃の花」が咲いているかもしれません。

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最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

 終息の見えないウイルス災禍です。皆様、油断は禁物です。十分な休息と睡眠、「三密」を極力避けるようにお過ごしください。「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、笑いながらお会いできることを楽しみにしております。

皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より切にお祈り申し上げます。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬www.benoit-tokyo.com

宮崎県綾町の「日向夏」のご紹介です。

「旬の食材には、今我々が欲している栄養価が満ち満ちています。」

 とは、自分の口癖のようなもの。春野菜には、ほろ苦さがつきもので、これは冬の間に眠っていた体を目覚めさせるためだと。対して秋野菜は、これから迎える冬ごもりへ向け、栄養価の高いものが多いといいます。旬の食材は美味しいばかりではありません。

 いつもであれば、ここで特選食材を使用した料理やデザートをご紹介するのですが、残念ながら今春はそうもいかないようです。ただ、このまま旬の食材を見過ごすこともままならず、Benoitで購入していた、購入予定であった食材をご紹介してゆこうと思います。生活必需品をご購入の際などに、スーパーや八百屋さんで見かけた際の、参考になれば幸いです。

 

 今回、皆様にご紹介する食材の舞台は、日照時間や快晴日数が国内有数を誇る宮崎県です。数ある特産である中で、この地が発祥の柑橘が「日向夏(ひゅうがなつ)」。ミカン属の雑柑類に分類されています。雑柑類とは、なんとも「雑」な表現ではりますが、類縁関係が不明確で、その系統の種類しかないもののこと。ある意味、正統派の柑橘なのでしょう。今主流となっている品種改良ではなく、自然交配してゆきながら淘汰され、自生した「偶発実生(ぐうはつみしょう)」です。

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 「偶発実生」は、その名の如く、偶然に「実生」から生まれたもの。実生とは、実の中にある種から成長したもの。栽培するためには当たり前のことではないか?とお思いかと思います。しかし、果樹は「挿し木」や「接ぎ木」で増やしてゆくのです。種からの栽培は、他の品種と交配している可能性があり、同品種ではなくなる可能性があるからです。これは、ワイン用のブドウも同じです。通常は、農業試験場などで交配され植栽し、選りすぐりの逸材を探し出し、同じ遺伝子を維持するために挿し木や接ぎ木で株を増やします。

 この工程を、自然界が行っていたのです。自然の中で淘汰されることで、その地に適した柑橘が誕生していたのです。1820年宮崎市赤江の真安太郎邸内にて、蜜柑ともグレープフルーツとも違う、美しい黄金色の果物が、この「日向夏」でした。

 しかし、無名のまま不遇の時を過ごすこと67年、華やかな表舞台に登場するのは、1887年になってからのことです。日向の国に生まれたからか、はたまた夏に向かって暑くなる日を乗り切るための栄養に満ちているからなのか、「日向夏」と名付けられました。

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 柑橘類の中でも、ゆず系統に属し、蜜柑とグレープフルーツを合わせたような、心地良い甘さにほろ苦さが特徴。他の柑橘類にはない爽やかな香り、表皮と実の間の厚くふわりとした白皮、この「白いドレス(ワタ)」が優しい甘さに満ちており、果実の心地よい酸味との相性は抜群なのです。

 宮崎県が原産の「日向夏」は、四国に渡ると「小夏(こなつ)」、さらに東に進むと静岡県では「ニューサマーオレンジ」として、市場に出回ります。しかし、さすが生まれの地だけに、生産量の約60%は宮崎県です。県内、日向夏の栽培が沿海部に集中している中で、Benoitは内陸の生産地を選ばせていただきました。宮崎市(下の地図の右下)から西へ西へと、山の中へ進むこと20kmほど進んだ東諸県郡綾町(下の地図の赤丸)から送っていただいています。

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 太平洋に流れ込む大淀川を上り、中流のあたりで支流の本庄川へ。綾町に入ると綾北川と綾南川へと名前を変える、綾川湧水群として名水百選に選ばれている水源です。町の約80%が森林で、広大な照葉樹林は、2012年に生物圏保護区(ユネスコエコパーク)に認定されています。常緑広葉樹で形成される照葉樹林は、自然淘汰の中で生き抜いてきた動植物たちの宝庫であり、「自然」そのものがそこにある。この綾町は、県内外から農畜産物を求めにやってくる観光客が多いといいます。なぜでなのしょう?

 

 世界中を席巻している「大量生産」をなしうる農法は、自然生態系を鑑みず、近代化・合理化の名のもとに、利便性と効率を追求しています。農業に限らず、全ての企業が求めていることで、決して否定することはできません。しかし、これがために自然生態系が壊れることになりました。安心安全を求めているようで、かえって自然自体が持っている浄化能力を阻害し、生きとし生けるもの自らが持ち得る抵抗力を、低下させることになたのです。結果、さらなる薬剤が必要になり、それが我々に還ってきます。アレルギーなどの様々な症状を生み出すことになった原因のひとつでないでしょうか。

 この状況を重篤と感じた生産者は、自然の生態系に習い、「無農薬の有機農法」へと舵を切ります。「食の安全」はもちろん、「自然回帰・共存」を目的とし、現代のノウハウを生かしながら、古人の農法に戻ろうとする。苦さエグさも、また野菜の個性なのだと。

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 宮崎県の綾町は、なんと30年以上も前から町全体で有機栽培に取り組んでいる地なのです。見た目に美しく効率よく大量生産をめざす飽食の時代に、まさに逆行するかのような行動に出たのが、当時の綾町の町長でした。1988年(昭和63年)、「綾町自然生態系農業の推進に関する条例」が制定したのです。

 「わが綾町は~中略~先人の尊い遺産である照葉樹林の自然生態系に恵まれ限りない恵を享受してきた。~中略~今日の経済社会の諸情勢は、我が国の農林業を厳しい環境に落とし入れようとしている一方、食の安全と健康を求める消費者のニーズは、日本農業に大きな期待と渇望のうねりが生じつつある。~中略~消費者に信頼され愛される綾町農業を確立し、本町農業の安定的発展を期するため、本条例を制定する。」(詳細は綾町役場のHPを参照ください)。

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 今回の日向夏も、除草剤不使用に加え、土作りも堆肥から。4月半ばに花開き、実を成す8月には傷がつかないよう、一つ一つの実に袋をかぶせ、太陽の恩恵を十二分に受けて育った露地ものです。これが、美味しくないわけがありません。2018年から購入させていただている特選食材です。

 

 当時、綾町へのお礼をお伝えしたところ、当時の前田穣町長よりお礼のお手紙をいただきました。その中にしたためられていた、皆様へのメッセージを抜粋させていただき、以下にご紹介させていただきます。

「心のふるさと綾町から皆様へ

いつも青山のビストロBenoitをご利用の皆様、九州は宮崎県、綾町の前田でございます。この度、綾町の特産品「日向夏みかん」を自慢の料理に添えていただいているご縁をいただき、一言お礼を申し上げます。

綾町は県庁所在地の宮崎市から西に20km、車で30分の近隣にありながら、歴史伝統文化を継承し、自然との共生の町づくりを推進し森林に囲まれた町で、平成24年7月ユネスコエコパークに登録されました。その中で環境保全型農業として有機農業のまちづくりを展開いたしております。

一口に有機農業と言いましても、田畑で除草剤を使わずに雑草を取り除いたり、国の基準に沿って基本的に無農薬で生産、出荷するまでに育て上げることは生産者にとってはとても地道で、現代では非効率な農業とも言えます。しかし、消費者の皆様に安心、安全をお届けしたい一心に、「安全でおいしい」の一言を聞きたいがためにその伝統を継承し、守り続けております。

その中でも、日向夏みかんは綾町特産品の代表格とも言えるもので、黄金色に輝く皮の下には甘い白皮が分厚い層を作り、さらにその内側に柑橘特有のほどよい酸味を持った果肉がいまにもはじけそうに密に広がっています。ですから、他のみかんのように皮を剥くのではなく、白皮はできるだけ厚く残し、酸味のきいた果肉とともに召し上がるのが最高の楽しみ方です。

Benoitとのご縁を心からありがたく存じますとともに、Benoitをご愛用の皆様に深く感謝申し上げ、ぜひ綾町にも足を運んでいただけますと幸いに存じます。

最高の旬の素材とともにお待ちいたしております。」

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 今では、「有機栽培」や「有機農法」という言葉を其処彼処で目にすることができるます。何か新しいおまじないのような言葉ではありますが、自然の生態系に習い、農薬を減らした「有機農法」を実践していますということ。しかし、「言うは易く行うは難(かた)し」とはまさにこのことではないでしょうか。栽培者には並々ならぬ労力を課すことになります。それでも有機農法に回帰するのはなぜなのでしょうか?

安心安全で、自然本来の美味しい作物を、皆様にお楽しみいただきたいから。

 

最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

末筆ではございますは、ご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より切にお祈り申し上げます。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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「タラのブランダード」のご紹介です。

 Benoitが再開いたしました。そこで、今まで投稿に花々が続いていたので、久しぶりに料理のお話を復活させようかと思います。そして、この料理は、お家でぜひお試しいただきたいのです。

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 今回は、「タラのブランダード」というお料理です。横文字の名前だけに、なにやらさっぱり分かり難(にく)いものですが、これがまた美味なり。ヨーロッパでは、北欧を主として、塩をたっぷりとまぶし釘が打てるほどに乾燥させた「Morue(モリュ)」という、塩干タラがあります。常温保存が可能な、保存食のひとつ。これをいかに美味しく食べようかという、フランスの伝統と知恵の逸品なのです。同じような料理が、ヨーロッパ各国にあり、大航海時代で言語が伝播するように、世界中に拡がっていきました。

 しかし、Benoitのブランダードは塩干タラを使用しません。日本は周囲を海に囲まれており、美味しいマダラが水揚げされています。鮮度が良く美味しいマダラが手に入るのに、塩干タラを使用する理由が見つかりません。

 北海道のマダラに塩をまぶし一日お休みです。これにより、、身が引きしまるのと同時に、旨味が出てきます。このタラを少しばかり塩抜きし、牛乳とニンニクの中で煮たものを、ほぐしたジャガイモと混ぜ合わせます。これに半熟卵をのせる。ジャガイモの甘さとホクホクの食感、そこにタラ特有の繊維っぽい身質と旨さが絡みあう。半熟卵のとろりとくる黄身との相性も抜群です。さらに、クリームにニンニクを風味付けしたものをソースとする。これがBenoitスタイルです。

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Œuf mollet, brandade de MORUE

タラのブランダードと半熟卵

今月末まで、Benoitのランチプリ・フィックスメニューに名を連ねております。

 

 昨今の新型コロナウイルス災禍は、足の赴くままにBenoitへ向かうことを、やすやすと許しません。そこで、このブランダードをお家で試しませんか? Benoitのように仕上げることは容易ではなくとも、もともとはフランスの家庭料理です。自宅でもできないことはありません。まして、日本には「甘塩タラ」という、すこぶる便利な食材がスーパーに所狭しと並んでいます。これで、塩漬けの一手間がなくなるのです。

 家ではいたって簡単に作りましょう。自分でもそれらしくできるのです。「甘塩タラ」が良いですが、「塩タラ」の場合は、水に浸けて塩抜きし他方が良いと思います。画像のように最後は身をほぐしてしまうので、火にかける前に指で潰しても良いので骨を取り除きます。そして皮も取り除きます。

 小鍋に牛乳と適当な大きさでカットしたニンニクを入れます。そこに、骨皮取り除いたタラを加え、焦げるので弱火でコトコト煮てゆきます。ジャガイモは、メークインは粘り気が出るので、男爵イモを使い、水から茹でると美味しくなりますが、ラップでレンジでチンでも十分です。

 ボールの中に、茹で上がったジャガイモの皮を取り除いたものを入れ、フォークでほぐす。そこへ、小鍋の具であるタラとニンニクを加えます。そして、小鍋の旨味の煮出た牛乳を加えながら混ぜるだけ。あら、家庭版ブランダードの完成です。

 このままでも美味しいですが、Benoitのように半熟卵も相性が良いですし、オリーブの実を加えても美味。耐熱の器に入れ、パン粉をふってオーブンで焼き色付け、バケットのスライスを添えると、みんなでつまめる料理にもなる。さらに、これでコロッケを作ってもいいと思います。

 タラを牛乳で煮る段階で、お好みのハーブを加えてもアレンジできる。多めに作って冷凍保存しておくのもいいかもしれません。簡単な料理だからこそ、多くのアレンジが可能なのでしょう。ひとつだけ、注意しなければならないことがあります。最重要です。

「タラをケチると、ただのマッシュポテト!」

Stay Home and Let’s play Kitchen

 

最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

末筆ではございますは、ご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より切にお祈り申し上げます。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

 

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「ときわぎ」に想うことをつらつらと。

ときわぎ

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 聞き慣れないこの言葉ですが、今でいう常緑樹のことを指し示します。漢字で表記すると、「常盤木」。しかし、大和言葉だからこそ「ときわぎ」と書きたいものです。常緑樹は、ツンツンとしたイメージですが、この言葉からは何とも言えない柔らかさを感じます。ただ単に、平仮名だからでしょうか。

 「常」は、「つねに/永久に」ということ意味します。「盤」は、盤石(ばんじゃく)という言葉がある通り、「大きい平たい岩」のことで、安定して揺れ動く心配のないことのたとえでもある。一年中、美しい緑の葉を茂らせる樹であることから、常盤木=常緑樹であるといいます。大いに納得です。

 ところが、同じであるとも言えない響きが、常盤木(ときわぎ)にはある気がします。決して、「木(樹)」だから「気」がするわけではありません。「盤」には、動詞として「楽しみふける/楽しむ」という用法が漢字にあると「漢辞海」の辞書は自分に教えてくれたのです。

 ふと思う、碁盤(ごばん)や将棋盤は、誰しもが知っている物で、格子状に目の入った台のこと。「盤」には「お盆/大皿」の意味もあるので、昔はそれらで碁や将棋を指していたのかもしれません。しかし、形から察するに、碁板や将棋板、足がつていたら碁台や将棋台ではないのかと。しかし、「盤」には別の意味があった。碁や将棋を「たのしむ」ための盤なのです。

 「ときわぎ」は、常緑樹のことでありながら、その言葉を発する人の「楽しむ」という想いが加味されている樹のことを言い表しているのでしょう。この言葉を耳にした時、柔らかく何か希望めいた雰囲気を感じてしまうのも、むべなるかなと思います。口に出すときには、この「楽しさ」の気持ちを込めてなくてはなりません。

 

 そこで、皆様によく見かける3つの「ときわぎ」をご紹介させていただきたいと思います。1つ目は、冒頭の画像の樹、「ユズリハ」です。一昨年に撮影したものですが、きっと今頃がこのような姿をしているはずです。樹の先々がボンボンのようになり、列々(つらつら)とした一つをつらつら(よくよく)見てみると、新旧交代の準備をしています。

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 下の昨年の葉が、上の今年の葉へと、光合成の役割を引き継ごうとしている最中。常緑樹とはいえ、一生同じ葉が生い茂っているわけではありません。人知れずこの交代劇が行われ、昨年の葉を落としたものを、「常盤木落葉(ときわぎおちば)」といい、夏の季語になっています。この葉の譲り合いを楽しめるのが、このユズリハの樹。古くはユズルハなのだと。

 親が子を育て上げ、引き継出ゆく。縁起物として正月飾りに欠かせません。昨年、干支の話の中で、2019年のシンボルツリーとして紹介させていただきました。詳細は以下よりご訪問いただけると幸いです。

kitahira.hatenablog.com

 

 2つ目はすでに幾度となく自分のメールに登場する「橘(たちばな)」です。

柑橘を総称して古人は「橘」といっており、品種の「タチバナ」ではありません。垂仁(すいにん)天皇の命により、田道間守(タジマノモリ)が常世(とこよ)の国から持ち帰ったという「非時香木実(時じくの香の木の実)」、これが「橘」だと古事記に書き記されています。不老長寿の想いを重ねながら、花を愛で香りに酔い、実をおいしくいただく柑橘の樹々。

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 其処彼処の庭で、たわわに実った果実を目にいたします。アゲハ蝶に狙われやすく、育てるのは難儀であるにもかかわらず、丹精込めて実を成すまで育て上げたのです。家の主(あるじ)は庭木として植栽することを決めた時、いったいどんな思いだったのでしょうか。家族の不老長寿を願ったのか、はたまた年に一度の収穫を楽しみにていたのか。

 

 ご紹介したい3つ目の「ときわぎ」は、「椿(つばき)」です。柑橘が庭木であれば、椿は垣根として植栽しているお家が多いのではないでしょうか。

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 「桃」や「梅」が中国大陸から持ち込まれたものに対し、「桜」や「椿」は、昔から日本に自生していたもの。特に「椿」は日本固有種です。

 「椿」という漢字は中国に存在します。樹木の名前に加え、古代中国には伝説の霊木「大椿(だいちゅん)」というものがある。四季の春が8千年、秋が8千年といい、3万2千の季節周期を繰り返すといいのだという。そのため、「椿」には、不老長寿の意味が含まれ、「椿寿(ちんじゅ)」という言葉もあるほど。

 しかし、中国の「椿」はセンダン科の落葉樹、日本の「椿」はツバキ科の常緑樹。まったくの別物です。かつて、日本が漢字を古代中国から取り入れた際に、常に緑の葉が生い茂る日本の「椿」に不老長寿を見出し、日本風に「読み」をあてた「国訓」といいます。しかし、春に花咲く樹なので中国の漢字を手本に日本独自に造り上げた「国字」で、偶然の一致という思いも消えなくもありません。ちなみに、国字には「働く」があります。

 どちらにせよ、古人の賢人は中国から律令制度や漢詩など多くを学ぶ中で、「椿」に何か霊的なものがあることを感じ取ったのでしょう。「日本書紀」の中で、日本の第12代景行(けいこう)天皇が、九州で起きた土蜘蛛の反乱を鎮める際に、椿の杖が登場します。土蜘蛛は、朝廷に背く地方豪族のことで、妖怪のようにおどろおどろしく描かれています。

 さらに同書の中で時代は下り、第41代持統(じとう)天皇へ、悪鬼を祓う「卯杖(うづえ)」80本が献上されたと記載があります。正倉院に納められているこの杖。素材の一つが、「椿」です。

 なにかしらにこの霊力が宿っていると思われていたからこそ、人々が簡単に扱うことに畏怖の念を抱いていたのでしょう。歴史を紐解くと、椿が馴染み深い樹となるには、まだ時を下らなければならないようです。

 観賞用としてもてはやされるようになるのは鎌倉時代に入ってから。その後、茶道の世界で愛用され、「茶花の女王」と称されます。そして、徳川秀忠が各地の珍しい椿を江戸城に移植したことを機に、全盛期を迎えたといいます。その後は、武家社会の終焉(しゅうえん)とともに、落ち着きを見せることになりました。

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 日本ではなかなか陽の目を見ないツバキでしたが、意外なところでブームを巻き起こしていました。江戸時代、ポルトガル商人の手によってヨーロッパに持ち込まれ、「日本のバラ」と称賛されたのです。その後、18世紀にはイギリスへ、そしてフランス、イタリアへと波及していきます。

 ヨーロッパ各地で盛んに栽培され、多くの新品種が生まれました。このような時代背景の中で、アレクサンドル・デュマ・フィスの名作「椿姫」が19世紀フランスに誕生します。彼の時代の、何人をも魅了する美しさをもつ女性を表現するため、小デュマはバラではなくツバキをあてたのです。

 この小デュマの原作小説をもとに、ジュゼッペ・ヴェルディが発表したのがオペラ「椿姫」1853年です。初演は、聴衆・批評家からの大ブーイングという大失敗、これに挫けることなく、入念なリハーサルを重ね再演、そして継続。この弛まぬ努力が、今なお世界各国の劇場で演奏され続けられることとなり、ヴェルディの代表作ともなったようです。そう、「椿」という日本固有種である花の名が、突如ヨーロッパの社交界にその名が登場するのです。

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 一年中、艶やかな濃い緑色の丈夫な葉をもち、真っ赤な見事な大輪の花を咲かす。実からは椿油を搾り取り、髪のお手入れに利用するのは、今も昔も変わりません。さらに、行燈に使用され闇夜を照らしました。幹は木目が細かいため、お椀などの挽もの細工の材料として。枝を焼いて作った「椿炭」は漆工芸に、「灰汁(あく)」は草木染には欠かせない材料です。生活の中で、欠かすことのできないものとなってゆきます。

 これほど、昔から我々と親密な関係にありながら、個人的にもあまり好きな花ではありませんでした。理由は花の散り方にあります。

 椿よりも一足先に花咲く「山茶花(さざんか)」や「寒椿(かんつばき)」。あまりにも似すぎているために、混同されがちですが、サザンカやカンツバキは、花びらを散らすように花期が終わりを迎えます。桜吹雪とは美しく切ない感傷を湧きおこすことか。これに対し、ツバキは花びらをおさえている「うてな」ごと、ぼとりと花そのものを落とすのです。

 自分の郷里は、新潟県新発田市です。難読地名で「新発田(しばた)」と読むのですが、市のシンボルは新発田城。自分が、越後新発田藩の武士(もののふ)の血を引いているわけではないのですが、時代劇の影響でしょうか。介錯された首のように、ぼとりと落ちる花が、何か生々しく感じるのです。これがまた美しい花だからこそ、なおさらなのでしょう。

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 個人的に「あまり好きではなかった」、そう「た」という過去形です。奥深さを知るほどに心変わりしてきました。桜の場合、花が散り池や川に漂う光景を「花筏(はないかだ)」といい、晩春を想わせる、悲しくも優しい雰囲気を醸しだします。椿は、花落ちてなお、その美しさを誇示しているのです。

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 なぜ古刹(こさつ)に椿を植栽するのか、少しばかり分かったような気がいたします。日照の少ない場所でも、花咲かすこともあるかとおもいますが、苔生(こけむ)す古刹の庭園にこそ、その真髄をみることができます。庭園を見事なまでに管理清掃している方々が、敢えて残す「落椿(おちつばき)」の数々。自然が成しえたこの美しさは、今も昔も変わらないはずです。

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 残念ながら、苔が生すには長きにわたる時を必要とし、家の庭では整えることのできない自然環境が必要になります。アスファルトの道路では、「落ちた椿の花」でしかありません。石と苔が織り成すこの、日本人特有の美意識に見る、侘(わ)び寂(さび)を表現する地に一輪もしくは数輪の椿の花。これが「落椿」であり、なぜ古刹が植栽したかの理由のひとつなのだと感じ入ります。「落椿」は晩春の季語にもなっています。

 

最後に、万葉集の中に詠われている椿の歌をご紹介させていただきます。

川上の つらつら椿 つらつらに 見れども 飽かず 巨勢(こせ)の春野は  春日蔵首老(かすがのくらびとおゆ)

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 巨勢とは、奈良市御所市古瀬の辺り。ここには、阿吽(あうん)寺があり、椿の名所であると。上の歌は、春に花咲く椿の姿を偲びながら、秋に詠まれたといいます。「つらつら」となんとテンポ良く響くうたなのでしょうか。

 曽我川を「上流へと上ってきた先に、たくさんの椿が咲き誇り、よくよく眺めているけれども、この古瀬の春の景色は飽きないものです。」

 万葉の時代、「ひらがな」はありません。そのため、漢字の力を借り、意味ではなく音(おん)で表記しているのです。2つ目の「つらつら」は、「都良々々」とあります。確かに「つらつら」と読める上に、縁起が良さそうな表記です。

 では、1つ目の「つらつら」はというと。「列々」と書き記しています。ここはまさに、漢字そのものの持つ意味も含め、音で表現しているのです。ひらがなもないなかで、賢人の言葉の持つ力を利用した、見事なまでの表現と思いませんか。

 椿の花期は終わりを迎えようとしています。「列々(つらつら)に咲き誇る椿」を、つらつら(よくよく)思い起こすように楽しみ、「ユズリハ」の列々とした一つをつらつら(よくよく)見て新旧交代を知る。そして、列々実った柑橘を美味しくいただきながら、日々を楽しみませんか。

 

旬の食材には、今我々が欲している栄養価が満ち満ちています。

いつもであれば、特選食材を使用した料理やデザートをご紹介するのですが、残念ながら今春はそうもいかないようです。ただ、このまま旬の食材を見過ごすこともままならず、Benoitで購入していた、購入予定であった食材をご紹介させていただきます。スーパーや八百屋さんで見かけた際の、参考になれば幸いです。

kitahira.hatenablog.com

 

いまだ終息の見えないウイルス災禍。「椿」の霊力にでもすがりたい心境ですが、我々ひとりひとりの行動が、この未曾有のウイルス災禍を「収束」へ向かわせ、必ず「終息」するものと信じております。そう遠くない日に、笑いながらお会いできることを楽しみにしております。皆様、無理は禁物、十分な休息と睡眠をお心がけください。

 

最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

末筆ではございますは、ご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より切にお祈り申し上げます。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com

「Benoit営業再開」のご案内です。

花にそめし 心をやがて うつすとは いはでもふかし 山吹の色  進子(しんし)内親王

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 桜(サクラ)の名称は、田の神を意味する「サ」と、その神が舞い降りる居座る場「クラ(座)」から成り立つといいます。桜の開花は、稲作の最初の工程である「田起こし」の目安となるため、稲作文化の我々日本人にとっては、親密な関係性があります。冬の閉ざされた自然環境の中、桜の開花を望むことで耐え抜いてゆくという、ある意味「心の拠り所」であったかもしれません。

 平安時代以降、和歌の中で「花」といえば「桜」のことを指し示します。もちろん、桜の品種であるソメイヨシノがあったわけはなく、山桜のことを詠っていたのでしょう。桜色とは何色か?淡いピンク色を想像されるかもしれませんが、山桜が花咲く時に開く若葉の色。艶のある小豆色に似ているでしょか。この色を着物に染め上げて、桜散る頃に花を愛でに行くのが風流だったのだといいます。

 これほどまでに想いのこもった「花」が散りゆく。葉桜と姿を変えた時、古人は得も言われぬ喪失感に包まれる。そのまま、視線を下へ向けると、新緑が生い茂る中に、輝かんばかりに黄色の花が咲き誇ってるではないですか。「桜の花に染まった私の心を、そのままあなたへ向けることにします。教えてくれずとも十分に理解していますよ、山吹の花よ。」と、感慨深いものです。

 「うつす」と「いはでも」が掛詞(かけことば)であることを考えると、ヤマブキ側からも読み取りたいと思います。「桜の花に染まった皆様の心もち、そのまま移(うつ)してください。人知れず色鮮やかに咲き誇っている山吹の花へ」となる。勝手気ままな解釈ではありますが、なかなか興味深い歌ではないでしょうか。さて、進子内親王の心中やいかに。

 

 昨今の「新型コロナウイルス災禍」は、日々の日常を奪い去りました。桜前線に一喜一憂するはずが、一憂二憂するばかり。しかし、思い悩んでばかりではいけません。桜が散っても、視線の向きを変えれば、新緑の中に黄金色に輝く山吹が咲き誇っている。この憂いた気持ちは、何をどうしても霧散することはありません。この無念の想いを秘めつつ、視線を変えてみることで、今後どうすべきなのかの道筋が見えてくる気がいたします。

 今回の災禍は、飲食店の弱さをまざまざと見せつけられました。人生を豊かにするうえでもなくてはならないものですが、平穏無事な状況下でしか成り立たないということ。自走できる船とは違い、風を頼りに進む帆船のようです。帆船は、港に停泊するさいに錨をおろし、出発の際にこの碇を巻き上げる力を利用して、行き足をつけます。今のBenoitは、このウイルス災禍によって急ぎ帆を閉じ、漂っている帆船のようなもの。

 経済が停滞しているように、海も凪いでいる。いざ出発しようにも、行き足のつかない帆船では、風が吹かない限りどうすることもできません。約3週間に及ぶ営業自粛で、Benoitの時が止まりました。いずれ迎える本格的な営業を前に、時間をかけて「失われた時」を取り戻すべく、粛々と準備を進めるかのように営業再開を試みさせていただこうと考えました。

 

 先日、何をどうしたものか思案するも、「何もしない」ことが良策と判断し、Benoitの「営業自粛」を決断いたしました。当初は28日(火)までの予定でしたが、現状を鑑み月末の30日(木)まで「営業自粛」を延長し、51()より営業を再開させていただきます。しかし、東京都の「緊急事態措置」を鑑み、ディナーの営業時間を大幅に変更させていただきます。ご不便をおかけいたしますが、ご容赦のほどなにとぞよろしくお願いいたします。

 

202051(金曜日)からの営業は下記の通りです。

≪ランチ≫ 1130分から1530分まで(14時ラストオーダー)

≪ディナー≫ 1730分から2030分まで(19時ラストオーダー)

※さらなる営業時間の変更や短縮の可能性もございます。ウイルス災禍収束のため、皆様にはご理解のほど、なにとぞよろしくお願いいたします。

 

 Benoitでは、お客様の安全を第一に考え、従業員全員の手洗いと消毒、マスク着用を義務といたします。出勤時と営業時間の前後はもちろん、店内6か所に設置している除菌用アルコールを使い、営業時間内外を問わず徹底してまいります。店内の除菌清掃はもちろん、皆様がお手に触れるカトラリーや食器類にいたっては、業務用洗浄機を使い高温(80℃以上)にて除菌洗浄を徹底いたします。

 営業のオペレーションにおいては、お越しいただいたお客様が隣同士に隣接しないように、1テーブル以上席間を空けることで、「密」を排除いたします。出勤時にスタッフ皆の健康を確認し合い、自分を含めたスタッフ皆がいつも以上の体調管理を心がけ、スタッフ同士の「密」を避けるためにも最小人数にて営業に臨ませていただきます。

 

 目に見えないウイルスに対し、医療従事者の皆様は身の危険を顧みず最前線で奮闘してくださっております。新薬開発に向け、寝る間も惜しんで研究を重ねている方々がいらっしゃいます。物流を途絶えないように、そして生活必需品滞りなく取り揃え我々に提供してくださる方々がいる。彼ら皆様を支えてくださっている保育園や学童、役場など、多くの方々がいらっしゃいます。

 今までの日々の生活が、知らない方々の尽力の上で成り立っていることに気付かされます。この場をお借りし、深く深く御礼申し上げます。Benoitは、再開を決定いたしました。これまでの皆様の努力を胸に刻み、細心の注意をもって営業に臨むことをお約束いたします。

 

 いまだ終息の見えないウイルス災禍です。皆様、無理は禁物、十分な休息と睡眠をお心がけください。旬の食材には、今我々が必要としている栄養に満ち満ちています。免疫力を高める意味でも、旬の食材を食し、この危機を乗り越えてゆきましょう。この未曾有のウイルス災禍は「収束」へ向い、必ず「終息」するものと信じております。そう遠くない日に、笑いながらお会いできることを楽しみにしております。

 

「やまとうたは人の心を種として、万(よろず)の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、こと(事)わざ(業)繁きものなれば、心に思ふことを見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯(うぐいす)、水に住む蛙(かわづ)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」

 古今和歌集の撰者の中心的な役割であった紀貫之が、その序文に平仮名で書き記したものです。和歌とはどのようなものかを、教えてくれています。

 「やまとうたは、人の心を種とし、数え切れないほどに生い茂った言の葉である。世に命を授かったものは、多くのことを経験してゆくことで得ることのできた、心に思うこと見たこと聞いたことを言い表したもの。花で鳴いているウグイス、水に住んでいる蛙の声を聞くと、生きとし生けるものを、歌として詠まないことがあるでしょうか。」

 飲食の道を志し、すでに20年近い経験となりました。皆様より𠮟咤激励を賜りながら、少しばかりは成長したものかと思うも、まだまだ達人には程遠い力量です。いかに「口福な食時」なひとときを、皆様に過ごしていただくことができるのだろうか。そう思案する中で、食材や料理、調理人のこだわり、さらに心に思うこと見たこと聞いたことを、皆様にお伝えしてゆくことも、「口福な食時」へ誘(いざな)うために大切なことなのかもしれない、そう考えるようになりました。

 万(よろず)の言の葉となるよう学び、文字として書き記すことで、皆様の都合の良い時に、読んでいただけるのではないか。もちろん、素人の自分が和歌を詠うなどとはもってのほか。古人の英知をお借りして、皆さまに季節のお話を交えながらお伝えしてゆこうと思います。

 

以下は、Benoit営業自粛の期間に、ブログに書き記した5本です。お時間のある時に、ご訪問いただけると幸いです。

 

立てば芍薬(しゃくやく) 座れば牡丹(ぼたん) 歩く姿は百合(ゆり)の花

 今咲き誇るのが牡丹の花。そこで、3つの花を調べつつ、「座れば牡丹」について考えてみました。この結論は、偶然なのか?こじつけなのか?

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旬の食材には、今我々が欲している栄養価が満ち満ちています。」

 いつもであれば、ここで熊本県天草の特選食材「柑橘」を、贅沢に使用した料理やデザートをご紹介するのですが、残念ながら今春はそうもいかないようです。ただ、このまま旬の食材を見過ごすこともままならず、Benoitで購入していた、購入予定であった「美味なる柑橘」をご紹介させていただきます。スーパーや八百屋さんで見かけた際の、参考になれば幸いです。

kitahira.hatenablog.com

 

 いまだ終息の見えないウイルス災禍に対し、今我々にできることは家にいること。そこで、一般社団法人天草宝島観光協会にご協力いただき、皆様にBenoitが購入していた、購入予定であった柑橘の産地「熊本県天草」をご紹介させていたきます。≪前編≫は、歴史を顧みながら少しばかり「﨑津集落」へ向かいます。

kitahira.hatenablog.com

 

 ≪後編≫は、「島原・天草の乱」に触れながら、旅路を進めてゆきました。少しでも、皆様が天草へ興味をもっていただき、新型コロナウイルス災禍終息の折には、足の赴くままに、彼の地をご訪問いただけると幸いです。kitahira.hatenablog.com

 

 本来であれば、もっと早くお話すべきお話です。完熟キンカン「たまたま」がたまたま教えてくれたことです。Benoitの職人気質をご紹介させていただきます。

kitahira.hatenablog.com

 

最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

末筆ではございますは、ご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より切にお祈り申し上げます。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com

「熊本県天草への旅心地」をお家でお楽しみください。≪後編≫

 熊本県天草諸島(以下「天草」と記載)から、Benoitは旬の柑橘を購入していました、そして購入する予定でした。この地域の類稀なる環境は、得も言われぬほど美味なる柑橘が、季節を追うように多くの種類がたわわに実ります。12月から始まる「早生みかん」を先陣に、天気のご機嫌しだいですが5月の末まで収穫できるか「天草晩柑」を殿(しんがり)とする、約半年間もの期間、Benoitのみならず、皆様の食卓に季節の彩りを与えてくれます。

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 いまだ終息の見えないウイルス災禍に対し、今我々にできることは家にいること。そこで、一般社団法人天草宝島観光協会の助けをお借りし、皆様を少しばかり天草観光への旅心地をお楽しみいただこうかと思います。人が住み良い場所に集落ができ、その人が行き交うことで道ができる。そして、その行く先々に歴史があります。

 前編では、国道266号線を辿りながら、河浦町で脇道(国道389号線)にそれ、2018年7月に世界文化遺産に認定された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つ、「﨑津集落」を訪問いたしました。後編では、「島原・天草の乱」の歴史を振り返りながら、先へ進んでゆこうと思います。

 

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 﨑津天主堂を、背後から望むと、遠く先には羊角湾の対岸の美しい山々。海沿いを歩いた先には、﨑津漁港として港湾が造られています。そこから西へ目を向けた先に、大海原を見据えるようにマリア像が立っています。﨑津の漁師さんを見送り、の無事息災に帰港することを願っている。漁師さんにとっては、どのような灯台よりも、この「海上マリア像」が心を照らし続ける灯(ともしび)たらんことでしょう。

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 さあ、国道389号へ戻り、いざ西へ。この﨑津集落を横切るこの国道は、道路前後にトンネルが穿ってあります。かつては、海路でしか﨑津へいくことができなかったといことを、大いに納得しながら先へ進みます。大小6つものトンネルを過ぎると、この国道は北へと向きを変え、海の底には天草灘が広がる大海原を左手に、大江町に辿り着きます。ここには≪前編≫でご紹介した「大江天主堂」を見ることができます。

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 海岸線に沿うように山あいの道を北上してゆく。﨑津のあった羊角湾も、海から山がそそり立つような景観でした。しかし、この大江から北上した周辺は、外海だからこその荒波による浸食が著しい岩礁地域。「妙見ヶ浦(みょうけんがうら)」と呼ばれている地の、美しい海と奇岩が織り成す景観は、自然が作り出した造形美であり、圧倒されます。

 国指定の天然記念物と名勝に指定されている地域でもあり、やはり通り過ぎるわけにはゆきません。国道389号から寄り道をして、「十三仏公園」へ。ここから眺める妙見ヶ浦は風光明媚なり。羊角湾とは違った景観をお楽しみいただきたいと思います。

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 国道389 号線に戻り、北上を続けます。海を左手に望めるようになると、賑わいをみせる苓北(れいほく)町が姿を現します。この町の西北端に、自然の神秘が生み出したかのような「富岡半島」があります。海の神々の遊び心なのか、波が運んできた砂が堆積した砂州(さす)で、本土と繋がる陸繋島(りくけいとう)。さらに、この遊び心は、細く長く砂が堆積してできた、自然の堤防のような砂嘴(さかく)を造り上げました。

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 1604年(慶長9年)に、天草を領有した肥前唐津城主である寺沢広高が「富岡城」を築城しました。半島(上の画像)右上からさらりと伸びた砂嘴。その間が巴湾。この湾の左岸の中ほどの丘の上に築いた山城です。

 「島原・天草の乱」において、長崎県島原の原城に籠城する前に、この富岡城を巡る攻防戦がありました。歴史に「もしも」はありません。しかし、この攻防如何では、どのように歴史がかわっただろうか?そう思わずにはいられません。

 

 「島原・天草の乱」は、キリシタンの反乱として世に知られていますが、禁教令に対する反発というよりも、島原城主松倉氏と天草領主寺沢氏の悪政が事の発端です。この2つの領地で共通していることは、キリシタン大名と名高い有馬晴信小西行長が治めていたということです。

 豊臣秀吉の治世に、島原は有馬晴信、天草は小西行長が領有します。1587年に秀吉の「伴天連(ばてれん)追放令」が施行されるも、南蛮貿易の魅力に負けた秀吉は禁教を徹底できなかったため、両大名は宣教師を比護し続けました。そして、日本の行く末を左右する戦(いくさ)が勃発。1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」です。有馬晴信は東軍、小西行長は西軍に。勝敗は皆様の知るところ。

 小西行長の所領は没収され、天草の地は肥前(佐賀県)唐津城主である寺沢広高が領有することになります。飛び地のような所領のため、この天草を治める拠点として築城したのが、前述した「富岡城」です。

 有馬晴信の所領は島原であり、安泰であったはずが、権謀術数に己惚(うぬぼ)れたのか、自ら謀(はか)られることになります。有馬家の念願である旧領地回復の口利きと、朱印状(偽物)を得たことへの礼として、岡本大八へ賂(まいない)を渡してしまうのです。岡本大八は、江戸幕府老中、本多正純重臣であること。さらに、長崎奉行の長谷川藤広との確執もありました。多くのことが絡み合い、晴信は大八の口車に乗ってしまったのでしょう。

 これが「岡本大八事件」として明るみになったのは、1612年(慶長17年)のこと。岡本大八は偽の朱印状を作成した罪で、有馬晴信長崎奉行長谷川藤広暗殺未遂の罪で、断罪されます。有馬晴信の所領は、子の直純へと引き継がれますが転封されることで、島原の地は松倉重正の領地となるのです。

 これで終わらないのが、この「岡本大八事件」でした。断罪された二人がキリシタンであったことに、江戸幕府キリスト教への不信が募っていきます。そして同年、江戸幕府より「伴天連(バテレン)門徒御制禁也」と下知がくだされたのです。そして翌年には「伴天連追放之令」が発布され、禁教令が徹底されてゆきます。「追放」から「処刑」へ、ここに苛烈な「キリシタン迫害」が始まることになるのです。

 

 熊本県公式観光サイトの「ふるさと寺子屋」に掲載されている、鶴田倉造氏の寄稿が興味深い。引用させていただきながら、「島原・天草の乱」を追ってゆこうと思います。

 「天草・島原の乱」は、天草を支配した寺沢氏と島原の松倉氏による圧制とキリシタン弾圧がその原因と言われていますが、島原はともかく天草には少し違う事情がありました。小西行長の治世、天草の人口3万の2/3にあたる2万3千がキリシタンであり、60人あまりの神父、30の教会が存在していたといいます。幕府のキリシタン禁教令により、キリシタンの弾圧が激しくなり、1630年(寛永7年)には島民のほとんどが転宗・棄教していたといいます。

 歴史教科書では「寛永の大飢饉(1940~1943年)」が記載されていますが、江戸初期には凶作が続き、飢饉へと幾度となく陥いっていたようです。天草の人々は、キリシタンを棄教したことで、天が我々を見放して、天罰を下したと考えるようになりました。そして、天草の其処此処(そこここ)で復宗運動が起こり始めるのです。

 天草の地を領有している寺沢広高、次の寺沢堅高の圧政は、実際の石高の2倍にものぼる年貢であり、農民の不満は募るばかり。さらに、小西行長を含め戦国時代に敗れ去った大名の臣下は、農民として日々を暮らしていました。彼らの無念さはいかほどのものか。そこへ誰ともわからない藩主がやってきての圧政となれば、生きるために一揆止むなしと考えるのは、至極当然のこと。

 生きるか死ぬかの瀬戸際に達したとき、皆の気持ちが一揆蜂起へと向かうことになります。しかし、村ごとで蜂起したところで、規模は小さく鎮圧されることは明白。そこで、皆の気持ちがひとつになるような主導者の必要性を考えていたはずです。この策謀を島原側と談義していた地が、天草の大矢野島沖にある「湯島」であったといいます。この島の別名は「談合島」。彼らは、天草で巻き起こる復宗運動を利用することを画策しました。

 かつて、ポルトガルマカオに追放されたママコフ神父は、信仰を禁止された天草の民へ「25年後、16歳の天童が現れ、パライゾ(天国)が実現するであろう。」との預言を残したといいます。そして、ひとりの神童が大矢野島で産声を上げ、幼さの残る青年となった益田四郎時貞、天草四郎として歴史に登場します。

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 1637年(寛永14年)に天草四郎を総大将にたて「旗揚げ」しました。一揆の「蜂起」ではなく、聖杯にクロスが飾られ2人の天使が描かれた旗印のともに集結したのです。もちろん、島原側でも同時期に行動が始まっています。

 天草四郎の軍勢(以下「四郎軍」と記載)が大矢野島から天草上島へと進んだところで、当時富岡城を守っていた唐津藩筆頭家老、三宅籐兵衛が出陣します。しかし、反乱軍の勢いを止めることはできず、ここで命を落とす。

 三宅籐兵衛は、ガラシャ夫人の甥で、肥後藩主の細川忠利の従兄弟にあたる人。まったくの推測ですが、彼はキリシタンに対しては寛容だったのではないか。寺沢広高の圧政による、人々の困窮を目の当たりにしています。天草上島で四郎軍と対峙したとき、藤兵衛は説得を試みたのではないかと思う。

 四郎軍は、賛同者が集いながら富岡半島まで進み、富岡城を取り囲みます。城内の唐津藩兵約3千に対し、四郎軍は約1万にも膨れ上がっていました。四郎軍は農民が中心の素人軍ではありません。かつては勇猛果敢に戦場(いくさば)を駆け抜けた武士(もののふ)が指揮している軍団です。しかし、三方を海に囲まれ、難攻不落といわれる「富岡城」を攻め切れませんでした。下の画像は、富岡城址から望む巴湾です。

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 四郎軍は、富岡城攻略を諦め、早崎瀬戸を渡り対岸の島原へ。そして、島原で蜂起した仲間と合流した後に、原城へ向かいます。3ヶ月間の籠城の末、大勢の幕府軍に敗れてしまいました。約3万7千にも及ぶ民衆を率い、幕府側の降伏勧告にも屈せず、戦い続けました。原城攻防による四郎軍の生存者は、内通者の一人のみといいます。参加した農民皆がキリスト教を心の拠り所としていることに、幕府に恐怖とも思える大きな衝撃を与えたことは、この後に禁教を徹底したことが物語っています。

 「島原・天草の乱」後は、寺沢堅高は死罪を免れたものの領地没収となり、幕府軍の総大将である松平信綱の信任が厚い、山崎家治が富岡藩主として移封されます。領民がいなくなった村々もあり、領地は荒廃を極めている中での復興に尽力します。その後天領となり、代官として鈴木重成が着任。鈴木重辰、重祐と続き、地元では鈴木三公として慕われる善政を行いました。その後、戸田忠昌によって富岡藩が立藩。天草の現状を見かねた忠昌は、富岡城の維持が領民の負担になると考え、三の丸を陣屋として残し、廃城とするのです。後に「戸田の破城」と名付けられました。再度、天領となり、そのまま明治を迎えます。

 幕府は、問題のあった藩には、転封という手法をもって信任が厚い大名に、藩の立て直しを任せます。これは、天草に限ったことではありません。以前にブログで書いた「郡上八幡物語」は、岐阜県の話です。

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 復興の兆しが見えたところで、天領にするというということは、幕府にとって重要な拠点であると判断したのでしょう。そして、なにかしらの不穏な動きを察したのか、更なる可能性を見出したのか、島原藩を立藩することで能力のある大名を移封する。そして、また天領へ。このあたりの理由は、まだまだ調べる必要がありそうです。

 もし、四郎軍が難攻不落といわれた「富岡城」を陥としていたら。この砂州が作り上げる地形は、数十万の幕府軍を迎えるには好都合だったのではないか。勝てはしなくとも、長引く戦乱が世相を変えたかもしれない。江戸幕府の300年の歴史が変っていたかもしれない。そう思うと、大げさかもしれませんが、この富岡城の攻防が「島原・天草の乱」の重要なポイントだったのではないのか。そう思えてなりません。

 「島原・天草の乱」で命を落とした四郎軍の首は、3つに分けられ埋葬されました。そのうちの一つが、この富岡城の袂(たもと)にあります。乱から10年後の1647年(正保4年)、鈴木重成の手によって「富岡吉利支丹供養碑」が建てられています。

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 さあ、歴史の重みを感じつつ、後ろ髪をひかれる思いのまま、国道389号を進もうかと思います。天草下島の海岸沿いを進みますが、最北端まで辿りつくと国道324号線へと国道名が変わり、進路は南へ向かいます。そして、天草上島へ向かうための「天草瀬戸大橋」の手前で国道266号線と合流し、橋を渡り終えると分岐を迎えます。上島の沿岸南側を通るのが国道266号線、北側は国道324号線です。

 今回は北側の国道324号線へ。この天草上島区間は「天草ありあけタコ街道」と名付けられました。この名前が全てを表すでしょう。タコの産地であり、干しダコを作るために、天日干ししている光景がほのぼのとした景観を作り出しています。

 さあ、この天草ありあけタコ街道に入るとすぐに、「島原・天草の乱」の天草側の緒戦の地となった、大島子諏訪神社に出会う。さらに進み少しばかり寄り道をすると、正覚寺が姿を見せます。このお寺は、乱の後にキリスト教布教の中心となる「南蛮寺」の跡地に建立されたといいます。先頃行われた本堂改築の際には、IHSと干(かん)十字の入ったカマボコ型のキリシタン墓石が発見されています。

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 さらに進むと、この街道らしいモニュメントが目に飛び込んできます。皆様のごタコ(多幸)を願いながら、目指すは大矢野島を挟んで、宇土半島と天草とを結ぶ「天草五橋」です。橋の手前で、国道324号線は上島南まわりの国道266号線と合流し、ここから宇土半島までは、同じルートを辿ります(以下「国道266号線」)。

 

 「天草五橋」は、真珠の養殖が盛んな地域であることに由来し、パールライン」と呼ばれています。それだけに、橋を渡るとすぐに出迎えてくれるのが「天草松島」の島々。ここの景観が得も言われぬ美しさがあるのです。5号「松島橋」、4号「前島橋、3号「中の橋」、そして2号「大矢野橋」。全てが違った姿で我々を魅せてくれます。

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 島々を橋脚のようにして、この4本の橋を巡って辿り着く、大矢野島へ。上陸手前に、左手の島原湾が広がる先に、前述した湯島(談合島)を遠くに望むことができます。右手の八代(やつしろ)海には、大矢野島と橋で繋がる維和島が。ここは、日本の車エビ養殖発祥の地です

 国道266号線をそのまま、大矢野島の中央付近へ向かうと、右手に「天草四郎ミュージアム」が見えてきます。天草四郎生誕の地であり、「島原・天草の乱」の旗揚げの地でもあるのです。

 このミュージアムの道路挟んだ反対側に、道の駅「上天草さんぱーる」が居を構えています。実は自分がこの「上天草さんぱーる」さんと出会わなければ、Benoitに天草の柑橘は届いてはいません。担当の方から伺う話は、興味深い逸品ばかり。今期は12月の「早生みかん」から始まり、4月の「不知火(しらぬい)」と「パール柑」まで購入させていただいております。

 柑橘以外にも、Benoitで購入したい食材として、自分が虎視眈々と機を狙っているものは、「車エビ」と「真鯛」、陸では「天草大王」という地鶏です。車エビに関しては、すでにご紹介した方が購入してくださり、あまりの美味しさに2度目のお願いをしたと伺いました。きっと美味しいのでしょう…実はまだ自分は口にしたことがありません。

 皆様も購入することが可能です。箱単位での購入ご希望であれば、Benoitを担当してくださっている方をご紹介いたします。希望のものをセットで、もしくは少量での購入がご希望の際には、以下より「上天草さんぱーる」さんのHPをご訪問ください。どれほどの特産があるかも紹介されています。

www.sunpearl.jp

 パールラインを進み「天草五橋」最後の橋、1号「天門橋」を渡ると宇土半島に上陸です。国道266号線は南側の海岸線に沿いながら進み、半島の付け根に位置する「不知火」の地から北上して熊本市へと向かいます。今回は、この不知火が終着地です。なぜか?今回の旅のきっかけとなった「天草の柑橘」のひとつ、「不知火」の発祥の地だからです。

 不知火は、旧暦の8月1日(八朔の未明)、目の前の八代海(別名不知火海)に現れる「火の国の怪火」のこと。旧暦は月を基準とした暦なので、1日は真っ暗な朔(さく)の日。新年を迎え8回目の朔の未明に現れるという奇観です。漁船の漁火のように見えるのでしょう。いつぞやは、直に見てみたいものです。

 

 最後にもう一つだけ。八代海が「不知火」であれば、反対の島原湾にも怪現象があります。海水温が高く、気温が冷え込んだ時に、この温度差によって蜃気楼のような現象がおきるといいます。船や島々が浮き上がって見えることから「浮島現象」と名付けられました。

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 天草四郎が、富岡城の攻城を諦め、対岸の島原へ渡ったのは、寒さが厳しくなりつつある頃です。島原の原城に籠(たてこも)り、落城するのは年が明けた2月28日のこと。彼は望郷の念をもって、このような景色を眺めていたかもしれません。

 

  いまだ終息の見えないウイルス災禍に対し、今我々にできることは家にいること。そこで、「島原・天草の乱」に触れながら、旅路を進めてゆきました。少しでも、皆様が天草へ興味をもっていただき、新型コロナウイルス災禍終息の折には、足の赴くままに、彼の地をご訪問いただけると幸いです。

 今回の旅路のご案内には、一般社団法人天草宝島観光協会のお力添えが欠かせませんでした。この場をお借り、深く御礼申し上げます。

 

 歴史を顧みながら少しばかり「﨑津集落」へ。この≪前編≫はこちらから。 kitahira.hatenablog.com

 

旬の食材には、今我々が欲している栄養価が満ち満ちています。」

 いつもであれば、ここで熊本県天草の特選食材「柑橘」を、贅沢に使用した料理やデザートをご紹介するのですが、残念ながら今春はそうもいかないようです。ただ、このまま旬の食材を見過ごすこともままならず、Benoitで購入していた、購入予定であった食材をご紹介させていただきます。スーパーや八百屋さんで見かけた際の、参考になれば幸いです。

kitahira.hatenablog.com

 

最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

末筆ではございますは、ご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より切にお祈り申し上げます。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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「熊本県天草への旅心地」をお家でお楽しみください。≪前編≫

 熊本県天草諸島(以下「天草」と記載)から、Benoitは旬の柑橘を購入していました、そして購入する予定でした。この地域の類稀なる環境は、得も言われぬほど美味なる柑橘が、季節を追うように多くの種類がたわわに実ります。12月から始まる「早生みかん」を先陣に、天気のご機嫌しだいですが5月の末まで収穫できるか「天草晩柑」を殿(しんがり)とする、約半年間もの期間、Benoitのみならず、皆様の食卓に季節の彩りを与えてくれます。

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 いまだ終息の見えないウイルス災禍に対し、今我々にできることは家にいること。そこで、一般社団法人天草宝島観光協会の助けをお借りし、皆様を少しばかり天草観光への旅心地をお楽しみいただこうかと思います。人が住み良い場所に集落ができ、その人が行き交うことで道ができる。そして、その行く先々に歴史があります。ということで、今回の食材を巡る旅は国道266号線を辿ってみようと思います。

 この国道は、天草上島の最南端に位置する牛深という地から始まり、熊本市まで続く国道です。起点となる牛深港から北上し、「天草瀬戸大橋」を目指します。この橋を渡り、天草上島南側の海岸を沿うように進み、今度は天草五橋へ。島々を巡りながら大矢野島を経由し、宇土半島へ上陸。半島南側を通過しながら、今度は北上することで熊本市へ辿り着きます。

 牛深の美しい海の景観に後ろ髪を引かれながら、この国道を北上してゆきます。海を背に山あいを進んでゆくと、目の前に羊角湾が飛び込んできます。この湾に沿うかのように北上すると、この湾の先端に辿り着く、ここが天草市河浦町です。あまりあるほどの歴史深い地ですが、ここから寄り道のために、左折して国道389号へ、一路西へ西へと向かいます。さあ向かう先は?

 

 皆様がまっ先に思い浮かぶ天草観光といえば、ここを置いて他にはないのではないでしょうか。2018年7月に、世界文化遺産に認定された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つ、「﨑津集落」です。天草下島の南西に位置し、深く切り込んだ入江、羊角湾の中ほどまで入り込んだところの、さらに狭くくぼんだ地にこの﨑津集落があります。

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 世界遺産に認定されるには理由がありました。そこで、今回の「熊本県天草への旅心地≪前篇≫」では、この「﨑津集落」をご案内させていただきす。きっと彼の地を訪れたくなること間違いありません。もちろん、訪問は新型コロナウイルス災禍の後ほどに。≪後編≫は﨑津集落から再出発します。

さあ皆様、目的地に辿り着いたようです。

 

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 地図で見ると何かと大きそうな湾ですが、GoogleMapで見る限り、狭くいりくんだ形をしており、色濃い緑の覆われる天然の要害のような雰囲気を醸し出しています。上の画像は教会背後から写したもの。羊角湾から﨑津集落のある入江を遠くに見ることができます。左右に正面にと、なかなかに険しい峰々が海からせせりたっていることがお分かりいただけるのではないでしょうか。なかなかに生活するには難儀な場所です。

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 其処此処で見ることのできる、生活知恵。狭い平地の有効活用として世界共通なことは、人が通るのがやっとの小径(こみち)が走っていること。﨑津では「とうや」という名称がついている小径が、住居の間から海へ向かって整備されています。さらに、海産物を捌くため、「かけ」という場をこしらえています。土の上は居住スペースを優先するため、古人が考えたのが海の上でした。

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 海岸沿いに少しでも開けた地に住居を作り、そこに集落が形成されます。平地を田畑にする余裕はなく、山を切り開くにも急峻であるために、居を構える人々皆が漁業を生業としていました。海と山に囲まれている地形だからこそ、今では国道が走り交通の便は格段に良くなっていますが、かつては海路しか交通手段がありませんでした。

 﨑津集落を見る限り、農地が作れるスペースなどありません。しかし、人間は魚だけでは生きてはゆけません。では、生きるための糧をどうしたのか。漁村「﨑津」と農村「今富」の連携によって、ひとつの生活圏が形成されていたようです。下のGoogleMapを見ていただくと、赤丸が「﨑津」で、その北(上)に穀倉地が広がります。この山あいの里が「今富」です。

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 﨑津で水揚げされた海産物は、漁師の奥様方によって今富まで行商(メゴイナイ)に出かけてゆきます。その帰りに、米・野菜などの食料品に加え炭などの生活必需品を持ち帰ってくる。さらには、今富の人々の農閑期には、漁船の労働力を提供する。規模が小さながら、他との物流に頼らずとも、この地域だけで生活が成り立つのです。

 なぜ、潜伏キリシタンとして独特の文化を育むことができたのか。この類稀なる地理的環境と、2つの集落による極々小さい規模での生活圏が成り立つ環境が、大きな要因の一つなのではないでしょうか。2012年に国の重要文化的景観として「天草市﨑津・今富の文化的景観」が選定された理由はここにあります。

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 気嵐(けあらし)の中に、﨑津教会の尖ったタレットが幻想的に浮かび上がる。冬の寒さが厳しいころ。温かい海水が蒸発し、寒い外気で急激に冷やされることで発生する、この霧のような現象を「気嵐」といいます。もちろん、冬の季語にもなっている自然現象です。

 さあ、﨑津集落のシンボルともなっている、この﨑津教会。昔々の戦国時代、当時の領主であった天草氏は、1566年に布教を許し、教会が建てられました。もちろん、その教会ではありません。ヨーロッパからキリスト教徒と共に建築技術が伝えられれば、可能であったかもしれません。しかし、日本の歴史はそれを許しませんでした。

 

 豊臣秀吉の治世に、天草氏は一時反乱(天草合戦)を起こすもキリシタン大名と名高い小西行長支配下に入ります。1587年に秀吉の「伴天連(ばてれん)追放令」が施行されるも、南蛮貿易の魅力に負けた秀吉は、禁教を徹底できなかったため、天草の地では宣教師を比護し続けました。さらに、コレジヨ(高等神学校)やノヴイシアド(修練院)を、﨑津の東に位置している河浦町へと移転します。

 1582年から、キリシタン大名と名高い大友宗麟大村純忠有馬晴信の名代として4人の少年が選ばれ、ローマ教皇に謁見するため船旅にでます。「天正遣欧少年使節」と呼ばれた彼らが帰国したのは8年後の1590年。一変した日本の状況にきっと驚いたことでしょう。秀吉の伴天連追放令が、厳しくなくとも発布されているのです。

 彼らのもたらした情報は貴重極まりないものばかり。さらに持ち帰ってきた中には、グーテンベルク印刷機ありました。この画期的な印刷機によって、教理本や日本・ポルトガル辞書、源氏物語などの「天草本」が印刷されました。

 今回のメインルート国道266号線から、﨑津方面へ向かう国道389号とへ分岐する地「天草市河浦町」。ここに「天草コレジョ館」が建てられ、この印刷機の複製など、今に残る貴重な資料を目にすることがでによってきます。天草コレジョ跡地は公園に整備されており、当時の面影を少しばかり感じ取れることでしょう。

 

 時代は下り、徳川の治世になると、キリスト教への厳しい沙汰が始まります。1612年江戸幕府より「伴天連(バテレン)門徒御制禁也」と下知がくだされます。このキリスト禁教令については、士農工商という身分制度をもって秩序を保ってきた江戸幕府治世が危機感を覚えたからという話もありますが、当時の国内および世界情勢を鑑みると、そればかりが理由ではない気がいたします。多くの諸説があることが、この謎を物語っています。

 この徹底した禁教令は、もちろん天草の地も例外ではありません。表向きは仏教徒や氏子であるも、密かにキリスト教の信仰を続ける、ここに「潜伏キリシタン」が誕生します。宣教師は国外に追放された後は、「キリストの教え」を独自に引継いでゆきます。彼らの心の支えともなる信心具は、仏像の裏側に巧妙に隠し彫ったものや、巧妙に並べられた文字列、さらにはアワビやタイラギなどの貝殻の内側をマリア様に見立てたものなど、すべて発覚を逃れるため工夫を凝らしたものばかり。

 毎年のように行われる「絵踏(えふみ)」や幕府の厳しい監視の目によるキリシタン発覚に怯えつつ、月日は過ぎてゆきます。ところが、疑わしいと幕府が内偵を進めると、同地域から大多数の潜伏キリシタンが発覚。これが1805年の「天草崩れ」です。﨑津、大江、今富村などの住民の半数が、﨑津に限っていえば住民の70%もの人数が摘発されたといいます。

 あまりの多さに厳重な処罰はかえって難しいと判断した幕府は、得体のしれないキリスト教ではなく、幕藩体制に従順な異教徒と判断するのです。そこで、代官所の役人は、﨑津諏訪神社の境内に設置した箱に、自ら信心具を投げ捨てることを指示します。そして、「心得違いをしていたが改心した」とみなして放免したのです。そのため、多くの潜伏キリシタンは信仰を捨てることはありませんでした。

 

 幕府側からの監視の中で、犠牲を払いながら幾度となく危機を乗り越えてきた潜伏キリシタン。幕末のアメリカの黒船外交によって長崎に外国人居留区が設けられ、1864年長崎県大浦天主堂が建立されます。そして、この教会に潜伏キリシタンが信仰を告白しにくるのです。この「信徒発見」の報は、厳しい迫害によって信徒は途絶えたと信じられていたヨーロッパ諸国に驚きと感動をもって伝えられ「世界宗教の奇跡」と讃えられました。しかし、まだ日本では禁教令の最中であり、告白者のこの行動は浅はかとも思えるもの。ところが、この「信徒発見」が歴史を動かしたのです。

 幕末に締結された列強との不平等条約の改正を求め、ヨーロッパへ赴いた明治政府の面々は、キリスト教徒を迫害する政府は信用ならんと猛抗議されることになります。そう、まだ明治の時代を迎えても禁教は続いていたのです。ついに、政府が重い腰を上げ、「キリシタン禁制の高札撤去」を行いました。時は1873年(明治6年)のこと。潜伏キリシタンは260年もの間、じっと耐え忍んだのです。

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 天草に赴任したフェリエ神父は、1883年(明治16年)に大江に、1888年(明治21年)に﨑津にと、教会を建立します。時を経て、ガルニエ神父が地元信者と協力し、1933年(昭和8年)に大江天主堂(上の画像)が完成します。大江は、﨑津から国道389号を西へ西へと進み、そのまま海岸線を沿うように少しばかり北上した地です。丘の上にロマネスク様式の美しい教会を、今も望めます。

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 そして、翌年1934年(昭和9年)に﨑津天主堂(上の画像)が完成の陽の目を見ます。ハルブ神父の強い要望もあり、禁教下で絵踏の行われた吉田庄屋役宅跡地が選ばれました。当時、数多くの教会建築に携わった大工、鉄川与助の設計施行のもと、十字架を掲げる尖塔部分は鉄筋コンクリートで他は木造建築、重厚なゴシック様式に仕上がります。堂内は畳敷きで、祭壇はかつて絵踏みが行われていた位置に当るのだと。海に溶け込むかのような景観から、「海の天主堂」とも呼ばれています。

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 こうして、潜伏キリシタンの迫害の時期は終わりを迎えました。彼らの必死な潜伏期が、長崎県の「信徒発見」を導き、「世界宗教の奇跡」として、この報はヨーロッパ列強を駆け巡りました。数々の宗教戦争を経験しているだけに、我々が思う以上にヨーロッパの人々にとっては万感(ばんかん)の想いだったはずです。この「宗教の奇跡」無くして、不平等条約の改正という「日本史の奇跡」は成し得なかったかもしれません。

 

 天草でキリシタンと言えば「日本史上の一大事件」がありました。小学校でも習う「島原・天草の乱」。なぜ、この一大事件に、一度も触れずに、﨑津集落の歴史が明治を迎えてしまったのか。この類稀なる地理的な環境が、大いに関係していたのです。

 「島原・天草の乱」の後(のち)、苛烈を極める禁教の時代を迎えます。この乱に参加した人々は、長崎県島原の原城で討ち死にしています。その関係者には厳しい沙汰が下り、連施設は破壊しつくされます。人口の激減と幕府側の徹底的な禁教により、天草の地は荒廃してゆきます。ところが、﨑津を含めた下天草の地は例外でした。なぜか?

 地理的環境により小規模な生活圏を形成してるからこそ、他地域との交流が少なかった。今ほどに情報が、すぐに伝播する時代ではりません。特に何か不穏なことが無ければ、内偵を出すこともありません。峰々で遮(さえぎ)られていたことで、山向こうの争乱を知らなかったのです。

 「天草崩れ」では﨑津の70%が潜伏キリシタンだったということを鑑みると、彼らがこの乱に参画しないわけがありません。しかし、「知らなかった」ことが幸いし、比較的穏便な禁教下で﨑津の人々が生活できた。だからこそ、多くの貴重な遺物が現存しました。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として、世界文化遺産に認定された要因のひとつなのではないでしょうか。

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 いまだ終息の見えないウイルス災禍に対し、今我々にできることは家にいること。そこで、歴史を顧みながら少しばかり「﨑津集落」への旅心地をご案内させてただきました。≪後編≫では、いよいよ「島原・天草の乱」に触れながら、旅路を進めてゆこうと思います。

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 今回の旅路には、一般社団法人天草宝島観光協会のお力添えが欠かせませんでした。この場をお借り、深く御礼申し上げます。

 

旬の食材には、今我々が欲している栄養価が満ち満ちています。

 いつもであれば、ここで熊本県天草の特選食材「柑橘」を、贅沢に使用した料理やデザートをご紹介するのですが、残念ながら今春はそうもいかないようです。ただ、このまま旬の食材を見過ごすこともままならず、Benoitで購入していた、購入予定であった食材をご紹介させていただきます。スーパーや八百屋さんで見かけた際の、参考になれば幸いです。

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最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

末筆ではございますは、ご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より切にお祈り申し上げます。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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