kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

「魚のスープ」が、皆様を地中海へと誘(いざな)います!

  7月になると問い合わせが入るBenoit東京の「魚のスープ」。マルセイユの代表料理ですが、Benoitではドロドロしいというよりも滑らかに仕上げています。「魚介」ではなく「魚」のスープは、ワインを使用せず、魚本来の美味しさを引き出す。エビ・カニ・貝類を一切加えないため、食せば食すほどに魚の旨味を堪能できます。

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 マダイにクロダイ、そしてイトヨリダイ。カサゴにホウボウと贅沢に使用した7月から、8月9月はさらに、夏の味覚のマゴチ、オニカジカとオニカサゴが加わります。いかつい姿だからといって、「オニ」「オニ」と、見たこともないのに、鬼にも魚にも失礼千万な話。しかし、この3種は姿からは想像もつかないほど繊細で美味なる身質を持っている魚たちです。

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 「POISSON de roche」という表記に、「roche(岩)」だけに「岩魚」やら「磯魚」との訳をあてています。確かに荒波の磯でもまれにもまれた魚種は美味しいもの。しかし、旨味の多い魚が磯ばかりではないことを、深い魚文化の日本人は知っています。ごつごつだったり、とげがあったり、ぬるぬるしていたり。

 8月に仲間入りした魚たちの特徴といえば、自分のような素人が捌くには難儀な、ごつい顔と堅い骨があることでしょう。これが旨味のもととなります。「roche」とは、そういう「ごつごつの魚」を総称して名付けたのではないとも思うのです。どう調べても確証は持てませんが、そのような気がしてならないのは、あまりにもBenoitの「魚のスープ」が美味しいからです。

 皆様の目の前で、スープがそそがれた直後から、磯の香りに包まれます。濃厚な茶色を帯びた深みのあるオレンジ色の液体に、透明感はないが輝いている。濃厚ながら、甲殻類のような濃さではなく、さらりとした感さえあるものの、余韻に感じる魚の美味しさに酔いしれることになるでしょう。

 五臓六腑に染み入るかのような美味しさは、猛暑に疲れた体を癒してくれそうな気がします。目を閉じれば潮騒(しおさい)が耳に届き、目を開ければ、Benoitの窓からは地中海が望める…かもしれません。

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Soupe de POISSON de roche, rouille et croûtons aillés

魚のスープ ルイユとクルトン

(追加料金 ランチ+800円 / ディナー+600円)

 

 余談ですが、あまり馴染みのない魚たちなので、この場を借りてご紹介させていただきます。

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 まずは北の海からは、「オニカジカ」です。浮袋が無い魚だからなのか、大きな胸ビレを上手に使いながら砂礫の海底をさまよう。いかつい姿から「オニ」を冠する美味なる魚です。ちなみに、「カジカ」は淡水魚のことで、清流にしか生息しない準絶滅危惧種。故郷新潟県北部では、馴染みのある魚で、夏の夜に川に獲りに行き、焼いて味噌つけ食べたものです。きっと、水族館や研究者の方からは、「食べない」で「確保!」と言われることでしょう…同じ仲間ながら、海と川との違いは大きいものです。

 沿岸や浅い海の中を席巻している魚類は、分類上では「スズキ目」に与(くみ)します。「オニカジカ」は、この「スズキ目」であるとする資料があるかと思いきや、「カサゴ目」にあてがっているものもあります。人間が勝手気ままに分類しているのであり、とうの本人には、いやいや本魚にはどうでもよいことなり。

 

 次は沿岸部を席巻しているスズキ目の魚たちに、「にらみ」を利かすように沿岸の岩礁に陣取り、小魚や、エビやカニをバリバリと食しているカサゴ目の魚です。生きとし生けるものは、食べたもので体ができています。魚も人も同じこと旨味の多いものを食し、体に蓄えているのでしょう。この口中に、きれいに並ぶ丈夫な歯なくして、甲殻類を捕食はできません。

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 この口の主は「オニカサゴ」です。とげとげしい「棘条(きょくじょう)」の背びれと尻びれを持つので、捌くときには要注意ですが、旨味に満ち満ちている美味なる魚です。さらに、体の割には大きな頭をもっており、これがまた旨味のもととなる。姿が「いかつい」からと、「オニ「」オニ」と無礼千万と怒っているかもしれません。

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 最後は、上下に薄いこの特徴的な姿、「マゴチ」です。夏の美味なる旬食材として、和食でも名が挙がるのですが、如何せん、大きさの割に可食部が少なく、ぬるっとした体表に堅い頭や骨なため、捌くことも一苦労。このマゴチ、上記2魚と似ても似つかない姿ですが、カサゴ目に分類されています。専門的な話はさておき、美味しい魚であることに間違いありません。

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 さて、築地から豊洲と移るも、創業75年を誇る魚卸しの老舗「大芳(だいよし)」さんが、「コチは漢字で≪鯒≫と書くのです」と貴重な情報を教えてくれました。「色々地域によって説があると思います。」と前置きし、「私の聞いた話では」と切り出してくれました。コチは砂泥底に身を潜め、餌となる魚類を待ち伏せます。そして、砂中から飛び跳ねるようにて捕食する。逆に、捕食されそうになった時、飛び跳ねるように逃げる。その姿は、まるで≪踊≫っているように見えるため、≪鯒≫なのだと。確かに、コチは≪魚≫だけに≪足≫はない。

 コチは、水揚げされた漁港から市場に送られる際に、まず発泡スチロールの箱に氷を敷き詰め、その上に「腹を見せて」のせられ、梱包されます。なぜなのでしょうか?

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 腹を見せて販売する理由は、丁寧に水揚げし輸送にも気を配っておりますという証を見せる意味合いがあるようです。海底の砂底に腹をつけて生活する底生魚のため、腹側は皮が薄く、海底や網に擦れて赤くなってしまうものもある。さらに、輸送時に、自分の重みで身が凸凹になり見た目にも悪い。そこで、皮の厚い背側を下にするのです。ヒラメなどもこうして出荷されます。

 「海の中で生きているときはもちろん、生簀(いけす)でも、腹側が下です。これは、自然界の生存競争に勝ち抜くために臨戦態勢でいる事を意味してるのだといいます。ひょっとすると、人と一緒で腹側を上にした方が本当はリラックスでき、身体にはいいのかもしれません。そういえば人間を含め昆虫類も大概は死を迎えた時、腹が上です。」言われてみれば、大いに頷く自分がいます。

 

 「魚のスープ」が、どれほどの魚を使い、どれほど美味しく仕上がっていることか。今回ご紹介した「オニカジカ」と「オニカサゴ」、さらに「マゴチ」。思うと全てが「カサゴ目」に与(くみ)しています。美味しさの秘訣は「カサゴ目」にあり?魚図鑑の様相を呈してきたところで…おや、お後がよろしいようで…

 

 いまだ終息の見えないウイルス災禍です。無理は禁物、十分な休息と睡眠をお心がけください。ウイルス対策もお忘れなきように。我々ひとりひとりの行動が、この未曾有のウイルス災禍を「収束」へ向かわせ、必ず「終息」するものと信じております。そう遠くない日に、笑いながらお会いできる日を夢見て、日々最善を尽くさせていただきます。今後ともなにとぞよろしくお願いいたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com

≪ひうらの里のすもも≫のクラフティのご案内です。

行く先も まだ遥かなる 山みちに まだき聞こゆる ひぐらしのこゑ  藤原輔伊(すけただ)

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 山道を歩いていると、目的地にはほど遠いにもかかわらず、早くもヒグラシの声が聞こえてきたではないか。ヒグラシの寂しい声が山間に響き渡る。かなかなかな…独特の澄んだ声色は、夕暮れが迫ってきていることを教えてくれる。さあ、闇夜になる前に先を急ごうではないか。

 今の世は、「三密」を回避せよと識者の方々が連日のように口にする。真言宗の開祖である空海は、我々に「三密」の大切さを説く。空海の出生地は讃岐の国、いまでいう香川県。今回ご紹介する特選食材を育んだ地も香川県。なにかと繋がりを感じるのは、ただの偶然なのでしょうか。空海の「三密」とはいかに?

 今回は「香川県ひうらの里の旅物語」と銘打ち、前編≪いざ!飯田桃園さんへ≫、中編≪飯田桃園さんのご紹介≫、後編≪さあ、結願へ≫をブログに書いてみました。このご案内は、このメールの最後にリンク先を添付させていただきます。

 

 さて、香川県といえば、「讃岐うどん」と真っ先に思い浮かべるのではないでしょうか。香川県の人にとっては欠かすことのできない料理であり、もちろん美味しいとくる。シンプルな料理だからこそ、素材やうどん制作過程に手を抜いてはいけないもので、なかなか奥が深いものです。

 そのうどんの名声に隠れてしまっているのですが、香川県には美味しい食材が豊富にあるのです。瀬戸内海の海産物はもちろん、讃岐平野には多種多様の美味なる農産物が育まれています。「グリーンアスパラガス≪さぬきのめざめ≫」は、Benoitの春の食材として確固たる地位を得ております。

 この平野の特徴は、平野部に丘陵が点在していること。香川県は北側を瀬戸内海と面しているため、この海を背にした南側の斜面を利用することで、美味しい果実を実らせることがきるのです。そこで、昨年に続き、今年も、さぬき市で長年にわたり代々モモとスモモ栽培を手掛けるのが、飯田桃園さんからスモモを購入させていただいております。

 輸送に耐えることのできる完熟具合ぎりぎりまで収穫を待ち、Benoitへ送り出す彼らのスモモは、芳醇な香り、弾力のある食感に溢れ出てくる果汁、スモモらしい心地良い酸味。品種が変わるたびごとに、その美味しさに魅せられます。飯田桃園さんの果樹園は「ひうらの里」と呼ばれ、江戸時代からモモ・スモモの栽培を続けているのだといいます。

 代々続く栽培の歴史は、ひうらの里で美味しいモモとスモモが実ることを証明しているようなもの。飯田桃園さんが、どのような果樹園なのか?気になることと思います。そこで、どれほどの果樹園であるのか?さぬき市の旅路とともにブログでご紹介させていただきます。リンク先はこのメール最後に記載いたします。

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 飯田桃園さんより直送されるスモモは、アラン・デュカスグループのアジア圏を統括するフランス人パティシエを納得させるに十分な美味しさです。今年のデザート年間計画を立てる際に、「昨年のスモモは今年も購入できますか?」と自分に問いてきたほど。もちろん、返事は「もちろん、喜んで!」です。飯田さんに何も確認せずに勝手に返事を…

 7月のスモモ「大石早生」から始まり、「新大石」「フランコ」「ソルダム」と続き、今は「太陽」です。画像のスモモが白く粉拭いて見えるのですが、これは残った農薬などではありません。キュウリやブドウなどにも見ることができる、「ブルーム」と呼ばれるものです。健全な植物自体がもっている、抗菌能力のひとつです。手間暇を惜しまず、健全に育てているかの証でもあります。

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 今期もまた、スモモの特徴でもある酸味を利用し、バニラの風味豊かな熱々のデザート「クラフティ」というスタイルに仕上げていきます。クラフティは、甘酸っぱいグリオットチェリーやルバーブで仕上げることの多いフランス伝統のデザート。これを、同じく酸味が特徴のスモモで、ましてや飯田桃園さんの逸品であれば、美味しくないわけがありません。

 Cookpotと名付けられた耐熱の器の中に、アーモンドパウダーをたっぷりと。フルーツは、果皮の内側と種の周りに美味しさが蓄えられます。さすがにスモモの種は大きいので、取り除きますが、果皮を残してくし切りにし、器の中に盛り付けてゆきます。

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 そこへ、卵にクリームを加えたアパレイユと呼ばれる生地をそそぎ入れ、そしてオーブンへ。いたってシンプルな理由は、スモモの美味しさを最大限に生かすためであり、シンプルだからこそスモモが美味しくなければ、美味しいデザートには仕上がりません。

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 焼き上がったスモモのクラフティは、魅惑的なバニラの甘い香りをはなってきます。口に含むと、卵とクリームの焼き上がった時の、あの優しくも滑らかな味わい、さらにアーモンドの香ばしさが加勢する。ごろごろと入っているスモモは、熱が入ることで甘みが引き立ち、酸味がまろやかになり、これまた美味なり。

 レ・リボーと呼ばれる、低脂肪発酵ミルクで仕上げたヨーグルトのようなアイスクリームとともに、皆様のテーブルへお持ちいたします。熱々のスモモのクラフティの上に、このアイスクリームをのせてお召し上がりいただくと、溶けかけのアイスクリームとの得も言われぬ相性をお楽しみいただけると思います。

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Clafoutis aux PRUNES

香川県“ひうらの里のすもも”のクラフティ

 

 ランチでもディナーでも通常のプリ・フィックスメニューの選択肢の中で+500円でお選びいただいております。しかし、この長文メールを受け取っていただいている皆様には、この追加料金なくお楽しみいただきたいと思います。2020年Benoitの「スモモのクラフティ」は、9月末までの予定です。

 ここ最近の動向の読めない台風の数々、天候の亜熱帯化が、どれほど飯田桃園さんのスモモに影響を及ぼすか予想がつきません。そこで、ご予約の際に、「スモモ希望」とお伝えいただければ、準備できる数が少ない場合には確保させていただきます。このメールへの返信、土日や急ぎの場合には、

benoit-tokyo@benoit.co.jp

よりお願いいたします。もちろん電話でもご予約は快く承ります。なにゆえ自然のことゆえ、ご理解のほどなにとぞよろしくお願いいたします。

 香料や化学調味料でも加えない限り、素材以上の美味しさを出すことはできません。その素材の持ちうる美味しさを、生かすも殺すも調理人しだい。優れた調理人とは、素材を見極め、その旨味を最大限に引き出すこと。なぜ2年続けて飯田桃園さんのスモモをBenoitが購入しているのか?飯田桃園さんが丹精込めて育てたスモモが、あまりにも美味だからです。皆様、気になりませんか?

 

 今回の特選食材を育んだ、香川県さぬき市。思いのほか歴史深い地でした。昨今の新型コロナウイルス災禍は、旅行という楽しみを奪ってしまったこともあり、今回は旅をするようにお楽しみいただこうと、「香川県ひうらの里の旅物語」と銘打ち、前編≪いざ!飯田桃園さんへ≫、中編≪飯田桃園さんのご紹介≫、後編≪さあ、結願へ≫とブログでご紹介させていただきます。

 讃岐国で聖を受けた、真言宗の開祖である空海は、我々に「三密」の大切さを説く。今回ご紹介する特選食材を育んだ地も讃岐国。なにかと繋がりを感じるのは、ただの偶然なのでしょうか。はて空海の「三密」とはいかに?そして、今回は冒頭の一句に、さらなる感慨深さを感じ取っていただけると思います。

kitahira.hatenablog.com

 

 香川県さぬき市の旅路は時間のあるときにし、飯田桃園さんがどのような果樹園なのか?気になる方は、一足先に中編≪飯田桃園さんのご紹介≫をご訪問いただけると幸いです。

kitahira.hatenablog.com

 

 立秋を迎え、暦の上では秋が始まっています。しかし、まだまだ猛暑な日々が続くようです。自分の体力を過信し、無理な行動は禁物です。十分な休息と睡眠、こまめな給水と塩分補給をお心がけください。木陰に入り、葉の間を抜ける心地よい薫風(くんぷう)、陽射しにきらめきながら重なり合う結び葉、なんと美しい光景かと夢心地となるも良いですが、夢の(意識の無くなった)世界から抜けることができなくならないよう、ゆめゆめお忘れなきようにお気をつけください。

 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com

香川県さぬき市の旅物語・後編 ≪さあ、結願(けちがん)へ≫

 長々と書いてきた今回の旅物語も、いよいよ後編です。香川県は歴史深い地だけに、多くの史跡や伝説があり、さぬき市に限定してみても、伝えきれるものではありませんでした。飯田桃園さんのご紹介でも登場した「讃留霊王(さるれいおう)」の「悪魚退治伝説」は、ご紹介したいお話でした。しかし、このお話は次の機会へ持ち越させていただきます。

 なぜ、この伝説を割愛したのか?それ以上に皆様にお伝えしなければならない物語が、造田の里にはあるのです。今、皆様には県道3号線(志度山川線)の「萩の木地蔵」さんのところに戻ってきていただきました。最初の旅物語を思い出していただきたいです。このお地蔵さんにお会いする前に、「当願堂(とうがんどう)」へ立ち寄りました。そこには龍神伝説があると書いたまま、何も説明することもなく通り過ぎてしまったのです。この伝説、気になりませんか?

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 それはそれは、昔々のお話です。時の元号は「延暦」、今から1200年ほども前のことだろうか。この当願堂のある地は、「長行(ながいく)」と呼ばれていたそうな…

 この地に、当願(とうがん)と暮当(ぼとう)という猟師の兄弟が住んでいたという。兄の当願は裕福な家の嫁をめとり、日々の暮らしに困ることはなかったが、弟の暮当は毎日の糧を得ることも難儀な生活であったのだという。

 とある日、志度寺の本堂が建立され、落慶供養(らっけいくよう)の法会(ほうえ)が行われることになった。当願はこの法会に参加すべく志度寺へ向かう。暮当は、生きるために糧を得るために、猟へ行かねばならなかった。志度寺では今ごろは有難いお説教が始まっていることだろうと考えながら、家族を養うためと自分に言い聞かせながらの…。一方、猟を休んで法会に居並んでいた当願は、お説教を聞くのもうわの空で、弟の暮当が猟場で獲物をひとりじめにしていることだろうと、「妬(ねた)み」と「忌々(いまいま)しさ」に心を乱していた。

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 そうこうしている間に供養も終わり、たくさんの参詣人も帰りはじめたが、どうしたことか当願は体が重くなって立ち上がることができず、その上、下半身が熱をおびてどうすることもできなくなってしまった。

 やがて日暮れも迫ってきたので、暮当は獲物を持って、兄に有難いお説教の話などを聞こうと急ぎ足で家に帰って来た。ところが、いくら待っても当願が帰って来ないので、志度寺へ兄を迎えに行くことにした。

 夕暮れ時のこと、暮当は当願ひとりが本堂の薄暗闇の中で座っている姿を目にする。近づいてみると、当願の体はみるみる大きくなり、下半身は蛇身に変わっていった。そして、肩で大きな息をしながら、「おれは空念仏のために畜生になった。信心深いお前の情で幸田池(こうでんいけ)へ入れてくれ」と懇願したのだ。暮当は、あまりの出来事に困惑するも、当願の変わり果てた姿に、苦しむ姿に、懸命にこらえるも涙がこぼれ落ちる。暮当は兄を背負って、幸田の池へと連れて行ったという。

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 三日たって暮当が幸田池へ行ってみると、大蛇になった当願が姿を現した。そして、「幸田池ではせますぎるので、火打山池へ連れて行ってくれまいか?」と。火打山池に移るも、またしばらくして「今度は満濃池へ連れて行ってくれ」という。そして、礼をいい、自分の左の眼をくりぬいて暮当に渡したのだ。「これを甕(かめ)に入れておけば、いくら汲んでも尽きることなく酒になるので、それで暮らしをたてるようにするといい」そう告げて、池の中に身を沈めていった。

 当願の教え通りに酒を造ってみたところ、それはそれは美味なる酒が醸された。この酒を売り歩くことで、少しずつ暮当の暮らしも楽になってきた。不思議なことに、この酒は酌(く)んでも酌んでも尽きることがなかったという。

 暮当の留守に、彼の妻が酒の秘密を知って、ついつい村の者に話してしもうた。その話が郡司(こおりのつかさ)の耳に入り、その眼玉を差し出すようと、暮当は下知を受ける。暮当は逆らうこともできず、泣く泣く当願の片目を差し出した。郡司から国司(くにのつかさ)に、その片目がわたると、国司は喜ぶとともに、こう言い放ってきた。「この玉は双玉のはずだから、もう一つの玉も差し出すよに」と。

 暮当がこの下知に逆らうことで、自分のみならず家族皆の生活が成り立たなくなるばかりか、命の保証もないことを悟る。思い悩むも、どうすることもできない。暮当の足は当願のいる満濃池に向かっていた。

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 事情を察した当願は快くもう一つの目玉を差し出してくれ。こう告げた。「暮当よ、早く持ってゆくがよい。水の底には住み慣れて、目の玉が無くとも何も不自由はせん。」「兄さん、本当にすまない」と、暮当は右の眼を受け取った。

 暮当は、この右の眼を涙で磨いて献上したそうな。国司は沢山の褒美を与えようとしたが、暮当はそれを受けず、そのまま姿を消してしまった。

 事の次第を知った当願は、大いに悲しみ怒り、満濃池の堰堤(えんてい)を突き破り、瀬戸内海へ。その後、大槌島(おおづちじま)と小槌島(こづちじま)の間の海中に移り竜神となって住みつくようになった。干ばつのときには、長行の人たちがこの両島の間「槌の門」に神酒を海中に沈めると、必ず雨を降らせてくれるという。

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(長尾町史より 北平加筆)

 

 暮当と当願が住んでいたという地に建立されたのが「当願堂」です。暮当が当願を背負って志度寺を出て、家に帰る途中の大きな池…この龍神伝説の登場する最初のため池「幸田(こうでん)池」はどこなのか?

 さぬき市旅物語・前編で、志度寺から県道3号線を南下していったところに、「長行(ながいく)池」と呼ばれている大きなため池があったことを思い出していたけますか。この池の別名が「幸田池」です。堰堤の先、遠くに望めるのは小豆島です。

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 火打山は、香川県徳島県の県境に聳(そび)えている山のことです。「火打山池」は、どう調べても分かりませんでした。この池の次が、「満濃池」であることを考えると、県境まで当願が龍に姿を変えた暮当を背負っていったとは考えにくいものです。そうすると、池の大きさを考えると、前編でもご紹介した、満濃池へと向かうと途中に位置する「豊稔池」なのではないか、はたまた「内場池」かなとも思いますが…

 県道3号線をさらに南下したところに、桜の名所「亀鶴(きかく)公園」が姿を現します。池の真ん中にある亀島まで300mの道が繋がっていてその道の両端に約500本のソメイヨシノが植ってます。満開になると池の真ん中に向かって桜並木ができ、それはそれは美しい光景ですよ、と鹿庭さんが教えてくれました。

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 この公園を取り囲むように広がる「宮池」。確たる証拠は何もないのですが、ここが火打山池と書き記していた池ではないかと思うのです。長行池よりも大きく、もちろん満濃池よりも小さい。当願堂からもほどよく近い。そして、この池の西側に「宇佐八幡宮」が鎮座してる。この神社には、当願の両眼が奉納されているという…

 

 幸田池(今は長行池)の堰堤の先には志度寺があり、志度湾が広がる。龍神伝説を知った後に、この志度湾を空高くから望むと、まるで龍が口を開いたかのような姿をしているように見えなくもない。龍の上あごが五剣山を要する半島(左の半島)であるとすると、口中の舌のような小串半島と下あごの大串半島(右側の細く突き出た半島)です。

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 大串半島の先には自然公園が広がり、そこからは志度湾、五剣山、屋島の大地まで一望できます。この景色は、今も昔も変わりません。古代讃岐の人々もここからの絶景を眺めていいたことでしょう。その中に、四国霊場を創設した空海もいたかもしれません。

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 香川県善通寺市にある75番札所「善通寺」(下の画像)は、空海の生誕地といいます。彼は真言宗の開祖であり、歴史の教科書にも必ずその名が登場します。遣唐使の一員として古代中国に渡航し、「密教」を会得した後に帰国。その後、高野山金剛峯寺を建立するのです。醍醐天皇は、その功績から彼に「弘法大師」の尊称を贈ります。

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 空海は、唐で密教だけではなく、優れた土木技術も学んでいたようです。今回の「さぬき市の旅物語」に幾度となく登場する日本最大のため池「満濃池」、その膨大な貯水量は、相応の水圧を堰堤に与えきます。かつては、その圧に耐え切れず決壊していたものを、空海はその優れた土木技術で見事に改修しているのです。

 さて、偉人である空海の足跡を辿ってしまうと、話が全く終わらなくなってしまうため、ここでは割愛させていただきます。皆様、ほっとされているのではないでしょうか?少しだけ、空海が人々を救うために人々に布教していった「密教」のことを書かせていただきたいのです。

 密教というと、なにやら怪しい雰囲気を感じずにはいられません。調べてみると「秘密の教え」という意味といいます。密教以外の仏教のことを「顕教(けんぎょう)」と言い、顕教とは、「あらわになっている教え」、それに対しての密教は「秘密の教え」です。

 顕教は、「煩悩」を捨て去り、「悟り」をひらくことを目的にします。書いてしまうと簡単なのですが、煩悩を捨てるためにどれほど多くのお坊さんが苦行を重ね続けていることか。そう簡単に「悟り」がひらけないことは、史実が物語っています。これでは現世の人々が救われないではないか。そこで、古代賢人は、この世知辛い世の中の、人々はどうしたら救われるのだろうか?と考えた。そして新しく「密教」という宗派が誕生したのです。

 悟りを妨げるのは108にも及ぶ「煩悩(ぼんのう)」だと顕教は教えてくれる。中でも、「欲」「怒り」と「愚痴」は、「三大煩悩」と呼ばれいます。自分さえ儲かればいい、認められれば良いという「欲」。言ってはいけないことを言う、行動に移すことで引きおこる「怒り」。妬(ねた)みに恨み、そして憎しみの「愚痴」。全て、大小にかかわらず、人間が引き起こす争いの原因です。

 では、どうしたらいいのか?この道筋を教えてくれるのが密教のお坊さんです。空海が開いた真言宗においては、人々に救いの方法を伝えるお坊さんを育成するために、高野山金剛峰寺を建立し、高野山全体を修行の場としたのです。空海は、我々に「三密」を実践することを説いています。新型コロナウイルス災禍で話題になった「三密」ではありません。

 空海は、我々に「身密(しんみつ)」「口密(くみつ)」「意密(いみつ)」の三密を実践しなさいという。「身密」とは、正しい姿勢のことです。清潔感のある身だしなみや立ち居振る舞いを心がけること。軽率な行動は人を悲しませ、不快な思いを与えてしまうことを理解しなさいと。「口密」は、言葉遣いのこと。言葉には力があり、人を喜ばせもすれば、悲しませもする。「意密」は、思いやりの心のこと。優しい言葉や言動は、物事を正しく判断することのできる心を養うことで生まれる。

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 空海は、四国に88か所の霊場を設定いたしました。我々がその全てを歩いて辿ることは、空海が何かを感じ取った地であり、それを分かち合うことで、少しでも救われることを空海は願っているのではないでしょうか。自分の人生を省みながらの道のりこそが「遍路」なのだと。「遍」の漢字には、「ゆきわたったさま」という意味がある。

 県道3号線(志度山川線)は、四国八十八箇所霊場の86番札所「志度寺」、87番札所「長尾寺」そして、88番札所「大窪寺」へと導く、遍路としては重要な位置づけにあります。そのため、この道は「結願(けちがん)の道」とも呼ばれています。志度寺から長尾寺の間に、当願堂があります。

 当願堂の龍神伝説は、「妬み」と「忌々(いまいま)しさ」という煩悩が、人が人であることを阻害し、人が人と生きてゆくことを妨げる。そして、全てを失う。空海は、結願(けちがん)するため今一度「三密」の大切さを理解してほしいと願い、遍路の終盤の道筋を当願堂の脇に定めたのではないか。なんの確証もないのですが、そう思えてしまいます。

 

 当願堂を過ぎ、さらに県道3号線を南下してゆく。田畑の広がる平坦な道のりを進み、ことでん長尾線の「長尾駅」へと向かうように右手に曲がると、87番札所「長尾寺」が姿を現します。

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 739(天平11)年、行基によって開基されたといいます。彼がこの地を歩いていた時、道端の柳(やなぎ)に霊夢を感じ、その木で聖観音菩薩像を彫像したものが、ご本尊です。空海は、唐へ渡航する際に年頭七夜にわたり護摩祈祷を修法(しゅほう)しています。燃え上がる炎の中へ、願い事が書かれた木札(護摩木)を投げ入れる。炎の力によって仏さまに願いを叶えていただく。国家安泰・五穀豊穣に加え、入唐の成功を祈ったといいます。

 長尾寺を後にし、目指すは結願の地である88番札所「大窪寺」へ。県道3号線へ戻り、南へ南へと進みます。前述した桜並木の美しい亀鶴公園を過ぎたあたりで、里山へ入ってゆきます。「昼寝山」と名付けられているものの、460mの標高を持つ山だけに、道のりはなかなかに険しいもの。

 山間を抜けるように、奥へ奥へと進むにつれて、難儀な道のりへと姿を変えてゆく。標高787mの矢筈山(やはずやま)を西側から反時計回りに回り込むように道を上ってゆきます。すると、県道3号線と重複していた344号線が分岐する三叉路が見えてくる。ここで県道3号線とは別れを告げ、左へ曲がるように県道344号線へ。不安になるも、そのまま進んでゆくと、88番札所「大窪寺」が迎えてくれます。今でこそ道路が整備されていますが、かつてはそうとうの難所であったことは、想像に難くはありません。

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 矢筈山の東側中腹にある四国八十八カ所最後の地、結願の霊場大窪寺」。717(養老元)年に行基が立ち寄った際に、霊夢を感得し草庵を建て修業をしたのだといいます。815(弘仁6)年に唐から帰国した空海が、今の奥の院のある岩窟で「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」なるものを修法した。そして、堂宇(どうう)を建立、薬師如来坐像を彫像し、ご本尊としました。さらに、唐で空海密教を伝授した恵果より授かった三国(インド・中国・日本)伝来の錫杖(しゃくじょう)を奉納し、大窪寺命名したのだといいます。 

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 徳島県の鳴門から西へ10kmほどのところに、坂東という小さな町があり、その町外れに「霊山寺(りょうぜんじ)」があります。ここから始まった「四国八十八カ所霊場」を巡る遍路は、長く険しい道のりを経て、ここ「大窪寺」で結願を迎えます。霊場を渡り歩く間に、自らの煩悩を大いに省み、空海の足跡を辿ることで、空海の説く「三密」を一歩一歩と学んでゆくことになるのでしょう。

 人心の乱れは、厭世観はびこる世界となり、やがては人が人を信じることのできない悪鬼の世界となる。煩悩を抑え込むことは、和やかな人間関係を構築し、人が人として生きてゆける素晴らしい世界になる。空海はこう悟ったのではないでしょうか。

 

行く先も まだ遥かなる 山みちに まだき聞こゆる ひぐらしのこゑ  藤原輔伊(すけただ)

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 山道を歩いていると、目的地にはほど遠いにもかかわらず、早くもヒグラシの声が聞こえてきたではないか。ヒグラシの寂しい声音(こわね)が山間に響き渡る。かなかなかな…独特の澄んだ声色は、夕暮れが迫ってきていることを教えてくれる。さあ、闇夜になる前に先を急ごうではないか。

 我々が煩悩を取り去り悟りをひらくことなどできるわけもない。しかし、一人一人が空海の「三密」を意識することで、同じ方向を見ることができます。素晴らしい世界になるという結願には、まだまだ遥か先のことかもしません。それでも一歩は踏み出したことには違いなく、着実に一歩は前進していると思います。「身密(しんみつ)」「口密(くみつ)」「意密(いみつ)」が自らを変え世界を変えてゆくのです。

 迫りくる夕暮れを告げるかのように鳴きだすヒグラシ。目的の地はまだ遥か先のこと、闇夜となる前に辿り着けるのか。その澄んだ声音は、山路を急げと伝えてくれているのか、はたまた焦るなと教えてくれているのか。皆様にはどう聞こえますか?

 

 四国遍路の旅路が難しい昨今、ここはひとつ。結願の道半ばにある飯田桃園さんの育んだ「スモモ」デザートを楽しみながら、ゆっくりと考えてみることも、一興なのではないないでしょうか。ヒグラシが鳴き始める前に、Benoitへのご予約をなにとぞよろしくお願いいたします。

 

 今回の旅路の画像および情報は、飯田桃園さんはもちろん、公益社団法人香川県観光協会香川県ウエイ企画森田さん、Benoitと香川県食材を繋いでくれている鹿庭さんのお力添えが欠かせませんでした。この場をお借り、深く御礼申し上げます。

 

 立秋を迎え、暦の上では秋が始まっています。しかし、まだまだ猛暑な日々が続くようです。自分の体力を過信し、無理な行動は禁物です。十分な休息と睡眠、こまめな給水と塩分補給をお心がけください。木陰に入り、葉の間を抜ける心地よい薫風(くんぷう)、陽射しにきらめきながら重なり合う結び葉、なんと美しい光景かと夢心地となるも良いですが、夢の(意識の無くなった)世界から抜けることができなくならないよう、ゆめゆめお忘れなきようにお気をつけください。

 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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香川県ひうらの里≪飯田桃園さん≫のご紹介です。

 県道3号線「志度山川線」は、海のほど近い「志度寺」から、香川県を縦断するように内陸を南下してゆきます。讃岐平野の特徴でもある、点在する丘陵や里山の数々。そのため、この県道は、時おかずして右の雲附山(くもつきやま)と、左の石鎚山(いしづちさん)の山間(やまあい)を抜けてゆく。

 すると、「萩の木地蔵」さんが迎えてくれる場所が、飯田桃園さんの直売所です。いやGoogleマップは、なんと便利なことでしょうか。しっかりと「飯田農園」として表示されています。

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 この画像の上方向は北を指し、志度湾です。中央の里山が「雲附山」、その南の麓(ふもと)に近いところに「造田宮西(ぞうたみやにし)」という地名が。それと、画像左下には「昭和」と記載されています。この2つの丘の間、雲附山側に観音寺というお寺が現存しています。江戸時代後期、この観音寺の周辺の集落が「白羽」と呼ばれ、すでに桃の栽培が始まっていたいうのです。

 この歴史は香川県下でもっとも古く、まさに「桃の聖地」ともいうべき地。ここで栽培された桃は「観音寺桃」と名付けられ、当時の人々に親しまれていました。これほどの歴史のある地、造田宮西に飯田桃園さんのスモモと桃畑が広がっているのです。そして、古くから伝わる飯田家の屋号は「ひうら」といい、この屋号から彼らの果樹園を「ひうらの里」と名付けたといいます。

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 「ひうら」という言葉は、地元でも聞き慣れないというのです。広辞苑によると、「(岐阜、奈良、和歌山、徳島で)陽当たりの良い山の斜面。ひなた、陽だまり。表山。」という意味であると教えてくれます。確かに、県道3号線沿いにあるのは直売所で、果樹園は造田宮西の丘にあるのです。それも「南東向きの日当たりが良いなだらかな斜面」で栽培しています。

 そういえば、フランスのワイン畑を見てみると、一部急斜面や平地もありますが、おおよそが「なだらかな丘」に理路整然とブドウ樹が植栽されています。さらに理想的な斜面の向きは「南東」だという。午前の気温が低い時に光合成によって養分を果実に蓄え、午後の気温が上がったときには休息に入る。一日中、炎天下の元では、ブドウも疲弊するのだと聞いたことがあります。

 ブドウも「もももすももも」果樹であることに変わりはありません。「南東」という好条件は、北半球である日本もフランスも変わりません。飯田家で最初に造田宮西の南東に果実を植えたご先祖様も、フランスのブドウ栽培の伝道師である修道士さんも、果樹の特性を極めた賢人だったのです。

 

 余談ですが、「すもももももももものうち」とはよく言いますが、「すももももはべつのもも」です。ともに、中国が原産地で、モモは「桃」で、スモモは「李」と書きます。しかし、なぜかスモモは「日本すもも(プラム)」と名付けられています。スモモ(プラム)とプルーンが混同しがちですが、プルーンは西洋スモモであり、黒海カスピ海に挟まれたコーカサス地方が原産地です。

 

 内海である瀬戸内海の波の如く、穏やかで温暖な気候は桃にとって最適であり、造田宮西の「ひうらの里」は、十分な日照時間と水はけの良さをもたらしています。この地の居を構え、脈々と受け継がれてきた伝統の技を踏襲し、丹精込めて桃とスモモを栽培する飯田桃園さん。ご両親という大先輩より、栽培を任された若き園主、飯田将博(いいだまさひろ)さんにバトンが渡されました。

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 若き園主の果樹栽培への想いは、ご両親に負けず劣らず、さらなる高みを目指します。モモ・スモモに最適な土作り。さらに、採光の良い樹形への仕立ての工夫。樹へのストレスを減らす土壌水分管理。この肥培管理を徹底的に学び、実践しています。さらに、結実してからも安堵することなく、厳しい結実管理を徹底する。

 1年を通してのこの弛まぬ努力すべては、一年に一度しかない収穫で、他に類を見ないほど美味しい果実を手に入れるため。そして、丹精込めて育て上げた美味なる果実を、皆様にお楽しみいただきたいから。皆様の美味しさゆえの笑顔があるからからこそ、どんな苦境をも乗り越え、どんな苦労をも厭わないのです。

 この旬の美味しさを、少しでも長く皆様にお届けし続けたい。飯田桃園さんのこの強い想いは、多品種を植栽することで、約2ヶ月半にわたる長き期間に実りを得ることを実現させました。Benoitでは、7月初旬に紅鮮やかな果皮の「大石早生(おおいしわせ)」から始まり「新大石」へ、ぐっと赤みを濃くした「フランコ」、青みがかった果皮ながら果肉は赤い「ソルダム」と続き、今は濃紅色を思わせる大玉の品種「太陽」です。

 それぞれが美味しく、パティシエが品種によって微調整を加えながら仕上げていく姿は、年に一度の収穫のために、並々ならぬ努力を続けてきた栽培者への敬意を表するため。ほぼ1~2週間で品種が移り変わるため、Benoitパティシエチームを試しているかのようです。

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 上の画像は「太陽」です。まん丸の可愛い姿です。しろく斑(まだら)になっていますが、白い粉のようなものを表皮に見て取れます。これは農薬の残りなどではなく、カビなどの病原菌による腐敗を防ぐため、スモモ自体が蝋質の「ブルーム」と呼ばれるものを作り出すのです。健康な証拠であり、撮影時にどうしても自分が触れてしまうために、斑になってしまうのですが、収穫時はきれいに全体にまとっているのです。これは、スモモに限らず、ブドウやキュウリにも見ることができます。

 

 この「太陽」の前に、飯田さんがいうに「幻のスモモ」というものがありました。残念なことに、今期は天候不順と鳥たちについばまれ、収量「無し」という厳しい年に終わりました。昨年、Benoitで購入していたので、皆様にご紹介させていただこうと思います。その美味しさが鮮明に自分の想い出の中あるのです。冷蔵庫ではなく水で少し冷やして、かぷりといきたい。この瑞々(みずみず)しさと心地良い甘酸っぱさは、猛暑で疲弊した体を癒してくれるようです。

 いったい「幻のスモモ」とは、何なのでしょうか?飯田さんのメッセージを引用させていただきます。

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 「約2週間という短い収穫期間で、通常のスモモの木に比べて約2分の1程度しかスモモの実が取れないので、うちでは『幻のスモモ』と呼んでいます。年によっては、ほとんど取れない、ということもあり、採算が取れないため同じ品種のスモモを作っている農家はほとんどいないと思います。申し訳ありませんが、品種名は伏せさせていただいています。」

 まさに、今年のように「収穫0」のことが多々あるようです。果樹は1年に1回の収穫ができないために、これは農を生業とする方々にとっては死活問題です。

 「では、なぜ飯田桃園ではそんな手間暇がかかり効率の悪いスモモを栽培しているのですか?」

 「スモモのイメージが覆るほどの美味しさに魅せられたからです。エンジェル(天使)のような甘い香りを漂わせ、滴らんばかりの甘味の強い水蜜をもつ。メルヘンで芳醇な味わいです。」というのです。エンジェルのような香とは、いささか分かりにくいものですが、飯田さんは「可愛らしい小さな女の子のような香り」とも表現しています。

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 2人の娘を持つ親として、意外にこの表現には納得してしまいました。赤ん坊のころ、幼児のころ、子供のころで香りが変わるのです。これ、子育てをされた方には共感してもらえるのですが、いかがでしょう。特に幼児のころは、なんとうか「可愛がってね」というフェロモンでも発しているのか、抱っこしている時に、得も言えぬ優しい柔らかい香りがするのです。※間違っても、知らない他人で試してはいけません。

 飯田さんが「幻のスモモ」と銘打っている品種は、あまりの美味しさから「ひうらの里」の多くの生産者が栽培にチャレンジしたようです。しかし、その美味しさゆえに、少しでも気を抜くと鳥獣害虫の餌食になりやすく、まともに収穫できるきれいな果実に育てるには、並々ならぬ努力を必要とする上に、天の気分に大いに左右されるようです。さらに、収穫できたとしても果実があまりにも繊細で流通に耐えにくく、小売店でも扱いにくいため、継続することを諦める栽培者が続出し、ついには「幻」となってしまったといいます。

 

 自分が初めてこの品種にBenoitで出会った時、箱に整然と並んだ時の淡い色合いの美しさ、桃を思い起こさせるような優しくも甘い香りに心惹かれました。エンジェルのような…分かりにくくもあり、分かる気もする表現こそ、的を射ているのかもしれません。果実を割れば、輝かんばかりの透明感のある果肉に目を奪われ、滴る果汁は爽やかながらも十分な甘みを楽しめます。そして、ひとたび果皮を噛むことで、「スモモ」であることを思い出させてくれる、きれいで心地よい酸味が口中に広がるのです。

 

 昔々に中国より持ち込まれた「桃」は北方系の品種だったようです。先のツンととがった形をしており、今でいう「大石早生」に似ているような気がいたします。皆様、昔話の桃太郎のお話をご存知かと思います。子供のころ絵本で読んだ、その桃の柄を思い起こしてもらえますか。桃の形はこのようなものだったはずです。

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 時が下り明治の時代になると、南方系が日本に上陸し、偶発実生(意図的ではない自然の交雑から生まれた品種)によって生まれたのが、今の「まん丸の桃」の原型だと言われています。中国で陶磁器などに描かれている桃の絵は、尖がった桃ばかりであることを考えると、我々にとって馴染みのまん丸の桃のほうが珍しい形なのでしょう。下の画像は「新大石」です。

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 「モモ」と「スモモ」は、同じバラ科で名前こそ似ていますが、モモはモモ属、スモモはサクラ属でサクランボに近い仲間なのだといいます。もしや!「幻のスモモ」はこの南方系の桃なのではないか?と思ってしまう自分がいます。素人の自分に、品種が何なのか分かろうはずもなく、ヘタな詮索は野暮というものでしょう。飯田さんが秘密にしているように、このまま秘密の「幻のスモモ」のままのほうが、何かと歴史ロマンを感じる気がいたします。

 

 果樹園の話にも関わらず、冒頭で登場する「造田」という言葉。飯田さんが居を構える「造田宮西」は、造田地区と呼ばれています。この言葉が指し示す通り、田んぼを造り出していった地だからなのでしょうか?ブログ「さぬき市の旅物語」の中で、香川県の画期的な灌漑システムの話を書きました。奈良・平安時代の話で、讃岐平野に古代条里田を切り拓いていたので、間違いではない気もしますが…

 かつて、大和朝廷は日本国を治めるべく行政区分を策定し、これを「令制国」としていました。そして、その地を管轄するための官職「国造(くにのみやつこ)」を設けています。その「国造」に支給された田を「国造田(こくぞうでん)」と呼び、その国造田があった地だから、「造田」なのだというのです。なかなかに歴史深い地のようです。

 そういえば、飯田家の屋号が「ひうら」だといいます。そもそも、屋号というものが一般家庭にあるようなものではありません。この造田のような歴史深い地区で、南東向きの丘を所有し果樹園を切り拓くことができる。さらに、造田の人々に親しまれている「萩の木地蔵」が敷地内に祀られてある。考えれば考えるほど、普通ではい事象の数々は、飯田桃園さんのご先祖様は只ならぬ方なのではないかと。

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 すると、飯田さんがこう教えてくれました。「果実が実る果樹園には、鎌倉時代後期から室町、そして戦国時代にかけてのお先祖様と思(おぼ)しきお墓、五輪塔墓が数十基と立ち並んでいるのです。さらに、江戸時代中期(正徳時代)から平成にかけてのお墓と、無数の墓石が残されています。」

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 「江戸時代に家が全焼しており、奈良時代から続く菩提寺も兵火や失火で何度も火災に遭っているため、現在の地にいつ頃からいたのか、確たる証拠資料が残っておりません。」と教えてくれるも、「さぬきの道者一円日記」(冠櫻神社所蔵)には、戦国時代の1565年(永禄8年)9月に造田の里で、「いい田兵衛尉」と「いい田八衛門」それぞれが、初穂料として代百文と百十二文を寄進し、で「おひあふき」(帯・扇のこと)を賜るとある。

 飯田家の歴史を、もう少し時を遡(さかのぼ)っていきます。「香川県さぬき市の旅物語」で「国造(くにのみやつこ)」をご紹介いたしました。古代日本では、大和朝廷に服属した地方豪族が、この「国造」に任命されていたようです。大化の改新により律令制が導入されると、中央政権から「国司(くにのつかさ)」が派遣されることになり、この「国造」は「郡司(こおりのつかさ)」に任命されることになりました。

 讃岐国では、讃岐守として国司が派遣され、それまで国造であった凡氏・綾氏・佐伯氏・秦氏和気氏などが郡司に任命されたのです。その中でも一大勢力を誇っていたのが綾氏。その管轄下の長官である大領(おおくび)を務めていたのが、飯田家のご先祖様だったというのです。

 綾氏は姻戚を結ぶことで、讃岐藤家となり、時を経て分家が誕生してゆきます。室町幕府8代将軍足利義政の頃(応仁の乱の頃)に編纂された「見聞諸家紋」には藤家一族の家紋とともに讃州飯田氏の家紋「三階松に二本鏑矢(かぶらや)」が掲載されています。飯田家は鎌倉時代~江戸時代初期までは讃岐の武士でした。

 この「見聞諸家紋」には讃州の大野氏、羽床氏、新居氏、福家氏、香西氏、飯田氏、三宅氏、は共に「左留霊公之孫」(さるれいこうのまご)と記されています。昔々に讃岐の海を舞台にした「悪魚退治伝説」や「城山長者伝説」が残されていて、ここに「讃留霊王(さるれいおう)」や「讃王さん」やその子孫が登場しています。この伝説は、説明するには相応の字数が必要となるため、今回は割愛させていただきます。

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 造田の里に居を構えることを決め、先祖代々に渡り地元と生業をともにしていたはずです。連綿を受け継がれてきたこの地の特徴から、飯田家の誰かが果樹を植栽することを思いついたのでしょう。かつてご先祖様が戦場(いくさば)で、同志からか地の人からか、知り得た言葉が「ひうら」なのかもしれません。果樹栽培に最適な地がでることしったからこそ、屋号を「ひうら」と舌のではないでしょうか。今は末裔にあたる飯田将博さんが、その意思を受け継いでいます。

 香川県は、都道府県の中で一番小さい面積です。都道府県別の農産物のランキングで、モモやスモモが上位に名が挙がることはありません。ともに、山梨県がけた違いの首位を誇ります。しかし、生産量こそ少ないですが、すでに「観音寺桃」が親しまれていた江戸時代から今に至るまで果樹栽培が続いているということは、確固たる理由があるからなのです。

美味しい果実が実るから

 

 飯田桃園さんのスモモ物語から、今回の旅物語の後編へ。今一度、「萩の木地蔵」のある飯田果樹園さんの直売所へ戻ろうかと思います。さぬき市の誇る歴史に触れながら、「香川県さぬき市の旅物語≪さあ、結願へ!≫」を書き記しました。空海の説く「三密」のお話もかいております。お時間のある時に、以下よりご訪問いただけると幸いです。

kitahira.hatenablog.com

 

 今回の旅路の画像および情報は、飯田桃園さんはもちろん、公益社団法人香川県観光協会香川県ウエイ企画森田さん、Benoitと香川県食材を繋いでくれている鹿庭さんのお力添えが欠かせませんでした。この場をお借り、深く御礼申し上げます。

 

 立秋を迎え、暦の上では秋が始まっていますた。しかし、まだまだ猛暑な日々が続くようです。自分の体力を過信し、無理な行動は禁物です。十分な休息と睡眠、こまめな給水と塩分補給をお心がけください。木陰に入り、葉の間を抜ける心地よい薫風(くんぷう)、陽射しにきらめきながら重なり合う結び葉、なんと美しい光景かと夢心地となるも良いですが、夢の(意識の無くなった)世界から抜けることができなくならないよう、ゆめゆめお忘れなきようにお気をつけください。

  「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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香川県さぬき市の旅物語・前編 ≪いざ!飯田桃園さんへ≫

 香川県高松市高松駅から高徳線へ乗り込もうと思います。この路線は、高松港から離れるように南西へ向かうも、古墳群の点在する石清尾(いわせお)山塊の麓(ふもと)に稜線に従うかのように向きを変え、進路は東に。

 この山塊の東の麓には、約75haの面積を有する、国内最大の文化財庭園「栗林(りんりつ)公園」が広がっています。湧水が小川となり、庭園の2割を占める大小6つの池を形成する。徹底して管理された草木による四季の彩(いろどり)、築山(つきやま)と大小さまざまなに配された石による景観。この木石の庭園の美しさは、400年経った今も、我々を魅了します。往年の高松藩、造園当時を偲(しの)ばせる史跡なり。

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 海岸線に沿うように走るのですが、海とは距離があるため、住宅街の只中を走り抜けてゆきます。すると、進行方向左手に小高い山が見えてくる頃、5番目の駅「屋島」が訪れます。この山に鎮座するのは、四国八十八カ所霊場の84番札所「屋島寺(やしまじ)」です。車で山頂まで上ることができ、そこからの高松市街を望む景色は一見の価値あり。特に夜景の美しさには言葉を失うといいまいいます。

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 「屋島」という地名に、すでに察した方も多いのではないでしょうか。源平合戦の頃、てっぺんが平らな独特な景観の溶岩台地を利用して、平家は軍事拠点とし、再起を図った地です。都奪還にむけ、兵庫県神戸市にある一ノ谷に陣をはるも、源義経に敗れ、屋島まで撤退することに。そこで「屋島の合戦」が始まるのです。

 「平家物語」。軍記物語でありながら、その文章は流麗であり叙事詩的。その輝きは、今にいたっても衰えを見せません。今回は、この世界に入ってはいけない。時を見て、またご紹介させていただこうと思います。屋島合戦の有名な一コマ「那須与一扇の的」は、この地が舞台。弓を射る前に祈ったとされる「祈り岩」。そして干潮になると馬の手綱を架けた「駒立岩」を見ることができるのです。70mほども離れた海に揺れる洗浄の的を、馬で海に入りながら「ぴゃう」と矢を放ち、射落とすとは、まさに神業の如きなり。

 両軍から拍手喝采も、義経の命で平氏の兵を与一は矢で打ち取ります。兵士とはいえ、なぜ戦闘態勢にない者を討ち取ったのか、義経の意図はなんだったのか?そのような歴史ロマンに後ろ髪を引かれながら、「屋島」の駅では下車せずに、先へ進みます。

  さらに進むと、左側の車窓から、ひときわ高く険しい5つの峰(みね)を望めます。古人は、峰を剣と言い当て、「五剣山(ごけんざん)」と名付けました。ここは、かつて空海が修行をした地だといい、山の中腹には85番札所「八栗寺(やくりじ)」がある。駅は7番目の「八栗口」です。商売繁盛を祈願するために訪れる人々が多いといいます。車で八栗寺まで上ることできず、まして徒歩では難儀なので、ケーブルカーをご利用ください。しかし、ここでも下車いたしません。

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 さぬき市に入るやいなや、車窓から景色に海が現れます。大きな入江で、西側が高松市、東側がさぬき市とに区分された志度湾(しどわん)です。沿岸を走る「琴電志度線」から望む景色は、さぞや美しいことでしょう。蠣養殖の筏(いかだ)が波に揺れ、遠く島々の陰影が美しい。

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 さぬき市役所を有するこの地は、高徳線9番目の駅「志度(しど)」です。この駅名からすでにお寺の名前をお察しの方も多いのではないでしょうか。ここには86番札所である「志度寺」があるのです。さあ、降りる準備をいたします。この駅名からお察しかと思いますが、向かう先は86番札所「志度寺」へ。

 その道中、平賀源内記念館が迎えてくれます。平賀源内といえば、江戸きっての発明王であり、「エレキテル」などは、若かりし頃の日本史の勉強の中で登場してきたのではないでしょうか。先日は、皆様もウナギ料理を堪能されたかと思いますが、「土用(どよう)の丑(うし)の日にはウナギ」の発起人です。さぬき市の志度湾に面した地が、彼の生誕の地であり、天才を育んだ地なのです。そして、彼の才覚に早くから気づき、長崎遊学の費用を工面したというのが、当時の志度寺のご住職さんなのだといいます。

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 「補陀落山(ひだらくざん)志度寺」は、運慶の力作である仁王像と巨大なわらじを左右に配した、国指定重要文化財「仁王門」が我々を出迎えてくれます。十一面観音菩薩をご本尊とし、その同体とされている極楽浄土と蘇生の閻魔(えんま)像が、同じ敷地内にある閻魔堂に安置されています。参拝する人々の心のありようで、その表情が優しくも険しくも見えるのという摩訶不思議な閻魔像なり。そして、境内の北側、本堂の裏手側からは、目と鼻の先から志度湾が広がり、遠くに五剣山の山並みが、さらに奥には屋島の稜線まで望めるという。

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 さあ、志度寺の参拝の後、境内を出てから左に曲がるように、海を背にして南に向かうことにします。このまま道は、県道3号線(志度山川線)となり、まっすぐ南へ南へと我々を導いてくれます。さきほどまで乗車していた高徳線は、海岸線に沿うように走るも、志度駅過ぎたあたりでこの県道と交錯し、進路を南に向け県道と並走するように進みます。そして、高速道路の高架橋をくぐったあたりから、山間(やまあい)を抜けるような景色へと一変するのです。

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 高徳線を横目に見ながら、県道3号線を進んでゆくと、この道路と線路の間に、大きな池が姿を現します。昔からある農業用の貯水池、長行(ながいく)池と名付けられています。香川県の地図を開いて見ると、大小さまざまの大きさのため池が、点在していることに気付かれることでしょう。

 

 今年の西日本豪雨の際し、香川県の食材で大いにお世話になっている鹿庭さんが無事息災であるかの連絡をした時に、「香川県は四国の中でも、讃岐山脈四国山地に守られていて、雨や台風の被害がとても少ないのです。」と教えてくれました。そして、「その反面、香川県は雨が少なすぎて、ため池の数が多いです。面積あたりの池密度は日本一です!」とも。

 四国最大の規模を誇る讃岐平野。徳島県との県境に聳(そび)える阿讃山麓(あさんさんろく)から、北に位置する瀬戸内海に向かうように、緩やかな傾斜をもって平野が広がります。ポイントはこの緩やかな傾斜こそが、讃岐平野を開墾してゆく理油の一つでしょう。水は高いところから低いところへ流れゆく。

 

 古代の狩猟を生きる術としていた縄文時代に、海の向こうから伝来してきた「稲作」と出会うことで、弥生時代が始まります。この「稲作」は、定住を可能としたばかりか、多くの人口を養うことができるようになるのです。そして、この画期的な農業は、多くの水を必要とします。

 万葉の時代から、和歌の中には「山田」という言葉が多く詠まれています。この漢字が指し示すとおりに、「山の田」です。司馬遼太郎氏は、「この国のかたち」の中で、「谷こそ日本人にとってめでたき土地だった。」と書き記しています。なぜ、土砂崩れや河川の氾濫によって甚大な被害をこうむる「谷」に我々は居を構えたのか。

 全ては「稲作」のためであった。灌漑とは、農地に外部から水を供給するシステムのこと。稲作には、この灌漑システムの確立が必要不可欠なのです。水は高いところから低いところへ流れることは自明の理。ともすると、川の流れる谷は、稲作には最高の立地といえる。だからこそ、古日本人は、谷に住むことに価値を見出したのです。戦国時代、甲斐の武田信玄が世に名を馳せることになるほど強国になりえたのは、彼が農業土木の天才であったからに他なりません。山間の谷に見事なまでの灌漑システムが、今なお健在であることがそれを物語っています。

 自然の災禍を鑑みても、谷での利水は稲作をする上では、あまりある魅力のある地なのです。豊富な水資源と水の流れを作り出す傾斜がある。だからこそ、「谷こそ日本人にとってめでたき土地だった。」のです。

 しかし、谷から広がる扇状地では、耕作地に限りがあります。そこで、広大な稲作を可能とする平野部を耕作することを思いつくのは自然のなりゆき。しかし、規模が大きくなればなるほど、卓越した土木農業のノウハウを駆使し、灌漑システムを構築しなければなりません。

 

 かつて、大和朝廷は日本国を治めるべく行政区分を策定し、これを「令制国」としていました。そして、その地を管轄するための官職「国造(くにのみやつこ)」を設けたのです。その「国造」に支給された田を「国造田(こくぞうでん)」と呼んでいた。

 4世紀後半ごろに即位していたであろう15代応神(おうじん)天皇のころ、南海道を辿ると行き着く讃岐国(現在の香川県)に、初代「讃岐国造(くにのみやつこ)」として、須賣保禮命(すめほれのみこと)を派遣した、と「旧事紀(くじき)」「国造本紀」に書き記している。讃岐氏の源流はここにあるという。

 後に、皆様お馴染みの革新的な「大化の改新」が断行されるに至り、律令制の中央集権国家が誕生します。これを境に、管理管轄権のある「国造」は廃止となり、一部地域では残るものの、祭祀を司る世襲制の名誉職へと変わってゆきました。

 「讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)」が存在していた頃すでに、讃岐平野は開墾され、理路整然と美田が広がっていたといいます。1100年も前に書かれた書物によると、現在の讃岐平野の58%にあたる地であったというのです。重機を伴い山肌を削るという難儀な開墾ではなく、当時の農機具でも十分に対応できる平野部が広がっていたこと。さらに、山間部から海に向かって緩やかな斜面であったことは、豊富な水を必要とする稲作には最適だったはずです。そして、地理的な利点も忘れてはいけません。

 前述した鹿庭さんの言葉を思い出していただきたい。「香川県は四国の中でも、讃岐山脈四国山地に守られていて、雨や台風の被害がとても少ないのです。」と教えてくれました。自然の猛威にたいしては、今も昔もなすすべはありません。

 良いこと尽くしではないかと思う中で、鹿庭さんはこう付け加えています。「その反面、香川県は雨が少なすぎて…」と。大きな川が少なく、年間降水量も少ないとなると、讃岐の人々にとって水の確保が何よりも重要な課題となるのです。

 

 讃岐の賢人は、平野を開墾するにあたり、限りある水資源の有効活用を模索いたします。そして、画期的なシステムを考案したのです。山間部に大きな「ため池(親池)」をこしらえ、流した水は少し平野部へと進んだ地にこしらえた「ため池(子池)」に貯水します。それを、再度放流し大地を潤したものを、さらに「ため池(孫池)」貯水してゆく。放流した水をそのまま海に流さずに、同じ水をまるで3世代にわたって活用しようというのです。讃岐平野が、阿讃山麓から北の瀬戸内海にむかって緩やかな傾斜があることが、この灌漑システムを可能としているのです。

 棚田とは違い、条里制という古代土地区画制度に基づき、四角に区割り田を「古代条里田(こだいじょうりでん)」と呼んでいます。「讃岐国造」が指揮監督したのでしょうか。この壮大な古代条里田を開墾し、稲作を営むには豊富な水資源を必要とします。降雨量と大きな河川が少ないからこそ、限られた水資源の有効活用として考案された≪讃岐平野の「ため池」による灌漑システム」≫必要不可欠なもの。しかし、この灌漑システムは理路整然と開墾された条里田だからこそ、その効果を最大限に発揮できているのです。

 「香川県には、ため池の数が多いです。面積あたりの池密度は日本一です!」と語る鹿庭さんの言葉に偽りはありません。では、どうやって「ため池」をこれほどまで多く造り上げたのでしょうか。

 

 自分の出身地でもある新潟県にも、越後平野が広がっています。ここで、Googleマップを利用して越後平野と讃岐平野を見比べていただきたいのです。まずは、越後平野です。

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 緑濃い越後山脈に降り積もる大雪が、豊富な水資源となるのです。越後平野では、川という川が暴れ川であり、いかに氾濫を抑え込むかに注力しています。米どころで有名な新潟県ですが、白根という地域は、知る人ぞ知る県下最大の果樹栽培地です。2019年は彼の地の白桃を購入させていただきました。その時に書いたブログに越後平野を解説しております。お時間のある時に以下よりご訪問いただけると幸いです。

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  次に、讃岐平野です。大きさの規模ではなく、平野部を注視していただきたいです。

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 越後平野は平野部が延々と広がっているのに対し、讃岐平野は丘や小高い山が平野部に点在しているのです。讃岐の賢人は、ここに着目したのです。自然の要害は、水路(みずみち)を作り出すだけではなく、「ため池」の縁(へり)にもなると。

 親となる、大型の「ため池」は、阿讃山麓の麓(ふもと)に分布しています。山間(やまあい)に川が流れることで山肌が削られ谷ができます。この谷が平野部に達するところを堰(せ)き止めたのです。下の画像は、日本一の「ため池」、香川県仲多度郡まんのう町にある「満濃池(まんのういけ)」です。

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 ダムじゃないか?自分も同じように思いました。川を堰堤(えんてい)で塞ぎ、水を貯め込んだ人口の池です。現行の法律「河川法」では、この堰提の高さが15m以上のものをダムとし、国土交通省が管轄します。それ未満は、農水省管轄となり、これが「ため池」です。「満濃池」は、これほどの大きさを持ちながら、堰堤は下の画像の通り。そのため、「ため池」です。「ため池」の中では、日本一規模を誇ります。

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 参考までに、この満濃池から東に進むと「豊稔池(ほうねんいけ)」があります。かつては、「ため池」だったであろうこの地は、度重なる旱魃(かんばつ)対策のために、貯水量を増やすため石積式マルチプルアーチの堰堤を築くことになり、1930(昭和5)年に「豊稔池ダム」として完成の日を迎えました。今は上部がコンクリートによって補強がされるも、下部は当時の面影を残す石積みをみることができる、日本に現存する最古のマルチプルアーチダムです。満濃池の堰堤と比べてみると、ため池とダムの違いは一目瞭然です。

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 「ため池」に話を戻します。山の麓に点在する、「ため池(親)」から流れゆく水は、四方に張り巡らされた灌漑システムによって、田を潤してゆきます。そして、余分な水は川に戻さず、次の「ため池(子)」へと貯水される。さらにここから、傾斜に沿うように広がる田を潤して「ため池(孫)」へ。そしてまた次に広がる田へ。この讃岐平野に張り巡らされた灌漑システムに欠かせない「ため池」の数は、今は1万4千ほども存在するのだといいます。

 自然の丘陵を利用した「ため池」は「台地池」と呼ばれています。しかし、全てが同じように作れるわけではありません。そこで、平野部では、水田のあった場所や、雨の流れてゆく「水路(みずみち)」に、四方を堤防で囲んだ「ため池」を作りました。これを、「野池または皿池」と呼んでいます。

 四方を堤防で囲む「野池」では、常に堤防の決壊の不安にさい悩まされます。堅固な丘陵を利用する「台地池」のほうが、効率もよく間違いなく安全です。越後平野のような形状であれば、山の麓以外は、すべて「野池」でしょう。しかし、讃岐平野では、点在する丘や小高い山々が利用できるのです。

 前述した高徳線と県道3号線に挟まれた地に姿を見せる「長行(ながいく)池」は、海にほど近い地でありながら「台地池」のようです。海に向かって左手には標高239mの雲附山(くもつきやま)、右手には198mの石鎚山(いしづちさん)。この山間を利用しているのです。下の画像の池の水面の先には堰堤があり、その遠い先には小豆島が望めるのです。

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 長々と香川県「ため池」よもやま話を書いてしまいました。話を「長行池」のある県道3号線(志度山川線)へと戻そうかと思います。長行池を過ぎて南下すると左手「雲附山」の麓に「当願堂(とうがんどう)」が姿を現す。この地に伝わる龍神伝説、その渦中の暮当(ぼとう)と当願が祀(まつ)られています。

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 彼の地に伝え遺される龍神伝説とは、どのようなものなのか?大いに気になりますが、ここはぐっと堪えていただき、先へ進もうと思います。そう、今夏のBenoit特選食材であり、フランス人パティシエも絶賛した逸品が、ここから送り出されているのです。

 逸る気持ちを抑えながら県道3号線進むと、瓦屋根の小ぶりの建物が見えてきます。古風なお堂というものではなく、何か今風な建物でもある。近づいてみると、道路に面した大きなガラス窓の脇に、木の立て看板があり、「休憩所」と記されている。窓越しの中を覗いて見ると、お地蔵さんがいらっしゃった。

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 県道3号線を整備するさいに、どうしても避けては通れなかったために、今の場所にお引越しをしたのだといいます。昔々のこと、志度に流れ着いた萩の木を彫って志度寺のご本尊が造られたといい、その余った木で作られたのが、このお地蔵さんだと言い伝えられています。長きにわたり、長行地区で「萩(はぎ)の木地蔵」と呼ばれ、地元の人々に親しまれています。

 萩の木は、か細い枝が枝垂れるように枝を広げ、その先々に美しい小さな花を咲かせます。普段はか細い枝に隠れている幹ですが、其処此処で見かけるものは太いとは言い難いものです。だからこそ、志度に流れ着いた見事な太さの萩の木に、何か神聖めいたものを感じ取ったのかもしれません。

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 ところが、「萩の木地蔵」さん、よくよく見ると木ではなく石で造られているのです。昔のこと、87番札所の「長尾寺」から、萩の木地蔵さんを貸してほしいと打診がありました。長行村の人々は快諾し、お地蔵さんを長尾寺に貸した後に、なんと行方不明になったのです。長尾寺はお詫びの気持ちとともに、今の石の「萩の木地蔵」を長行村へ届けたといいます。

 紛失してしまうとはなんとも粗末な話ではありますが、今も皆から親しまれていることが一番大切なこと。いろいろな縁が絡みあい、今のこの場所から皆を見守っているのです。そう、今のこの場所とはどこのことか。ヒントはお地蔵様の画像の窓から見える「のぼり」にヒントがありました。

 

 この「萩の木地蔵」さんが祀られているのは、「黄金桃」と書かれたのぼりを立てている、果物直売所の敷地内。昨年から引き続き、今夏もBenoitへ見事なまでの「すもも」を送っていただいている、飯田桃園さんです。高松駅を出発し、飯田桃園さんまで、長い道のりでした。

そこで、この物語の続編は、「香川県ひうらの里≪飯田桃園≫さんのご紹介」と銘打って、別ブログに書き記させていただきます。いったいどのようなこだわりのある果樹園なのでしょうか?いや、それよりも「ため池」の話でも書いた通り、稲作のために開墾した地で、なぜ果樹園を切り拓いたのか?

お時間のある時に、以下よりご訪問いただけると幸いです。

kitahira.hatenablog.com

 

 今回の旅路の画像および情報は、飯田桃園さんはもちろん、公益社団法人香川県観光協会香川県ウエイ企画森田さん、Benoitと香川県食材を繋いでくれている鹿庭さんのお力添えが欠かせませんでした。この場をお借り、深く御礼申し上げます。

 

 立秋を迎え、暦の上では秋が始まっています。しかし、まだまだ猛暑な日々が続くようです。自分の体力を過信し、無理な行動は禁物です。十分な休息と睡眠、こまめな給水と塩分補給をお心がけください。木陰に入り、葉の間を抜ける心地よい薫風(くんぷう)、陽射しにきらめきながら重なり合う結び葉、なんと美しい光景かと夢心地となるも良いですが、夢の(意識の無くなった)世界から抜けることができなくならないよう、ゆめゆめお忘れなきようにお気をつけください。

 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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8月の特選情報「夏熱れ、乗り切れBenoitで!」のご案内です。

夏山 蒼翠(そうすい)として滴(したた)るが如く (臥遊録 郭煕)

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 さんさんと降りそそぐ陽射しを避けようと、木陰を探し一息つく。樹々の間を吹き抜ける優しい風は、冷たいわけではないが、涼しさを感じるものです。さらに、この風は、夏の香りを運んでくれる。「薫風(くんぷう)」とはこのことをいうのでしょう。

 木陰から見上げてみると、そこには何か別世界が広がっているかのような錯覚にとらわれます。熱波に負けず、青々と美しい樹々は、まるで夏を喜んでいるかのようです。生い茂る葉々に陽射しがあたることで、透けるように目に映る「結び葉」。重なり具合による、葉色の青と緑のうつろいに、光と影が加わり、なんと幻想的な世界が身近にあることか。

 「蒼(そう)」は青色のことを意味し、五行では春の色。「蒼蒼(そうそう)」とは、空の青々しい色であり、草木が青々と生い茂っている様をいう。春も終わりを迎えることで、その蒼さがいっそう深まるからなのか、蒼蒼とは夏こそあい相応しい。「翠(すい)」はカワセミの美しい羽色に由来する青緑色のこと。「滴(てき)」は、液体がしずくとなり、したたり落ちることであり、「滴滴(てきてき)」は色や光が満ち満ちたるさまをいう。そう、語源辞典「漢辞海」が教えてくれる。

 空の蒼蒼としたさま。結び葉は、カワセミの羽色のように翠の色合いのグラデーションをなす。蒼蒼としているから翠が冴える。ともに、滴滴しているのが、夏の盛りであり、蒼と翠が滴るだと、郭煕は教えてくれる。「夏滴る」とは、なんと素晴らしい、美しい表現なのでしょうか。夏滴る情景は、猛暑に疲弊している我々に、なにか「癒し」のようなものを与えてくれます。

 関東「梅雨明け」が宣言され、はや8月7日には二十四節気の「立秋」を迎えました。しかし、秋は名ばかり、まだまだ猛暑日が続くようです。無理は禁物、十分な休息と睡眠、こまめな給水と塩分補給をお心がけください。陽光に照らされた木々の葉の美しさを眺めながら、永遠の夢の(意識の遠のいた)世界から抜けだせなくならないように…ゆめゆめ忘るることのなきようお心がけください。

 

 さて、この太陽の恩恵を、嫌というほど受けながら、愚痴一つこぼさない草木たち。生きる上で必要な太陽光ではありますが、何事にも限界があり、一日中めいっぱい光合成していると草木も疲れてしまいます。陽射しが強いからといって、日陰に逃げることも許されず、樹はまだ頑強そうですが、草は生命力が強いといっても草ですから、必死に耐え忍んでいるのでしょう。夏の強烈な陽射しを浴び、むわっとする熱気が草草より立ち上る光景を、古人はこう表現しました。

草熱れ(くさいきれ)」

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 この言葉からにじみ出る、真夏の熱気。猛暑であれば猛暑で、夏の陽射しを恨めしく思う。冷夏であれば冷夏で、秋の実りへの不安を感じる。なんだかんだと、過ごしやすい夏などありようもない。それが夏であり、ありのままを受け入れなさい。このようなメッセージを、古人は「草熱れ」に込めたのでしょうか。

 生きとし生けるものは、栄養をとらなくては生きてはいけません。そこで、Benoitでは旬の食材を美味しくお召し上がりいただくことで、皆様に「熱(いき)れ」を乗り越えていただこうと考えました。

夏熱(いき)れ、乗り切れBenoitで!

 美味しいと感じることで、心が満たされ、体の中から湧き出(い)でる生命力。旬の食材には、今我々が欲している栄養が満ち満ちています。そこで、この旬の食材を、皆様に順次ご紹介させていただきます。

 

 まずは、皆様にとっての「早苗饗(さなぶり)」は、いまだ開催されていないのではないかと思います。そこで、ささやかながらその饗宴の会場に、Benoitをご利用いだけないものかと、清少納言の「夏は夜 月のころはさらなり」という名言を拝借し、「八月尽特別プラン」を再度ご案内させていただきます。

 期間は、メールを読んでいただいた日より、2020831日まで、土日祝日含むプランです。ご予約は、自分へのメールをご利用ください。急ぎの場合には、以下のBenoitメールアドレスより、もちろん電話でもご予約は快く承ります。

benoit-tokyo@benoit.co.jp

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≪八月尽ランチプラン≫

前菜+メインディッシュ+デザート

3,800円→3,530円(税サ別)

前菜x2+メインディッシュ+デザート

4,800円→4,460円(税サ別)

前菜+メインディッシュ+デザートx2

夢のダブルデザート 4,460円(税サ別)

 

≪八月尽ディナープラン≫

前菜x2+メインディッシュ+デザート

7,100円→5,300円(税サ別)

前菜+メインディッシュ+デザートx2

夢のダブルデザート 5,300円(税サ別)

 

 プリ・フィックスメニューの料理内容は、当日にメニューをご覧いただきながらお選びいただきます。ご希望人数が8名様以上の場合は、ご相談させてください。

 

Benoitシェフソムリエ永田の秘蔵のコレクションを、特別価格で皆様へ!≫

 ワインの銘醸地として、名高いブルゴーニュ地方。南北に拡がる彼の地の、ほぼ中央に位置しているのが「Beaune (ボーヌ)」の街。そこに、1750年から素晴らしいテロワールを表現したワイン造りを行なっている老舗があります。45haの自社畑を所有し、そのうちの殆どがプルミエ・クリュとグラン・クリュ。また、パートナーの契約農家から供給されるブドウで自社畑産ワイン同様に高品質なワインを醸しているこの造り手は…

Domaine CHANSON (ドメーヌ・シャンソン)」

 さて、なぜDomaine CHANSONの話をしているのか。いつもであれば、ご当主が来日し、Benoitでワインパーティー開催!と告知するのですが、昨今の状況はこれを許しません。そこで、皆様には、この老舗が醸すワインをBenoitのお食事とともに、皆様のご都合で、お楽しみいただこうと。特選ワインを特別価格で、皆様にご提案させていただこうと思います。Benoitシェフ・ソムリエ永田の、この一言から始まりました。

 「このような逸品が、ワインセラーの奥底に眠っているのです」と。

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 ≪白ワイン≫

2015 Chassagne-Montrachet 1er cru Les Chenevottes

16,000円(税サ別)

2015 Puligny-Montrachet 1er cru Les Folatières

16,000円(税サ別)

 ≪赤ワイン≫

2012 Corton grand cru

16,000円(税サ別)

※すでに特別価格なため、ワインの日では割引対象外となることをご了承ください。

 

 希少な逸品なために、もちろん各1箱(12本)しか保有しておりません。ご希望の際は、すぐに返信またはBenoitへご一報をいただけると幸いです。2020年10月末までに、Benoitへお越しいただきますこと、なにとぞよろしくお願いいたします。ご予約日まで、希望数を大切に保管させていただきます。

 どれほど美味しいワインなのでしょうか?ワインごとに自慢話をブログに書き記させていただきます。少しでも参考になれば幸いです。

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≪待望の桃デザートが、新たな姿で登場です!≫

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 待望の桃のデザートのご案内です。今年は「ピーチ・メルバ」ではありません。ついにBenoitパティシエールチームが新作を登場させたのです。デザート名は、「岐阜県飛騨もものヴァシュラン」。はて、ヴァシュランとは?

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岐阜県の亀山果樹園さんとは?≫

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 岐阜県高山市に居を構える亀山果樹園さん。「飛騨もも」と称される桃、収穫の早い順から「みさか白鳳」、「白鳳」、「あかつき」そして「昭和白桃」と栽培しています。いったいどのような地で、どのような果樹園なのでしょうか?

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≪季節のお話「半夏生~後編~」です。≫

 8月をすでに過ぎながら、7月1日の雑節「半夏生」を、ブログ「季節のお話」として先日にご案内させていただきました。その続編となる「半夏生~後編~」です。「ハンゲショウ」は「半夏生」?それとも「半化粧」?お時間のある時に、ブログをご訪問いただけると幸いです。

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 其処彼処で目にするサクラの樹。桜色に咲き誇った時期は終わり、今は緑生い茂る堂々たる姿へ。涼を得るため木陰に入り、きらきら輝く心地良い木漏れ日に誘われるかのように上を見上げると、太陽に照らされ透けんばかりに輝く一葉一葉。手を取り合うかのように重なる葉を「結び葉」というようです。

 暑い日々が続きますが、ここは昔の日本を偲(しの)びながら「結び葉」を楽しむという散策も一興なのでは?そして、この「結び葉」探訪の「結びは」Benoitだということをお忘れなきように。旬の食材が皆様をお待ちしております。

 

 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

 

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岐阜県高山市「亀山果樹園さん」のご紹介です。

秋ちかう 野はなりにけり 白露の おける若葉も 色かはりゆく  紀友則

 秋を迎えようとする晩夏、早朝に涼しさが増すことで白露が落とすその若葉も色衰えてゆく。と、秋の野を美しく詠んだものかと思いきや、深い言葉遊びが隠されていました。すでにご存じの方も多いのではないでしょうか、物名歌の名手である紀友則の秀逸な一句です。

 初二句の箇所をひらがな表記に変えると、「あきちかう・のはなりにけり」となり、この中に、「きちかうのはな」という花の名前が書き記されています。秋の野の風景が、いっきに深い紫色を帯びてきます。万葉の時代から日本人に親しまれてきた野の花であり、山上憶良が「秋の七草」に詠った、7月末から8月に見事な花を咲かす花。「きちかうの花」何度も早口で繰り返すと「あ!」とひらめく花の名は?

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 「桔梗(ききょう)の花」です。蕾が大きく膨らんでゆき、先端から5つに分かれるように花開く姿は愛らしく、さらに濃い紫色の花弁は、凛としながら陽射しにあたることで輝きを増す。馴染みのある朝顔のように、朝に花開き夕刻には一つの花の一生を終えることになる、この「はかなさ」にも美を感じるのが日本人なのでしょう。

 若葉が、時とともに緑濃くしっかりとした葉へと姿を変えてゆく中で、次々と花開く桔梗の花。日を追うごとに枯れ色になり花つぼむ姿が目に留まるようになります。「白露の・おける若葉も」の「も」が気になるところ。ここには「花」が隠れているのでしょう。そう考えると、「白露の・おける若葉も花も・色かはりゆく」なる歌へ。白露に「はかなさ」の意があることを考えると、詠者は一日で尽きる「桔梗の花」にこそ、歌の本意を込めている気がいたします。

 「きちかうの花」は「桔梗の花」であり、この花をモチーフに家紋としたものが「桔梗紋」です。この家紋を見て、日本史上最大の謎を含む行動に踏み切った武将を思い浮かべることができるでしょうか。鎌倉時代から美濃地方を中心に栄えた土岐(とき)氏が家紋として使用し、齋藤道三の下克上により没落することで、庶流が誕生しこの家紋を引き継ぎました。中でも、群を抜いて世に名を馳せた武将が、明智光秀です。

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今回この名句で書き始めた自分の本意はどこにあるのか?前述した「きちかうの花」と「も」が大いに関連しています。

 そのそう、彼の生誕の地は岐阜県。そして、「も」も忘れてはなりません。「もも(桃)」です。皆様にご紹介したい特選食材は、岐阜県高山市の亀山果樹園さんの白桃です。※紀友則とは雲泥の差のある、かなり強引な言葉遊び、ご容赦のほどなにとぞよろしくお願いいたします。

 

 今回、旅路の行く先は、岐阜県の中でも南端に位置している岐阜市から。齋藤道三が難攻不落として名高い稲葉山城を築き、居城としていた地でもあります。そこから南へ向かい木曽川を渡ると、目と鼻の先には名古屋市が、そう織田信秀が居城としていた名古屋城です。直線距離で30kmほどしか離れていない中で、両雄が対峙していたのです。木曽川を挟んでの駆け引きは、息子の代にまで及ぶことになるのですが、このあたりは皆様すでにご存じだと思うので割愛です。

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 歴史ロマンに浸るのはここまでとし、向かう先は岐阜市から南ではなく、東へ。25kmほども進むと美濃加茂市に辿り着き、そこから国道41号線を北上していきます。山々の稜線に沿うように進むこの国道は、今でこそ道が整備されていますが、かつては相当の難所だったはずです。しかし、この道からは、人々をして「岐阜百山」と称させた美しい山並みを堪能できます。四方に聳(そび)える峻嶮なる嶺(みね)が、尾根を造り上げる、荘厳なる景色。自然の造形美がここにある。

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 その山々が織りなす緑の叢(むら)の色合い、色調の違いの美しさに魅せられる。そして、山より湧き出ずる水が「せせらぎ」となり、山間(やまあい)で落ち合い「飛騨川」となる。荘厳なる山々のなかに、川の流れが輝きを加えている。心に清らかさを与えてくれる、まさに清流とは、このことでしょう。

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 温泉で有名な「下呂市」を過ぎ、美濃加茂市から直線距離では80kmほどですが、山間を抜ける道なため、思いのほか時間を要し、高山市へ辿り着きます。高山市は、観光ガイドで「飛騨高山」という表記で紹介されていることが多いのですが、やはり中心地は高山市の中心街でしょう。江戸時代から続く城下町の風情を、市民皆の努力によって保全していることで、「飛騨の小京都」と称されているのです。海外のガイドブックでは軒並み高評価、名高いフランスのガイドブックでは3ッ星です。

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 今回の訪問先は、高山市の南に位置している久々野町に居を構える「亀山果樹園」さんです。標高750mの高冷地の大自然の中に2.5haの園地を有し、今は二代目園主の亀山忠志さんが陣頭指揮を執っています。甘く香り高い高品質の果実を皆様へお届けすべく、研鑽に励む日々。

 1年に一度迎える果樹の収穫は、6月のサクランボの収穫に始まり、8月に「モモ」、そして9月の「ナシ」、それを追うようにして12月までの「リンゴ」をもって終わりを迎えます。そう、彼にとってこの期間は休みなどあろうはずもなく、毎日畑に赴き、自然の機微を感じとり、果実の声を聴きながら、深い経験に裏打ちされた慧眼(けいがん)で果実の熟度を見極め、収穫に臨(のぞ)みます。

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 標高の高さは、夏にもかかわらず昼夜の寒暖差を約束してくれます。ましてや、800m近い標高ともなれば、寒暖差はかなりのもの。これは、果実に大いなる甘みをもたらすのです。生きとし生けるものにとって共通していることは、「呼吸」によって酸素を取り込み、体に蓄えられた養分をエネルギーに変え、代謝として生み出された二酸化炭素を「呼吸」によって体外に排出します。ここに、植物特有の「光合成」が同時に行われるとどうなるか。降り注ぐ太陽の下では、呼吸によって消費する養分よりも、光合成によって蓄えられる養分の方が多くなるのです。

 動植物全てが、昼夜に関係なく「呼吸」をしていること、これが生きているということ。植物は、光合成によって養分を蓄える能力を持つため、陽の射すときは、養分の消費よりも貯蓄が大きくなる。陽が沈むと、呼吸によって養分は消費するのみ。この消費と貯蓄の差が、日増しに果実に蓄えられていくことで、養分に満ちた完熟の美味なるものへと姿を変えるのです。日照不足が、どのように影響するのかは、ご想像の通りです。では、昼夜の温度差は、どのように影響するのか。

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 果樹の場合、昼夜に呼吸していることは前述しました。あまりある陽射しによって光合成が成され、養分を消費よりも貯蓄するほうが上回ることで、その過剰の養分が果実に包含されてゆきます。陽が沈むと、果樹は呼吸によって養分は消費するのみ。夜明けまでの間、気温が高いと樹は活発に活動することになり、低いと鈍るのです。この消費量が少ないということが大切で、余剰な養分が果実に多く残ることに。これを繰り返すことで、寒暖差のない地域よりも間違いなく、養分に満ち満ちた、つまりは美味しさの詰まった果実が実るのです。

 では、全ての果樹を標高の高い山に植栽すればよいかというと、そうではありません。それぞれに適した温度帯があり、寒すぎても暑すぎても成長を止めてしまうのです。これは人もまた同じです。動物の冬眠とは、厳しい寒さを利用し、体内の活動を鈍化させ、養分の消費量を抑えることで春まで乗り切ること。冬が寒くならなければ、冬眠することもできず、生きるエネルギーを得るために、さまよい歩くことになるのです。

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 桃栽培の北限は、新潟県山形県のラインでした。「た」、このラインは過去形のものとなり、いまでは温暖化の影響で秋田県まで上がっているようです。暑ければ良いわけではなく、寒ければよいわけでもありません。亀山果樹園のある地は、本州中央に位置していますが、標高が高いこともあり「高冷地」と言われています。昼夜の温度差はあるものの、桃栽培においてはかなり厳しい自然環境であることは確かです。

 昨年2019年では、4月は冷害によって開花したにもかかわらず、受粉せずに花を落とす「花ふるい」や結実不良を引き起こし、さらに6月には雹(ひょう)によって、緑果や葉が痛めつけられたようです。「農業は自然相手です。」と言い切る亀山さん。自然の厳しさを克服するのではなく受け入れるのだと。

 その彼であっても、昨年2018年9月の台風21号と24号、特に24号の日本縦断の被害は深刻なものだったようです。早朝に果樹園の見回りに向かった時、惨禍な姿に変わり果てた樹々に、「ガックリ肩を落としました」と。「桃栗三年柿八年~」、実際には新植しても実を成すのに4~5年を要します。

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 山々に囲まれた風光明媚な大自然ゆえに、イノシシやシカの被害ばかりではなくクマまでも、美味しい果実を目当てに園地を訪問してくるようです。この招かれざる珍客は、闇深き中を甘い桃の香に誘われるかのように果樹園に入り込み、たわわに実る美味なる桃を貪(むさぼ)り食らう、まさに食べ放題のように。丁寧に一玉一玉を味わいながらお召し上がりいただければ、少しは心穏やかになろうものを…

 しかし、野生はそう一筋縄ではいかないものです。枝はバキバキに折られ、中途半端にかじった桃が点在している光景を目の当たりにした時には、怒りを通り越して苛(さいなさ)まれ、無感に襲われたように呆然と立ち尽くすのみ。他の桃産地であれば、イタチやタヌキにハクビシンという厄介者ですが、動物危険度が違いすぎ、身の危険すらあるのです。園地全体を囲うように柵を張り、防御しようとするも、この彼と動物のせめぎ合いは、いまだ終わりを見せようとはしておりません。

 抗しがたい自然に辛酸を舐めること幾度となく。「厳しい」と簡単に書くことができないほどの試練に直面しながら、「自然災害に負けない安定した収量を確保する為の対策も考える良い機会となりました」と、前向きなコメントが届きます。なぜ、亀山さんは「諦める」という選択肢を選ばないのか?

 

 亀山忠志さんが幼き頃より、この果樹園で素晴らしい品質の桃が実を成すことを、毎年のように見ていたからです。厳しい自然環境であることは百も承知。それを乗り越えた先には、最初の一口の出会いの瞬間(とき)に「香り」「甘さ」「食感」に感動していただける逸品との出会いが待っていること身をもって知っているのです。

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 この果樹園は、彼のお父様である亀山烈(いさお)さんが一代で築き上げました。開拓と同時に栽培ノウハウの試行錯誤を繰り返す日々だったことでしょう。しかし、彼もまたこの地で美味しい桃が実ることを肌身で感じていたはず。妥協することなく「美味しい桃」を実らせることを追求する弛まぬ努力が、父烈さんを「飛騨美濃特産名人」の認定へと導きました。そして、そのノウハウと心意気はそのまま息子さんの忠志さんへ引き継がれるのです。

 桃名人と称される父を持ちながら、「さらなる高みへ」という志は今なお衰えを見せません。栽培に関しましては、有機質肥料を主体とし養分の微量要素のバランスも考え、食味の良さ、栄養価の高い実を成すように。そして、農薬の使用は最低限に抑え、安心して皆様がお召し上がりいただけるように。彼は「努めています」と短い言葉で話をまとめていますが、弛まぬ努力と途方もない手間暇を必要としていることを忘れてはいけません。そして、まだあまり認知されておりませんが、岐阜県GAP(農産物の安全を確保し、より良い農業経営を実現する取り組み)を実施しており、昨年9月には県から認定されました。

 

 数々の試練を乗り越えながら桃栽培を続けることに、「桃名人」と称される父の存在は、どれほど心強かったでしょうか。家族という絆は、「優しさ」とは違う深い深いつながりであり、厳しさの中にも「子思う愛」がある。反面、「桃名人」の後を継ぐことに、忠志さんに気負いはなかったのか?ご本人に聞いてみました。

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 「正直なところ、若い頃は農業を継ぐ気はありませんでした。営業という仕事が楽しくて、黙々と農作業をこなすという事が自分には向いていないと思っていたからです。」と、今の後継者不足による農業の衰退を思えば、至極まっとうな考えだと思います。そして、農業を生業とはしない進路を進みます。

しかし、「父親が一代で築き上げてきた職業を、長男である自分が無くしてしまうことに対して申し訳ない気持ちが、心の中にありました。」と当時の心情を吐露してくれました。

 長男が継がなくてはならない、という考えは今や昔の話であることを、父である烈さんは感じていたのでしょう。家族での会話の中で、「継いでほしい」と思いつつも無理強いはせず、農業以外の進路に反対をしなかった。農業とは、自然に左右される不安定なものである、苦労と危険をともなうものを肌身で感じているからでしょう。息子には息子の人生がある。

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 この亀山果樹園存続の危機ともなる、この親子の決断が大いなる好機を導きました。「作業を手伝っているときに、ふと分野が違うだけで果物も商品だと思った瞬間があり、自分で作った物を自分で売る事もできるのだ!と思った時に、農業に対しての自分の中の思い込みが無くなり、視野が広くなった気がしました。」と、忠志さん。亀山果樹園の歴史が動いた時です。

 若かりし頃は、暑いわ重いわ疲れるわと、悪態をつきながら農作業の手伝いをしていたはずです。栽培しているこだわりの農産物が、あまりにも身近であったために、価値が分からなかった。それが、農から離れることで、父によって育まれたものが、どれほどの逸品であるかを知る由となるのです。父親の背中を見ながら成長しながら、その大きさを実感した時です。

 さらに、営業という職業を社会人として経験したからこそ、「自ら育てた逸品」を、「自ら販売する」という発想を生み出しました。日本全国に、桃の名産地が多々あるなかに、亀山果樹園としての販路を見出すことに、楽しみを見出したのです。そして、苦労を厭わず誠心誠意を込めて収穫したものを、自ら販売することで、我々消費者の声を聴くことができた。溢れんばかりの笑顔で「美味しい」と声は、職人冥利に尽きるというものです。

 忠志さんが「亀山果樹園を継ぐ」と心に決めると同じくして、父の偉大さを気付かされることになります。「桃名人」の称号は、生易しいものではありませんでした。

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 「プレッシャーは、ありました。絶対、比較されると…。」と。圧し潰されそうな重圧の中で、「それが逆に良いプレッシャーとなり、息子の代になって落ちたねと言われないよう、常にお客様に喜ばれる果物を作ろうという、強い向上心へと変わりました。まだまだ未熟ですが…」。慢心ではなく、未熟という気持ちが大切なのです。

 自然の機微を捉え反映しながら栽培方法を臨機応変に変えなければならない。この難しさは、経験に裏打ちされたものであり、マニュアル化はできません。父である烈さんの桃は美味しかったことでしょう。まだ父の桃を越えられない、と心の中で感じているかもしれません。経験を知識で置き換えることはできないが、補うことはできます。忠志さんの桃栽培とは、父のノウハウを踏襲しつつ、父とは別となる高みを目指しているのです。「妥協」を知らない彼には、一生「学び」がつきまといます。一段上れば、さらに上にもう一段。階段のように連なる先に、彼の追い求めるものがある、そう信じながら。

 「亀山果樹園 亀山忠志です。大自然に囲まれた果樹園の中で、季節を感じながら果物作りを楽しんでいます。農業は、天候に左右されやすい一面もありますが、お客様に、今年も美味しかったよ!と言っていただけるよう、努力と勉強を重ねていきたいと思います。」

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 冒頭でご紹介したように、今回は「桔梗の花」→「桔梗紋」→「明智光秀」→「岐阜県」→「飛騨もも」という、こじつけで話を書いてみました。新型コロナウイルス災禍によって、今は撮影を中断している大河ドラマは、「麒麟がくる」です。すでに始まった数話をご覧になった方も多いのではないでしょうか。主人公は明智光秀です。冒頭で紹介した桔梗紋を旗印に、戦国の世を駆け抜けた逸材です。そこで、桔梗が咲き終わる前に、明智光秀の話を少しばかり。

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 浪人から織田信長に仕えると、その卓越した才能を発揮し、織田家の中でも異例の出世をします。織田信長の天下統一に尽力するも、あと一歩という時に謀反を起こし、本能寺の変にて織田信長を討ち取ります。その後、明智光秀に味方するものは無く、京都府大阪府の堺にある天王山をめぐる攻防、山崎の戦いにて羽柴秀吉に敗れ、逃走中に土民の落武者狩りに会い、命を落とす。「天下分け目の天王山」という言葉は、この戦によって誕生したといいます。

 諸説では、彼の出生地が岐阜県可児市(かにし)にある長山城ではないかと言われています。岐阜県から東へ向かい美濃加茂市へ。亀山果樹園へは国道41号線を北上しましたが、南下し木曽川を越えると可児市に辿り着きます。その瀬田長山の地に、この長山城があったようです。今では「明智城址」として、その片鱗が残るものみ。生誕してからこの城が落城するまでの30年間を過ごしたと言われ、彼の才能はこの地で育まれたようです。

 1556年、長良川の戦いで、斉藤道三に味方した明智家当主、叔父の明智光安は、 道三が敗れたことで斉藤義龍の攻撃を受け落城しました。この時、明智家再興を託されたがために明智光秀は浪人となることを決め、落ち延びたのだといいます。数々の試練を乗り越え、脚光を浴びるようになるのは、10年後に朝倉義景一乗谷城足利義明と出会うまで待たねばなりません。

 「裏切り者」というレッテルを張られ、日本史に名を残す明智光秀ですが、前半生の詳細はほとんど解明されておりません。昔昔の一介の浪人だった彼の詳細など残っていようはずもなく、明智家が滅亡しているため伝承もままなりません。織田家家臣の中で、一国一城の城主となった最初の人物は、旧臣ではなく羽柴秀吉でもなく、明智光秀でした。現実主義の織田信長が、いかに明智光秀の能力を評価し、重用していたかがわかります。所領では税金を軽減し、治水工事を行うなど善政もみられ、はたまた連歌会を催すなど教養豊かな片鱗を見せている。

 しかし、「歴史は勝者が作る」のです。彼の時代に、明智光秀を正当に評価することなどなかったはず。なぜ、彼が本能寺の変に踏み切ったのか?時が下るにしたがい、多くの識者が考察するも、いまだ謎のままです。来年放送される大河ドラマ麒麟がくる」が、どのようなストーリーを我々に見せてくれるのでしょうか。きっと近いうちに撮影が再開されることを期します。

 明智家再興を託され、ひたに実践していき、天下をとりました。僅か11日間ではありますが、上り詰めたのです。無能な人物ができる偉業ではありません。文武両道に優れた天才だったのでしょう。国をまとめるため、ある種の厳しさが必要な中で、彼は優しすぎたのでしょうか。明智光秀は何を想い、滅亡へ突き進むことになったのかは、日本史上最大のミステリーです。

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 「秋近くなり、咲き誇る桔梗の花も、白露が消えてなくなるかのように花を閉じてゆき、そして時代は変わってゆくのです。」と、何とも不思議な繋がりを見せた31文字です。

秋ちかう 野はなりにけり 白露の おける若葉も 色かはりゆく  紀友則

 

 人間社会で生きるということは、国家も大企業も個人商店も、大小にかかわらず、いずれかは誰かに引き継がねばなりません。先人があまりにも偉大であれば、その重圧は並々ならぬものでしょう。どれほど難しいかは歴史が教えてくれています。

 しかし、見事なまでに引き継いだ者もいます。亀山忠志さんが帰農することを決意したことは、離農したからこそ、その心意気は本物です。美味しいものを皆様に届けたい、この強い想いが、きっと成功に導くはずです。亀山果樹園さんが、忠志さんに引継がれ、新たに「桃名人」の称号を得ることを信じております。

 

 今回ご紹介した歌は、「古今和歌集」に記載されています。岐阜県高山市の山挟んだ西隣に郡上市があり、その地は古今和歌集とは並々ならぬご縁がありました。「古今伝授」、かつて古今和歌集の解釈と奥義を秘説相承の形で口伝されていたのです。

 「郡上八幡への旅路」としてブログに書いております。お時間のある時に、以下よりご訪問いただけると幸いです。

kitahira.hatenablog.com

 

≪季節のお話「半夏生~後編~」です。≫

 8月をすでに過ぎながら、7月1日の雑節「半夏生」を、ブログ「季節のお話」として先日にご案内させていただきました。その続編となる「半夏生~後編~」です。「ハンゲショウ」は「半夏生」?それとも「半化粧」?お時間のある時に、ブログをご訪問いただけると幸いです。

kitahira.hatenablog.com

 

 立秋を迎え、暦の上では今日から秋が始まりました。しかし、まだまだ猛暑な日々が続くようです。自分の体力を過信し、無理な行動は禁物です。十分な休息と睡眠、こまめな給水と塩分補給をお心がけください。木陰に入り、葉の間を抜ける心地よい薫風、陽射しにきらめきながら重なり合う木の葉、なんと美しい光景か、と夢心地に浸るのも良いですが、夢の(意識の無くなった)世界から抜けることができなくならないよう、ゆめゆめお忘れなきようにお気をつけください。

 

 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com