kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

柞(ははそ)の秀歌が教えてくれたこと

「柞」

 普段の生活の中で、この漢字を目にする機会は皆無なのではないでしょうか。「ははそ」と読み、クヌギやコナラなどの樹々をひっくるめて、古人は「柞」と呼んでいたようです。これについては「12月の特選食材~ダイジェスト版~」にて、少し語らせていただいているので、お時間のある時にご訪問いただけると幸いです。

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 今でこそ馴染みのない「柞」ですが、かつては身近な存在であり、多くの歌人に、黄葉の移ろいの美しさをもって晩秋から初冬にかけての趣きを教えてくれていたようです。万葉の時代は、樹々の葉が色を変えることを「もみつ」(動詞)といい、これが名詞のかたちをとり「もみち」なのだといいます。この時代に「ひらがな」は誕生しておらず、万葉仮名は漢字の音読みを利用して書き記されています。「もみつ」は「毛美都」や「もみち」は「毛美知」と。しかし、古人の美的感覚はこれを許さなかったのでしょう。「もみつ」は「黄変」や「もみち」は「黄葉」と書き残しているのです。「もみじ」を「紅葉」とするのは、もう少し時が経たねばならなかったようです。

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 自分がこの漢字と出会うも、「ははそ」などと読めたわけではなく、もちろん調べたことは言うに及ばないでしょう。その最中、以下の一句に出会いました。偶然なのか必然なのか?

 

散らすなよ 老木(おいき)の柞(ははそ) いまひとめ あひ見むまでの露の秋風  正徹(しょうてつ)

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 「露」とは、空気中の水分が夜半の冷え込みによって地上の物体の上に水滴となって表れたもの。「朝露」は、陽が昇るにつれて消えてしまうため、無情ではかないものの比喩。「無情な秋風よ、老木の柞の葉を散らさないでくれ。今ひとめ対面しようと約束している、その日までは。」と、秋風に願っているのか。はたまた、「老木の柞よ、今いちど出会うまで葉を散らさないように頑張ってくれ。吹いているのは、それぐらい虚しい秋風なのだから」と、老木の柞を鼓舞しているのか。31文字の中に、正徹はどれほどの想いを込め、組み立てたのでしょうか。素直に受け止める自然や感情の機微に感嘆を覚え、識者があれやこれやと分析し解説することで、さらに歌の輝きが増す。これが秀歌であり、時代が変わってもなお輝き続けている理由なのでしょう。

 

 ところが、この一句にはさらに深い意味が込められているといいます。「柞」という言葉には、語頭の2音、「は・は」が同じ読みであることから、「母」に掛けられて詠まれているのではないかというのです。そう考えると、この一句が「母の延命」を願っていたのではないかと。正徹が詠んだ時が、どのような状況であったかは知る由がありません。しかし、母と別居していたのであれば、今ほどの交通の便がないからこそ、いつ会えるともしれない中、今いちど会うまでの延命を切に願ったのではないでしょうか。

 

 若かりし頃の福澤諭吉が、江戸幕府よって派遣された「文久遣欧使節団」の通訳として日本から旅立ったのは1862年のこと。どれほどの彼に影響を与えたかは、後に執筆した「西洋事情」に詳しい。その際に、ヨーロッパ移動に使用した「蒸気機関車」を体験したとき、日本で実現できれば、「郷里である大分県の病弱の母に会いに行ける」、そう考えたそうです。志をもって上京するも、残った家族への想いは募るばかり。もちろん、電話などは存在しないために、安否すら定かではない。だからこそ、快く送り出してくれたことの恩へ報いるためにも、必死の想いだったはずです。蒸気機関車の存在が、心の奥底にしまっておいた感情を呼び起こしたのでしょう。

 

 今では、飛行機や新幹線といった交通網が日本全国に張り巡らされることで、物理的な距離は変らずとも、気持ちの上では大いに縮まりました。さらに、携帯電話の普及は、時間を問わず相手との意思疎通を可能とし、インターネットにいたっては地球規模です。昔と比べて飛躍的に進んだ技術は大いに生活を便利にそして豊にしてきました。それと同時に、古き良き「人間関係」を失っていった気がいたします。「いつでも会いに行ける」という錯覚が、「いまひとめ あい見む」感覚を希薄にしたような気がいたします。

 

 偉そうに言う自分も見失った一人です。母親から最後の最後に教わったことは、「機会を見誤るな」でした。必要な時に必要なコミュニケーションをとること。いい歳になってもなお足りないことを教わるも、「いつでも会いに行ける」という心に隙があったがために、感謝を伝える最後の機会を逸しました。さらに今年に入り、自分からの「ご案内(長文レポートと呼ばれています)」を受け取っていただける方から、「終焉を迎える前のお礼」が届きました。余命宣告を受け、どれほど苦悩したかは、想像を絶するものでしょう。その後も継続して手紙を送り続けたのですが、なんとか自分の気持ちを失礼の無いようお伝えしようと模索している最中に、訃報を受け取ったのです。あれほど母親から叱責を受けながら、「いつでも連絡できる」という思いから、またしても同じ過ちをおかしました。

 

 どんなに努力したとしても、後悔しないことはありません。しかし、今一度「できること」を再確認し、機会を見誤らないようにすること。仏教では「生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり)」といい、その言葉の通りの世の中の無常観を言い表しています。いつの時代にあっても、この考えは変りません。便利になることで希薄になりがちな「人間関係」を忘ないように、そんなメッセージを正徹の秀歌に込められている気がしてなりません。年末に迎えるにあたり、今までを振り返りながら自らを省み、新年に同じ轍を踏まぬように心に刻みこもうと思います。皆様も、ご家族をお世話になった方々への想いを考えるのも良いかもしれません。タイミングを見計らい、お礼の手紙や電話をするのもいいかもしれません。皆様にとって大切な「機会を見誤らない」ように。

 

 

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