kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

下関物語「唐戸市場」への想いを込めて

めづらしや 垣ねにうゑし すはえぎの 立ち枝に咲ける 梅の初花  源仲正(なかまさ)詠

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 梅の樹は、主幹となる、太い本体となる幹から梢(こずえ)と呼ばれる細い枝を垂直に天を目指すかのように多く伸ばします。それも思いのほか多く。そのため、剪定をしなければ、見るも無残な樹形へと変貌してしまい。対する桜の樹は、剪定を行うと、樹が枯朽してしまいます。そこで生まれたのが、「桜伐(き)る馬鹿 梅伐らぬ馬鹿」です。この梅のひゅんひゅんと伸びる梢を「すはえぎ」と呼ぶようです。今では、梅に限らずこのような枝のことを「ずわえ」と。
 専門家ではないので、自分の考えが間違えているかもしれないことを念頭に。華道の世界では、流儀によって異なることと思いますが、枝と枝とが交錯する様を禁忌とすし、細い枝を垂直に押し立てる「天指す枝」を忌み嫌うのだといいます。これを活ける際に、「見切る」のです。ところが、梅のみは例外で、まっすぐ伸びた「すはえぎ」を1本か2本、天を指すように曲枝と交差するように活けるといいます。このほうが、花型に梅らしさが生じるのだと。完璧な整形には美は宿らない。梅の樹の剪定には、細心の注意を払わなければならない。華道の達人をも唸らす「見切る」技を要する、きっと職匠もそう心得ているはすです。
 さて、冒頭の仲正詠へ。剪定された「すはえぎ」は、立ち入り禁止を伝えようと「垣ね」としてご本人が植えたのか、はたまた誰かが植えたのか。地に挿して垣ねとして立ち並んでいる「すはえぎ」が、通常であれば枯死しているはずなのに、芽吹きいるではないか。品種改良していない梅の樹は、「白梅」が先に花開きます。きっと、初花とは白いはず。立ち入り禁止を意図する「すはえぎ」に、人を惹きつけるかのように花開く白梅だった。
 平治の乱でと刃を交えた源義朝平清盛に敗れ去り、彼を父に持つ源頼朝は、まだ幼子であったため伊豆へ流されました。後に、彼が平氏を滅ぼし鎌倉幕府を開府することになろうとは、微塵にも感じなかったことでしょう。この戦によって、平清盛時代の寵児となり、平氏の興生を導きます。その勢いは孫の安徳天皇が即位するまでにいたり、これを機に、後白河天皇の第三王子である以仁王(もちひとおう)が清盛打倒に動きだします。以仁王が頼りにしたのは頼朝とは別の流れをくむ源氏、源頼政(よりまさ)でした。源頼政が、諸国の源氏以仁王(もちひとおう)から手に入れた令旨(りょうじ)を回覧、天下を掌握する平清盛を打倒しようと立ち上がったところから、源平の争乱は始まったのだと言われています。
 「以仁王の挙兵」にて散った頼政は、文武両道の賢才な人物だったようで、平氏側には寝耳に水のごとく。平清盛によって官位を得ていくという厚遇を受けながら、平氏の横暴に耐えかねたのか。真相は頼政にしか分かりません。その頼政の父親が、冒頭の歌を詠んだ仲正です。立ち入り禁止の垣根に、人を誘(いざな)う白梅の花。花は以仁王の誘いであったのか。誘いに乗ることで、身を亡ぼすことを予見していたのか。親だからこそ感じ取った頼政の行く末を、懸念して詠んだものなのか。歴史を知ることのできる後世だからこそ思う、意味深長な31文字。

 

 「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす。」この有名な語り出しで始まるのは「平家物語」。平清盛の生涯ではなく、平氏の栄華と没落までを描いた物語です。多少の脚色はあるものの、要所要所で出演してくる多才な主人公に、人情に惹き込まれてしまう見事なまでの生き生きとした語り口。この物語の後半は、「以仁王の挙兵」は失敗に終わりましたが、これによって始まった治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の乱、そう、源平合戦の火蓋が切って落とされたのです。

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 数々の戦の中での人間模様、葛藤や死生観を描きながら、京都から西へ西へと向かう。そして、源平最後の合戦となる、本州と九州が最も近づく関門海峡の最狭部である「壇ノ浦」へ。関門橋が架かっていますが、総長が約1,000mなので、どれほど狭いかがお分かりいただけるのでしょうか。日本海と瀬戸内海を結び、先には太平洋が広がります。この海峡がどれほどの難所であるかは、皆様のご想像の通り。平家終焉を迎えることになる、壇ノ浦の戦いが、どのようなものだったのか。潮流が勝敗を左右したともいわれていますが、定かではありません。全ては遠い歴史の中に埋もれてしまったもの。ただ、平家物語のように、数々の人間ドラマがあったことは間違いないでしょう。

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 さて、この関門橋山口県側のたもとには、壇ノ浦漁港があり、潮流激しいながらも好漁場であることから、大いに賑わいを見せています。さらに本州最西端を目指し、南西へと向かうと、下関市役所にほど近い場所の海沿いに、ひときわ大きな市場が登場します。「本州最西にある庶民の台所」とも呼ばれている「唐戸市場(からといちば)」です。

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 山口県下関市は、陸路・海路の中継地として、かねてからの要所という位置付けづけだったようです。さらに、外国船の立ち寄り関所もあったため、おおいに刺激のある風土だったのでしょう。明治後半に建築された英国領事館は、現存する日本最古の異人館として、当時の様子を感じ取ることができます。
 商船の行き交う港町の下関は、明治時代の頃に、日本銀行の支店が、そして大手地方銀行の本店が立ち並ぶ、西日本最大規模の金融街としての地位を確立しました。人の集まる場所には、自然と商売の品々が集い、規模の大小はあれ、「市(いち)」が形成されることになります。唐戸町にある亀山八幡宮では、野菜や果物といった生鮮食品の市場が開かれ、さらに隣町である阿弥陀寺町には、鮮魚や干魚といった四十物(あいもの)を扱う物品問屋組合が組まれ、知事の許可を得た市営の魚市場へと成長していきます。
 1924(大正13)年になると、阿弥陀寺町にあった市営市場は唐戸市場と合併し、「唐戸魚市場」が誕生します。1933(昭和8)年には規模を広げ、青果部、バナナ部、鮮魚部、雑部の4部門を抱える「下関市唐戸魚菜市場」が開場。通常、市場は業者向けの卸しとしての機能を担っていましたが、ここは一般の方々も購入できるという市場としての先駆けとなった場所です。1971(昭和46)年の卸売市場法の制定により、2年後に「下関市地方卸売市場」へと改名。後に、さまざまな立地環境を考慮し、青果卸売部門は勝山地区へ移転することになり、唐戸の市場は「下関市地方卸売市場唐戸市場」と改名。平成13年2001(平成13)年に、ショッピングセンターが加わることでリニューアルされ、今に見る下関有数の観光スポットとして、「唐戸市場」の名で親しまれています。

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 この「下関市地方卸売市場唐戸市場」(以下は「唐戸市場」)は、内海のみだったフグの漁場が広がり、水揚げされるフグの量が増えると、唐戸市場ではさばききれなくなり、フグを扱う市場を新設する必要に迫られました。そこで、本州最西端の彦島に「南風泊市場」を新設。ここに全国で唯一、フグ専門の市場が誕生いたしました。全国で水揚げされた約8割の天然フグが、さらにフグの養殖場が多く存在する九州からも多くの養殖トラフグが、この南風泊市場を通って出荷されていきます。遠方で漁獲されたものをわざわざ集積させるのは、効率が悪いように思いますが、「扱う魚がフグ」であるがために、下関という地が選ばれたようです。まさに「フグの玄関口」です。
 猛毒を持つフグは、捌くのに専門の資格を必要とします。以前から下関には熟練のフグ料理人が集まり「下関で調理されたふぐは安全」と、信頼されていました。その長年培われてきたフグ調理のスキルは全国から注目され、惜しみなく伝承されていったのです。このノウハウは、資格制度が確立された今も途絶えることはなく引き継がれ、全国で最も多くのフグ調理人が南風泊市場に集まっています。さらに、除去した有毒部位を処理する体制が整った場所でなければなりません。南風泊市場には、フグを捌く大きな共同工場が隣接しているのです。そして、トラフグの産卵地である玄界灘沖や瀬戸内海西部沿岸に近く、東シナ海日本海、瀬戸内海とフグ漁場として名立たる海域に囲まれた地の利があることも忘れてはいけません。
 フグがフグだけに、他にはない特別な市場が必要だった、そう人々が切望するからこそ、人々が集う下関の唐戸市場に「フグの市場」が誕生した。しかし、時代を追うごとにフグの美味しさが日本全国に知れ渡り、養殖技術の発展とともに取扱量が増してゆく。そこで、新たにフグ専門の市場を開場しようと白羽の矢が立ったのが、彦島の「南風泊市場」でした。「フグは喰いたし命は惜しし」、美味しい食材なのは分かるが、除毒しなければならない。フグの種類のよっては毒の部位も違うし、美味しさの優劣も出てくる。この地は、全国で最も多くの熟練したフグ処理師が集うのと同時に、他には類を見ない特別な目利きをもった仲卸人をも育て上げていったのです。

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 海の恵み豊かな下関だからこそ、魚市場は3つあります。フグ専門の卸市場「南風泊市場」、養殖魚の鮮魚の「相対売り」と環境客を対象とした市場を併せ持つ「唐戸市場」、そして一般鮮魚を扱う「下関漁港市場」。これらの市場に集められた魚は選別され「競り」にかけられます。「競り」とは市場に集まった商品の値段を決める取引のこと。このそれぞれの市場で、仲卸人が競り落とした魚介類が、全国の卸売市場へ出荷されていくため「プロ中のプロ」としての優れた目利きが必要になります。そこで、今の唐戸市場が2001年に新設されると同時に、「下関唐戸魚市場仲卸協同組合」が設立されました。
 それぞれの市場で「競り」に参加できるのは、多様な項目をクリアし山口県下関市から認可を受けたこの「下関唐戸魚市場仲卸協同組合」の24社のみ。特にフグという猛毒をもつ特殊な魚を扱うにあたり、この組合に登録されている現22社(2社はフグを扱いません)でないと、南風泊市場でフグを仕入れることができません。「フグと言えば下関」とイメージされる自信と誇りを胸に、フグの発信地としての信頼を守り、下関ブランドを揺るがないものへと確立するために、認可された仲卸人しか参加できないのです。今回Benoitがフグの購入でお世話になっている、道中さんも、もちろん認可受けた1社です。自ら競り落とし、身欠きにし、その日の昼過ぎにはBenoitへ送り出す。抜群の鮮度を維持しながら届くフグが美味しくないわけがありません。

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 日本全国から南風泊市場へフグが集まる流通体制は、仲卸人の目利きに磨きをかけさせ、「下関ふく」とブランド化できるほど、確固たる地位を確立しました。そこで、2004(平成16)年に南風泊市場で水揚げされ、組合員が取り扱うフグのみに付けられる「本物の下関のふく」の証が特許庁に商標登録されました。山口県では「フグは福招く魚」であるとして、「ふく」と呼ぶこととで、縁起を担いでいます。

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 唐戸市場には、多くの鮮魚に並んで、多くフグが並んでいます。下関ではフグは「ふく(福)」と呼んでいます。この広大な敷地のどこかに、「フクマネキン」(福招金)の像があるのだとか。それ相応の大きさらしいのですが、広大ゆえに見つけることが難しいといいます。市場スタッフに聞いても、鮮魚情報は快く教えてくれるにもかかわらず、「フクマネキン」には口をつぐむ。ガイドブックへの記載もなし。だからこそ、見つけた時の喜びは一入。その福招金には、皆様へのメッセージが添えられています。「僕はフクマネキン(福招金)。唐戸市場のマスコットです。僕の顔をなでれば、ご利益があるかもよ。一緒に写真に写れば開運の始まりです。いつでも唐戸市場で貴方をまっています。」と。

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 今回、Benoitと道中さんの懸け橋となっていただいたのが、グルメリポーターの菊田あやこさんです。山口県下関市の出身だと伺い、自分の食材探しを助けていただきました。下関はもちろん、山口県にさえ、足を踏み入れたことの無い田舎者の自分が、知りえる縁ではありません。菊田さんより、皆様へコメントをいただきました。
「1949年創業、下関唐戸市場ふぐ専門店の道中さん。昨年他界されたオヤジさんには可愛がっていただきました。帰省の折に会う温かい眼差し、楽しい会話に故郷の愛を感じていました。 いま週末に観光客で大人気の唐戸市場の寿司! これを最初に手掛けたのは道中のおじちゃん!大当りして、どの店もこぞって寿司や食べ歩きの旨いもの、を並べ始めこんにちの賑わいとなっています。道中のおじちゃんの熱意が、全国・海外からのツーリストに伝わり下関の宝物を大発信しているのです。おじちゃんのDNAを引き継いでる息子さん、美人姉妹さんをBenoitさんに繋げることが出来て幸せです。」
 幸せなのは、自分のほうです。どれほどのご尽力を賜ったか、この場をお借りしまして御礼申し上げます。残念ながら、自分は道中さんのお父様とお会いすることはできませんでした。どれほど唐戸市場から人の姿が消えてゆくのを嘆いたことでしょうか。誰よりも下関を愛し、自分の仕事を天職と決め、唐戸市場のことを想っていたことか。幼き頃の菊田さんは、唐戸市場をルンルンとスキップをしていたのだといいます。彼女がグルメレポーターとして独り立ちできた背景には、市場で当たり前に見ていた海からの贈り物があったため、目も舌も養われたのだと。そう、子供たちへ、本物を遺してゆきたい。だからこそ、一人の力でも何かをしなければいけないと心に決め、菊田さんが見ていたような、ピチピチ跳ねるシャコや青魚、もちろん河豚(ふぐ)!が並ぶ場内に活気に満ち溢れる、そのような唐戸市場の復活を切望したのでしょう。

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 この話を書いている折に、一枚の写真に気付きました。下関市役所からいただいた「唐戸市場」での一コマ。前列中央の貫禄のありながら笑顔が素敵な男性が、Benoitを訪問くださった道中さんに似ていないか?と。人と人とは会うべくして出会うもので、その機会を生かすも殺すも自分しだい。心躍る心地を抑え、菊田さんに確認のメールを送りました。唐戸市場が直面する数々の苦難の壁を乗り越え、今の名声を得るにいたる立役者、道中さんのお父様と出会えたのです。写真という形ではありましたが、偶然にも、自分の手元に届いていたのです。どれほど唐戸市場への愛を、笑顔で語ってくれています。まだまだ遣り残したことは多々あったかともいますが、その想いは息子さんが引き継いでくれていることでしょう。まだ悲しみが癒えない中で、Benoitでお会いできた道中さん。しかし、目の奥底に宿る決意のほどは、お父様譲りなのでしょう。この出会い、大切にさせていただきます。皆様におかれましても、「魚介」を通して道中さんの思いのたけを感じ取っていただけるはずです。下関をご旅行の予定がございましたら、「唐戸市場」を、もちろん「道中」をご訪問いただけると幸いです。

 

 平家物語が、史実を鑑みながら多少の脚色がんされることで、後世にまで語り継がれる「平家の栄枯盛衰物語」に仕上がっています。個性豊かに描かれた登場人物に惹き込まれる、感情移入してしまい涙腺がゆるむ、そして大いに考えさせられる壮大な物語。この物語は、平清盛が主人公ではなく、あくまでも平家の栄華を築いた一人として描かれ、清盛の死後に平家が転落の道を歩んでゆく源平合戦の模様が、後半を引き継いでいます。
 物語後半に脚光を浴びるのが平清盛の跡を継いだ宗盛と、サポート役に徹した知盛、この平家一門を支えた清盛の息子たちです。1183年、源義仲の進行を受けた宗盛たちは、安徳天皇建礼門院を奉じて、平家一門を率いて都落ちをします。九州、瀬戸内海を転々とし、一時は兵庫県神戸市の、清盛が遷都を画策した「福原」まで盛り返したものの、義経軍の猛攻に遭い、軍事拠点であった「一ノ谷」を失い、そして香川県の「屋島」に築いた御所も追われました。西へ西へと向かう中で、平氏は下関の彦島に陣を張り、源氏を迎え撃たんとします。時は1185年、ついに「壇ノ浦の戦い」を迎えることになります。序盤は海戦を得意とする平氏が有利に戦いを進めるも、時の趨勢は源氏を選びました。

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 平家物語の中では、「壇ノ浦の戦い」を迎える際に、知盛が不安材料を無くすため、怪しい動きのある重能の処分を主張するも、重鎮であるがゆえに宗盛は許しません。結果、壇ノ浦の戦いにて、重能が裏切ることで、源氏方に平氏の作戦が筒抜けになることに。都落ちの際にも、知盛は京都で源義仲を迎え撃つことを主張するも、宗盛は一族討ち死にの危険性を回避すべく、さらに京都を流血の惨事に巻き込まないことを望み、京都を離れます。知盛の冷徹な分析力と積極性のある行動力。対して、宗盛の凡庸さに判断力の甘さ、受動性が、対照的に描かれています。知盛が弟ゆえに補佐役であったことで、類まれなる彼の指導力が発揮されませんでした。そして、宗盛の無能さが平家滅亡を早めたのだと語られています。
 「壇ノ浦の戦い」の勝敗は決し、敗北を確信した平知盛は、罪作りな殺傷は控えよとの下知を飛ばします。平教盛(のりもり)と経盛(つねもり)兄弟は、平清盛の弟たちで平家を支えてきた重鎮です。二人は碇(いかり)を背負い、手を組んで入水しました。能の「碇潜(いかりかづき)」や、歌舞伎や文楽の「義経千本桜」で、知盛が海に飛び込むときの装いです。その原型が、この兄弟の入水場面にありました。この平教盛の息子である教経(のりつね)は、平家の中でも一二を争う剛の武将、せめて源氏の実質的な指揮官でもあった源義経に一矢報いようと、義経の船に乗り込み詰め寄ります。しかし、ひょいひょいと舟を移り渡り、すでに八艘先へ。これが世にいう「義経の八艘跳び」です。にじみ出る悔しさを隠し、両脇に源氏の兵士を抱えたまま教経も入水します。

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 ≪新中納言知盛卿、小舟に乗って御所の御舟(おんふね)に参り、「世のなかは今はかうと見えて候。見苦しからん物共、みな海へいれさせ給へ」とて、艫舳(ともへ)にはしりまはり、掃いたりのごうたり、塵拾ひ、手づから掃除せられけり。≫戦いに破れしも、平家一門の「心意気」と武人としての「潔さ」が、この行動をとらせたのでしょうか。
≪女房達、「中納言殿、いくさはいかにやいかに」と口々に問い給へば、「めづらしきあづま男をこそ御覧ぜられ候はんずらめ」とて、からからとわらひ給へば、「なんでうのただいまのたはぶれぞや」とて、声々にをめきさけび給ひけり。≫ 知盛は、無意味な慰めの言葉などは語らず、ただただ現実を伝えるのみ。二位尼(にいのあま)時子(清盛の妻、建礼門院徳子の母、安徳天皇の祖母)は全てを悟りました。
今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは
 「今だからこそ知りましょう。この身も御裳濯川(みもすそがわ)のある、伊勢平氏の御嫡流であることを。この波の下にも、あなたがお治めになる都がございます」と、満7歳になる安徳天皇に語りかけたという辞世の句です。御裳川(みもすそがわ)は、壇ノ浦へ流れ込む小さな川の名です。そして、伊勢神宮の神域に流れる五十鈴川(いすずがわ)の別名が御裳濯川(みもすそがわ)。漢字一字が違いますが、同じ読み方をします。今滅びゆく平氏一門は、五十鈴川に縁の深い伊勢平氏です。二位の尼時子は、安徳天皇を抱き、三種の神器の剣と神璽(しんじ)を身につけて入水します。そして、安徳天皇の母である建礼門院徳子も後に続きます。
 ≪新中納言、「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」とて、めのと子の伊賀平内左衛門家長を召して、「いかに、約束はたがふまじきか」と宣えば、「子細にや及び候」と、中納言に鎧二領着せ奉り、我身も鎧二領着て、手をとりくんで海へぞ入りにける。≫ ここに治承・寿永の乱最後の合戦となった「壇之浦の戦い」が終わりを迎え、栄華を極めた平家一門が滅亡へとひた向かうことになります。

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 壇ノ浦の海岸沿いに「みもすそ川公園」があります。前述した御裳川の河口はこの公園の下を通り関門海峡へと流れ込んでいるといいます。ここに飾られている、源義経平知盛の2体の像。ひらりと身をひるがえし船から船へと飛び移る義経と、碇を担ぎ、義経を無念極まりない目で追う知盛。二人がこのように対峙したかはわかりません。平家物語を見るに、知盛の聡明さは、怒りにまかせて碇を担いで義経と対峙するとは考えられません。平教盛と経盛が碇(いかり)を背負い、手を組んで入水する。教盛の息子である教経が義経を追い続けるも断念を余儀なくされ海へと沈む。知盛も鎧を2領身にまとい、乳兄弟となる平家長とともに海へ入って行く、そう平家物語は教えてくれる。この知盛像は、平氏の無念の想いを一手に担い体現された姿なのでしょうか。

 下関の唐戸市場にほど近い、阿弥陀寺町。名前の示す通り、「阿弥陀寺」が、彼の地の存在していました。江戸時代までは「安徳天皇御影堂」と呼ばれ、壇ノ浦で入水した安徳天皇を仏式に祀(まつ)られ、今でも安徳天皇阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)を見ることができます。

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 さらに、ここには壇ノ浦で敗れた平家一門の合祀墓があり、二位尼時子をはじめ、知盛はもちろん、教盛と経盛、そして教経と名を連ねます。その中に「盛」の付く名前が7つあるため、「七盛塚」と名付けられ祀られています。

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 この阿弥陀寺、残念ながら今はその名は地名のみ。明治政府が神道を国家統合の基幹と定め、神仏分離を画策したことで、過激な「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の動きが活発化しました。そのため、阿弥陀寺は廃されることなるも、安徳天皇を祀っているからこそ、下関に残したい。そう切望する地元の人々が存続を可能としたのでしょう、神社へと変貌を遂げることで「赤間神宮」として存続することとなります。その際に建立された神門は、見事なまでに人目を惹く美しい姿、まさに竜宮城を想わせます。「波の下の都」をお治めしている安徳天皇を偲び、建立されたようで、安徳天皇が水天宮の祭神として祀られていることから「水天門」と名付けられたようです。

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 さて、平家物語壇ノ浦の戦いが最後ではありません。平家の武将たちの最後が語られ、最後は建礼門院徳子の一期(いちご)を終えるところで、この物語は終わりを迎えます。前述したように、安徳天皇二位の尼時子が入水するのを見届け、安徳天皇の母である彼女も後に続きました。しかし、源氏の兵士に引き上げられ、一命をとりとめたのです。生け捕りの20人ほどの男共と40人ほどの女房たちは京都へ送られ、男共には厳しい沙汰が下されるも、女房は皆が無罪放免となります。しかし、もとの絢爛豪華な生活など望めるわけはなく、隠棲し粛々と時を過ごすことになります。愛する我が子を目の前で失いながら、なぜ建礼門院徳子は、自害せずに余生をまっとうしたのか。
 当時、権謀術策うずまく宮廷内において、言われなき嫌疑がかけられ処刑された者、謀反を企て身を亡ぼす者、時代が時代だけに、戦(いくさ)によって命を落とす者も多かったことでしょう。男共は間違いなく短命だったはずです。そこで、残される女房たちには、先だった男共の菩提を弔い、極楽浄土へと導かなくてはならなかったのだといいます。勝手気ままに先立つ男共のなんとも身勝手な言い分か。それでは、残された女房自身は自らの弔いを誰に託せばよいのか?自ら仏に祈り願い続けることでのみ、極楽浄土へいけるのだと。
 建礼門院徳子が全てを失った時、自害したほうがよほど楽だったような気がいたします。しかし、彼女はしなかった。二位尼時子が入水する時に、平家一門の菩提の弔いを託したからという話もあります。彼女が実際にはどのような考えだったのか、まったく分かりません。ただ、平家物語の中の彼女は、死を覚悟しながら自害する勇気がなかったわけではなく、愛する我が子である安徳天皇をはじめ、平家一門の菩提を弔わんがために、生きながらえたのだと思うのです。真相は定かではありません、皆様のご想像にお任せいたします。
 隠棲の中で、仏門に入り、祈りを捧げる日々。平家物語の終巻では、後白河法皇が大原寂光院建礼門院徳子を訪問する「大原御幸(ぎょこう)」の場面を迎えます。彼女は法皇に「六道の沙汰」を涙ながらに説きました。自分の辿ってきた生涯を、生きながら平家の栄華から滅亡までの六道輪廻(天上・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)になぞらえて振り返ってみせたのです。≪さるほどに寂光院の鐘の声≫が日暮れを知らせ、法皇は還幸(かんこう)されました。想いのたけを語れたことで安堵したのか、はたまた古き良き時を懐かしんだのか、涙にくれながら仏様の前で祈りを捧げていた時、山不如帰(ヤマホトトギス)が奏でながら寂光院を飛び去った、そしてこう詠んだのだといいます。
いざさらば 涙くらべん ほととぎす 我も浮き世に 音をのみぞなく 建礼門院徳子
 「祇園精舎の鐘の声」から始まった平家物語は、「寂光院の鐘の声」で終わりを迎えました。平家の栄華盛衰を、数々の人間ドラマを通して描いたこの物語は、今なお多くの人々に共感を与え、考えさせられ、色褪せることはありません。そして、建礼門院徳子が最後に六道輪廻を後白河法皇に語る内容が、この物語の総集編ともいうべきもの。そして最後に「ホトトギス」。今では渡り鳥であることが周知されているホトトギスですが、昔々は山にこもり5月頃に里に下りてくるとのだと考えられていました。「ヤマホトトギス」と書くのもこの考えからで、同じ鳥です。この鳥の初音を耳にする時期は田植えの時期なので、そのタイミング教える鳥ということで「時鳥」として親しまれています。この物語では、時鳥ではなく別の漢字で「不如帰」と書き記しています。「不如帰」は「帰ることができない」という意味。最後の最後で、建礼門院徳子は皆様に問いかけている気がいたします。

 

末筆ではございますは、ご健康とご多幸を、イノシシ(風水では無病息災の象徴)が皆様をお守りくださるよう、青山の地よりお祈り申し上げます。

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬
www.benoit-tokyo.com