kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

「Benoitと郡上八幡とのただならぬご縁」の物語です。

 Benoitと岐阜県郡上八幡との並々ならぬ関係とは、いったいどういったことなのでしょうか?裏金がまわっているなどという野暮では決してありません。江戸時代に端を発した、壮大な歴史ストーリーが絡んでいました。郡上市の明宝牧場の代表である田中成典さんから教えていただいた、「青山に梅窓院というお寺がありまして~」と。ここから導き出された今回の歴史物語を、長文ではありますがお楽しみいただけると幸いです。「Benoit↔郡上八幡」となる理由に、納得していただけるはずです。

以下、登城人物の敬称は省略させていただきます。

 

 今から430年ほども前のこと。時は1590年(天正18年)、天下人である豊臣秀吉より関八州を与えられた徳川家康が譜代の家臣とともに江戸城に入城することになります。数多(あまた)ある合戦を家康と共に生死を分かち合ってきた屈強の名立たる武士(もののふ)の中に、控えめながら「政(まつりごと)」に才のある3人がいました。1603年(慶長8年) 江戸幕府の開府後は、老中に名を連ねるのです。本多正信(ほんだまさのぶ)を筆頭に、内藤清成(ないとうきよなり)、そして青山忠成(あおやまただなり)。一介の家臣から、波乱万丈人生の後に、大名にまで昇格したという事実は、その才を家康に認められ、見事その期待に応えた証なのでしょう。

 このお三方の中で、内藤清成と青山忠成の二人は、歴史に名を残す足跡も説話も似ていることが多いのです。江戸開府前には江戸町奉行であり、開府後は老中に名を連ねています。江戸で拝領した屋敷地が、これまたお隣同士というで、今もその名残を地名に残しています。内藤家の屋敷地は、下屋敷の名残を残す新宿御苑を中心に、西は四谷のあたりから東は代々木、北は大久保、南は千駄ヶ谷と、かなり広大な地でした。「内藤町」という地名が、その名残を今に伝えています。この地は、徳川家康が江戸に入府後、家臣の内藤清成を呼び、新宿御苑一帯を指し示しながら「馬で一息に回れるだけの土地を与える」と語ったとされ、清成を乗せた駿馬は、屋敷地となった広大な範囲を駆け抜け息絶えたのだといいます。今の新宿区内藤町にひっそりとたたずむ「多武峰(とおのみね)内藤神社」に、この伝説に由来する「駿馬塚(しゅんめづか)」を見ることができます。

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 では、お隣同士であった青山忠成の屋敷地はどこだったのか?もうお察しかと思いますが、彼の名字である「青山」が今も残っている地こそ、この青山忠成の屋敷地だったのです。ただし、今よりももっと広大な地でした。先述した内藤清成の逸話と同じように、忠成にも駿馬伝説があるのです。彼が徳川家康の鷹狩りに随行していたところ、家康が赤坂の麓から西の方向を見渡して、「馬で一息に回れるだけの土地を与える」と語ったというのです。原宿を中心に、赤坂の一部から渋谷に至るまでの広範囲を駆けたのだと。かつてこの一帯を「原宿」と言うも、この青山家の屋敷地となって以降のしばらくの間は「青山宿」と呼んでいたそうです。内藤町が、「新宿」の歴史の中に埋もれてしまい、町名だけを残すことになったにもかかわらず、「青山」は今でも地名としてのその名前の効果は抜群です。

 以前、自分は「青山のビストロBenoitの北平と申します。」が電話での第一声でした。現住所が「神宮前」なので、密かに「神宮前の」へと換えてみた期間があったのです。しっくりこなかったことが一番の理由です、元に戻しました。今思えば、「青山」という地名を使うことは、間違いではなかったようです。なるほど、ここに「Benoit↔青山」の繋がりを見せることになります。

 

 人の集う場には、必ず行き交う「道」が必要になります。そして「道」によって、村や町が形作られる。どちらの屋敷地の場合も、この大きな「道」が通っています。日本橋を起点とした「甲州街道(国道20号)」は、江戸城(皇居)を囲むように走る「外堀通り」と重なるように北側を迂回するように導かれ、江戸城西の「半蔵門」から、新宿方面へと舵を切り、内藤家の敷地へと進みます。現在の甲州街道は、皇居の南から迂回しているよ?実は、1699年(元禄12年)に南ルートの変わったのです。今は「内堀通り」もあるのですが、江戸時代にお堀の内側に入れる人は限られていたはずで、世間一般は「外堀通り」が通常ルート。

 外堀通りから甲州街道を分岐する半蔵門から少し南に進んだ、今でいう「赤坂見附交差点」から南西へと延びる道路、これが青山家敷地を横切る主要道路です。神奈川県厚木方面へと進み、静岡県沼津で東海道(国道1号)へ繋がります。今の国道246号ですが、起点の赤坂見附から、渋谷駅近くの明治通り(かつての鎌倉街道の一部)との交点をまでを、「青山通り」と呼んでいます。青山家敷地はこれほどの敷地面積を有していたのです。

 

 江戸時代は「所領の石高」と「家格」によって、階級分けされていました。所領1万石以上が「大名」、1万石未満が「旗本」「御家人」と続きます。このあたりの詳細は割愛させていただきます。一介の武将であった青山忠成が、家督を継ぎ、数々の功績を挙げながら石高が加増されていきます。江戸の入城時は、江戸町奉行に任命され5,000石だったものが、10年後の「関ケ原の戦い」後には、常陸江戸崎藩主として1万5,000石へ。ここに大名「青山家」が誕生です。混沌とした乱世の中で、家康が「政」の稀有の能力を忠成に見出し、厚い信任を得ることでなしえた証ではないでしょうか。

 「生者必滅(しょうじゃひつめつ)」とは、生きとし生けるものにとって例外はありません。時代劇などでも話題になるが家督相続です。江戸時代の武士の家督相続は、長男を嫡子(ちゃくし)として、家督も財産も単独相続が原則でした。では、次男三男はどうするのか?彼らは、養子に出るか僧侶となるか、はたまた兄の扶養家族になるか。分家して禄を与えられ、藩士としていきていくことは稀有だったといいます。青山家宗家では、初代忠成の長男忠次が病死したことにより次男忠俊が家督を相続します。三男泰重が朝比奈家へと養子で出る、そして四男の幸成(ゆきなり)が、彼の時代にあり、稀有なる「分家」を成しえたのです。元服した後に徳川秀忠の近侍として仕え、1602年(慶長7年)に下総国で500石の知行を得るのです。旗本として参加した大阪夏の陣を機に、功績を積み上げてゆき、ついに1619年(元和5年)、所領が1万3,000石と加増となり大名へと名を連ねたのです。ここに、分家である青山家分家初代幸成が誕生します。

 江戸にある広大な青山宗家の屋敷地の中には、もちろん宗家の下屋敷が建てられています。青山分家が誕生したことで、同じ敷地に分家の下屋敷を築くことになりました。もちろん、分家は幸成の家系だけではありません。この分家の下屋敷が建立されるのですが、同じ青山家であっても宗家と分家との違いは歴然としていた時代です。この屋敷の境界となったのが、「青山通り」でした。通りを挟み、北側が青山宗家、南側が青山分家です。

 

 地下鉄銀座線の「外苑前」のホームに降り立ち、階段を上り行くと、都会を象徴するかのように乱立するビル群の中に6車線の「青山通り」が眼前に広がります。近くには神宮球場があり、その奥には2020年の出番を待っている新国立劇場が控えています。青山通りを、皇居の方向へと進むと、いちょう並木の入り口があり、その先には赤坂御用地を左手に望め、他の都心と比べれば緑の多い地域かもしれません。しかし、駅周辺は高々と聳(そび)えるビルの数々に囲まれ、アスファルト舗装かコンクリートしか目に入りません。と、そこに目を惹く一角があることに気付きます。一方通行の細い脇道と、高層ビルの間に、ここだけ時がゆっくり流れているかのような、都内の喧騒とはかけ離れた静寂な空間が。その先に歩を進めると、人々には「梅窓院(ばいそういん)」として親しまれている寺院、「長青山寶樹寺(ほうじゅじ)梅窓院」が迎えてくれます。

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 地図を見ていただくと、メトロの駅「外苑前」は、路線に沿うように「青山通り」が通っています。梅窓院は青山通りの南側に位置しています。梅窓院を少しだけ南に下ると、名立たる英傑が眠る「青山霊園」に行きつきます。この地、かつては青山分家幸成の下屋敷跡地の一部です。そして、青山幸成が逝去された時、青山通りの南側に広がる広大な敷地の中に建立されたのがこの寺院。「梅窓院」とは、幸成の戒名から名付けられたといいます。浄土宗の教えのもと開山され、ご本尊の阿弥陀仏は、江戸時代には「青山の観音様」との愛称のもと、「山の手六阿弥陀仏」の一つとして厚く信奉されていたといいます。青山幸成から十三代にもおよぶ歴代のご当主を祀っている、「青山家の菩提寺」です。

 ここに、「Benoit↔青山↔梅窓院↔青山幸成↔青山家歴代藩主」と、いっきに繋がりをみました。

 

 青山家というのは、猪突猛進の猛者(もさ)というよりも、質実剛健の堅実な家系だったのでしょうか。言い過ぎれば、生真面目な気質が強かった気がいたします。青山宗家初代の忠成からして、江戸幕府町奉行、関東奉行、そして老中にまで昇進してゆく過程は、乱世を戦いぬく表舞台というよりも、煩雑な人間関係うごめく巨大な江戸幕府をまとめるために必要な能力だったのでしょう。家康から何かを託された忖度なのか。青山家存続よりも江戸幕府をもって泰平の世を維持しようとすることに重きを置いていた感すらある。宗家二代目の青山忠俊は、徳川三代将軍家光に幾度となく諫言(かんげん)し、改易(かいえき)の憂き目にあう。改易とは、武士身分の剥奪と領地没収を意味し、刑罰の中では「切腹」の一つ前という重きもの。それでも、今までの功績と、諫言の正しさが理解されたのか、誰かが諭したのか、家光からの再出仕の要請が来るも固辞し、嫡男である青山宗家三代目の宗俊のみが、旗本として返り咲くも、すぐに加増となり大名としてお家再興を遂げます。以降はお目付役的な譜代の大名として、中には大阪城代のような幕府の要職に就きつつ、明治を迎えます。※画像は郡上八幡城です。

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 戦国時代には、その土地土地に根付いた大名が、群雄割拠の様相を見せ、地元を中心に版図を広げていく、もしくは守るという意識が強いものです。これが世界的に見ても稀有の天下泰平の江戸時代にあっては、少しばかり様相を変えていきます。「国替(くにがえ)」という知行地の引っ越しです。大名以下、家臣全てで新天地へ移動する、大々的な引っ越しは、想像を絶するほどの大事業だったことでしょう。歴史上では、豊臣秀吉徳川家康の郷里である静岡県中部の駿河国駿府からに江戸への転封(てんぽう)を指示したことに始まるようです。これほどの大きな国替は、江戸時代にも例を見ませんが、小大名は意外にも頻繁に引っ越しをしていたようです。同じ場所で長年藩主として君臨することで馴れ合いが生じ、悪政につながるかもしれない。はたまた、善政によって藩が力をつけ反旗を翻さないとも限らない。天下泰平だからこその、幕府による諸藩の管理体制でした。この大引越しにともなう不平不満は、功績によって石高の加増によってうまくコントロールしていたのでしょう。もちろん、減ることも。

 こと、青山家に至っては、この「転封」には違った意味合いが込められています。質実剛健の堅実な信頼のおける譜代大名。家系なのでしょうか、この気質は、青山分家にも色濃く残っていたようで、青山家分家の初代幸成は、常陸の国で旗本となるも、まもなくして加増され大名となり、静岡県西部に位置する遠江(とおとうみ)国掛川へ移封され、藩主として歴史に名を刻むことになります。その2年後、兵庫県摂津国尼崎藩へ。幸成から家督相続は順次行われつつ、所領値は長野県の信濃国飯山藩、さらには江戸中期となり青山幸成から4代目となる幸秀(よしひで)の時に京都府の丹後宮津藩へと移りゆきます。

 曽山家直前の遠江国掛川は、駿河大納言と呼ばれていた徳川忠長(徳川秀忠の次男)、彼の附家老(つけがろう)である朝倉宣正(のぶまさ)が入藩するも、忠長の乱行の数々が目に余るようになり、とうとう兄である家光の堪忍袋の緒が切れる。忠長の改易の沙汰が下り、朝倉宣正連座の責任を取らされ改易の負い目を被るのです。藩主が短期間で変わることに加え、この大騒動による混沌とした掛川藩を立て直すべく声がかかったのが、青山幸成でした。その後に転封する地は、全てが幕府にとっての重要拠点ばかり。五畿七道(ごきしちどう)とは、京都大阪含めた江戸時代前の政権の中枢の地から四方へと整備されていった古き時代よりある道。その山陽道の要が摂津尼崎藩山陰道の丹後宮津藩、東山(とうさん)道こと中山道では信濃飯山藩です。※画像は郡上八幡

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 青山幸成から5代目となる幸道(よしみち)が丹後宮津藩2代藩主の時、世間を揺るがす大騒動が勃発しました。江戸時代半ば過ぎから、領主の厳しい年貢の取り立てや引き上げに対し、日本全国で農民一揆が頻発していました。その中でも、この地の藩主は外様大名ながら幕府と諸大名との橋渡し役である「奏者番(そうじゃばん)」という幕府の要職に就くこととなり、出費がかさむようになります。そこで、年貢の取り立てを従来の「定免取り(じょうめんどり)」から「検見取り(けみとり)」へ変えようとしたのです。「定免取り」とは、年貢の取り立ては過去数年の実績をもとに算出した定量を納めるもの。不正などもあり賛否両論はありますが、収入は安定する上に、農法改良による増産分や粟や蕎麦なの副産物は、農民の収入となるため人々の働く意欲を掻き立てました。「検見取り」は、今世のように毎年検地により、納入分を決める方法です。もちろん、農民の反発がおき、百姓一揆へと発展していきます。ここまでは、よく聞く話でが、今回は違ったのです。

 無法無策の上に、藩主であるの金森頼錦(よりかね)の名前が出てこないということは、無関与で奏者番という出世ルートのみが関心ごとだったのでしょうか。そこに、石徹白(いとしろ)騒動という、白山信仰のおひざ元である寺社の権力争いも加わり、泥沼化したのです。厳しい弾圧のもとで、耐え抜いていた一揆側が。ついに老中への駕籠訴(かごそ)に打って出ます。駕籠訴は死罪、そこまでの決意がありました。そこで、幕府が動きだし、終息へと向かうことになる、ここまでになんと4年間という月日を費やしています。この一揆は、藩主金森頼錦の改易はもちろん、一揆に関わる人が全て処分を受けるという、類稀なる大事件でした。さらに、この一揆が原因で、幕府の若年寄勘定奉行などの首脳部まで改易などの処分を受けたことは、江戸300年を通して、今回だけのことです。1754年(宝暦)に端を発したこの一大事件は、「宝暦郡上(ぐじょう)騒動」と呼ばれています。

 この大騒動を納めるべく、白羽の矢が立ったのが、青山幸道でした。ここに「美濃郡上藩初代藩主青山幸道」が、「郡上藩青山家」が誕生するのです。ということは、この青山家の初代である幸成は「青山幸成は郡上藩青山家初代」という肩書になります。郡上八幡城を中心に街並を広げた郡上藩は、いまでも郡上市八幡町にその面影を遺しています。とうとう、ここで「Benoit↔青山↔梅窓院↔青山幸成↔青山家歴代藩主↔郡上藩↔郡上八幡」という道筋がつきました。

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 歴史を振り返りつつ、「Benoit郡上八幡」との関係が、並々ならぬ深き関係があったことを考察してみました。なかなかに、興味深い歴史であり、ここまで江戸時代を探ったことは、自分の人生の中で初めてのことでした。最初の「Benoit」と最後の「郡上八幡」、今でいう「郡上市」が、見事につながったと思いませんか?Benoitにとって「郡上クラシックポーク」は、美味しさはもちろん、選ぶべくして選んだ、まさに運命づけられた特選食材なのです。

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 さて、盆踊りブームも加勢し、日本中の耳目を集めているのが「郡上踊り」。その名の通り、郡上市が発祥の地であり、日本全国を見渡しても、これほどの参加人数と開催日数を誇るものは類を見ません。この盆踊りは、「見る」ものではなく「参加」するもの。「郡上のナァ~」と始まる歌声、鳴り響く太鼓や笛の音が、郡上の町に響き渡る。7月から9月までの長きにわたる期間、踊りが開催される日は31にもおよび、そのうちの4日間は夜通し踊り続ける。踊り終えた時に訪れる静寂の中、せせらぎの水の音が心に響く。心身ともに癒されるひとときです。

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 青山にある秩父宮ラグビー場にて毎年開催される「郡上おどりin青山」は、2019年に26回目を迎えました。なぜ、青山で郡上踊りが毎年開催されるのか?もうお分かりいただけたのではないでしょうか。

 

 天下泰平が300年も続くことは、世界史をみても稀有なこと。その恩恵を謳歌するかのように、文化芸能の隆盛をなしえた江戸時代。豪族が点在する、特に際立った特徴のない荒野、関東八州を徳川家康が所領としてあてがわれたところから、現在の皇居である江戸城を拠点に町が形作られることで、江戸の文化が始まります。さらに、日本橋をスタートとする「五街道」が整備されていきました。人の行きかう処に宿場あり、各街道の最初の宿場町は「江戸四宿(えどししゅく)」と呼ばれ、人々で賑わっていたようです。江戸四宿とは、「東海道品川宿」、「中山道の板橋宿」、「日光街道千住宿」、そして「甲州街道は高井戸宿」です。

 甲州街道(国道20号線)は、日本橋から始まり、皇居の北側(1699年に南側へ変更)を迂回するように西へ西へと進みます。前述したように、一番目の宿場町は高井戸宿でした。しかし、ゆうに16kmと離れるため、いささか遠いのではないか?という理由から、途中に新たに宿場町が作られることになります。途中に良き地があるではないか、ということで、内藤家の広大な屋敷地の一部に「新」しい「宿」場町が作られることになりました。ここに、「内藤新宿」が誕生したのです。

江戸時代、日本橋からこの街道を歩き続け、四谷大木戸の関所(今の四谷四丁目交差点)をくぐると、目の前には宿場町「内藤新宿」が続きます。この人々で賑わう通りの両脇には多種多様の店が軒を連ね、裏手の軒先には畑が広がっていたようです。秋深くなる時期には、緑鮮やかな葉の間に、輝かんばかりの鮮やかな深紅の剣先を空に向けた「内藤トウガラシ」がたわわに実っていたそうです。このトウガラシは八房系に分類され、葉の上に天に向かって房状に実るのが特徴。一面のトウガラシ畑は、赤と緑の見事なコントラストを成し、それはそれは目をみはる光景だったことでしょう。

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 もともと新宿が、唐辛子の産地であったわけではありません。では、この内藤トウガラシは、どうして栽培が始まったのか?諸藩の大名を江戸城に出仕させる制度、「参勤交代」が大きく関わっていたようです。各地方に転封されている各大名が、江戸文化を肌身で感じるまでは良いですが、やはり美味し食べ物には恵まれなかったのでしょう。そこで、地元から持ち込んで育てようとなったのです。内藤家の知行地は、信濃国高遠藩。いまいう長野県南部伊那市です。ここから持ち込まれた多くの中で、新宿の地に適したものが、トウガラシとカボチャでした。前述のように、トウガラシは「内藤トウガラシ」と、かぼちゃは「内藤かぼちゃ」として、江戸の伝統野菜に名を連ねます。特に、内藤トウガラシは、江戸時代の蕎麦ブームに乗じて、新宿の土手が真っ赤になるほど人気を博したようです。

 もうひとつ、西新宿に「成子天神社」があり、この周辺は鳴子坂と呼ばれていました。ここで江戸時代に一世を風靡した野菜が「鳴子瓜(なるこうり)」です。まん丸ではなく長細いメロンと表現したほうが良いかもしれません。しかし、甘さが優しいため、今は馴染みのメロンに地位を追われ、今や栽培する人はほとんどいません。この鳴子瓜もまた、地方から持ち込まれました。甲州街道を西へと進む終着点は「下諏訪」。ここで南下してきた中山道と合流し、さらに西へと向かうと最後の宿場となる「大津宿」、最後は京都の三条大橋へと辿り着きます。滋賀県に入る手前、岐阜県の西濃地方に「真桑村」があり、その地の特産が「真桑瓜(まくわうり)」です。幕命によって真桑村の農民を江戸に呼び、新宿で栽培が始まり、江戸では「鳴子瓜」と呼ばれていたようです。甘いものが少なかった時代だからこそ、この「果実的野菜」の甘みのある美味しさは貴重な存在だったことでしょう。「果樹になる実が果実」なので、イチゴやメロンは果実ではなく野菜に分類されます。

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 人が行き交うところに道ができ、道は行き交う人の憩いの場を作り出す。そして、人が集うところに歴史が生まれる。今回、「青山↔Benoit」を調べるにあたり、バラバラだった情報の断片を結び付けたのが、「道」でした。「五畿七道」にしても「五街道」にしても、行き交うところに村や町が形成され、その名前も何かしらの意味付けがなされ命名されているのです。ここで調べ切れていない点があるのです。郡上青山家は、参勤交代をどのルートを通ったのでしょうか?距離を考えると、「東海道」から国道246の原型となる「矢倉沢往還(やぐらざかおうかん)」から「青山通り」へ向かうのが妥当です。しかし、当時は「入鉄砲出女(いりてっぽうでおんな)」を厳しく監視していた箱根の関所があります。そう考えると、青山家が転封した地があり、青山宗家が信濃国小諸藩にいたこと、さらには下屋敷がご近所の内藤家が信濃国高遠藩であったことから、「中山道」から「甲州街道」へと流れたような気がいたします。皆様は、どう思われますか?

 

 さて、日本橋を起点として「五街道」、それぞれの最初の宿場町を「江戸四宿」とご紹介いたしました。東海道甲州街道中山道日光街道の4街道にそれぞれの4つの宿場町です。おや?五街道のもう一つはどこへ向かう街道なのでしょう?この街道に宿場町は作れませんでした。日本橋小網町にある行徳河岸(ぎょうとくかし)と千葉県市川市の行徳を行き交う海上航路で、「行徳船航路」と命名されています。海上に宿場町ができるわけもなく、江戸五宿ではなく四宿なのです。千葉県の行徳は塩を産する地、江戸住民にとっては欠かせない塩を運びこむ重要なルートだったようです。

 かつて、街道が二つの大きな街道に分かれる地点を「追分(おいわけ)」と呼び、この呼び名は今でも地名に残っています。現在の甲州街道を四谷から西へ向かってゆくと、新宿三丁目交差点に辿り着きます。ここが、甲州街道から青梅街道の追分です。この交差点を中心に伊勢丹さんの点対称の位置に「新宿元標」として追分であったことの記念碑と路面にパネルがはめ込まれています。人々の雑踏の中で見過ごしこと間違いないのですが、しっかりと残っています。ちなみに、川が合流する地を「落合(おちあい)」といいます。まさに川が落ち合う地。今、皆様が住まわれている周辺や、旅路の中で探してみるのも一興ではないでしょうか。

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 今回は、初となる三本立ての構成です。「郡上八幡への旅物語」を書くには理由がありました。Benoit特選食材「郡上クラシックポーク」です。どれほどの特選食材なの?どのような料理に仕上がるのか?「郡上クラシックポーク物語」は、以下より「はてなブログ」をご訪問ください。感動の誕生秘話が掲載です。

kitahira.hatenablog.com

 

さらに、郡上八幡とはどのような地なのか?史跡を辿りながらご紹介させていただきます。「郡上八幡への旅物語」は「はてなブログ」に記載いたしました。以下よりお時間のある時にご訪問いただけると幸いです。

kitahira.hatenablog.com

 

 このご案内を作成するにあたり、株式会社明宝牧場、郡上市役所、一般社団法人岐阜県観光連盟、長青山寶樹寺梅窓院それぞれのご担当者さまより、快く画像を提供いただきました。この場をお借りいたしまして、深く御礼申し上げます。さらに、郡上市役所より多くのご案内をお送りいただきました。どれほど自分の助けになったことか、重ね重ね御礼申し上げます。

 

最後までお読みいただき誠にありがとうございます。

末筆ではございますが、皆様のご多幸とご健康を、青山の地よりお祈り申し上げます。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com