kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

「郡上八幡への旅路」のご案内です。

もみぢ葉の ながるる竜田 白雲の 花のみよし野 おもひわするな 常縁(つねより)

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 室町の時代、今の千葉県にあたる下総(しもうさ)国に勢力を誇った豪族、千葉氏がいました。その一派が、東荘(とうのしょう)という荘園の荘官になったことから東(とうの)姓を名乗るようになります。源頼朝に旗揚げを促した東胤頼(たねより)、息子の重胤(しげたね)、孫の胤行(たねゆき)。彼の3人は、坂東武者でありながら、文学的才能に恵まれていたといいます。後鳥羽上皇鎌倉幕府(執権北条義時)に反旗を翻した「承久の乱」が勃発、幕府が朝廷を武力で抑え込んだこの合戦の武功により、胤行が美濃国郡上郡(こおり)を拝領します。篠脇城を築き、彼の地を郡上東家は12代340年にも長き期間を収め続けるのです。この歴代の城主の中の9代目に、数奇な運命に翻弄された東常縁がいます。

 常縁が本家である千葉氏の争乱を調停すべく、郡上の兵士と共に下向した。この関東滞在中に「応仁の乱」が勃発し、郡上の所領を斉藤妙椿(みょうちん)に奪われてしまうのです。常縁は「無念といふも愚かなリ」と悔恨の念にかられていたと鎌倉大草紙はいう。これを知った妙椿は「常縁はもとより和歌の友人なり。今関東に居住して、本領はかく成行きこと、いかに本意無き事に思い給ふらむ」と、なんとも奪った本人が言うセリフではない。さらに、「我も久しくこの道(歌道)の数奇なれば、いかで情なき振舞いをまさんや」とまで宣(のたま)う。

 郡上東家初代の胤行は、藤原為家の娘孫にあたり、藤原定家の血筋というのでしょう、文学的才能は抜群だったようです。その気質を受け継ぐ常縁より送られし悲哀のこもった十首、妙椿が感嘆しないわけがありません。返歌とともに郡上郡を返したのだという。なんだこのやり取りは?と思うのは、今の我々のこと。貴金属の美しさにではなく、言葉のもつ美しさに価値を見出す、かたや言霊思想もあるのかもしれません。この室町時代の典雅ともいうべき思考の賜物なのでしょう。この時の居城は「篠脇(しのわき)城」。今の郡上八幡から郡上街道をさらに上に進んだ地です。

 常縁の孫にあたる東常慶(つねよし)は、越前の朝倉氏との攻防に辛勝するも、篠脇城の損傷激しく赤谷山(あかだにやま)に城を築く。常慶を城主とする赤城山城のゴタゴタに巻き込まれるように、東家の分家として活躍していた遠藤胤縁(たねより)が暗殺され、その弔い合戦として弟の盛数(もりかす)が赤谷山城に攻寄ることに。盛数が本陣を張ったのは、この城の北北西に位置する目と鼻の先の山の上、今の郡上八幡城の場所でした。この砦こそ、後の郡上八幡城の礎となったのです。参考までに、この盛数の娘が、大河ドラマにもなった山内一豊の妻となる千代です。

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 時は戻り、常縁が郡上に戻りし頃。連歌宗匠(そうしょう)である飯尾宗祇(そうぎ)が、郡上を訪れ吉田川(上の画像)の支流である小駄良川の脇に草庵を結んで移り住みます。連歌を大成するために、和歌の真髄を極める必要に迫らていた。そこで、和歌の大家である二条派の祖二条為氏(ためうじ)から、連綿と秘説相承の形で口伝されてきた歌道の古今伝授(古今和歌集の解釈及び奥義)を常縁に願い出たのです。

 醍醐天皇は日本初となる勅撰和歌集の編纂の命を下したのは、万葉集の成立からはや150年は経とうとする平安時代。これ以前は漢詩文が宮中でもてはやされた和歌暗黒時代を思うと、画期的な勅命でした。撰者として名が挙がる4人の筆頭が紀貫之。彼は「心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひ出せるなり」と記す。万葉集に選ばれずとも当世に言い伝えられし歌「よみびと知らず」の多くは「古」とし、紀貫之を含めた撰者4名は「新」、この間の六歌仙時代の歌を「古今」とした。感じたままを直感的に表現することで、力強さと大らかさをもつ歌風の万葉集は、「大夫(たゆう)ぶり」と評される。対して、掛詞(かけことば)などの技巧を駆使した、繊細優美な作風「手弱女(ておやめ)ぶり」と評されるのが「古今和歌集」。多分に理知的なため、31文字で詠み人の真意を測るには、「解釈のガイドブック」を必要とします。これが奥義であり、「古今伝授」として連綿と口伝にて引き継がれていくのです。

 常縁の居城とする篠脇城と、宗祇の住む郡上八幡は、確かに郡上市内ではありますが、近くはない上に、篠脇城は山の上とくる。当時はもちろん車などはなく、連歌の達人が馬で駆けるようなイメージもなく、おそらく徒歩で通っていたことでしょう。そこで、常縁は切紙により古今伝授を宗祇に対して行うことにします。切紙とは、奉書紙(ほうしょがみ)を代表とする公文書に用いた真っ白の美しい和紙のこと。この切紙に要点を書き記し、間違いや語弊の無いよう伝授したのです。以降、歌道や神道ではこの「切紙伝授」が踏襲されるようになるのです。この常縁から宗祇への切紙伝授が史上初のこと、だからこそ常縁が「古今伝授の祖」と評されたのです。

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 古今和歌集編纂から100年も経てば、多くの解釈がなされてゆくものです。それを加味しながら、切紙伝授を駆使することで奥義を伝えるも、なんと3年の期間を要したのです。古今和歌集は20巻にも及び、その内の6巻342首が四季の歌です。四季折々の花鳥風月の移ろいを繊細に詠んでいます。場所は違えど、四季の機微を実際に目にしながら捉えなければならなかったのかもしれません。今のように写真があるわけでもなく、インターネットで探せるわけではありません。この長きにわたり古今伝授も終わりを迎えます。その際に、常縁から宗祇へ贈った歌が冒頭の歌です。

 この古今伝授の場は、今も篠脇城址の脇に、「古今伝授の里フィールドミュージアム」として、今もその功績を讃えています。そして、宗祇が草庵を結んだ地は、宗祇も愛飲したという清らかな湧き水が、今もこんこんと湧き出でています。夏は冷たく、冬は温(ぬく)いこの清水は、人々の生活の水として利用されていました。冒頭の歌にちなみ、「白雲水」と言われた時もありましたが、常縁と宗祇の古今伝授の優雅な遺徳に慕い「宗祇水(そうぎすい)」と呼ばれています。そして1985年(昭和60年)に、全国名水百選の第一番として環境庁から認定されました。「水の町」郡上八幡の名実ともに名勝となったのです。

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 皆様、郡上八幡とはかくも歴史深い地なのかと、感慨深く感じていただけたのではないでしょうか。そこで、皆様へは郡上八幡への旅路をご案内させていただきます。東海道新幹線で名古屋に向かい、JR東海道本線名古屋鉄道を利用するのも良いですが、今回は「街道」から、旅人になったように岐阜県に入ろうと思います。

 

 古事記日本書紀にも記載が遺る、京都に端を発した五畿七道(ごきしちどう)。へ向かうは太平洋側を進む東海道」、中央の山塊を抜ける東山(とうさん)」、そして日本海を望む「北陸道」です。これらの街道には、物資ばかりではなく、使者や親書などを、馬を使って迅速に送る「駅伝制」が整備され、30里(約16km)ごとに駅家(うまや)が設置され、駅馬(はまゆ)を10頭備えていたといいます。東山道とは、なかなか聞き覚えの無い名前ですが、江戸時代には整備された五街道の「中山道」が踏襲しています。群馬県には、東北へ抜けるか東京に向かうのかの分岐点があります。

 今回は、この歴史ある東山道を辿ろうと思います。しかし、東京からでは江戸時代に整備された、五街道があまりにも便利なため、最初は甲州街道を利用し、皇居から新宿、高井戸と抜けていった後に山梨県へ、そして山梨県を横断するように長野県に入り、諏訪湖の北側にある「下諏訪」で、中山道へ入ります。南信濃の伊那を過ぎて、岐阜県中津川市へ、美濃中山道十七宿は「馬籠(まごめ)宿」から始まります。

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 栗菓子で旅人をもてなしたという「中津川宿」へ。

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 そのまま岐阜県南部を横断するように、滋賀県へと向かいます。今回、途中の宿場町は割愛させていただき、県内10番目の「鵜沼(うぬま)宿」まで歩を進めます。

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 城下町として賑わいを見せたという県内11番目の「加納宿」。この手前、岐南町にある国道21号(中山道)と国道156号との交差点があり、ここが重要な分岐点「追分(おいわけ)」です。この国道156号こそ、今回の目的地へと我々を導く「郡上街道」です。中山道から郡上街道に入り、眼前に聳(そび)える金華山を東側へ迂回するように北上します。頂に堂々たる姿を見せるのが岐阜城を横目に見ながら、そして長良川に沿うように上流へ上流へと。

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 長良川へと注ぐ支流、津保(つぼ)川を渡ると、関市の「小屋名(おやな)」へと行き着きます。この地域は、山々が肩を寄せ合う中で湧きいずる清らかなる水が、山ひだを削り流れゆき、それぞれが「落合う」場所。中央を流れる長良川と、西から先述の津保川、北からは武儀(むぎ)川が落合います。高台のように思えるも、川の浸食が作り上げた、自然の地です。郡上街道と県道79号(関本巣線)が交差する手前左手に、今もひっそりと追分指標が遺っています。明治18年7月に建立したという石の指標には「美濃国武儀郡小屋名追分」とある。さらに、「右 飛騨街道」「左 郡上街道」とも。もちろん、向かうは「郡上八幡」。進路は左手に国道156号を上っていけばよい。

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 しかし、このまま山間を歩いて北上するには、なかなかに難儀な道のりです。そこで、この小屋名追分を右手に飛騨街道を進んだ先、文明の利器を利用するために関市中心街へ、目指すは「長良川鉄道」の「関」駅へ向かおうと思います。「関」と言えば、鎌倉時代に刀祖「元重」がこの地に移り住んだところから関刀鍛治文化が生まれました。

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 良質の焼刃土が産出し、長良川津保川の清水という恵まれた自然環境。さらに炉に使う松炭も豊富に作り出せるという、まさに刀鍛冶にとっては理想的な条件を兼ね揃えていたのです。室町時代には、刀匠が300人にも及んだといい、「折れず、曲がらず、よく切れる」と評された席の刀は、全国にその名は馳せたといいます。特に「関の孫六」と称された二代目兼元は、四方詰めという鍛治法を考案し、さらなる堅固な逸品に仕上げたといいます。この卓越した伝統技能は、今の刀匠や刃物産業に継承されているのです。

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 長良川鉄道の「関」駅から、北濃行へと列車に乗りこむと、4駅目で迎えるのは「美濃市」駅です。市内には伝統的建造物群保存地区「うだつの上がる町並み」があります。「うだつが上がらない」となると、仕事面ではなかなか出世できなかったり、生活面では日々厳しい家計に悩まされているという意味があります。「うだつが上がる」とは、何か幸せを呼び込むパワースポットなのか?下の画像が、美濃市の「うだつの上がる町並み」です。

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 「うだつ」とは、家と家の間に、壁のように建つ仕切りのようなもの。江戸時代には、隣家との間が狭く、火災の際に隣家に炎を移さない役割を果たすのだといいます。江戸も中期になると、この「うだつ」に装飾が施されるようになりました。上の画像の家と家お間に、ひときわ高く備えられた小さく細長い瓦屋根の壁が「うだつ」です。画像のような立派な「うだつ」を建てるには、それ相応の財力が必要で、これ富の証でもありました。ここから「うだつが上がる」から「うだつが上がらない」という前述した成句が生まれたといいます。画像の左右の家々に立つわ立つわ、「うだつ」が立っている町並みですよ。知らなければ見過ごしてしまうこの景観、確かにこん町並みを歩くことで、美濃商家の知恵を拝借できるかもしれません。

 美濃市と言えば、忘れてはいけないのが「美濃和紙」です。長良川や板取川の美しく澄んだ豊富な水資源、和紙を漉(す)くために必要な原料が、「コウゾ(楮)」を多く産することから、1300年以上も前、すでに奈良時代には美濃和紙が利用されていたといい、正倉院文書の中に美濃経紙が記されています。日本では伝統工芸品認定を受け、2014年11月には美濃和紙を漉く技術が「ユネスコ無形文化遺産」に登録されました。この伝統の技術と歴史は、美濃市にある「美濃和紙の里会館」で楽しめます。

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 前述した東常縁と宗祇の古今伝授が、「切紙伝授」だと書きました。美濃市の隣が郡上市であることを鑑みると、常縁が切紙に使用したのは「美濃和紙」だったのではないでしょうか?真っ白で筆の進みも良い、丈夫で美しい美濃和紙に書き記した古今伝授の数々。宗祇は幾度となく読み返し、宝物のように持ち帰り、大切に保管したことでしょう。古今伝授の奥義には、美濃和紙こそ相応(ふさわ)しい。

 「美濃市」駅から、山間を縫うように進み14番目となる駅が「郡上八幡」です。ここから4駅目の「郡上大和」駅に篠脇城址がある。ということは、宗祇は常縁に古今伝授を受けるために、この4駅分を日々歩いて通い詰めたことになります。さあ、長良川を右手に進んできた長良川鉄道が、この川を横切る橋梁(きょうりょう)を渡ると「郡上八幡」駅に到着です。

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 「郡上八幡」駅を下車すると、右手の山の頂から出迎えてくれる郡上八幡城があり、左手には長良川の美しい水面の輝きが出向かえてくれる。さすが「水の町」と評されるだけのことはある。先に見える支流が、郡上八幡の町を横切る「吉田川」です。

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 駅から長良川の上流方向へ進むと、郡上大橋が吉田川に架けられている。支流というが、十分な川幅の立派な川だ。それにしても、この両河川はあまりにも水が澄んでいて美しい。川の深さは浅いわけではないが、橋の中ほどから覗いてみると、川底の大小さまざまの石が判別できるほどだ。

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 さあ、橋を戻り郡上八幡城を目印とし、町中を歩いていこうと思う。水の町とは、清流があるらでもあり、町中に水路が張り巡らされ、防火用はもちろんですが、生活用水としても欠かせないものでした。古き良き町並みの中は、時の経過を忘れてしまうほど風情豊かなもの。

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 長良川と吉田川の小石を敷き詰めた小道の脇には、音なく流れる清らかな水路が並行する。郡上踊りの時期などは、行き交う人々の下駄の音が心地よく響いてくるのではないだろうか。

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 さらに、城を目指す。其処此処で目する資格の木の箱。端から水が流れ込み、反対から抜け出る。「水舟」と呼ばれる、冷たい川水を流れ溜め、野菜や飲み物を冷やすのに利用されている。水資源豊な上に、湧き出でたばかりだからこそ、夏は冷たく冬は温く感じる一定の水温を保っている。さらに進むと、水路の幅が広がりを見せた「いがわこみち」に出会う。この水路は、他とは一回り大きく、そのために鯉やウグイなどが優雅に泳ぎまわる。洗濯場が今も3か所ほど残っており、ご近所さんの社交場の様相を見せています。

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 そうこうしているうちに、吉田川に架かる八幡橋に辿り着き、眼前に聳える山からは郡上八幡城が我々を見下ろしている。この城については、多くを語ってきたので、ここでは割愛させていただきます。さらに、郡上市のみならず、郡上八幡の訪れたい地はまだまだあるのです。あまりにも多く、ご紹介できないほどで、語るなどは論外です。これは頃合いを見て次の機会へ。

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 郡上八幡城は江戸時代を乗り越え、激動の幕末を迎えることになります。最後の城主郡上青山家11代の幸宜(ゆきよし)。青山家の堅気な気質は、幕末にも影響を及ぼしました。新政府軍か幕府軍か。時代の趨勢は新政府軍にあることは、幸宜が一番肌身で感じとっていたはずです。郡上青山家を支えてきた人々を危険にさらすわけにはいかない。しかし、徳川幕府譜代の大名・藩士として意地と誇りもある。この葛藤の中で、郡上藩は二つに分かれて幕末を迎えるという選択肢をとります。

 郡上青山藩新政府軍側へ、そして有志が結成した凌霜隊(りょうそうたい)は、旧幕府軍に付き会津の戦に向かいます。「苦肉の策」かもしれませんが、これが最良の方法だったのです。誰にも正解は導きだせません。戦禍に見舞われなかった郡上八幡の町並みが、我々のそう語ってくれている気がいたします。そして、郡上八幡城には、この凌霜隊の慰霊碑と顕彰碑が建ち、今もその歴史を物語ってくれています。

 

 会者定離(えしゃじょうり)とはよく言ったもので、死生観を説いたものではりますが、今世でも十分に理解できるもの。伝授の大願を成した宗祇が帰路に就く時がくる。彼の草庵から吉田川に向かうと宮ケ瀬橋がある。その橋の袂(ふもと)まで見送ったのが、師である常縁であった。1473年(文明5年)の4月の頃。季節は山桜が咲いている頃だろうか。常縁は餞別に歌を贈った。そして宗祇が返歌を詠んだ。

もみぢ葉の ながるる竜田 白雲の 花のみよし野 おもひわするな  常縁

三年ごし 心をつくす 思ひ川 春たつさわに わきいづるかな  宗祇

 冒頭では紅葉の葉の画像を添付しました。万葉の時代、「花」は梅を指し示したが、平安時代以降は「桜」を指す。常縁の歌は、奈良県竜田川の紅葉(もみじ)と同県吉野の山肌一面に咲き誇る桜を指すのか。どちらも、群を抜いた美しさで名を馳せる有名な地であり、歌人にとっては憧れの地である。歌人として、この地の美しさを「おもひわするな」と、古今和歌集時代の懐古の念をいっているのか?

 紀貫之古今和歌集で「心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひ出せるなり」と記す。常縁がこの歌を詠んだのは4月のこと。万葉の時代は、樹々の葉が色を変えることを「もみつ」(動詞)といい、これが名詞のかたちをとり「もみち」なのだといいます。この時代に「ひらがな」は誕生しておらず、万葉仮名は漢字の音読みを利用して書き記されています。「もみつ」は「毛美都」や「もみち」は「毛美知」と。色の変わる葉の色を指すのであれば、美しく郡上の山々に咲き誇った山桜の、葉に色を言っているのか。山桜の新葉は画像の通り紅葉で、後に緑濃くなる。ともすると、賢人同士が相まみえたこの3年間は、賢人にしかわからぬ楽しみに満ちていたのかもしれない。

 白雲の美しい青空に輝かんばかりに咲き誇る郡上の山桜、この新葉の紅葉もいずれは積翠のごとく深い緑色へと姿を変える。郡上の山桜のように楽しい日々を過ごしたこと、時経つことで葉の色が変わるように記憶も色あせてゆくことだろう。しかし、私にとってはあまりにも有意義で楽しい3年間だった。誰しもが認める竜田川の紅葉や吉野の桜の美しさを忘れないように、古今伝授を忘れないでほしい。そして、私と過ごした3年間を忘れないでほしい。本当にありがとう。

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 宗祇も返歌を詠む。3年もの期間を、古今伝授に費やしていただきました。どれほどの心労があったことでしょうか。この感謝の想いを胸に、今春郡上を旅立たせていただきます。伝授いただいた奥義の数々は、今でこそ泉の如くではありますが、いずれは長良川のように大河となし、連歌を大成させてみせます。そして、師への感謝の思いは、湧きいずる清水のように絶えることがなく、いずれ川のようになるでしょう。

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 31文字に含めた、師弟の感謝の気持ち。古文文法など理解していない、勝手気ままな自分の解釈です。とはいうものの、なかなかに説得力がないですか。この常縁と宗祇の歌の真意はいかようなものなのか。古今伝授を受けていない我々は、「古今伝授の里フィールドミュージアム」に赴き、直に専門家に問わなければなりません。そして、常縁と宗祇の足跡を辿ることで、何か感じ取れるかもしれません。常縁と宗祇を思いながらの郡上への旅路は、きっと普段気にもかけない発見があることでしょう。長いようで短い3年間、いったいどんなやり取りがなされていたのでしょうか。気になりませんか?さあ、次の休みは

「郡上へ行こう!」

 

 余談ですが、常縁が宗祇に「古今伝授」を行って後、古今伝授はいくつかの流派に分かれます。安土桃山時代から江戸時代へ移る慶長年間、戦国大名であった細川藤孝が剃髪し幽斎と名乗ります。明智光秀の娘のガラシャの夫、忠興の父です。三条西実枝(さねき)に「古今伝授」を受け、これを集大成したことから近世歌学の祖と称されています。時は1600年、幽斎は、智仁親王に「古今伝授」を始めました。

 しかし、この時期は関ケ原の戦いの直前、石田三成方と徳川家康方の対立が極限に至る時期です。徳川方の幽斎は居城である田辺城へ帰るものの、石田三成方が包囲してしまうのです。ところが、「古今伝授」の断絶を恐れた後陽成(ごようぜい)天皇の勅命により、城の包囲が解かれることになりました。それほどまでに、東常縁が確立した「古今伝授」を、朝廷が重要視したのです。

 

 今回は、初となる三本立ての構成です。「郡上八幡への旅物語」を書くには理由がありました。Benoit特選食材「郡上クラシックポーク」です。どれほどの特選食材なの?どのような料理に仕上がるのか?「郡上クラシックポーク物語」は、以下より「はてなブログ」をご訪問ください。感動の誕生秘話が掲載です。

kitahira.hatenablog.com

 

 郡上クラシックポークが美味しいのには理由があり、十分にご理解いただけたのではないでしょうか。この特選食材「郡上クラシックポーク」とBenoitは、出会うべくして出会ったようなのです。「Benoitと郡上八幡」が、並々ならぬ縁があったとはどういうことなのか?「郡上八幡の物語」は、「はてなブログ」に記載しております。お時間のある時に、以下よりご訪問いただけると幸いです。キーワードは「梅窓院」です。

kitahira.hatenablog.com

 

 このご案内を作成するにあたり、株式会社明宝牧場、郡上市役所、一般社団法人岐阜県観光連盟、長青山寶樹寺梅窓院それぞれのご担当者様より、快く画像を提供いただきました。この場をお借りいたしまして、深く御礼申し上げます。さらに、郡上市役所より多くのご案内をお送りいただきました。どれほど自分の助けになったことか、重ね重ね御礼申し上げます。

 

最後までお読みいただき誠にありがとうございます。

末筆ではございますが、皆様のご多幸とご健康を、青山の地よりお祈り申し上げます。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com