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徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

香川県さぬき市の旅物語・前編 ≪いざ!飯田桃園さんへ≫

 香川県高松市高松駅から高徳線へ乗り込もうと思います。この路線は、高松港から離れるように南西へ向かうも、古墳群の点在する石清尾(いわせお)山塊の麓(ふもと)に稜線に従うかのように向きを変え、進路は東に。

 この山塊の東の麓には、約75haの面積を有する、国内最大の文化財庭園「栗林(りんりつ)公園」が広がっています。湧水が小川となり、庭園の2割を占める大小6つの池を形成する。徹底して管理された草木による四季の彩(いろどり)、築山(つきやま)と大小さまざまなに配された石による景観。この木石の庭園の美しさは、400年経った今も、我々を魅了します。往年の高松藩、造園当時を偲(しの)ばせる史跡なり。

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 海岸線に沿うように走るのですが、海とは距離があるため、住宅街の只中を走り抜けてゆきます。すると、進行方向左手に小高い山が見えてくる頃、5番目の駅「屋島」が訪れます。この山に鎮座するのは、四国八十八カ所霊場の84番札所「屋島寺(やしまじ)」です。車で山頂まで上ることができ、そこからの高松市街を望む景色は一見の価値あり。特に夜景の美しさには言葉を失うといいまいいます。

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 「屋島」という地名に、すでに察した方も多いのではないでしょうか。源平合戦の頃、てっぺんが平らな独特な景観の溶岩台地を利用して、平家は軍事拠点とし、再起を図った地です。都奪還にむけ、兵庫県神戸市にある一ノ谷に陣をはるも、源義経に敗れ、屋島まで撤退することに。そこで「屋島の合戦」が始まるのです。

 「平家物語」。軍記物語でありながら、その文章は流麗であり叙事詩的。その輝きは、今にいたっても衰えを見せません。今回は、この世界に入ってはいけない。時を見て、またご紹介させていただこうと思います。屋島合戦の有名な一コマ「那須与一扇の的」は、この地が舞台。弓を射る前に祈ったとされる「祈り岩」。そして干潮になると馬の手綱を架けた「駒立岩」を見ることができるのです。70mほども離れた海に揺れる洗浄の的を、馬で海に入りながら「ぴゃう」と矢を放ち、射落とすとは、まさに神業の如きなり。

 両軍から拍手喝采も、義経の命で平氏の兵を与一は矢で打ち取ります。兵士とはいえ、なぜ戦闘態勢にない者を討ち取ったのか、義経の意図はなんだったのか?そのような歴史ロマンに後ろ髪を引かれながら、「屋島」の駅では下車せずに、先へ進みます。

  さらに進むと、左側の車窓から、ひときわ高く険しい5つの峰(みね)を望めます。古人は、峰を剣と言い当て、「五剣山(ごけんざん)」と名付けました。ここは、かつて空海が修行をした地だといい、山の中腹には85番札所「八栗寺(やくりじ)」がある。駅は7番目の「八栗口」です。商売繁盛を祈願するために訪れる人々が多いといいます。車で八栗寺まで上ることできず、まして徒歩では難儀なので、ケーブルカーをご利用ください。しかし、ここでも下車いたしません。

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 さぬき市に入るやいなや、車窓から景色に海が現れます。大きな入江で、西側が高松市、東側がさぬき市とに区分された志度湾(しどわん)です。沿岸を走る「琴電志度線」から望む景色は、さぞや美しいことでしょう。蠣養殖の筏(いかだ)が波に揺れ、遠く島々の陰影が美しい。

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 さぬき市役所を有するこの地は、高徳線9番目の駅「志度(しど)」です。この駅名からすでにお寺の名前をお察しの方も多いのではないでしょうか。ここには86番札所である「志度寺」があるのです。さあ、降りる準備をいたします。この駅名からお察しかと思いますが、向かう先は86番札所「志度寺」へ。

 その道中、平賀源内記念館が迎えてくれます。平賀源内といえば、江戸きっての発明王であり、「エレキテル」などは、若かりし頃の日本史の勉強の中で登場してきたのではないでしょうか。先日は、皆様もウナギ料理を堪能されたかと思いますが、「土用(どよう)の丑(うし)の日にはウナギ」の発起人です。さぬき市の志度湾に面した地が、彼の生誕の地であり、天才を育んだ地なのです。そして、彼の才覚に早くから気づき、長崎遊学の費用を工面したというのが、当時の志度寺のご住職さんなのだといいます。

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 「補陀落山(ひだらくざん)志度寺」は、運慶の力作である仁王像と巨大なわらじを左右に配した、国指定重要文化財「仁王門」が我々を出迎えてくれます。十一面観音菩薩をご本尊とし、その同体とされている極楽浄土と蘇生の閻魔(えんま)像が、同じ敷地内にある閻魔堂に安置されています。参拝する人々の心のありようで、その表情が優しくも険しくも見えるのという摩訶不思議な閻魔像なり。そして、境内の北側、本堂の裏手側からは、目と鼻の先から志度湾が広がり、遠くに五剣山の山並みが、さらに奥には屋島の稜線まで望めるという。

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 さあ、志度寺の参拝の後、境内を出てから左に曲がるように、海を背にして南に向かうことにします。このまま道は、県道3号線(志度山川線)となり、まっすぐ南へ南へと我々を導いてくれます。さきほどまで乗車していた高徳線は、海岸線に沿うように走るも、志度駅過ぎたあたりでこの県道と交錯し、進路を南に向け県道と並走するように進みます。そして、高速道路の高架橋をくぐったあたりから、山間(やまあい)を抜けるような景色へと一変するのです。

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 高徳線を横目に見ながら、県道3号線を進んでゆくと、この道路と線路の間に、大きな池が姿を現します。昔からある農業用の貯水池、長行(ながいく)池と名付けられています。香川県の地図を開いて見ると、大小さまざまの大きさのため池が、点在していることに気付かれることでしょう。

 

 今年の西日本豪雨の際し、香川県の食材で大いにお世話になっている鹿庭さんが無事息災であるかの連絡をした時に、「香川県は四国の中でも、讃岐山脈四国山地に守られていて、雨や台風の被害がとても少ないのです。」と教えてくれました。そして、「その反面、香川県は雨が少なすぎて、ため池の数が多いです。面積あたりの池密度は日本一です!」とも。

 四国最大の規模を誇る讃岐平野。徳島県との県境に聳(そび)える阿讃山麓(あさんさんろく)から、北に位置する瀬戸内海に向かうように、緩やかな傾斜をもって平野が広がります。ポイントはこの緩やかな傾斜こそが、讃岐平野を開墾してゆく理油の一つでしょう。水は高いところから低いところへ流れゆく。

 

 古代の狩猟を生きる術としていた縄文時代に、海の向こうから伝来してきた「稲作」と出会うことで、弥生時代が始まります。この「稲作」は、定住を可能としたばかりか、多くの人口を養うことができるようになるのです。そして、この画期的な農業は、多くの水を必要とします。

 万葉の時代から、和歌の中には「山田」という言葉が多く詠まれています。この漢字が指し示すとおりに、「山の田」です。司馬遼太郎氏は、「この国のかたち」の中で、「谷こそ日本人にとってめでたき土地だった。」と書き記しています。なぜ、土砂崩れや河川の氾濫によって甚大な被害をこうむる「谷」に我々は居を構えたのか。

 全ては「稲作」のためであった。灌漑とは、農地に外部から水を供給するシステムのこと。稲作には、この灌漑システムの確立が必要不可欠なのです。水は高いところから低いところへ流れることは自明の理。ともすると、川の流れる谷は、稲作には最高の立地といえる。だからこそ、古日本人は、谷に住むことに価値を見出したのです。戦国時代、甲斐の武田信玄が世に名を馳せることになるほど強国になりえたのは、彼が農業土木の天才であったからに他なりません。山間の谷に見事なまでの灌漑システムが、今なお健在であることがそれを物語っています。

 自然の災禍を鑑みても、谷での利水は稲作をする上では、あまりある魅力のある地なのです。豊富な水資源と水の流れを作り出す傾斜がある。だからこそ、「谷こそ日本人にとってめでたき土地だった。」のです。

 しかし、谷から広がる扇状地では、耕作地に限りがあります。そこで、広大な稲作を可能とする平野部を耕作することを思いつくのは自然のなりゆき。しかし、規模が大きくなればなるほど、卓越した土木農業のノウハウを駆使し、灌漑システムを構築しなければなりません。

 

 かつて、大和朝廷は日本国を治めるべく行政区分を策定し、これを「令制国」としていました。そして、その地を管轄するための官職「国造(くにのみやつこ)」を設けたのです。その「国造」に支給された田を「国造田(こくぞうでん)」と呼んでいた。

 4世紀後半ごろに即位していたであろう15代応神(おうじん)天皇のころ、南海道を辿ると行き着く讃岐国(現在の香川県)に、初代「讃岐国造(くにのみやつこ)」として、須賣保禮命(すめほれのみこと)を派遣した、と「旧事紀(くじき)」「国造本紀」に書き記している。讃岐氏の源流はここにあるという。

 後に、皆様お馴染みの革新的な「大化の改新」が断行されるに至り、律令制の中央集権国家が誕生します。これを境に、管理管轄権のある「国造」は廃止となり、一部地域では残るものの、祭祀を司る世襲制の名誉職へと変わってゆきました。

 「讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)」が存在していた頃すでに、讃岐平野は開墾され、理路整然と美田が広がっていたといいます。1100年も前に書かれた書物によると、現在の讃岐平野の58%にあたる地であったというのです。重機を伴い山肌を削るという難儀な開墾ではなく、当時の農機具でも十分に対応できる平野部が広がっていたこと。さらに、山間部から海に向かって緩やかな斜面であったことは、豊富な水を必要とする稲作には最適だったはずです。そして、地理的な利点も忘れてはいけません。

 前述した鹿庭さんの言葉を思い出していただきたい。「香川県は四国の中でも、讃岐山脈四国山地に守られていて、雨や台風の被害がとても少ないのです。」と教えてくれました。自然の猛威にたいしては、今も昔もなすすべはありません。

 良いこと尽くしではないかと思う中で、鹿庭さんはこう付け加えています。「その反面、香川県は雨が少なすぎて…」と。大きな川が少なく、年間降水量も少ないとなると、讃岐の人々にとって水の確保が何よりも重要な課題となるのです。

 

 讃岐の賢人は、平野を開墾するにあたり、限りある水資源の有効活用を模索いたします。そして、画期的なシステムを考案したのです。山間部に大きな「ため池(親池)」をこしらえ、流した水は少し平野部へと進んだ地にこしらえた「ため池(子池)」に貯水します。それを、再度放流し大地を潤したものを、さらに「ため池(孫池)」貯水してゆく。放流した水をそのまま海に流さずに、同じ水をまるで3世代にわたって活用しようというのです。讃岐平野が、阿讃山麓から北の瀬戸内海にむかって緩やかな傾斜があることが、この灌漑システムを可能としているのです。

 棚田とは違い、条里制という古代土地区画制度に基づき、四角に区割り田を「古代条里田(こだいじょうりでん)」と呼んでいます。「讃岐国造」が指揮監督したのでしょうか。この壮大な古代条里田を開墾し、稲作を営むには豊富な水資源を必要とします。降雨量と大きな河川が少ないからこそ、限られた水資源の有効活用として考案された≪讃岐平野の「ため池」による灌漑システム」≫必要不可欠なもの。しかし、この灌漑システムは理路整然と開墾された条里田だからこそ、その効果を最大限に発揮できているのです。

 「香川県には、ため池の数が多いです。面積あたりの池密度は日本一です!」と語る鹿庭さんの言葉に偽りはありません。では、どうやって「ため池」をこれほどまで多く造り上げたのでしょうか。

 

 自分の出身地でもある新潟県にも、越後平野が広がっています。ここで、Googleマップを利用して越後平野と讃岐平野を見比べていただきたいのです。まずは、越後平野です。

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 緑濃い越後山脈に降り積もる大雪が、豊富な水資源となるのです。越後平野では、川という川が暴れ川であり、いかに氾濫を抑え込むかに注力しています。米どころで有名な新潟県ですが、白根という地域は、知る人ぞ知る県下最大の果樹栽培地です。2019年は彼の地の白桃を購入させていただきました。その時に書いたブログに越後平野を解説しております。お時間のある時に以下よりご訪問いただけると幸いです。

kitahira.hatenablog.com

  次に、讃岐平野です。大きさの規模ではなく、平野部を注視していただきたいです。

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 越後平野は平野部が延々と広がっているのに対し、讃岐平野は丘や小高い山が平野部に点在しているのです。讃岐の賢人は、ここに着目したのです。自然の要害は、水路(みずみち)を作り出すだけではなく、「ため池」の縁(へり)にもなると。

 親となる、大型の「ため池」は、阿讃山麓の麓(ふもと)に分布しています。山間(やまあい)に川が流れることで山肌が削られ谷ができます。この谷が平野部に達するところを堰(せ)き止めたのです。下の画像は、日本一の「ため池」、香川県仲多度郡まんのう町にある「満濃池(まんのういけ)」です。

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 ダムじゃないか?自分も同じように思いました。川を堰堤(えんてい)で塞ぎ、水を貯め込んだ人口の池です。現行の法律「河川法」では、この堰提の高さが15m以上のものをダムとし、国土交通省が管轄します。それ未満は、農水省管轄となり、これが「ため池」です。「満濃池」は、これほどの大きさを持ちながら、堰堤は下の画像の通り。そのため、「ため池」です。「ため池」の中では、日本一規模を誇ります。

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 参考までに、この満濃池から東に進むと「豊稔池(ほうねんいけ)」があります。かつては、「ため池」だったであろうこの地は、度重なる旱魃(かんばつ)対策のために、貯水量を増やすため石積式マルチプルアーチの堰堤を築くことになり、1930(昭和5)年に「豊稔池ダム」として完成の日を迎えました。今は上部がコンクリートによって補強がされるも、下部は当時の面影を残す石積みをみることができる、日本に現存する最古のマルチプルアーチダムです。満濃池の堰堤と比べてみると、ため池とダムの違いは一目瞭然です。

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 「ため池」に話を戻します。山の麓に点在する、「ため池(親)」から流れゆく水は、四方に張り巡らされた灌漑システムによって、田を潤してゆきます。そして、余分な水は川に戻さず、次の「ため池(子)」へと貯水される。さらにここから、傾斜に沿うように広がる田を潤して「ため池(孫)」へ。そしてまた次に広がる田へ。この讃岐平野に張り巡らされた灌漑システムに欠かせない「ため池」の数は、今は1万4千ほども存在するのだといいます。

 自然の丘陵を利用した「ため池」は「台地池」と呼ばれています。しかし、全てが同じように作れるわけではありません。そこで、平野部では、水田のあった場所や、雨の流れてゆく「水路(みずみち)」に、四方を堤防で囲んだ「ため池」を作りました。これを、「野池または皿池」と呼んでいます。

 四方を堤防で囲む「野池」では、常に堤防の決壊の不安にさい悩まされます。堅固な丘陵を利用する「台地池」のほうが、効率もよく間違いなく安全です。越後平野のような形状であれば、山の麓以外は、すべて「野池」でしょう。しかし、讃岐平野では、点在する丘や小高い山々が利用できるのです。

 前述した高徳線と県道3号線に挟まれた地に姿を見せる「長行(ながいく)池」は、海にほど近い地でありながら「台地池」のようです。海に向かって左手には標高239mの雲附山(くもつきやま)、右手には198mの石鎚山(いしづちさん)。この山間を利用しているのです。下の画像の池の水面の先には堰堤があり、その遠い先には小豆島が望めるのです。

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 長々と香川県「ため池」よもやま話を書いてしまいました。話を「長行池」のある県道3号線(志度山川線)へと戻そうかと思います。長行池を過ぎて南下すると左手「雲附山」の麓に「当願堂(とうがんどう)」が姿を現す。この地に伝わる龍神伝説、その渦中の暮当(ぼとう)と当願が祀(まつ)られています。

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 彼の地に伝え遺される龍神伝説とは、どのようなものなのか?大いに気になりますが、ここはぐっと堪えていただき、先へ進もうと思います。そう、今夏のBenoit特選食材であり、フランス人パティシエも絶賛した逸品が、ここから送り出されているのです。

 逸る気持ちを抑えながら県道3号線進むと、瓦屋根の小ぶりの建物が見えてきます。古風なお堂というものではなく、何か今風な建物でもある。近づいてみると、道路に面した大きなガラス窓の脇に、木の立て看板があり、「休憩所」と記されている。窓越しの中を覗いて見ると、お地蔵さんがいらっしゃった。

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 県道3号線を整備するさいに、どうしても避けては通れなかったために、今の場所にお引越しをしたのだといいます。昔々のこと、志度に流れ着いた萩の木を彫って志度寺のご本尊が造られたといい、その余った木で作られたのが、このお地蔵さんだと言い伝えられています。長きにわたり、長行地区で「萩(はぎ)の木地蔵」と呼ばれ、地元の人々に親しまれています。

 萩の木は、か細い枝が枝垂れるように枝を広げ、その先々に美しい小さな花を咲かせます。普段はか細い枝に隠れている幹ですが、其処此処で見かけるものは太いとは言い難いものです。だからこそ、志度に流れ着いた見事な太さの萩の木に、何か神聖めいたものを感じ取ったのかもしれません。

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 ところが、「萩の木地蔵」さん、よくよく見ると木ではなく石で造られているのです。昔のこと、87番札所の「長尾寺」から、萩の木地蔵さんを貸してほしいと打診がありました。長行村の人々は快諾し、お地蔵さんを長尾寺に貸した後に、なんと行方不明になったのです。長尾寺はお詫びの気持ちとともに、今の石の「萩の木地蔵」を長行村へ届けたといいます。

 紛失してしまうとはなんとも粗末な話ではありますが、今も皆から親しまれていることが一番大切なこと。いろいろな縁が絡みあい、今のこの場所から皆を見守っているのです。そう、今のこの場所とはどこのことか。ヒントはお地蔵様の画像の窓から見える「のぼり」にヒントがありました。

 

 この「萩の木地蔵」さんが祀られているのは、「黄金桃」と書かれたのぼりを立てている、果物直売所の敷地内。昨年から引き続き、今夏もBenoitへ見事なまでの「すもも」を送っていただいている、飯田桃園さんです。高松駅を出発し、飯田桃園さんまで、長い道のりでした。

そこで、この物語の続編は、「香川県ひうらの里≪飯田桃園≫さんのご紹介」と銘打って、別ブログに書き記させていただきます。いったいどのようなこだわりのある果樹園なのでしょうか?いや、それよりも「ため池」の話でも書いた通り、稲作のために開墾した地で、なぜ果樹園を切り拓いたのか?

お時間のある時に、以下よりご訪問いただけると幸いです。

kitahira.hatenablog.com

 

 今回の旅路の画像および情報は、飯田桃園さんはもちろん、公益社団法人香川県観光協会香川県ウエイ企画森田さん、Benoitと香川県食材を繋いでくれている鹿庭さんのお力添えが欠かせませんでした。この場をお借り、深く御礼申し上げます。

 

 立秋を迎え、暦の上では秋が始まっています。しかし、まだまだ猛暑な日々が続くようです。自分の体力を過信し、無理な行動は禁物です。十分な休息と睡眠、こまめな給水と塩分補給をお心がけください。木陰に入り、葉の間を抜ける心地よい薫風(くんぷう)、陽射しにきらめきながら重なり合う結び葉、なんと美しい光景かと夢心地となるも良いですが、夢の(意識の無くなった)世界から抜けることができなくならないよう、ゆめゆめお忘れなきようにお気をつけください。

 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com