kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

季節のお話「柞(ははそ)に想うこと」

 「雑木林(ぞうきばやし)」とは、落葉広葉樹で構成された人が作り上げた林のことです。整備された庭園とは違い、樹は薪(まき)や炭としての原材料となり、落ち葉は農産物の肥料として堆肥へと活用されるばかりか、降り積もることで、豊かな土壌を形成することになります。江戸時代、広大なススキ原に植樹して作り上げたのが「武蔵野の雑木林」だといいます。江戸っ子にとっては、生活するうえで欠かすことのできない資源となっていたはずです。

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 この雑木林を形成する樹々の中で、身近なものといえば、コナラとクヌギです。その果実は総称して「ドングリ」と言いまとめ、

 子供の頃にドングリ拾いを大いに楽しんだのではないでしょうか。我々が食べることはないですが、小動物にとっては貴重な食資源であることは、今も昔も変わりません。ドングリ拾いの際には、振ってからからと音がしないかご確認ください。音がするドングリには、すでに住み家としているハイイロチョッキリがいるかもしれません。

 このコナラとクヌギに、ミズナラを加えた樹々を総称して、古人は「柞(ははそ)」と呼んで親しんでいたようです。雑木林に限らず、其処彼処で出会うことのできる樹々。晩秋ともなると見事な黄葉の姿で我々を魅了します。銀杏(いちょう)の黄葉とは異なり、控えめな緑がかった黄色となり、葉が枯れ落ちる前には明るい茶色へ。この色の移ろいが同居する姿を目にすると、惜秋の念に包まれます。

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 晴れ澄み渡った空にもかかわらず、はらはらっと肌に感じる軽やか雨を「時雨(しぐれ)」と言います。湿気のある風が山にぶつかり、雨粒を落とす。それが風に乗って晴れている地にもたらされるもので、盆地のような地理的環境が整っていないと、なかなか出会えないものです。京都の「北山時雨」などは、ぜひとも体験したいものです。

 万葉の時代から読まれ続けているこの時雨も、なかなか出会えないがために、やっかみが加味されたのでしょうか。時代とともに少しずつ意味合いを変えてゆき、冬の小雨のことを時雨と表現するようになり、初冬の季語としての確固たる地位を確立しました。

 後撰集の中に書き記されたこの一首、「神無月ふりみふらずみ定めなき時雨ぞ冬の初めなりけり ~詠み人しらず~」は、時雨なのか小雨なのか、詠み人しらずなだけに、確認しようもありません。しかし、この秀歌によって、名言が生まれたのです。

冬は時雨から始まる

 

ははそはら 染むる時雨も あるものを しばしな吹きそ 木枯らしの風  藤原経家(つねいえ)

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 晩秋から初冬にかけて、彩りを見せる「黄葉」に「紅葉」。古人は、時雨が葉に≪染み入る≫ことで、色付くと考えていたようです。生地を染色する際に染料に浸すことを、「一入(ひとしお)」といいます。時雨が幾度となく降り重ねることで、黄葉・紅葉へと色濃く深い色合いへと葉を染めあげるかのよう。この時期の雨を「八入(やしお)の雨」と呼ぶには、このような理由があるのです。

 「柞(ははそ)が生い茂る野原に、木立を一入一入と染めるかのように時雨が降っているではないか。柞の黄葉が染め上がるまで、しばらくは吹かないでくれ、木枯らしの風よ、聞いているかい?」とは自分の勝手な解釈です。≪染(し)む≫は≪初(し)む≫かもしれません。ともすると、黄葉したての早い時期、翠色濃い葉が、時雨にあたり葉一枚の所々が黄葉している姿を詠ったのでしょうか。

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 今でこそ馴染みのない「柞」ですが、かつては身近な存在であり、多くの歌人に、黄葉の移ろいの美しさをもって晩秋から初冬にかけての趣きを教えてくれていたようです。万葉の時代は、樹々の葉が色を変えることを「もみつ」(動詞)といい、これが名詞のかたちをとり「もみち」なのだといいます。

 この時代に「ひらがな」は誕生しておらず、万葉仮名は漢字の音読みを利用して書き記されています。≪もみつ≫は≪毛美都≫や≪もみち≫は≪毛美知≫と。しかし、古人の美的感覚はこれを許さなかったのでしょう。≪もみつ≫は≪黄変≫や≪もみち≫は≪黄葉≫と書き残しているのです。≪もみぢ≫が≪紅葉≫を指し示すようになるには、平安時代まで待たねばなりません。

 自分がこの≪柞≫という漢字と出会うも、≪ははそ≫などと読めたわけではなく、もちろん調べたことは言うに及ばないでしょう。その最中、以下の一句に出会いました。偶然なのか必然なのか?

 

散らすなよ 老木(おいき)の柞 いまひとめ あひ見むまでの 露の秋風  正徹(しょうてつ)

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 「露」とは、空気中の水分が夜半の冷え込みによって地上の物体の上に水滴となって表れたもの。「朝露」は、陽が昇るにつれて消えてしまうため、無情ではかないものの比喩。「無情な秋風よ、老木の柞の葉を散らさないでくれ。今ひとめ対面しようと約束している、その日までは。」と、秋風に願っているのか。はたまた、「老木の柞よ、今いちど出会うまで葉を散らさないように頑張ってくれ。吹いているのは、それぐらい虚しい秋風なのだから」と、老木の柞を鼓舞しているのか。

 31文字の中に、正徹はどれほどの想いを込め、組み立てたのでしょうか。素直に受け止める自然や感情の機微に感嘆を覚え、識者があれやこれやと分析し解説することで、さらに歌の輝きが増す。これが秀歌であり、時代が変わってもなお輝き続けている理由なのでしょう。

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 ところが、この一句にはさらに深い意味が込められているといいます。「柞」という言葉には、語頭の2音、「は・は」が同じ読みであることから、「母」に掛けられて詠まれているのではないかというのです。そう考えると、この一句が「母の延命」を願っていたのではないかと。正徹が詠んだ時が、どのような状況であったかは知る由がありません。しかし、母と別居していたのであれば、今ほどの交通の便がないからこそ、いつ会えるともしれない中、今いちど会うまでの延命を切に願ったのではないでしょうか。

 今では、飛行機や新幹線といった交通網が日本全国に張り巡らされることで、物理的な距離は変らずとも、気持ちの上では大いに縮まりました。さらに、携帯電話の普及は、時間を問わず相手との意思疎通を可能とし、インターネットにいたっては地球規模です。昔と比べて飛躍的に進んだ技術は大いに生活を便利にそして豊にしてきました。それと同時に、古き良き「人間関係」を失っていった気がいたします。「いつでも会いに行ける」という錯覚が、「いまひとめ あい見む」感覚を希薄にしたような気がいたします。

 偉そうに言う自分も見失った一人です。母親から最後に教わったことは、「機会を見誤るな」でした。必要な時に必要なコミュニケーションをとること。いい歳になってもなお足りないことを教わるも、「いつでも会いに行ける」という心に隙があったがために、感謝を伝える最後の機会を逸しました。

 かつて、自分からの「ご案内(長文レポートと呼ばれています)」を受け取っていただける方から、「終焉を迎える前のお礼」が届きました。余命宣告を受け、どれほど苦悩したかは、想像を絶するものでしょう。その後も継続して手紙を送り続けたのですが、なんとか自分の気持ちを失礼の無いようお伝えしようと模索している最中に、訃報を受け取ったのです。あれほど母親から叱責を受けながら、「いつでも連絡できる」という思いから、またしても同じ過ちをおかしました。

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 どんなに努力したとしても、後悔しないことはありません。しかし、今一度「できること」を再確認し、機会を見誤らないようにすること。仏教では「生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり)」といい、その言葉の通りの世の中の無常観を言い表しています。いつの時代にあっても、この考えは変りません。便利になることで希薄になりがちな「人間関係」を忘ないように、そんなメッセージを正徹の秀歌に込められている気がしてなりません。

 コロナウイルス災禍により希薄となっている今だからこそ、今までを振り返りながら自らを省み、新年に同じ轍を踏まぬように心に刻みこもうと思います。皆様も、ご家族をお世話になった方々への想いを考えるのも良いかもしれません。タイミングを見計らい、お礼の手紙や電話をするのもいいかもしれません。皆様にとって大切な「機会を見誤らない」ことを切に願っております。

 

≪「歳暮(としのくれ)特別プラン」他、12月のご案内です。≫

「美しい(令)」季節の冬食材が「和」する料理の数々。これを美味しく食べることで、人は笑顔になり、体の内側から湧き出でる力となる。そして、我々をウイルス災禍から守ってくれることでしょう。「口福な食時」のひとときこそ、我々の心身を活力ある本来の姿へと導いてくれるのです。

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12月特選食材のご案内です。≫

太陽の恩恵を十二分に受け、風味豊かに育ったものこそ、旬の食材であり、美味しいばかりではなく、いま我が欲している栄養をも持ち合わせています。2020年冬の特選食材をご紹介させていただきます。

kitahira.hatenablog.com

 

一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com