kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

「山内鮮魚店さん物語」のご案内です。

 素人なために右往左往と失敗を繰り返しながら、日本各地に眠る「特選食材」探しを始めて5年ほどになるでしょうか。タッチパネルに触れることで発注が終了する昨今の時代にあり、アナログですが必ず「人との出会い」があり、これが特選食材を導いてきたのだと考えています。

 今まで多くの食材をご紹介してきました。しかし、「距離」という障壁が高く、いまだ願い叶わず面と向かってのお会いしたことの無い方々ばかりです。電話やメールで話をし続けていることで、あたかも会ったかのような錯覚にとらわれ、勝手にイメージ像を作り上げてしまう自分がいます。お会いできないことは寂しい気もしますが、この想像することは、なかなかに面白いもの。実際にお会いしたとき、実像と虚像が錯綜する時もあるほどです。

 

 今回の特選食材との出会い。自分が南三陸町に知り合いがいたわけではありません。日頃より並々ならぬご愛顧を賜っているお客様の一言が、この出会いを導いてくれたのです。「私の姪っ子が、インターンシップでお世話になった鮮魚店が南三陸にあるのですが」と。この出会いが、南三陸町に本店を置く「山内鮮魚店」さん「南三陸のマサバ」という特選食材をBenoitへ導いてくれました。

 残念ながら、山内鮮魚店さんとはまだお会いできておりません。しかし、自分と山内さんとを引きあわせてくれた立役者である、姪っ子である佐藤奏音さん(以下、佐藤さんと表記いたします。)とお会いできたのです。彼女の力を借り、皆様に南三陸町と山内鮮魚店さん物語を語らせていただこうと思います。と、その前に、少しばかり佐藤さんをご紹介させていただきます。

 中学から高校卒業までの期間、人生においての多感な時期をアメリカで過ごしていた帰国子女で、19歳ながらベテランOL並みの社会人力があると笑いながら伯母様より伺っておりました。ご紹介いただいてから、佐藤様とメールのやり取りが始まることで、伯母様のいう「ベテランOL」という評価に納得させられます。メールの文章に歪みがなく、美しかったのです。遠い記憶となった自分の若かりし頃を思うと、なんという「日本語力」なのだろうかと。

 Benoitでお会いできたときが、まさに実像と虚像が錯綜した時であり、なんとも可愛らしい快活なお嬢様でした。彼女が、自分に送ってくれた文章を書いたのか!という思いもつかの間のこと。百聞は一見に如かずとはよくいうもので、すぐに彼女の才覚に、「なるほど」と納得する自分がおりました。

 

 「私は2018年の2月に復興庁が行っている≪復興創生インターンシップ≫に参加し、初めて南三陸に足を運びました。」と切り出した彼女のレポートには感嘆というよりも感服する思いです。日本に帰国し大学生となった今、震災後に渡米していたこともあり、自分に何かできることがあるのではないだろうかと考えるようになったのだといいます。そして、知人のいない地で何かしてみたいという気持ちが働き、選んだ地が南三陸町、場所が「山内鮮魚店」さんでした。

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 以下は、佐藤様のレポートから転載させていただきます。

 インターンに応募した際、「山内鮮魚店」という名前から、まっさきに脳裏に浮かんだ光景は、胴長エプロンに長靴といういでたちのおじさんが魚を捌(さば)いているというものでした。そのため、南三陸へ向かう準備をしているときも、「長靴が必要だったりするのかなあ…」と。

 しかし、いざ出社してみると、あらびっくり。1階が作業場で、2階がオフィスになっており、私が想像してたような場所が、あるにはあるのですが、ほんの一部でしかなかったのです。2階はきれいなキッチンスペースとワークスペースが広がるモダンなオフィス。想像する田舎の会社とは全く違う、そのギャップに驚きを隠せませんでした。

 インターンでのミッションは、「30~50代女性をターゲットに、ココロとカラダが喜ぶ商品を開発せよ!」というもの。思案する中で、インターン生だけでは分からない部分や、意思決定できないこともありました。その都度、丁寧に教えてくれるスタッフの皆様。この社風ともいえる優しさに満ちた環境がとても嬉しかったです。

 さらに、私たちが発案した企画が現実的に厳しくても、ただ「無理」というのではなくて、「なぜ」無理なのかをきちんと説明して下さったことは、私たちをお客様とは考えず、同志として受け入れてくださった証であったと思います。スタッフの皆様のご期待に応えねばとの想いが募り、すぐに次の行動に移せたのだと思います。

 他企業では、会社側とインターン側のミスコミュニケーションなどで、ミッションが進捗せず、完遂できずに終了してしまうケースもあったといいます。しかし、山内鮮魚店では、スタッフ皆様のご尽力もあり、佐藤さんは「牡蠣とパプリカのピクルス」の商品化にこぎ着けました。そして、彼女の意思を継承してくれた山内鮮魚店の皆様が、さらなるバリエーションを生み出し、今も販売されています。

 インターンの皆様は、志はあるものの、やはり経験不足は否めません。しかし、余計な経験がない分、自由な発想が可能なはずです。この柔軟考えをくみ上げ、試行錯誤を経由して、ひとつのものを共に仕上げることは、社長がワンマン経営を行う地方の企業の中では、稀有な存在だといえるかもしれません。

 インターンシップという短い期間ではりますが、内側から見た彼女の見立てでは、主要なスタッフが個々の役割を重責をもって担っているのだといいます。社長は会社の「顔」として店頭に立ち、魚介の競りや素材の購入を担う人、ブランド戦略や広告宣伝を担う人、店舗運営などなど、各々がどっしりとした柱の如きに山内鮮魚店を支えているのです、とは佐藤さんの話。

 山内鮮魚店さんの雰囲気を感じ取っていただいたところで、PRを担う山内淳平さんからのメッセージを転載させていただきながら、少しばかり詳しくご紹介させていただきます。

 

 山内鮮魚店(社名:株式会社ヤマウチ)は、今を遡ること70年ほどの昭和24年、先代の山内正一(やまうちしょういち)さんが宮城県北部の港町「南三陸町(旧:志津川町)」に鮮魚店を構えたことから歴史は始まりました。

 まだまだ漁獲量の少なかった時代だけに、鮮魚だけではままならず、精肉や納豆などをも仕入れ、魚介の水揚げがない夏には、アイスキャンデーをもリヤカーに積み込み、何十キロも離れた隣町へ、毎日のように行商に赴いていたようです。先代正一さんの並外れた体力は、山内家の語り草となっているといいます。

 戦後、日本が高度経済成長を迎えるにつれ、東北の小さな港町もやがて活気づいていきます。 法人化した後もしばらくの間、実店舗本店に掲げられていた看板には「魚と肉の山内」と書かれていました。話を伺った山内淳平さんも子供のころ、焼魚と精肉を自転車の籠にのせ、配達の手伝いをしていたことを思い出します、と感慨深く語ってくれました。

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 南三陸魚市場で使われている彼らの「屋号」です。南三陸では山内鮮魚店でもなく、ヤマウチでもなく「マルニ」の愛称で呼ばれているそうです。

 山内鮮魚店が皆様にお届けしたいものは、「商品」ではなく、口にした時の「感動」である。荒波の中、生産者が大切に育てた海産物や、荒れ狂う沖で、漁師が必死で水揚げした鮮魚は、得も言えぬ感動の美味しさである。それらを「確かな品質」で選別し、責任を持ってお客様にお届けすることが彼らの使命だと考えた。そこで着想したのが、通信販売事業でした。

 1990年ほどから始めた、この新事業。もちろん右往左往しながら、幾度となく挫折を味わったことか。それでも彼らは諦めなかった。星の数ほどもある海産物の店舗が日本にある中で、山内鮮魚店さんを選んでいただけたことへの「感謝」の気持ちが原動力となり、彼らをして「断念」という言葉はなく、「継続」へと導いていったのです。

 彼らはお客様が「笑顔」になっていただくことを夢見て、スタッフ一丸となり試行錯誤を繰り返し続けたことが功を奏し、右肩上がりの営業成績を残すまでに。同じような悩みを抱える、他地域の耳目を集めるまでにいたります。順風満帆に思えた日々ですが、1日にして全てを失うことになります。

 

まだまだ記憶に新しいのではないでしょうか、2011年3月11日「東日本大震災」。

 地震発生直後、社員一同に帰宅と高台への避難の下知がくだりました。皆で助けないながら、志津川中学校へ避難した数分後に、想像を絶する高波が街を飲み込んでいったのです。迫りくる津波の大きさに言葉を失い、のまれゆく馴染みの街並に、ただただ言葉を失うのみ。この大地震による甚大なる災禍によって、尊い人命はもちろん、店舗をふくめすべてを失いました。受け入れ難い目の前の光景に、悲鳴に近い声があがり、人々は「絶望」に包まれた。

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 あまりにも大きな「絶望」は、津波が引いた後も癒えることはありません。時間の経過とともに、得体のしれない「不安」にさい悩まされてゆきます。全てを持ち去った海への恨みつらみは、計り知れないほどのものだったでしょう。なぜ?どうして…幾度となく天に向かって問いただすも、答えなどが導かれるものでもない。現実を受け入れるしかないことは分かっているけれども…

 何をどうしたらよいかの分からず、ただただ山内鮮魚店さんのスタッフは、がれきの山と化した店舗や工場を、一心不乱に片づけていたのだといいます。何をどう片づけたのかわからない、ただ何か行動に移していないと、絶望に押しつぶされてしまう。

 「どうしたらいいのか?」、こう自問自答する日々の中で、少しずつ冷静さを取り戻してくる。今までの努力が無と化しことによる虚脱感から、なぜ山内鮮魚店を盛り立てて頑張ってきたのか?と。脳裏に浮かぶ彼らの経営理念。山内鮮魚店が皆様にお届けしたいものは、「商品」ではなく、口にした時の「感動」である。荒波の中で大切に育てた海産物や、荒れ狂う沖で漁師が必死で獲る鮮魚を、我々が届けずして誰が届けるのか?

 山内さんご家族は、山内鮮魚店の原点に戻り、再興することを決意します。同年8月に、高台に実店舗を再建します。この時を待っていたはずです。震災以前に共に働いていた仲間が、それぞれに家庭の事情がある中で、半数近くが戻ってきてくれたのです。そして、待っていたのはスタッフだけではありませんでした。地元の皆様の熱い要望にお応えするように、2012年2月には、南三陸さんさん商店街に2号店を開店いたしました。

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 南三陸では、お正月の神棚飾りとして、宮司さんが氏子の皆様に、半紙を縁起物に切り抜いた紙飾りを配るのを慣わしとしています。これは「きりこ」と呼ばれ、神社ごとに伝わるデザイン(型)はそれぞれ違うものだといいます。昔は、神棚にお米やお酒を毎日お供えできないため、お餅やお酒の形をした“きりこ”を飾っていたのだといいます。

 山内鮮魚店の皆さんは、尊い命を奪い、南三陸町の全てを持ち去った海に対し、怒りともとれる許容しがたい気持ちでいる。その反面、今まで南三陸を育んでくれた海の恵みへの感謝の気持ちもある。きっと、南三陸に居を構える皆が、同じ思いであるはずです。この葛藤の深さは、自分には到底及びようもないもの。思い悩み続け、やはり南三陸と共に生きると決意するに至ります。彼らは、山内鮮魚店跡地に、板を切に抜いた「きりこボード」を立てました。

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「笑顔をたやさず、海とともに生きる。」

 町を背にして、海に向かって立てられた「きりこボード」。亡くなられた方々への追悼の想いと、復興にかけるメッセージがここに込められています。

 

 「震災後、様々な人々から本当にたくさんのご支援をいただき、当店もようやくここまで辿り着く事ができました。どれだけ感謝してもしきれません。あの日、避難した中学校の高台から見た光景は、今でも鮮明に焼き付いて離れません。ただ、被災したのは私達だけではなく、私達はひとりじゃない。何十年と続く復興への道のりを、みんな共に歩み、心から笑顔になれる未来を目指して進んでいきたいと強く思っています。南三陸を代表する会社として、被災した一人の人間として、しっかりと前を向き、笑顔で歩き続ける事が、ご支援いただいたすべての方への恩返しだと思っております。」山内鮮魚店店長 山内恭輔(株式会社ヤマウチのHPより)

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 「東日本大震災から間もなく9年を迎えようとしています。町は綺麗に整備され震災当初の面影は、何処にも見当たりません。町は、どんどん元気を取り戻しつつあります。これも震災直後から今に至るまでたくさんの方々の応援やご支援があったからだと思っております。社員全員が、この感謝を胸に仕事に励んでおります。

 

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 今回、震災後にいただいた多くのご縁のおかけで、(Benoitへ)南三陸の魚をお送りすることができております。新鮮な南三陸の海の幸を提供してすることしかできませんが、ご支援いただきましたことへの少しでも恩返しとなることを願っております。そして、南三陸の魅力を感じ取っていただけると幸いです。」山内淳平

 

 かような山内鮮魚店皆様の元でのインターンシップが、佐藤さんにどれほど響いたことか。「南三陸で過ごした日々は決して長くはないですが、時間以上に濃く、充実した思い出ばかりです。自身でもびっくりするくらい、南三陸は私にとって特別な場所で、そこにいるだけで幸せ、笑顔になれるくらい魅力的な町です。」と言い切るほどです。

 見ず知らずの、大学1年生の女性の意見に耳を傾け、アイデアを募る。一蹴することなく、不可能なおときには丁寧に説明をし、少しでも可能性を見出した時には、実現へと歩を進める。この「やってみよう精神」は、どうやら、南三陸町の特徴のようで、毎月開催される商店街のイベントなどに、その片鱗をみることができます。

 さらに、南三陸町の皆様が「welcoming(快く迎え入れてくれる?)」で、距離が近いのも、この街の魅力の一つだといいます。佐藤さんが振り返った時、志を持って訪れたとはいえ、知らない大人たちに囲まれながら、よくも1か月もの間を、楽しく過ごしたものだと。彼女の当時の日記には、「1か月はこんなにはやいの?」やら「帰りたくない!」の文言が多数見てとれるといいます。

 「津波は本当にたくさんのものを奪っていったけど、同時に良いことも運んできてくれた。」彼女の心に響いた、南三陸町の人々の言葉です。甚大な被害をもたらした海を受け入れ、その地で生きることを決意した人々だから言える、深い言葉だと彼女は感じています。「震災後、多くの人々が被災地に足を運び、新しい関係性を築いてきた経験があるからこそ、新しく入ってきた人とも距離が近く、また入ってきた人も自分が”歓迎”されているような気になれるのではないでしょうか。」と。

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 今回、様々なご縁のおかげで、このように山内鮮魚店とBenoitが出会い、皆様に南三陸の海産物の美味しさの知っていただく機会をいただけましたこと、心から嬉しく思います。いただいた彼女のレポートには、そう最後に書き記されていました。

 

東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな  菅原道真

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 菅原道真藤原氏との権力闘争の末に敗れ、太宰府に左遷されるときに詠った、あまりにも有名な歌です。栄枯盛衰は世の常とはいえ、道真の恨みつらみはいかほどのことか。無念の思いで、太宰府へ旅立ったのが、901年のこと。そして、903年に失意の中でこの世を去りました。享年59歳。

 道真が没後、彼を追い落とした藤原時平が39歳の若さで命を落とし、京では異常気象による旱魃(かんばつ)や飢饉が続発したのです。さらに、没後20年には皇太子である保明親王が、さらに左遷を決めた醍醐天皇が急死するのです。もはや、道真の怨霊であると確信するにいたり、947年には京都北野にて天満天神として祀られることになります。道真の霊を鎮める「御霊会(ごりょうえ)」は政府主導で行われました。

 道真の怨霊は、時とともに解釈が変わっていきます。菅原氏が、多くの学者を輩出したことから、「学問の神様」へ。皮肉なことに、政敵であった藤原氏によって神様へと祀られていくのです。そして、藤原氏が没落してゆくにもかかわらず、道真は神様として、今なお受験生たちから絶大なる支持をえているのです。

 国学者の方々や、古文の専門家の方々からお叱りを受けるのは承知のうえで、31文字という短い文章だからこそ、読み手によって多くの解釈があっても良いのではないかと思う。

 では、ご紹介したこの一句は、恨みつらみから、このように読み取りたい。「毎年訪れる春を告げるかのように梅の花が咲き誇る。まるで、春風に誘われるかのように一輪一輪と順に花開き、そして風に梅の香りを運ばせる。どんなにつらい頃があろうと、必ず春は訪れることを忘れてはいけない。」と。その通り!と言わんばかりにメジロも熱い視線を投げかけてくれている。

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 今期は、漁獲量が回復せず、厳しい日々ではありましたが、何分自然が育むものだけに、我々がとやかく言うべきではありません。「南三陸のマサバ」をきっかけに山内鮮魚店さんと出会うことができました。これで終わりではありません。5月予定の「ホタテ漁解禁」を迎えることで、新たな局面を迎えることになるのです。皆様、ご期待ください。

 

最後に少しだけ加筆させていただきます。

 2019年11月末に届いた1通のダイレクトメール。「グローバル人材」と銘打った論考に心を奪われました。もやもやとした曇り空から、陽が差し込んだかのように。なるほど、と幾度となく読み返す自分がいました。この筆者は、「世界に誇れ、世界で戦える日本を創る」ことを標榜し、同志とともに「青山社中株式会社」を立ち上げた筆頭代表の朝比奈一郎氏です。今回は、朝比奈氏に、お願いし引用させていただきました。以下、そのまま転載させていただきます。

 「グローバル人材」と書きつつ、つらつら思うことは、意外にその定義が曖昧だということである。短絡的には、「英語が出来るなどして、海外で通用する人」ということになるが、何かそれも違う。英語に堪能で、アメリカ企業で活躍できる人というだけなら、それは単にアメリカ人なだけだ。誤解無きように書いておくが、そういう生き方を否定しているわけではなく、むしろ、自分には出来ない生き方として尊敬しているくらいだが、「グローバル人材」という定義にはそぐわない気がするということだ。

 相手のこと、具体的には、相手の言葉はもちろん、文化や民族的志向の特性などを深いレベルで理解するということと同時に、何か、自分なりのスタンス、特に出身国・出身地の文化を色濃く反映する形で自分の在り方を打ち出すということが、真に「グローバル人材」と定義する際には要件として必要な気がするのは私だけであろうか。平たく言えば、英語がペラペラと話せることに加え、否、それ以上に、「お前は日本人として何者なのか、何がしたいのか」ということが「グローバル人材」には問われるのではないかと思う。

 さあ、このメールを目にした時、Benoitで「南三陸産のマサバ」をBenoitで自慢していただけに、真っ先の脳裏に浮かんだ人物が、佐藤さんでした。確かに、朝比奈氏の意味する「グローバル人材」には、まだまだ至らないかもしれません。いや、分からない、そうとも言い切れない。今の段階で決めつけることはできません。

 どの言語であれ、母国語となるには美しい国語力がなければ、いかに多国語に精通していようとも、表面的なバイリンガルであるに過ぎない。コミュニケーションの芯となる母国語の基礎がしっかりしていることは、他の言語での言葉一語一語に重みを与えることになり、そこに人を説得する「力」が備わるのだと。そして、多くを学び経験し、自分が何をすべきなのかを見出した時、そこにグローバル人材が誕生するのでしょう。

 最初に受け取った彼女からのメールから読み取る日本語力。中・高校生の時期をアメリカで過ごすことで、馴染みの言語となっている、この英語力。この類稀なる能力を兼ね揃えているところに、インターンシップという経験が加味されました。彼女にとってまだまだ経験不足であることは否めませんが、この経験は、彼女に何かテーマを与えたのかもしれません。

 「私が南三陸を好きになったキッカケはもちろん、ヤマウチでインターンを経験させていただいたからです。ヤマウチの理念や、社員さんを知る中で会社自体に惹かれ、こんな会社がある町は良い町だろう!」、そう確信しているといいます。この南三陸愛を大切にしながら、彼女は大学生活に戻っても、日本各地の地域と関わるNPOで働き続けています。

 「お前は日本人として何者なのか、何がしたいのか」、彼女自身が気づきはじめたのではないでしょうか?今後ますますのご活躍を信じて疑いません。

 

いつもながらの長文を読んでいいただき、誠にありがとうございます。

末筆ではございますは、ご健康とご多幸を、青山の地よりお祈り申し上げます。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com