kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

古典「平家物語」を少しばかり

めづらしや 垣ねにうゑし すはえぎの 立ち枝に咲ける 梅の初花  源仲正(なかまさ)詠

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 梅の樹は、主幹となる、太い本体となる幹から梢(こずえ)と呼ばれる細い枝を垂直に天を目指すかのように多く伸ばします。それも思いのほか多く。そのため、剪定をしなければ、見るも無残な樹形へと変貌してしまい。対する桜の樹は、剪定を行うと、樹が枯朽してしまいます。そこで生まれたのが、「桜伐(き)る馬鹿 梅伐らぬ馬鹿」です。この梅のひゅんひゅんと伸びる梢を「すはえぎ」と呼ぶようです。今では、梅に限らずこのような枝のことを「ずわえ」と。

 専門家ではないので、自分の考えが間違えているかもしれないことを念頭に。華道の世界では、流儀によって異なることと思いますが、枝と枝とが交錯する様を禁忌とすし、細い枝を垂直に押し立てる「天指す枝」を忌み嫌うのだといいます。これを活ける際に、「見切る」のです。ところが、梅のみは例外で、まっすぐ伸びた「すはえぎ」を1本か2本、天を指すように曲枝と交差するように活けるといいます。このほうが、花型に梅らしさが生じるのだと。完璧な整形には美は宿らない。梅の樹の剪定には、細心の注意を払わなければならない。華道の達人をも唸らす「見切る」技を要する、きっと職匠もそう心得ているはすです。

 さて、冒頭の仲正詠へ。剪定された「すはえぎ」は、立ち入り禁止を伝えようと「垣ね」としてご本人が植えたのか、はたまた誰かが植えたのか。地に挿して垣ねとして立ち並んでいる「すはえぎ」が、通常であれば枯死しているはずなのに、芽吹きいるではないか。品種改良していない梅の樹は、「白梅」が先に花開きます。きっと、初花とは白いはず。立ち入り禁止を意図する「すはえぎ」に、人を惹きつけるかのように花開く白梅だった。

 平治の乱でと刃を交えた源義朝平清盛に敗れ去り、彼を父に持つ源頼朝は、まだ幼子であったため伊豆へ流されました。後に、彼が平氏を滅ぼし鎌倉幕府を開府することになろうとは、微塵にも感じなかったことでしょう。この戦によって、平清盛時代の寵児となり、平氏の興生を導きます。その勢いは孫の安徳天皇が即位するまでにいたり、これを機に、後白河天皇の第三王子である以仁王(もちひとおう)が清盛打倒に動きだします。以仁王が頼りにしたのは頼朝とは別の流れをくむ源氏、源頼政(よりまさ)でした。源頼政が、諸国の源氏に以仁王(もちひとおう)から手に入れた令旨(りょうじ)を回覧、天下を掌握する平清盛を打倒しようと立ち上がったところから、源平の争乱は始まったのだと言われています。

 「以仁王の挙兵」にて散った頼政は、文武両道の賢才な人物だったようで、平氏側には寝耳に水のごとく。平清盛によって官位を得ていくという厚遇を受けながら、平氏の横暴に耐えかねたのか。真相は頼政にしか分かりません。その頼政の父親が、冒頭の歌を詠んだ仲正です。立ち入り禁止の垣根に、人を誘(いざな)う白梅の花。花は以仁王の誘いであったのか。誘いに乗ることで、身を亡ぼすことを予見していたのか。親だからこそ感じ取った頼政の行く末を、懸念して詠んだものなのか。歴史を知ることのできる後世だからこそ思う、意味深長な31文字。

 

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声 諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり 沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色 盛者必衰(しょうじゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす。」

 この有名な語り出しで始まるのは「平家物語」。平清盛の生涯ではなく、平氏の栄華と没落までを描いた物語です。多少の脚色はあるものの、要所要所で出演してくる多才な主人公に、そして人情に惹き込まれてしまう、見事なまでの生き生きとした語り口。この物語の後半は、「以仁王の挙兵」は失敗に終わりましたが、これによって始まった治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の乱、そう、源平合戦の火蓋が切って落とされたのです。

 数々の戦の中での人間模様、葛藤や死生観を描きながら、京都から西へ西へと向かう。そして、源平最後の合戦となる、本州と九州が最も近づく関門海峡の最狭部である「壇ノ浦」へ。関門橋が架かっていますが、総長が約1,000mなので、どれほど狭いかがお分かりいただけるのでしょうか。日本海と瀬戸内海を結び、先には太平洋が広がります。この海峡がどれほどの難所であるかは、皆様のご想像の通り。

 平家終焉を迎えることになる、壇ノ浦の戦いが、どのようなものだったのか。潮流が勝敗を左右したともいわれていますが、定かではありません。全ては遠い歴史の中に埋もれてしまったもの。ただ、平家物語のように、数々の人間ドラマがあったことは間違いないでしょう。

 平家物語が、史実を鑑みながら多少の脚色がんされることで、後世にまで語り継がれる「平家の栄枯盛衰物語」に仕上がっています。個性豊かに描かれた登場人物に惹き込まれる、感情移入してしまい涙腺がゆるむ、そして大いに考えさせられる壮大な物語。この物語は、平清盛が主人公ではなく、あくまでも平家の栄華を築いた一人として描かれ、清盛の死後に平家が転落の道を歩んでゆく源平合戦の模様が、後半を引き継いでいます。

 物語後半に脚光を浴びるのが平清盛の跡を継いだ宗盛と、サポート役に徹した知盛、この平家一門を支えた清盛の息子たちです。1183年、源義仲の進行を受けた宗盛たちは、安徳天皇建礼門院を奉じて、平家一門を率いて都落ちをします。九州、瀬戸内海を転々とし、一時は兵庫県神戸市の、清盛が遷都を画策した「福原」まで盛り返したものの、義経軍の猛攻に遭い、軍事拠点であった「一ノ谷」を失い、そして香川県の「屋島」に築いた御所も追われました。西へ西へと向かう中で、平氏は下関の彦島に陣を張り、源氏を迎え撃たんとします。時は1185年、ついに「壇ノ浦の戦い」を迎えることになります。序盤は海戦を得意とする平氏が有利に戦いを進めるも、時の趨勢は源氏を選びました。

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 平家物語の中では、「壇ノ浦の戦い」を迎える際に、知盛が不安材料を無くすため、怪しい動きのある重能の処分を主張するも、重鎮であるがゆえに宗盛は許しません。結果、壇ノ浦の戦いにて、重能が裏切ることで、源氏方に平氏の作戦が筒抜けになることに。都落ちの際にも、知盛は京都で源義仲を迎え撃つことを主張するも、宗盛は一族討ち死にの危険性を回避すべく、さらに京都を流血の惨事に巻き込まないことを望み、京都を離れます。知盛の冷徹な分析力と積極性のある行動力。対して、宗盛の凡庸さに判断力の甘さ、受動性が、対照的に描かれています。知盛が弟ゆえに補佐役であったことで、類まれなる彼の指導力が発揮されませんでした。そして、宗盛の無能さが平家滅亡を早めたのだと語られています。

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 「壇ノ浦の戦い」の勝敗は決し、敗北を確信した平知盛は、罪作りな殺傷は控えよとの下知を飛ばします。平教盛(のりもり)と経盛(つねもり)兄弟は、平清盛の弟たちで平家を支えてきた重鎮です。二人は碇(いかり)を背負い、手を組んで入水しました。能の「碇潜(いかりかづき)」や、歌舞伎や文楽の「義経千本桜」で、知盛が海に飛び込むときの装いです。その原型が、この兄弟の入水場面にありました。この平教盛の息子である教経(のりつね)は、平家の中でも一二を争う剛の武将、せめて源氏の実質的な指揮官でもあった源義経に一矢報いようと、義経の船に乗り込み詰め寄ります。しかし、ひょいひょいと舟を移り渡り、すでに八艘先へ。これが世にいう「義経の八艘跳び」です。にじみ出る悔しさを隠し、両脇に源氏の兵士を抱えたまま教経も入水します。

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 ≪新中納言知盛卿、小舟に乗って御所の御舟(おんふね)に参り、「世のなかは今はかうと見えて候。見苦しからん物共、みな海へいれさせ給へ」とて、艫舳(ともへ)にはしりまはり、掃いたりのごうたり、塵拾ひ、手づから掃除せられけり。≫戦いに破れしも、平家一門の「心意気」と武人としての「潔さ」が、この行動をとらせたのでしょうか。

 ≪女房達、「中納言殿、いくさはいかにやいかに」と口々に問い給へば、「めづらしきあづま男をこそ御覧ぜられ候はんずらめ」とて、からからとわらひ給へば、「なんでうのただいまのたはぶれぞや」とて、声々にをめきさけび給ひけり。≫ 知盛は、無意味な慰めの言葉などは語らず、ただただ現実を伝えるのみ。二位尼(にいのあま)時子(清盛の妻、建礼門院徳子の母、安徳天皇の祖母)は全てを悟りました。

今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは

 「今だからこそ知りましょう。この身も御裳濯川(みもすそがわ)のある、伊勢平氏の御嫡流であることを。この波の下にも、あなたがお治めになる都がございます」と、満7歳になる安徳天皇に語りかけたという辞世の句です。御裳川(みもすそがわ)は、壇ノ浦へ流れ込む小さな川の名です。そして、伊勢神宮の神域に流れる五十鈴川(いすずがわ)の別名が御裳濯川(みもすそがわ)。漢字一字が違いますが、同じ読み方をします。今滅びゆく平氏一門は、五十鈴川に縁の深い伊勢平氏です。二位の尼時子は、安徳天皇を抱き、三種の神器の剣と神璽(しんじ)を身につけて入水します。そして、安徳天皇の母である建礼門院徳子も後に続きます。

 ≪新中納言、「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」とて、めのと子の伊賀平内左衛門家長を召して、「いかに、約束はたがふまじきか」と宣えば、「子細にや及び候」と、中納言に鎧二領着せ奉り、我身も鎧二領着て、手をとりくんで海へぞ入りにける。≫ ここに治承・寿永の乱最後の合戦となった「壇之浦の戦い」が終わりを迎え、栄華を極めた平家一門が滅亡へとひた向かうことになります。

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壇ノ浦の海岸沿いに「みもすそ川公園」があります。前述した御裳川の河口はこの公園の下を通り関門海峡へと流れ込んでいるといいます。ここに飾られている、源義経平知盛の2体の像。ひらりと身をひるがえし船から船へと飛び移る義経と、碇を担ぎ、義経を無念極まりない目で追う知盛。二人がこのように対峙したかはわかりません。平家物語を見るに、知盛の聡明さは、怒りにまかせて碇を担いで義経と対峙するとは考えられません。平教盛と経盛が碇(いかり)を背負い、手を組んで入水する。教盛の息子である教経が義経を追い続けるも断念を余儀なくされ海へと沈む。知盛も鎧を2領身にまとい、乳兄弟となる平家長とともに海へ入って行く、そう平家物語は教えてくれる。この知盛像は、平氏の無念の想いを一手に担い体現された姿なのでしょうか。

 下関の唐戸市場にほど近い、阿弥陀寺町。名前の示す通り、「阿弥陀寺」が、彼の地に存在していました。江戸時代までは「安徳天皇御影堂」と呼ばれ、壇ノ浦で入水した安徳天皇を仏式に祀(まつ)られ、今でも安徳天皇阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)を見ることができます。

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 さらに、ここには壇ノ浦で敗れた平家一門の合祀墓があり、二位尼時子をはじめ、知盛はもちろん、教盛と経盛、そして教経と名を連ねます。その中に「盛」の付く名前が7つあるため、「七盛塚」と名付けられ祀られています。

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 この阿弥陀寺、残念ながら今はその名は地名のみ。明治政府が神道を国家統合の基幹と定め、神仏分離を画策したことで、過激な「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の動きが活発化しました。そのため、阿弥陀寺は廃されることなるも、安徳天皇を祀っているからこそ、下関に残したい。そう切望する地元の人々が存続を可能としたのでしょう、神社へと変貌を遂げることで「赤間神宮」として存続することとなります。その際に建立された神門は、見事なまでに人目を惹く美しい姿、まさに竜宮城を想わせます。「波の下の都」をお治めしている安徳天皇を偲び、建立されたようで、安徳天皇が水天宮の祭神として祀られていることから「水天門」と名付けられたようです。

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 さて、平家物語壇ノ浦の戦いが最後ではありません。平家の武将たちの最後が語られ、最後は建礼門院徳子の一期(いちご)を終えるところで、この物語は終わりを迎えます。前述したように、安徳天皇二位の尼時子が入水するのを見届け、安徳天皇の母である彼女も後に続きました。しかし、源氏の兵士に引き上げられ、一命をとりとめたのです。生け捕りの20人ほどの男共と40人ほどの女房たちは京都へ送られ、男共には厳しい沙汰が下されるも、女房は皆が無罪放免となります。しかし、もとの絢爛豪華な生活など望めるわけはなく、隠棲し粛々と時を過ごすことになります。愛する我が子を目の前で失いながら、なぜ建礼門院徳子は、自害せずに余生をまっとうしたのか。

 当時、権謀術策うずまく宮廷内において、言われなき嫌疑がかけられ処刑された者、謀反を企て身を亡ぼす者、時代が時代だけに、戦(いくさ)によって命を落とす者も多かったことでしょう。男共は間違いなく短命だったはずです。そこで、残される女房たちには、先だった男共の菩提を弔い、極楽浄土へと導かなくてはならなかったのだといいます。勝手気ままに先立つ男共のなんとも身勝手な言い分か。それでは、残された女房自身は自らの弔いを誰に託せばよいのか?自ら仏に祈り願い続けることでのみ、極楽浄土へいけるのだと。

 建礼門院徳子が全てを失った時、自害したほうがよほど楽だったような気がいたします。しかし、彼女はしなかった。二位尼時子が入水する時に、平家一門の菩提の弔いを託したからという話もあります。彼女が実際にはどのような考えだったのか、まったく分かりません。ただ、平家物語の中の彼女は、死を覚悟しながら自害する勇気がなかったわけではなく、愛する我が子である安徳天皇をはじめ、平家一門の菩提を弔わんがために、生きながらえたのだと思うのです。真相は定かではありません、皆様のご想像にお任せいたします。

 隠棲の中で、仏門に入り、祈りを捧げる日々。平家物語の終巻では、後白河法皇が大原寂光院建礼門院徳子を訪問する「大原御幸(ぎょこう)」の場面を迎えます。彼女は法皇に「六道の沙汰」を涙ながらに説きました。自分の辿ってきた生涯を、生きながら平家の栄華から滅亡までの六道輪廻(天上・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)になぞらえて振り返ってみせたのです。≪さるほどに寂光院の鐘の声≫が日暮れを知らせ、法皇は還幸(かんこう)されました。想いのたけを語れたことで安堵したのか、はたまた古き良き時を懐かしんだのか、涙にくれながら仏様の前で祈りを捧げていた時、山不如帰(ヤマホトトギス)が奏でながら寂光院を飛び去った、そしてこう詠んだのだといいます。

いざさらば 涙くらべん ほととぎす 我も浮き世に 音をのみぞなく  建礼門院徳子

 

 「祇園精舎の鐘の声」から始まった平家物語は、「寂光院の鐘の声」で終わりを迎えました。平家の栄華盛衰を、数々の人間ドラマを通して描いたこの物語は、今なお多くの人々に共感を与え、考えさせられ、色褪せることはありません。そして、建礼門院徳子が最後に六道輪廻を後白河法皇に語る内容が、この物語の総集編ともいうべきもの。そして最後に「ホトトギス」。今では渡り鳥であることが周知されているホトトギスですが、昔々は山にこもり5月頃に里に下りてくるとのだと考えられていました。「ヤマホトトギス」と書くのもこの考えからで、同じ鳥です。この鳥の初音を耳にする時期は田植えの時期なので、そのタイミング教える鳥ということで「時鳥」として親しまれています。この物語では、時鳥ではなく別の漢字で「不如帰」と書き記しています。「不如帰」は「帰ることができない」という意味。最後の最後で、建礼門院徳子は皆様に問いかけている気がいたします。

 

末筆ではございますは、ご健康とご多幸を、青山の地よりお祈り申し上げます。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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