kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

2021年6月 季節のお話「ホトトギスの声音を聞いたのか?聞いていないのか?」

 先日の季節の話は、「ホトトギス」でした。これほど名の知れた鳥でありながら、その鳴き声を聞いた覚えがありません。いや、田舎育ちだけに、聞いていたかもしれません。しかし、まったく興味がないということが、ホトトギス美しい声音を「雑音」と自分の脳みそは判断していたのでしょうか。ネット検索で知ることのできる、その声はリズミカルで、澄んだかのように響き渡り、かくも美しいものかと聞き惚れてしまいます。はて、自分は聞いたことがあるのか?

 古人は、季節を代表する動物や昆虫など、その今季初めての鳴き声を「初音(はつね)」と名付け、季節の到来を知る上での目安としていたようです。ウグイスやセミの声、もちろんホトトギスも。ことホトトギスにかんしては、テッペンタケタカやら東京特許許可局と表現してしまうと美しさを微塵も感じませんが、その美しい「初音」を心待ちにしていたようです。

 さらに、ホトトギスがまだ鳴き慣れていない頃のチッチッチッという声を、「忍音(しのびね)」と呼んでいます。あまりにも親の声音が美しいがために、恥を忍んでん健気に練習しているのでしょう。ホトトギスは、ウグイスなどの巣に卵を産み、そのウグイスの親に育ててもらうという托卵という生態をもちます。ということは、親の鳴き声をまねるのではなく、ホトトギスが持っている本能が、忍音を繰り返すことで覚醒され、あの美しい声音になるということなのでしょう。

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 前回に引き続き、またもや季節のお話で書いてしまいました。そこまで愛着があるのか?と言われれば、確かに電子音ではなく、生で聞いてみたいと切望している自分がいます。それもこれも、前回のホトトギスの話の返信に、「ホトトギスの美しい鳴き声を毎日聞いていますよ」と木村様。そして、「ホトトギスの鳴き声を聞くと、何とも清々しく、静かな気持ちになります。しかし、姿は見たことがありません。」と続く。さらに、偶然にホトトギスの鳴き声を耳にしたという福田様からは、「青葉輝く中で聴くホトトギス、いっときコロナを忘れて、古の歌人の心地を味わえました。」と。

 そうまで人を魅了する声音なのか!なんと羨ましいことか!と思う中、意味の違いが分からずにいた二首の和歌の違いが、なんとなく分かった気がしてきたのです。さてどのような和歌なのかご紹介させていただきます。

 

ひとこゑの おぼつかなきに ほととぎす われも聞きつ といふ人もがな  詠者不明

 この歌は、1256年(建長8年)に開催された建長百歌歌合(けんちょうひゃっかうたあわせ)に出詠された一首です。そして、1311年に後醍醐天皇の王子として誕生し、鎌倉時代後期から南北朝にかけて活躍されていた宗良(むねなが/むねよし)親王の歌が下です。

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ひとこゑは おぼつかなきを ほととぎす われも聞きぬ といふ人もがな  宗良親王

 言葉遊びのような歌で、「盗作か?」とも思ってしまいます。和歌の世界には、さきの賢人が詠み遺した歌を根拠として、意思や意味合いを引き継いで詠う「証歌(しょうか)」という伝統がありました。今のようにネット検索などあろうはずもなく、この証歌として引用するためには、よほど過去の和歌に精通していなければなりません。

 なるほど。歌道の二条家出身の母親の影響もあり、幼き頃より和歌に親しんでいたからこそ、一首目を証歌として宗良親王は詠ったのかのではないかとも思えるのですが…親王が一首目を知っていたからこそ、その意を汲むというよりも、その歌に敬意を表するように、たった3文字を変えることでまったく別の意味の歌にしてしまったのだと思うのです。二首を並べてみます。

ひとこゑ おぼつかなき ほととぎす われも聞き といふ人もがな ①

ひとこゑ おぼつかなき ほととぎす われも聞き といふ人もがな ②

 はて、なんのことやらと思いあぐねるなかで、前述したようにお客様から「ホトトギス」の返信をいただいたのです。さぞや美しい声音なのだろうな、と羨ましく思う自分がいました。その時、濃霧がうっすらと晴れてゆくように、この歌の違いが分かりかけてきた気がしたのです。そして古語辞典を開くことで、光明が差し込みました。

 着目したいのは、詠者が「ホトトギスの一声」を聞いたのか、聞いていないのか

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 ここから、古文法の話なので、さらりと読み流していただきたいです。「覚束(おのつか)なし」とは、「ぼんやりしていてはっきりつかめない」「(長く会わない人などに)会いたい」という意味の動詞です。これの連体形にくっつく接続助詞が「に①」と「を②」です。ともに、意味は「~ので」や「~から」という意味ですが、少しばかりニュアンスが変ります。「に①」は、後に続く文章の起こる原因や理由が「に」の前に書き記される。「を②」は、順接の確定条件を意味し、これで文章は完結します。「われも聞き・つ①」と「われも聞き・ぬ②」は、ともに完了を意味するのですが、「つ」は意志的動作の完了であり、「ぬ」は自然的作用の完了です。「聞いた」のか「聞こえた」のか。

 自分のように昔聞いたかもしれないが覚えておらず、今更ながら聞きたいと切望する人が①の詠者なのでしょう。「ホトトギスの鳴き声を久しく聞いていないなあ、いったいどんな鳴き声だったのか、その声音を聞いて知っているよという人がいてほしいものだ。」となる①の歌。対して、偶然にもホトトギスの声が聞こえた。しかし、「一声だけでは、ホトトギスの鳴き声だったのか他の鳥なのか、なんとも疑わしい。私もそのほととぎすの声音を聞いたという人がいてほしいものだ。」とする②の宗良親王の歌。

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 専門家ではないから正しいかどうかは「おぼつかない」ものです。しかし、素人だからこその浅い知識だからこそ、素直に受け取れることができるのかもしれません。前回のご案内でいただいた、木村様と福田様のメッセージが、導いてくれた自分なりの結論でした。なかなか説得力があると思いませんか?さて真相はいかに、詠者ご本人たちに伺ってみたいものです。

 

 当たり前のことが当たり前ではないこと、今までの日常の日々がいかに恵まれていたことか、コロナウイル災禍が教えてくれた気がいたします。もう十分に痛感したところで、日常の回復に向け第一歩を踏み出そうと思います。今回ご紹介した二首を引用させていただき、Benoitから皆様への「お勧めワイン」と「個室プラン」をご案内させていただきます。以下よりご訪問いただけると幸いです。

kitahira.hatenablog.com

 

 最後まで読んでいただき、誠にありがとうございます。

 今年の辛丑が始まりました。その「辛」の字の如く優しい年ではないかもしれません。しかし、時は我々に新地(さらち)を用意してくれている気がいたします。思い思いの種を植えることで、そう遠くない日に、希望の芽が姿をみせることになるでしょう。

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 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご多幸とご健康を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com