kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

2022年4月 「歴史を顧みながら熊本県天草への旅路≪後編≫」をお楽しみください。

 熊本県天草諸島(以下「天草」と記載)は、県下屈指の柑橘の産地です。温暖な気候に加え、海面の照り返しや浜風、さらに島を形成する丘陵が適度な水はけを約束してくれる。柑橘の産地であることに大いに納得してしまうものです。だからこそ、Benoitは毎年のように柑橘を購入させていただいています。そして、今期は「天草タコ」がメニューに名を連ねるかもしれません。タコ?もちろん、タコの旬は夏なので、今ではありません。

 世界遺産もありながら、知っているようで知らない天草の地。そこで、一般社団法人天草宝島観光協会の助けをお借りし、皆様を少しばかり天草観光への旅心地をお楽しみいただこうかと思います。人が住み良い場所に集落ができ、その人が行き交うことで道ができる。そして、その行く先々に歴史があります。ということで、今回の食材を巡る旅は国道266号線を辿ってみようと思います。

 

 前編では、国道266号線を辿りながら、河浦町で脇道(国道389号線)にそれ、2018年7月に世界文化遺産に認定された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つ、「﨑津集落」を訪問いたしました。

kitahira.hatenablog.com

 後編では、「島原・天草の乱」の歴史を振り返りながら、先へ進んでゆこうと思います。

 

 﨑津天主堂を、背後から望むと、遠く先には羊角湾の対岸の美しい山々。海沿いを歩いた先には、﨑津漁港として港湾が造られています。そこから西へ目を向けた先に、大海原を見据えるようにマリア像が立っています。﨑津の漁師さんを見送り、の無事息災に帰港することを願っている。漁師さんにとっては、どのような灯台よりも、この「海上マリア像」が心を照らし続ける灯(ともしび)たらんことでしょう。

 さあ、国道389号線へ戻り、いざ西へ。この﨑津集落を横切るこの国道は、道路前後にトンネルが穿ってあります。かつては、海路でしか﨑津へいくことができなかったことを、大いに納得しながら先へ進みます。大小6つものトンネルを過ぎると、この国道は北へと向きを変え、海の底には天草灘が広がる大海原を左手に、大江町に辿り着きます。ここには≪前編≫でご紹介した「大江天主堂」を見ることができます。

 海岸線に沿うように山あいの道を北上してゆく。﨑津のあった羊角湾も、海から山がそそり立つような景観でした。しかし、この大江から北上した周辺は、外海だからこその荒波による浸食が著しい岩礁地域。「妙見ヶ浦(みょうけんがうら)」と呼ばれている地の、美しい海と奇岩が織り成す景観は、自然が作り出した造形美であり、圧倒されます。

 国指定の天然記念物と名勝に指定されている地域でもあり、やはり通り過ぎるわけにはゆきません。国道389号から寄り道をして、「十三仏公園」へ。ここから眺める妙見ヶ浦は風光明媚なり。羊角湾とは違った景観をお楽しみいただきたいと思います。

 国道389 号線に戻り、北上を続けます。海を左手に望めるようになると、賑わいをみせる苓北(れいほく)町が姿を現します。この町の西北端に、自然の神秘が生み出したかのような「富岡半島」があります。海の神々の遊び心なのか、波が運んできた砂が堆積した砂州(さす)で、本土と繋がる陸繋島(りくけいとう)。さらに、この遊び心は、細く長く砂が堆積してできた、自然の堤防のような砂嘴(さかく)を造り上げました。

 1604年(慶長9年)に、天草を領有した肥前唐津城主である寺沢広高が「富岡城」を築城しました。半島(上の画像)右上からさらりと伸びた砂嘴。その間が巴湾。この湾の左岸の中ほどの丘の上に築いた山城です。

 「島原・天草の乱」において、長崎県島原の原城に籠城する前に、この富岡城を巡る攻防戦がありました。歴史に「もしも」はありません。しかし、この攻防如何(いかん)では、どのように歴史がかわっただろうか?そう思わずにはいられません。

 

 「島原・天草の乱」は、キリシタンの反乱として世に知られていますが、禁教令に対する反発というよりも、島原城主松倉氏と天草領主寺沢氏の悪政が事の発端です。この2つの領地で共通していることは、キリシタン大名と名高い有馬晴信小西行長が治めていたということです。

 豊臣秀吉の治世に、島原は有馬晴信、天草は小西行長が領有します。1587年に秀吉の「伴天連(ばてれん)追放令」が施行されるも、南蛮貿易の魅力に負けた秀吉は禁教を徹底できなかったため、両大名は宣教師を比護し続けました。そして、日本の行く末を左右する戦(いくさ)が勃発。1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」です。有馬晴信は東軍、小西行長は西軍に。勝敗は皆様の知るところ。

 小西行長の所領は没収され、天草の地は肥前(佐賀県)唐津城主である寺沢広高が領有することになります。飛び地のような所領のため、この天草を治める拠点として築城したのが、前述した「富岡城」です。

 有馬晴信の所領は島原であり、安泰であったはずが、権謀術数に己惚れたのか、自ら謀(はか)られることになります。有馬家の念願である旧領地回復の口利きと、朱印状(偽物)を得たことへの礼として、岡本大八へ賂(まいない)を渡してしまうのです。岡本大八が、江戸幕府老中、本多正純重臣でであること。さらに、長崎奉行の長谷川藤広との確執もありました。多くの要素が絡みあい、晴信は大八の口車に乗ってしまったのでしょう。

 これが「岡本大八事件」として明るみになったのは、1612年(慶長17年)のこと。岡本大八は偽の朱印状を作成した罪で、有馬晴信長崎奉行長谷川藤広暗殺未遂の罪で、断罪されます。有馬晴信の所領は、子の直純へと引き継がれますが転封されることで、島原の地は松倉重正の領地となるのです。

 これで終わらないのが、この「岡本大八事件」でした。断罪された二人がキリシタンであったことに、江戸幕府キリスト教への不信が募っていきます。そして同年、江戸幕府より「伴天連(バテレン)門徒御制禁也」と下知がくだされたのです。そして翌年には「伴天連追放之令」が発布され、禁教令が徹底されてゆきます。「追放」から「処刑」へ、ここに苛烈な「キリシタン迫害」が始まることになるのです。

 

 熊本県公式観光サイトの「ふるさと寺子屋」に寄稿された鶴田倉造氏の寄稿が興味深い。引用させていただきながら、「島原・天草の乱」を追ってゆこうと思います。

 「天草・島原の乱」は、天草を支配した寺沢氏と島原の松倉氏による圧制とキリシタン弾圧がその原因と言われていますが、島原はともかく天草には少し違う事情がありました。小西行長の治世、天草の人口3万の2/3にあたる2万3千がキリシタンであり、60人あまりの神父、30の教会が存在していたといいます。幕府のキリシタン禁教令により、キリシタンの弾圧が激しくなり、1630年(寛永7年)には島民のほとんどが転宗・棄教していたといます。

 歴史教科書では「寛永の大飢饉(1940~1943年)」が記載されていますが、江戸初期には凶作が続き、飢饉へと幾度となく陥いっていたようです。天草の人々は、キリシタンを棄教したことで、天が我々を見放して、天罰を下したと考えるようになりました。そして、天草の其処此処で復宗運動が起こり始めるのです。

 天草の地を領有している寺沢広高、次の寺沢堅高の圧政は、実際の石高の2倍にものぼる年貢であり、農民の不満は募るばかり。さらに、小西行長を含め戦国時代に敗れ去った大名の臣下は、農民として日々を暮らしていました。彼らの無念さはいかほどのものか。そこへ誰ともわからない藩主がやってきての圧政となれば、生きるために一揆止むなしと考えるのは、至極当然のこと。

 生きるか死ぬかの瀬戸際に達したとき、皆の気持ちが一揆蜂起へと向かうことになります。しかし、村ごとで蜂起したところで、規模は小さく鎮圧されることは明白。そこで、皆の気持ちがひとつになるような主導者の必要性を考えていたはずです。この策謀を談義していた地が、島原と天草の大矢野島沖にある「湯島」であったといいます。この島の別名は「談合島」。彼らは、天草で巻き起こる復宗運動を利用しることを画策しました。

 かつて、ポルトガルマカオに追放されたママコフ神父は、信仰を禁止された天草の民へ「25年後、16歳の天童が現れ、パライゾ(天国)が実現するであろう。」との預言を残したといいます。そして、ひとりの神童が大矢野島で産声を上げ、幼さの残る青年となった益田四郎時貞、天草四郎として歴史に登場します。

 1637年(寛永14年)に天草四郎を総大将にたて「旗揚げ」しました。一揆の「蜂起」ではなく、聖杯にクロスが飾られ2人の天使が描かれた旗印のともに集結したのです。もちろん、島原側でも同時期に行動が始まっています。

 天草四郎の軍勢(以下「四郎軍」と記載)が大矢野島から天草上島へと進んだところで、当時富岡城を守っていた唐津藩筆頭家老、三宅籐兵衛が出陣します。しかし、反乱軍の勢いを止めることはできず、ここで命を落とす。

 三宅籐兵衛は、ガラシャ夫人の甥で、肥後藩主の細川忠利の従兄弟にあたる人。まったくの推測ですが、彼はキリシタンに対しては寛容だったのではないか。寺沢広高の圧政による、人々の困窮は目の当たりにしています。天草上島で四郎軍と対峙したとき、藤兵衛は説得を試みたのではないかと思うのです。反乱側に同情するがために…

 四郎軍は、賛同者が集いながら富岡半島まで進み、、富岡城を取り囲みます。城内の唐津藩兵約3千に対し、四郎軍は約1万にも膨れ上がっていました。四郎軍は農民が中心の素人軍ではありません。かつては勇猛果敢に戦場(いくさば)を駆け抜けた武士(もののふ)が指揮している軍団です。しかし、三方を海に囲まれ、難攻不落といわれる「富岡城」を攻め切れませんでした。下の画像は、富岡城址から望む巴湾です。

 四郎軍は、富岡城攻略を諦め、早崎瀬戸を渡り対岸の島原へ。そして、島原で蜂起した仲間と合流した後に、原城へ向かいます。3ヶ月間の籠城の末、大勢の幕府軍に敗れてしまいました。約3万7千にも及ぶ民衆を率い、幕府側の降伏勧告にも屈せず、戦い続けました。原城攻防による四郎軍の生存者は、内通者の一人のみといいます。参加した農民皆がキリスト教を心の拠り所としていることに、幕府に恐怖とも思える大きな衝撃を与えたことは、この後に禁教を徹底したことが物語っています。

 「島原・天草の乱」後は、寺沢堅高は死罪を免れたものの領地没収となり、幕府軍の総大将である松平信綱の信任が厚い、山崎家治が富岡藩主として移封されます。領民がいなくなった村々もあるなか、領地は荒廃を極めている中で、復興に尽力。その後天領となり、代官として鈴木重成が着任。鈴木重辰、重祐と続き、地元では鈴木三公として慕われる善政を行っています。その後、戸田忠昌によって富岡藩が立藩。天草の現状を見かねた忠昌は、富岡城の維持が領民の負担になると考え、三の丸を陣屋として残し、廃城とするのです。後に「戸田の破城」と名付けられました。再度、天領となり、そのまま明治を迎えます。

 幕府は、問題のあった藩には、転封という手法をもって信任が厚い大名に、藩の立て直しを任せます。これは、天草に限ったことではありません。以前にブログで書いた「郡上八幡物語」は、岐阜県の話です。

kitahira.hatenablog.com

 復興の兆しが見えたところで、天領にするというということは、幕府にとって重要な拠点であると判断したのでしょう。そして、なにかしらの不穏な動きを察したのか、更なる可能性を見出したのか、島原藩を立藩することで能力のある大名を移封する。そして、また天領へ。このあたりの理由は、まだまだ調べる必要がありそうです。

 

 もし、四郎軍が難攻不落といわれた「富岡城」を陥としていたら。この砂州が作り上げる地形は、数十万の幕府軍を迎えるには好都合だったのではないか。勝てはしなくとも、長引く戦乱が世相を変えたかもしれない。江戸幕府の300年の歴史が変っていたかもしれない。そう思うと、大げさかもしれませんが、この富岡城の攻防が「島原・天草の乱」の重要なポイントだったのではないのか。そう思えてなりません。

 「島原・天草の乱」で命を落とした四郎軍の首は、3つに分けられ埋葬されました。そのうちの一つが、この富岡城の袂(たもと)にあります。乱から10年後の1647年(正保4年)、鈴木重成の手によって「富岡吉利支丹供養碑」が建てられています。

 

 さあ、歴史の重みを感じつつ、後ろ髪をひかれる思いのまま、国道389号線を進もうかと思います。天草下島の海岸沿いを進みますが、最北端まで辿りつくと国道324号線へと国道名が変わり、進路は南へ向かいます。そして、天草上島へ向かうための「天草瀬戸大橋」の手前で国道266号線と合流し、橋を渡り終えると分岐を迎えます。上島の沿岸南側を通るのが国道266号線、北側は国道324号線です。

 今回は北側の国道324号線へ。この天草上島区間の別名は「天草ありあけタコ街道」です。この名前が全てを現すでしょう。タコの産地であり、干しダコを作るために、天日干ししている光景がほのぼのとした景観を作り出しています。

 さあ、この天草ありあけタコ街道に入るとすぐに、「島原・天草の乱」の天草側の緒戦の地となった、大島子諏訪神社に出会う。さらに進み少しばかり寄り道をすると、正覚寺が姿を見せます。このお寺は、乱の後にキリスト教布教の中心となる「南蛮寺」の跡地に建立されたといいます。先頃行われた本堂改築の際には、IHSと干(かん)十字の入ったカマボコ型のキリシタン墓石が発見されています。

 さらに進むと、この街道らしいモニュメントが目に飛び込んできます。皆様のごタコ(多幸)を願いながら、目指すは大矢野島を挟んで、宇土半島と天草とを結ぶ「天草五橋」です。橋の手前で、国道324号線は上島南まわりの国道266号線と合流し、ここから宇土半島までは、同じルートを辿ります(以下「国道266号線」)。

 

 「天草五橋」は、真珠の養殖が盛んな地域であることに由来し、「パールライン」と呼ばれています。それだけに、橋を渡るとすぐに出迎えてくれるのが「天草松島」の島々。ここの景観が得も言われぬ美しさがあるのです。5号「松島橋」、4号「前島橋、3号「中の橋」、そして2号「大矢野橋」。全てが違った姿で我々を魅せてくれます。

 島々を橋脚のようにして、この4本の橋を巡って辿り着く、大矢野島へ。上陸手前に、左手の島原湾が広がる先に、前述した湯島(談合島)を遠くに望むことができます。右手の八代(やつしろ)海には、大矢野島と橋で繋がる維和島が。ここは、日本の車エビ養殖発祥の地です

 国道266号線をそのまま、大矢野島の中央付近へ向かうと、右手に「天草四郎ミュージアム」が見えてきます。天草四郎生誕の地であり、「島原・天草の乱」の旗揚げの地でもあるのです。

 このミュージアムの道路挟んだ反対側に、道の駅「上天草さんぱーる」が居を構えています。実は自分がこの「上天草さんぱーる」さんと出会わなければ、Benoitに天草の柑橘は届いてはいません。担当の方から伺う話は、興味深い逸品ばかり。今期は12月の「早生みかん」から始まり、4月の「不知火(しらぬい)」と「パール柑」まで購入させていただいております。

 柑橘以外にも、Benoitで購入したい食材として、自分が虎視眈々と機を狙っているものは、「車エビ」と「真鯛」、陸では「天草大王」という地鶏です。車エビに関しては、すでにご紹介した方が購入してくださり、あまりの美味しさに2度目のお願いをしたと伺いました。きっと美味しいのでしょう…実はまだ自分は口にしたことがありません。

 皆様も購入することが可能です。箱単位での購入ご希望であれば、Benoitを担当してくださっている方をご紹介いたします。希望のものをセットで、もしくは少量での購入がご希望の際には、以下より「上天草さんぱーる」さんのHPをご訪問ください。どれほどの特産があるかも紹介されています。

www.sunpearl.jp

 

 パールラインを進み「天草五橋」最後の橋、1号「天門橋」を渡ると宇土半島に上陸です。国道266号線は南側の海岸線に沿いながら進み、半島の付け根に位置する「不知火」の地から北上して熊本市へと向かいます。今回は、この不知火が終着地です。なぜか?今回の旅のきっかけとなった「天草の柑橘」のひとつ、「不知火」の発祥の地だからです。

 不知火は、旧暦の8月1日(八朔の未明)、目の前の八代海(別名不知火海)に現れる「火の国の怪火」のこと。旧暦は月を基準とした暦なので、1日はまっくらな朔(さく)の日。新年を迎え8回目の朔の未明に現れるという奇観です。漁船の漁火のように見えるのでしょう。いつぞやは、直に見てみたいものです。

 

 最後にもう一つだけ。八代海が「不知火」であれば、反対の島原湾にも怪現象があります。海水温が高く、気温が冷え込んだ時に、この温度差によって蜃気楼のような現象がおきるといいます。船や島々が浮き上がって見えることから「浮島現象」と名付けられました。

 天草四郎が、富岡城の攻城を諦め、対岸の島原へ渡ったのは、寒さが厳しくなりつつある頃です。島原の原城に籠(たてこも)り、落城するのは年が明けた2月28日のこと。彼は望郷の念をもって、このような景色を眺めていたかもしれません。

 

 「島原・天草の乱」に触れながら、旅路を進めてゆきました。少しでも、皆様が天草へ興味をもっていただき、GWや夏休みなどの長期休暇に、彼の地をご訪問いただけると幸いです。今回の旅路のご案内には、一般社団法人天草宝島観光協会のお力添えが欠かせませんでした。この場をお借り、深く御礼申し上げます。

 

歴史を顧みながら少しばかり「﨑津集落」へ。この≪前編≫はこちらから。

kitahira.hatenablog.com

 

 過ごしやすい日々ではありますが、まだ「三寒四温」と表現される時期です。寒暖の差は、知らず知らずのうちに体力を奪ってゆくもの、油断はなりません。疲労・ストレスなどが原因で免疫力が下がっている時に、乾燥が加わると、コロナウイルスばかりではなく、風邪やインフルエンザにも注意が必要です。さらに、肌荒れやかゆみの原因にもなり、体感温度も下がります。健康のためにも、美容のためにも、程よい湿気お忘れなきように。そして、心の潤いも保ちながら快適にお過ごしください。

 最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com