kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

2022年夏 Benoitの特選食材「桃についてつらつらと」

 往古(おうこ)、古代中国では東西に仙境があると信じられていました。東の蓬莱(ほうらい)山と、西の崑崙(こんろん)山。この西の仙境に住んでいたのが西王母(さいおうぼ)と呼ばれている仙女最高位の神様です。この西王母は、崑崙山で不老長寿の桃を栽培していたのだといいます。この桃は3000年に1回しか実をなさない仙桃で、前漢七代目皇帝「武帝(在位紀元前141~紀元前87)」は、その西王母からこの仙桃を贈られたという故事が残っています。

 古代中国では、桃の実は長寿の祝いにつかわれ、枝は不吉を除くといわれていました。「桃弧(とうこ)」は厄災を祓うために桃の樹で仕上げた弓のこと。さらに、「桃符(とうふ)」とは、桃の樹で作った「おふだ」のことで、魔よけのために門の脇に飾るのだといいます。桃は、何か神聖な霊力のある仙木としての役割を担っているようなのです。

 桃の原産地は中国で、ヨーロッパにはシルクロードを通り、紀元前にもたらされていたといいます。他方、日本では縄文時代後期あたりから、すでに食用にされていたようで、各地の遺跡から桃の種が出土されています。すでに植栽域を広げている桃に、遣隋使や遣唐使によってもたらされる古代中国思想が加味されることで、桃の樹は百鬼をも退かせる呪力が宿った仙木であり、その果実には何か不老長寿の薬効を含んでいるのだろうと考えたのでしょう。

 

三千代へて ()りけるものを などてかは 百々(もも)としもはた 名づけそめけん  花山院(かさんいん)

 3000年もの歳月を要してやっと結実するという仙桃があるほどのこの果物を、どうして「百々(もも)」と名付けたのでしょうか。「千々(ちち)」と名付けても良かったのではないか…と、日本65代天皇であった花山院ほどの方が真剣に考えていたはずはありません。中国の神仙思想を鑑みた、なんと高尚な言葉遊びなのでしょうか。

 

 万葉の時代、話し言葉としての日本語「大和言葉」はあるものの、書き言葉としてはままならなかったようです。「ひらがな」は存在せず、知れば知るほどに便利で文明的な漢字が中国から伝来した時、大和朝廷の宮中の賢人は驚愕し、貪欲に取り込んでいくことにしました。漢字の音読みを利用して日本語の書き言葉を表現する「万葉仮名」を生み出すものの、宮中での文書は漢文となり、漢詩が主流となるご時世の到来です。

 唐風文化の繚乱(りょうらん)を迎え、日本語の書き言葉が衰退の一途を辿るばかり…和歌にとっては暗黒時代です。そう書き言葉では漢字文明の席巻を許すも、話し言葉としての大和言葉は健在ということでした。言語として際立つ利便性のある漢字や文化を導入するも、大和言葉を崩さなかった。いや、多少なりとも影響はあったかもしれませんが、大和言葉を堅持したという表現が良いのかもしれません。

 世界の言語は、「絵画文字」、「表音文字」、「表意文字」などに大別されます。絵画文字は、古代文明に書き記された絵文字を代表とし、表音文字はアルファベット(音素文字)や日本の仮名(音節文字)などがあります。そして、表意文字は、一文字が単語を成し、実質的な意味を持つもの。それが「漢字」です。

 日本語の漢字には、音読みと訓読みがあります。音読みは、中国の漢字の読みが元となっており、仏教とともに伝わった三国志で有名な王朝「呉」の漢字の発音「呉音」と、時代は下り、「唐」の時代の長安で使われていた読み「漢音」があります。今回はこの音読みではなく、訓読みについてです。

 「訓」とは、「おしえる」を漢字変換すると、「訓える」がでてくるように、教え導くや解釈するという意味があります。さらに「おしえ」を変換すると「訓え」となり、家訓のように何かの規則やいましめというの他に、字の語義や釈義という意味があります。「訓詁(くんこ)」とは、古典の字句の意味や文法・修辞などを明らかにして解釈することをいいます。語源辞典「漢辞海」によれば、「訓」と「詁」はともに不明の字句に対する解説や注釈をいうが、一般的な言葉でもって、難しく分かりにくい字句の意義を解釈するのを「訓」、現代語で古語の字句の意義を解釈するのを「詁」という。

 古代日本には、話し言葉としての大和言葉が存在していました。山や川そのものを見て「やま」「かわ」と呼んでいました。この語源がいったいなんなのかは専門家に託すとし、往古より、「やま」であり「かわ」でした。そして、表意文字である漢字と出会います。そこで、古代日本の賢人は漢字を導入するも、大和言葉は堅持したのです。聳(そび)える山は「やま」であり、漢字の「山」は疑いようなく「やま」であり、流れる川は「かわ」は「川」なのです。訓読みみはかような歴史がありました。

 さて、桃は漢字よりも先に日本に渡来しているため、すでに「もも」という名前が与えられていました。漢字「桃」を知った時、山や川と同じように何の違和感もなく「もも」に桃」の漢字をあてがった。そして、「桃」を「もも」と読んだ…さらに、この漢字の到来とともに、前述した古代中国の故事にあるような神仙思想も日本に持ち込まれたようです。

 日本の誕生を書き記した「古事記」によると、黄泉国(よみのくに)にいる愛する妻イザナミノミコト(伊邪那美命)に会いに赴いた夫イザナキノミコト(伊邪那岐命)が、約束を破り妻の変わり果てた姿を目にしてしまう。怒り心頭に発したイザナミノミコトは、逃げるイザナキノミコトを見るも恐ろしい醜女(しこめ)に追わせるも失敗。

 そこで、八種(やくさ)の雷神(いかづちがみ)と、1,500にも及ぶ黄泉の軍勢を差し向けました。命からがら、黄泉国の出入り口である黄泉比良坂(よみひらさか)に達したとき、近くに育っていた桃の樹から得た桃の実3つを追手に投げつけることで事なきを得たというのです。ほぼ同時期に編纂された「日本書紀」にも、多少の違いこそあれ、同じようなことが記載されています。

 桃の樹に宿る霊力。今でもこの名残を残しているものが、2月3日に執り行われる「追儺(ついな)」という宮中行事です。我々には「節分の豆まき」の日ですが、このルーツともなる神事だといいます。

 季節の変わり目が「節分」、新しい季節を迎える前に今の季節の厄「鬼」を祓うため、「桃の樹の弓で、葦(あし)の矢を射る」というのです。五穀や小豆をまくこともあったようで、これが我々馴染みの節分の豆まきとして今に至るのでしょう。鬼(厄)を退治する(祓う)といえば、我々に馴染みも「桃太郎」の昔話。なぜ桃から生まれたのか?もうお気づきかと思います。諸説あるかと思いますが、このお話は納得していただけるのではないでしょうか。

 さらに翌月の3月3日。この日は、皆様ご存知の「ひな祭り」です。もともとは「上巳(じょうし)の節句」といことで、中国から遣唐使によって、この風習が持ち込まれたようです。陰陽五行の中では、「陽(奇数)が重なると陰を生ず」と言われ、霊的な力のある植物の力を借り、邪気を祓おうと考えたのだといいます。

 童謡「うれしいひな祭り」の歌を口ずさんでいただきたいです。「明かりをつけましょ♪ ぼんぼりに~ お花をあげましょ♫ 桃の花~♫」、新暦と旧暦の偏差が40日ほどあることから、旧暦の上巳の節句の頃には桃の花が笑っていたのです。「桃」にはなにやら不老長寿の薬効を含み、百鬼をも退かせる仙木であるという思想が、日本でも確固たる地位を得ていたのです。

 桃、桃と書いてきましたが、今馴染みの桃と昔の桃では少しばかり様相が違います。前述した昔話「桃太郎」は誰しもが知っていることと思います。お婆さんが川に洗濯にゆくと、川の上流からどんぶらこ~どんぶらこ~と大きな桃が流れてきます。この桃の形を思い浮かべていただきたいです。お近くに絵本がある方は、手の取っていただき開いてみてください。見ていただきたいのは「桃の形」。まんまるというよりも、先のとがった形ではありませんか?

 古来、中国より持ち込まれた桃が、北方系の品種らしく、この果実の形が桃太郎の桃。昔に描かれた桃の画もまた同じ形です。明治に入り、南方系が日本に届き、偶発実生(意図的ではない自然の交雑から生まれた品種)によって生まれたのが、今の「まん丸の桃」の原型だと言われています。

 「桃の形」、子供の絵本とはいえ歴史考察の上では貴重な資料なのかもしれません。そういえば、纏向遺跡のある奈良県の隣は和歌山県。その北側に紀の川市桃山町という地名を見ることができます。むやみやたらに地名が付くわけではありません。地名に「桃」の漢字が入るとうことは、往古より桃の産地であり、纏向遺跡と何かしらの繋がりがあったかもしれません。桃が古代の歴史を物語るかもしれない…方言もそうですが、身近なものにこそ歴史を探るヒントがあるのではないでしょうか。

 Benoitの夏を代表すデザートは、疑いようもなく「ピーチ・メルバ」です。いかに、パティシエールチームの腕が立つとはいえ、美味しい桃なくして皆様を魅了するピーチ・メルバはありえません。桃はいち品種が約1週間という短い収穫期なため、桃農家さんは実る時期の違う多品種を植栽することで、日々の労を分散し、さらに桃の出荷期間が長くなるように工夫をされています。そのタイミングを見計らいながら、Benoitの桃在庫を考慮し購入し続けた日々も、2022年9月11日をもって終わりを迎えました。

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 遅きに失した感は否めませんが、6月半ばからBenoitへご尽力いただいた桃栽培者の方々を、ご紹介させていただきます。南は熊本県から、北は山形県まで。桜前線ならぬ桃前線の北上を追うようにBenoitに届く桃は、どれもが素晴らしい逸品でした。悪天候のため品質ままならず、栽培者の「Benoitへ送る品質ではない」との判断から、出荷断念と涙を呑むこともありました。

 それぞれの桃栽培者の方は、「美味しい桃を育て上げる」という志は同じでも、そこに辿り着く道のりが違うため、桃畑の姿が違います。旅行をするようにお楽しみいただけると幸いです。

 

 和歌山県紀の川市桃山町。自分が初めて桃の産地直送に踏み切ったのが、豊田屋さんとの出会いでした。半農半医という栽培を担う豊田さんには、多くを学ばせていただきました。無謀とも思える「無農薬栽培」に果敢に取り組む姿には感銘を覚えます。彼よりいただいたメッセージが心に響く…

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 桃探しも南へ南へと向かい、辿りつた先が熊本県の西川農園でした。お父様の代までは主力産物はメロンでした。しかし、現園長である西川さんが引き継ぐと同時に一念発起し、桃栽培が始まります。「園長?」、そうここに西川さんの桃栽培に対する思いが詰まっています。

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 香川県の大西さんは、桃名人の名声を得ながら、「桃が美味しくなるのを手伝っているだけです」とさらり語る。そんなわけはない!彼の桃に対する愛情は並々ならぬものがあり、夜中でも桃畑のお世話のために山に入る。齢80歳、とうとう今期をもって桃栽培は引退するという…

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 岐阜県飛騨高山で果樹園を営む亀山さん。桃名人とうたわれる父からバトンを受け、見事に果樹園を盛りたてています。交錯するご家族それぞれの想い、葛藤があった中で、彼は引き継ぐ決意をします。父の背を見ながら、彼ならではの新たな道を模索する。彼が名人と呼ばれる日も、そう遠くはないでしょう。

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 桜前線と同じように、桃前線も北上してゆきます。Benoitが桃を購入させていただいている北限は山形県にあるタキグチフルーツガーデンです。本来であれば、他の桃農家さんのように滝口さんをご紹介しなければいけないにもかかわらず、簡単なご紹介しか書き上げることができませんでした。自分の怠慢によるもので、決して書くに足らない栽培者というわけではありません。短いですが、滝口さんの「こだわり」をご紹介させていただきます。

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滝口さん、申し訳ありません。この場をおかりし、深く深くお詫び申し上げます。

 

 秋になり、初めて感じる涼しさを「新涼(しんりょう)」や「初涼(しょりょう)」というようです。温度計という便利なものがあるために、数字というものに縛られてしまい、体感できる涼しさを忘れてはいないでしょうか。ヒグラシの声はもちろん、夜な夜な奏でるスズムシやコオロギの音色もまた忘れてはいけません。そして、秋の風は、秋の薫りも運んできます。ここはひとつ、文明の利器を遠慮し、五感を利かせて秋を探してみるのも一興ではないでしょうか。そして、秋の味覚が恋しくなった際には、足の赴くままにBenoitへお越しください。深まり行く秋と歩調を合わせるように、旬の食材がメニューをもって皆様をお迎えいたします。

 最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

 終息の見えないウイルス災禍です。皆様、油断は禁物です。十分な休息と睡眠、「三密」を極力避けるようにお過ごしください。「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、笑いながらお会いできることを楽しみにしております。

 皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より切にお祈り申し上げます。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com