kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

2023年8月 「夏の禊(みそぎ)を落とされていない方へ…」

 往古、6月晦日に「夏越(なごし)の祓(はらえ)」という儀式が行われていました。1年の半分を終える時期に、災厄を祓い、心身を清め、向こう半分を無病息災に過ごすことができるよう祈願するもの。今でも6月末に、茅(ちがや)の茎で編み込まれた大きな輪を、神社の結界となる鳥居の内側に設置し、作法に倣いながらくぐる、この儀式の一つである「茅の輪くぐり」などは、ご存じの方も多いのではないでしょうか。

 では、残り半年を終えたらどうするか?謹んで正月を迎える前に、「年越(としこし)の祓」が執り行われています。この2つを合わせて「大祓(おおはらえ)」という。お晦日に行われる「年越しの祓え」では、人の形に切った紙(人形・形代)に自分の罪や穢れをうつし、それを神職大祓詞を唱えながら、お焚き上げや川に流して浄化し祓い清めます。

 「夏越の祓」も「年越の祓」も行っていない自分などは、身を清めずに新年を迎えていたようです。年を重ねるように、穢れも重ねてゆき、穢れ多き身体で初詣をしていたということは、神様に自分の怠慢をご報告に行っていたようなものなのでしょう。この「大祓」は、連綿と引継がれてきた伝統だけに、なにかしらの理由があるはずです。これは只今勉強中なため、時を改めようと思います。

 

 さて、6月末に行われた「夏越の祓」を、なぜ今さら話題にしているのか?

 季節の話を書きながら、ブログに投稿するのを忘れた?確かに、このネタを書こうと思ったのは6月でした。しかし、調べてゆくうちに、何か違和感を覚えるようになるのです。「夏」の暑さによって多々引き起こる苦難を、無事息災に乗り「越」えるために「祓い」を行うから「夏越の祓」なのだ、と自分は思っていました…この歌と出会うまでは。

いつとても 惜しくやは あらぬ年月を (みそ)ぎに捨つる 夏の暮れかな  藤原俊成

 

 藤原俊成は、「いついかなる時でも、過ぎ去ってゆく年月は惜しくないはずはない」という。自然の機微を捉えた秀歌を、いく首もしたためた俊成だからこそ、四季は過ぎ去り、戻ってくることがないことを知っている。今年ゆうに半年が過ぎるとき、それは春・夏が終わりを迎えることを意味します。「やは」という反語を使うことで、惜春・惜夏のせつなる想いを歌に込めている。

 その次です。まだまだやり残したことがあるにもかかわらず、「禊ぎで罪や穢れを捨て去るように、過ぎ去りし春・夏を捨ててしまう夏の暮れがきてしまった…」と。おや?この歌によれば、禊ぎは「夏の暮れ」に行ってる…

 

 と、ここでひねくれ者の自分が頭をもたげます。確かに、1年の半分は6月晦日です。しかし、今の暦は明治時代に導入された太陽を基軸にしたグレゴリオ暦。往古は、旧暦と呼ばれている、月を基軸とした太陰太陽暦です。偏差は40日ほどにも及ぶといいます。そこでネットで旧暦6月晦日を調べてみると、なんと2023年8月15日とでてきます。

 旧暦では、1~3月が春、4~6月が夏、7~9月が秋、10~12月が冬です。新暦では、3~5月が春、6~8月が夏、9~11月が秋、12~翌年2月が冬。1月から半年間の災厄を祓い、残り半年の無病息災を願う6月晦日は、旧暦では夏の終わりを意味するからこそ「夏越し」というのであれば、今年は8月15日でも良いのではないか。年間の前半を終える日に「夏越の祓」が行われたのであれば、まだ間にあうではないですか!

 

 しかし、神社ではすでに「夏越しの祓え」は終わりを迎え、もちろん茅の輪などはあろうはずはない。では、どうする?ここはやはり、旧暦で解釈しただけに、古人にならおうと思います。

麻の葉に 思ふことをば なでつけて 六月(みなづき)はつる (みそ)ぎをぞする  源師時(もろとき)

 

 思い悩んでいることや忘れたいことがあれば、麻の葉を頭や胸にあてそれらを撫でつけ、川に流すよことで身を清める。水無月(旧暦6月)が終わる日にこそ、この夏越の祓えをすべきなのです。この強調の「ぞ」に、源師時の気持ちが込められているのでしょう。

 当時は、京都の町を流れる川のたもとには、禊のために麻の草が束ねて置いてあったのでしょうか。その葉一枚をちぎり取り、罪や穢れを撫でつける。疾患のある場合には、その患部にあて、これまた撫でつける。それらを捨て去り、身を清めるために川に流す。「ちぎり」取った葉を通して、神様と「契(ちぎり)」を交わし願いを成就させようとしたのかもしれません。

 源師時は、平安時代後期に活躍した公卿です。時代は下るにつれ、禊ぎの神具に変化が表れています。鎌倉時代中期の御家人である、宇都宮景綱はこう詠っています。

川上に 人もみそぎや いそぐらん あまた流るる 麻のゆふしで  宇都宮景綱

 

「禊ぎをするために、人々が川上へと急(せ)いているようです」という上句。6月晦日に禊ぎを行うのであれば、古今東西を問わず、この日は24時間しかありません。農作業や商いの仕事をしながら、家事をこなしながら、どこかで禊ぎをしなくてはなりません。月の満ち欠けが基準となる旧暦の6月晦日は、もちろんのように「朔(さく)」の日なので、夜空に月の姿は見えず、真っ暗。今のように街灯で川辺が照らされていることもありません。ともすると、人々が急いてるということは、日が暮れる頃なのでしょうか。

 そして、下の句では、「麻のゆふしでが、数多(まあた)流れてゆくではないですか」と。禊ぎに使った「麻のゆふしで」があまりにも多く川に流れてくる光景を目にし、川上に人々が集まっているのでしょう…現在推量の「らん」が、まるで自分が見ているかのような、美しい川辺の風景がまぶたに浮かびます。そして、すでに禊ぎをすました景綱の気持ちの余裕が見て取れる。

 さて、この歌に姿を見せた「麻のゆふしで」は、漢字で「木綿四手」と書きます。「木綿(ゆふ)」とは、木や草の繊維を裂いて糸状にしたもの。「白妙の衣」の原料ともなっている、コウゾの皮の繊維を蒸して白く晒したものを糸とし、神に奉納する幣(ぬさ)に用いていたという。そして、「四手(しで)」は、玉串(たなぐし)や注連縄(しめなわ)につけて垂らす白い紙のこと。

 平安期には、麻の葉のみで祓いを行っていたものが、鎌倉期ともなると麻の葉だけではなく、「木綿四手」のような仕様に変わっていった。麻の葉を束ね、「四手」として「木綿(ゆふ)」を「結(ゆ)ふ」ようにし垂らしたのでしょう。川原へ向かい、清らかな川水で手を洗う。そして、「麻の木綿四手」で身体を撫で、罪や穢れを取り込んでもらい、それを川に流して捨て去っていた。

 

 麻の葉ですか…これほどまで歌に登場するということは、きっと身近な草であり、身近に植わっているのではないかと、ついつい思ってしまう自分がいました。いやいや、探そうとしてはいけません。麻の葉とは、キレイな響きですが、これは大麻草のこと。日本では神事に伴う一部や医薬用で栽培が許可されているものの、今巷で話題になっている草で、手を出してはいけません。かつては栽培していたようで、収穫のために畑にはいると「麻酔(あさよ)い」を引き起こすそうです。幻覚作用ばかりか、感覚を麻痺させる成分が含まれています。

 そういえば「麻痺」も「麻酔(ますい)」も、「麻」の字が入ります。古代日本において、巫女舞が巫女自信に神を舞い降りさせる神がかりの儀式であったという。神々のお告げとして、別人のようなトランス状態に陥ることで信憑性を得ていたのでしょう。その一役を担ったのが、「麻の葉」だった気がするのです。この「麻酔い」を利用したのでは?だからこそ、祓いの神具として地位を得たのではないかと思うのです。

 「夏越しの祓え」を行うのに、今では「麻の葉」はご法度です。人型の紙も、やはり川を汚すことになるので避けたいもの。そこで、今神具として祓いに用いられている「榊(さかき)」を使いませんか。「木」偏に「神」と書くには、きっと何かしらの理由があるはずです。そして、思いのほか気軽に手に入るもので、逮捕されることはありません。

 6月晦日に「夏越の祓え」を行えなかった方は、自分のように8月15日に榊を使って禊を行いましょう。しかし、お盆過ぎたら水辺に近づくなと子供の頃に教わったように、川に入ることは十分な注意が必要です。「榊の木綿四手」でも良いですが、まずは気軽に、榊の葉のみに「思ふことをば、なでつけて」、そっと川に流すことをしてみてはいかがでしょうか。

 なんだかんだとこじつけましたが、6月に「夏越しの祓え」を行わなかった自分への慰め。「年越しの祓え」は、忘れることなく新暦の大晦日に行いたいものです…

 いかに禊を落としても、猛暑が収まるわけではありません。道すがら、暑さに耐えきれなくなった時には、すぐに木陰に入って休みましょう。陽射しにきらめく結葉、吹き抜けるそよ風の涼しさ、そしてセミのもろごゑ。そこには、夏に対しての恨めしさなどみじんも感じず、まるで幻想的ともいえる、ほっと一息つくことのできる世界が広がっています。

 しかし、幻想の(意識の無くなった)世界から抜けることができなくならないよう、十分にお気をつけください。今夏は、意識的にというよりも計画的に、こまめな水分補給と少しばかりの塩分補給をお心がけください。そして、酷暑を乗り切るためにも体力を維持することが大切です。そう、体力の元となるエネルギー補給は、「夏越のBenoit」ですよ!

 

 バランスの良い美味しい料理を日頃からとることは、病気の治癒や予防につながる。この考えは、「医食同源」という言葉で言い表されます。この言葉は、古代中国の賢人が唱えた「食薬同源」をもとにして日本で造られたものだといいます。では、なにがバランスのとれた料理なのでしょうか?栄養面だけ見れば、サプリメントだけで完璧な健康を手に入れることができそうな気もしますが、これでは不十分であることを、すでに皆様はご存じかと思います。

 季節の変わり目は、体調を崩しやすいという先人の教えの通り、四季それぞれの気候に順応するために、体の中では細胞ひとつひとつが「健康」という平衡を保とうとする。では、その細胞を手助けするためには、どうしたらよいのか?それは、季節に応じて必要となる栄養を摂ること。その必要な栄養とは…「旬の食材」がそれを持ち合わせている。

 その旬の食材を美味しくいただくことが、心身を健康な姿へと導くことになるはずです。さあ、足の赴くままにBenoitへお運びください。旬の食材を使った、自慢の料理やデザートでお迎えいたします。

 

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 2023年8月8日に立秋を迎えるとはいえ、まだまだ続く猛暑な日々です。この暑さは、思いのほか我々の体力を奪ってゆくもの。さらに、疲労・ストレスなどが原因による免疫力の低下を招きます。皆様、十分な休息と休養をお心がけください。そして、こまめな休憩と給水をお忘れなきように。

最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。皆様のご健康とご多幸を祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com