kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

2026年6月Benoit 季節は巡り去ってゆく…「待つ」という優しさはありません。旬食材もまたしかり。唸る旨さ!「飯塚農園のアスパラガス」をご紹介させていただきます。

 5月で終わりを迎える予定だったグリーンアスパラガス。しかし、どうしても皆様に今季のこの逸材をご堪能いただきたく、シェフを説得して6月14日日曜日まで延長することにいたしました。

なぜ?

このアスパラガスがあまりにも美味しいからです。

どうして?

 思いの丈を書いてしまうと、長くなるうえに時間がかかってしまい、旬が去ってしまいます。そこで、今回は「なぜ飯塚農園のアスパラガスが美味しいのか?」を、短くご紹介しようと思います。

 

 言わずと知れたことですが、野菜や果物は農産物です。工場製品のように、増産や一年を通して産することができません。農家さんの並々ならぬ努力の賜物であり、植栽してからどれほど手間暇をかけて収穫へとたどり着くのか。栽培期間に対して、収穫期間というのはあまりにも短い。さらに、自然相手だからこそ、昨今の荒れ狂う天候によって、努力が無に帰することもあります。サラリーマンである自分などには、想像もできないほどの心労があるはず。それでも、彼らは我々の食の根幹を支えるために、毎日のように園圃へ向かってゆく。厳しいことは承知のうえでも諦めることなく、抗(あがら)うことのできない自然の猛威との妥協点を見出すかのように、そして美味しく安心安全な農産物を我々に届けるために。

 Benoitは、香川県でレジェンドと称されている眞鍋さんの逸品を待っていたため、4月からアスパラガスがメニューに姿を見せました。しかし、いかに収穫期間が長いアスパラガスとはいえ、春芽の収穫は1か月ほどです。そのため、5月からはアスパラガス前線を追いかけるように、他の産地へと移らなければなりません。レジェンドのアスパラガスの後に、皆様に納得いただけるアスパラガスを用意できるのか…これが、自分に「昨年まで」の課題でした。そう、「昨年まで」です。出会うべくして出会うものなのでしょう。

 新潟県三条市に田畑を有する「飯塚農園」。この農園を切り盛りするのが、飯塚英晃さんです。彼との運命的な出会いは、昨年末のこと。イチゴ「紅ほっぺ」でBenoitがお世話になっている「赤ずきんちゃんのおもしろ農園」の赤堀さんから、「アスパラガスを栽培している人を紹介したいのだけど…」とメッセージを受け取る。もちろん、赤堀さんは自分がアスパラガスを探していることを知りません。すぐに連絡先を伺い飯塚さんへメッセージを送る…たまたま彼が神奈川県に研修できていたため、翌日にBenoitで握手を交わしたのです。たった一日という時間経過で会うことができた…

 人と人が出会うとき、「第一印象」がその後の人間関係を左右するものです。「第二印象」という言葉がないことが、何よりの証でしょう。飲食を生業としている自分は、Benoitでお会いするお客様のほとんどは初対面です。そのため、姿を見たときの第一印象をもとに、どのようにメニューを持ってそのお客様のテーブルに入るべきかを考えます。30年もこの仕事をしていると、この感覚が養われてくるのかもしれません。しかし、何を基準にしているのかと問われても、自分は明確な回答を持ち合わせていません。そして、「栽培者(料理人)の想いが、産物(料理)に宿る」というのが自分の持論です。

 飯塚さんと出会ったとき、何の確証もないけれども、「彼の育んだアスパラガスは美味しい」と直感したのです。初めて姿を拝見しただけで、もちろん年末にアスパラガスがあろうはずもなく、まして農園をネットで検索すらしていなかったので、園圃の姿や飯塚さんの農業に対する考えも知らない状態にもかかわらず。

 お会いしてから5分もかからなかった、今季は彼のアスパラガスを購入させていただくことをお願いしたのです。「収穫できたらサンプルを送りますよ!」と、飯塚さんは提案してくれたけれども、なぜか「必要ないです!」と答える自分がいました。不安や心配はなかったのか?自分に問うてみると、ないわけではないけれども、なぜか「美味しい」という自信が勝っていた。すべては自分の彼への第一印象と、彼の発する言葉の端端に感じる確固たる自信を感じたからなのか。

 4月末に、飯塚農園から届いたアスパラガスを目の当たりにしたとき、一抹の不安は霧散し、何の根拠もなかった自分の自信が間違っていなかったと確信したのです。まだ、実食していないけれども、この凛々しいアスパラガスの姿は、間違いなく美味しいと自分に教えてくれたのです。

 アスパラガスは、小ぶりにダンボールに縦にぎっしりと詰めに詰めてBenoitに送ってもらいます。到着後すぐに、ステンレスの寸胴容器に少しだけ水を張った中へアスパラガスを立てるように入れ、蓋をして冷蔵庫へ。業務用の冷蔵庫ですから、すぐにキンキンに冷えてアスパラガスの呼吸は静まり、しばしの眠りにつく…はずが…

 Benoitに飯塚さんのアスパラガスが届いた翌日に、自分が出勤早々にキッチンスタッフからこう告げられました…「北平さん、アスパラガスが曲がってます!」。どういうことかと、スタッフに同行して(ウォークイン)冷蔵庫の中へ。寸胴から数本引き出してみると、確かに曲がっている!

 飯塚さんは、先祖代々の農地を継承しました。そして、お米栽培とともに、彼はアスパラガスを栽培品目に選んだのです。アスパラガスは、植栽してから3年は地下茎を育てなければならず、4年目から収穫はできるもまだまだ細く、本格的には5年目あたりから。そのため、長きにわたり土壌管理を徹底しなければならないため、管理しやすいハウス栽培が主流です。ハウスでは、温度管理も可能となり、収穫の目安を計ることもできます。しかし、彼は露地栽培を選んだ。

 飯塚農園のある新潟県三条市は、確かに平野部で積雪はそこまで多くはありません。とはいえ、県下の他の地域に比べてというもので、冬の期間は畑が雪に埋もれます。生半可なハウスでは積雪によって倒壊することになる。そのため、設営は他の地域よりも高額になる。越後平野は、豊かな地ではあるけれども、太平洋側の平野とは違い、冬の期間は雪に埋もれるため、露地では雪下野菜のように栽培収穫できるものが限定されます。

 しかし、飯塚さんは子供の頃から祖母の畑作業の手伝いをしていたこともあり、この雪に埋もれる期間があることが、この地の利点であり美味しい野菜が育つことを識っていた。雪に埋もれることで大地がリセットされるという。極寒の凍てつく大地と違い、雪という布団をかぶっていることで、程よい湿度を保ちながら、寒いながらも凍てつくこともなく大地が休眠できるといい、雪解けによって大地は潤う。さらに、雪は大地にミネラルをもたらし、雪解けの冷たい水はアスパラガスの地下茎に良き働きをする。だからなのか、飯塚農園では、植栽してから2年は地下茎を育て、3年目から収穫する。

 今でこそ、美味なる見事なアスパラガスを収穫する飯塚さんですが、初めて取り組んだアスパラガス栽培に失敗したといいます。離農が脳裏をよぎるほどの挫折…失敗の理由を聞いてみると、「甘く考えていたのです。」と言い切りました。心機一転、本場の技術や味を知ったうえで、「自分の農産物はちゃんと美味しいです」と、胸を張って宣言したい。ということで、今一度アスパラガスを植栽し、単身でアスパラガスの本場イタリアのバッサーノへと赴いたのです。

 表面ばかりの圃場視察ではなく、どっぷりとつかることでプロフェッショナルのノウハウを学び、現地の人や文化に触発されてきたという。飯塚さんの不撓不屈(ふとうふくつ)の精神と行動力が、イタリア研修を導き、大いなる学びと感銘を彼に与えた。農を生業とする彼の人生を一変したといっても過言ではないでしょう。彼の学びと挑戦の姿勢は、今も色あせることはありません。

 飯塚さんの素晴らしさを語りたいのですが、どうしても時間と残り字数が足りないため、来季にたっぷりとご紹介させていただきます。彼の知り得たノウハウと思いが、このアスパラガスに宿っている。温室でぬくぬく育まれたのではない、暴風雨に豪雪に長年耐え抜いてきたからこそのパワーにみなぎっている。だからこそ、先のご紹介したように、Benoitの冷蔵庫でも眠りに入らず成長しようとするのでしょう。このアスパラガスの力強さこそが、美味しさとなる。

 皆様、気になるでしょう?飯塚さんのグリーンアスパラガス。今月いっぱい、ランチでもディナーでも、高知県宿毛から直送されるマダイ料理で姿を見せます。この料理をお楽しみいただいた方に感想を伺うと、「このマダイは美味しい!」ではなく、「このアスパラガスが美味しい!」と。足摺岬近辺の黒潮のぶつかる好漁場で育まれたマダイは、間違いなく美味しい。しかし、飯塚さんのアスパラガスが、それを凌駕してしまうのです。

 飯塚さんよりメッセージが届きました。

「Benoit 東京へお越しのお客様、こんにちは。飯塚農園が文字通り精魂込めて育て上げました。Benoitさんの最高の火入れと、ホールスタッフさんの最高のサービスで提供されたアスパラガスを、心行くまでご堪能ください!」

 

 

 バランスの良い美味しい料理を日頃からとることは、病気の治癒や予防につながる。この考えは、「医食同源」という言葉で言い表されます。この言葉は、古代中国の賢人が唱えた「食薬同源」をもとにして日本で造られたものだといいます。では、なにがバランスのとれた料理なのでしょうか?栄養面だけ見れば、サプリメントだけで完璧な健康を手に入れることができそうな気もしますが、これでは不十分であることを、すでに皆様はご存じかと思います。

 季節の変わり目は、体調を崩しやすいという先人の教えの通り、四季それぞれの気候に順応するために、体の中では細胞ひとつひとつが「健康」という平衡を保とうとする。では、その細胞を手助けするためには、どうしたらよいのか?それは、季節に応じて必要となる栄養を摂ること。その必要な栄養とは…「旬の食材」がそれを持ち合わせている。

 その旬の食材を美味しくいただくことが、心身を健康な姿へと導くことになるはずです。さあ、足の赴くままにBenoitへお運びください。旬の食材を使った、自慢の料理やデザートでお迎えいたします。

 

 

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ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com

2026年4月 春を代表するサクラが散り、春の終わりを告げるヤマブキが咲く…心に「つらさ」が募るもの…いったい誰の?

 サクラ(桜)の花一輪の開花期間は4日ほどといいます。ぽつりぽつりと花開くウメ(梅)とは違い、斥候花が花開いてから数日後には満開を迎え、そして1週間も経つと殿(しんがり)の花数輪は残るも葉桜へと姿を変えます。日本人は、一年のこの1週間、長くとも2週間ほどの期間を待ち焦がれる。

 咲き誇ったソメイヨシノは、春の風に煽(あお)られて舞い散り、葉桜へと姿を変えました。この光景を目の当たりにし、「惜春(せきしゅん)」の念を覚えている方も多いのではないでしょうか。「惜春」とは、春が終わってしまうことへの名残惜しさを表現した言葉で、サクラの花とは切っても切れない関係にある。サクラの花が散ることで春が終わりを迎える…どうも、こう簡単に表現できないほどの、心の奥底に宿るなにかしらの情緒(じょうしょ)なるものが関係しているのではないかと思うのです。

 サクラの花には花言葉とは別に、「夢見草(ゆめみぐさ)」という異名があります。学業の1年の区切りが、海外では9月であるのに対し、日本では4月です。かつては世界競争力を養う上でも、変更すべきと話題になりました。賛否両論でましたが、やはり4月から変更しなかったことは、このサクラにちなんだ、日本人ならではの感性が大きな要因だったはずです。

 別れや出会いが重なる春らしく、咲き誇るサクラに思い出と夢を重ね、散りゆく桜に新たな一年が始まるという決意を見出す。惜春の想いが募(つの)るものの、心機一転、新たな門出を迎えることで大いなる期待感が、心の奥底に芽生えてくる。なぜここまでサクラに対して、我々日本人は思いを寄せるのでしょうか?ただ春に咲く花であれば、ウメ(梅)でもモモ(桃)でもいい。日本固有種であればツバキ(椿)でもいい。他の花を思い浮かべてみても、やはりサクラなのです。

 日本人にとって、花と言えばサクラを真っ先に思い浮かめるもので、春には欠かすことはできません。この思いは、今も昔も変わることがありません。もしかしたら、古(いにしえ)の方が、今よりも思いが強かったのではないかと思うほどです。名立たる名歌人が、多くの秀歌を詠い遺しているのが何よりの証でしょう。

 そこまで思うサクラの花時雨(はなしぐれ)を眺め、さあ!と視線を下げて一歩踏み出そうとするとき、斑斑(はんはん)と群青の葉が生い茂る中で、ヤマブキ(山吹)の花が咲き誇っている。ウメのように香るわけでもなく、サクラのように群れて散るわけでもない。ひっそりとしながらも、陽射しに照らされると黄金色に輝いて見える。

 

にほふより 春は暮れゆく 山吹の 花こそ花の なかにつらけれ  藤原定家

 

 春というのは、花が美しく咲き誇ってゆく季節。その春も、もう暮れてゆく。この時期に、晩春を象徴するかのような黄金色の山吹の花は、あまりにも美しい。その美しさが映えるからこそ、惜春の痛みを感じざるをえないものだなあ。という歌意になる。

 花々が咲き誇る春であっても、サクラの花が「にほふ」ときが、まさに春の盛り。それが終わりを迎えようとしている。サクラの華やかさの余韻が残っている中で、春は疑いようもなく終わりを迎えようとしている。惜春の念を覚えずにはいられない理由は、春の名残を伝えるヤマブキが美しく咲いているから。春を締めくくらんばかりに、輝くように美しいヤマブキだからこそ、かえって胸に迫るつらさを感じるものだという。

 しかし、「つらさ」を感じるのは、私(藤原定家)だけではないといっている。「花こそ花のなかにつらけれ」という表現の中で、「花の中に」は、「春に咲く数多(あまた)の花の中で」という意味。そして「こそ~けれ」が係り結びのセットになっていて、強調を意味します。ということは、「春に咲く数多の花の中で、ヤマブキの花こそがつらいのだ!」と言い切っている。

 花(サクラ)時雨の中で、咲かなければならないヤマブキの花。初春の時期であれば、皆が待春の思いであり、春を告げる花と言われているウメは、これみよがしに咲いてゆく。これに対して、皆が惜春の思いを募らせている中で、春の終わりを告げる花と言われているヤマブキは、咲きにくいだろうに。

 これほどまでに我々はサクラに対する思いが強いがために、その花びらが舞い散る光景を目にすると、我々は胸に風が吹くかのような空虚感や寂寥(せきりょう)の想いにかられる。そして、晩春の愁(うれ)いともいうべき、得も言われぬ侘(わび)しさを覚えるものです。この気配が満ちる中で、なお黄金色にヤマブキの花が、春の終わりを静かに我々に告げている。見るに堪えない花であれば、愚痴の一つも浴びせるものを、あまりにも可憐に美しく花開くからこそ、痛々しいほどの心もちで春の終わりを受け入れなければいけない。

 一方、この惜春の念が満ち満ちている中で、ヤマブキは咲かなければならない。そして、我々に去りゆく春の現実を告げねばならない。ヤマブキの担っているこの責務は、どれほど残酷で無慈悲であることか。輝かんばかりに美しく、群青の中で映えるかのごとく咲き誇る花は、「私(ヤマブキ)だってこの時期に咲くのは辛いのよ!あなたもそれぐらい理解しなさいよ!」という、ヤマブキのせめてもの意地の表れなのかもしれません。

 ヤマザクラやソメイヨシノなどの名だたる桜の品種は、実を成しても食べることのできないほど堅く小さい果実なため、モモ(桃)のように収穫の楽しみは一切ありません。それでも、このサクラへの募る思いはなぜなのか?自分なりに考察し、ブログに書き綴ってみました。お時間のある時に、以下よりご訪問いただけると幸いです。

kitahira.hatenablog.com

 

 バランスの良い美味しい料理を日頃からとることは、病気の治癒や予防につながる。この考えは、「医食同源」という言葉で言い表されます。この言葉は、古代中国の賢人が唱えた「食薬同源」をもとにして日本で造られたものだといいます。では、なにがバランスのとれた料理なのでしょうか?栄養面だけ見れば、サプリメントだけで完璧な健康を手に入れることができそうな気もしますが、これでは不十分であることを、すでに皆様はご存じかと思います。

 季節の変わり目は、体調を崩しやすいという先人の教えの通り、四季それぞれの気候に順応するために、体の中では細胞ひとつひとつが「健康」という平衡を保とうとする。では、その細胞を手助けするためには、どうしたらよいのか?それは、季節に応じて必要となる栄養を摂ること。その必要な栄養とは…「旬の食材」がそれを持ち合わせている。

 その旬の食材を美味しくいただくことが、心身を健康な姿へと導くことになるはずです。さあ、足の赴くままにBenoitへお運びください。旬の食材を使った、自慢の料理やデザートでお迎えいたします。

 

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最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。皆様のご健康とご多幸を祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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2026年4月 惜春の念を覚える中で、「なぜ我々はサクラにここまで思いを募らせるのか?」考察してみました。

 見るものを圧倒するかのように咲き誇ったソメイヨシノは、春の風に煽(あお)られて舞い散り、葉桜へと姿を変えました。この光景を目の当たりにし、「惜春(せきしゅん)」の念を覚えている方も多いのではないでしょうか。「惜春」とは、春が終わってしまうことへの名残惜しさを表現した言葉で、サクラの花とは切っても切れない関係にある。サクラの花が散ることで春が終わりを迎える…どうも、こう簡単に表現できないほどの、心の奥底に宿るなにかしらの情緒(じょうしょ)なるものが関係しているのではないかと思うのです。

世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし  在原業平

 平安初期の貴族で、六歌仙・三十六歌仙に選ばれている歌人、在原業平。彼の時代の歌物語である「伊勢物語」の主人公のモデルになっているのではとの説があるほど、恋多き容姿端麗な人だったようです。この歌は、皆様も耳にしたことがあるのではないでしょうか。「もしこの世にサクラという花がなかったなら、春を過ごす人の心は、どれほどのどかでいられるだろうに。サクラがあるからこそ、散るのを思って心が落ち着かないのです。」と、反実仮想という技法を使ってサクラへの切なる想い綴っています。サクラは、名歌人と称される業平にここまで詠わしめるのです。

さくら咲く 春は夜だに なかりせば 夢にもものは 思はざらまし  能因(のういん)

 時は下り平安後期、三十六歌仙に選ばれている能因もまた、サクラを愛し、多くの歌を遺しています。この歌僧は、先の業平の歌を証歌とし、同じ反実仮想の技法を駆使して詠っています。「サクラの咲く春は、もし夜だけでもなくなってくれたら、夢の中にまでもの思いをすることはなく、どれほど心休まることであろうか。」と。

 「花風」とは、春風ではあるけれども、サクラの花を散らしてしまう風のことをいい、春の終わりを告げるかのような意味合いも含まれるといいます。美しくもあり、どことなく惜春が募る心地がするものです。陽ざしの下で咲き誇るサクラはもちろん、夜の帳(とばり)が下り、月あかりに照らされるサクラもまた趣があるもの。眠りにつくも、風の音に目を覚ましてしまう。風の音に睡眠を妨げられるのではなく、この風が花風ではなかろうかと、気が気ではなかったのでしょう。風の音を耳にするほどに、この気遣いが頭の中を駆け巡り、もはや安眠などは望むべくもない。風雅に長けた能因だからこそ、風の音が現(うつつ)なのか夢なのか、それさえもわからなくなるほどに、怯えていたのかもしれません。

ならひありて 風さそふとも やまざくら 尋ねるわれを 待ちつけて散れ  西行

 能因の鬼籍に入り70年ほど経ったのちに誕生したのが西行です。能因の美意識に共感した人であったのだろうと思うのです。サクラと月に対し、並々ならぬ愛をそそいだ歌僧であり、死を迎える前に辞世の句ともいえる「願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」という歌を遺し、その通りにこの世を去ったのです。

 サクラの花は、花風によって花の役目をおおえるのが世の常である。こればかりは、どうにもこうにも変更できるものではないことは、重々承知している。しかし、「花風がおまえ(サクラ花)を散らそうと誘っても、私が訪ねゆくまで待ったうえで散ることにしてくれないか…」と、西行は懇願している。きっと某所のサクラが見ごろを迎えているころだろうと人づてに聞いたのか、はたまた推測したのか。逸(はや)る気持ちをなだめながらも、彼の地へ赴いている最中なのでしょう。

 並みいる名歌人が名だたるサクラの秀歌を遺してるため、枚挙に暇がありません。これほどまで人々を魅了する花が、サクラです。現在でも、日本を代表する花といえば?という問いに、多くの方は「サクラ」と答えるのではないでしょうか。

 サクラ(桜)の花一輪の開花期間は4日ほどといいます。ぽつりぽつりと花開くウメ(梅)とは違い、斥候花が花開いてから数日後には満開を迎え、そして1週間も経つと殿(しんがり)の花数輪は残るも葉桜へと姿を変えます。日本人は、一年のこの1週間、長くとも2週間ほどの期間を待ち焦がれる。その開花予想を「桜前線」と称して、3月ともなると毎日のように天気予報で報告されていることに、我々は違和感がありません。

 よくよく考えると、梅雨や猛暑、花粉のように人体に影響を及ぼすものであれば、告知することにも意味がある。こと、花そのものの開花予想を全国に伝え、さらに開花宣言の有無に一喜一憂する国民は、日本以外にないのではないかと思うのです。きっと世界の人々の目には奇異に映っていることと思うのです。ましてや、ヤマザクラやソメイヨシノなどの名だたる桜の品種は、実を成しても食べることのできないほど、堅く小さい果実なため、モモ(桃)のように収穫の楽しみは一切ありません。それでも、このサクラへの募る思いはなぜなのか?

 「花」といえば、万葉の時代には「ウメ(梅)の花」を指し示しました。政治制度の「律令制度」や、表意文字である「漢字」などの古代中国文明を取り入れる中で、ともに海を渡ってきたのがウメの花です。春の到来を真っ先に知らせてくれるかのように、ぽつりぽつりと可憐に花開く姿は、確かに美しいものです。そこに、圧倒的な文明を誇った文明への憧れが加味されることで、知識人の中で「ウメこそが花」であり、これを愛(め)でることが風流人であるという認識が定着することになった。さらに、「梅と鶯(うぐいす)」という美意識も、この時代にもたらされたといいます。

 古代日本の賢人は、圧倒的な古代中国の文明に触れたとき、大いに学ぶことはしても鵜呑みにはしなかった。政治制度の「宦官(かんがん)」などは、悪しきものと判断し取り入れていない。漢字を学ぶも、書き言葉として宮廷内で漢文を使っても、往古より連綿と受け継がれていた話し言葉の日本語を見失わなかった。日本最古の歌集「万葉集」は、漢字の読みの音を利用して日本語を書き遺しており、これが「万葉仮名」と呼ばれるもの。例えば「ウグイス(鶯※)」は「宇具比須」というように。

※「鶯」は、中国語にあるもののウグイスとは別の鳥。日本人がこの漢字に「うぐいす」と読みをあてた国訓(こっくん)です。ちなみに「椿」も国訓。中国語には無く、日本で発明された漢字は国字(こくじ)といい、「畑」や「峠」などがあります。

 万葉の時代は、日本語での書き言葉がなかったこともあり、万葉集からは勅撰漢詩集が3冊も立て続けに編纂されるほどで、ここから続く約150年は「国風暗黒時代」と呼ばれています。大多数の日本人の中では、花は日本固有種のサクラであっても、書き遺すことのできる貴族界では、「花はウメ」がもてはやされていくのです。確かに書き遺すことができるのは、特権階級の人々なので致し方ないものです。

 894年の遣唐使廃止に端を発し、日本語「ひらがな」が誕生することで、日本人が日本の土地の気候・生活・感性に合った文化を再構築する国風文化が胚胎されます。時は平安時代、ここに「花はサクラ」として確固たる地位を獲得するのです。この象徴的な変革を平安宮(へいあんきゅう)にあった紫宸殿(ししんでん)に見ることができます。

 紫宸殿は、天皇の即位礼など、最も格式の高い儀式を行う正殿。平安宮の大内裏ともいわれる場所で、天皇が着座する位置から見て、左右に樹が植えられています。平安初期には「左近の橘、右近の梅」であったものが、平安中期になると「左近の橘、右近の桜」へ。ウメからサクラに植え替えられたのです。今は京都御所に移設された紫宸殿にも、この名残が見て取れます。我々が拝殿する場合は、紫宸殿に向かって左に植わっているのが「右近の桜」。

 日本固有種であるサクラが、往古より馴染みであり自然の機微を捉えた花であった。国風文化の勃興(ぼっこう)にともない「花はサクラ」が復権したのです。彼の時代のサクラは、ヤマザクラであろうと推察されます。山々に自生しているヤマザクラを、自邸に植樹して楽しんでいた。平安時代にすでに育種が始まり、時を経るごとにソメイヨシノ(江戸時代)のような新品種が誕生してゆきます。しかし、美味なる果実をもたらすわけではないにもかかわらず、、どうしてこれほどまでに我々の琴線に触れるのか。日本固有種だからという理由であれば、椿(つばき)であってもいい。

 花の名前が初めから決まっていることなどなく、誰かが名付けなければなりません。渡来したものであればそのままの読みが名前であったり、姿が何かに似ていればその似ているものにちなんだ名前であったりもします。しかし、日本在来種であるサクラは、漢字を識(し)る前からすでに「サクラ」は存在し、「佐久良(万葉仮名)」ではなく、「さくら(話し言葉)」として日本語にあった。

 目の前に山(やま)があり、漢字の意味通りの「山(さん)」をあてるも、日本人が連綿と受け継いできた「やま」という読み消し去らなかった。今でも音読み訓読みがあるのは何よりの証。ということは、「山」や「川」が「やま」や「川」であるように、サクラは「さくら」というように日本人は名付けていたということになります。では、この「さくら」には、どのような意味があるのか?

 「さくら」の「さ」は「田の神」を、「くら」は「座」を意味するといい、山より舞い下りた神が宿る場が、「さ・くら」だというのです。カレンダーなるものが馴染みではない時代にあり、古人は何を根拠に農作業を始めたのか。その目安となったのが、「桜の開花」。その開花を目安に、稲作作業の「田起こし」を始めたというです。東北の方では、サクラの開花が遅いため、一足先に花咲く「コブシ」を目安としていました。そのため、彼の地では、このコブシを「田打ち桜」と呼んでいます。

 農耕民族である日本人にとって、稲作の成否は死活問題です。しかし、自然の機微を捉える本能が薄い人間は、何かに頼らなければなりません。そこで、古代賢人は「サクラの開花」に着目したのです。我々がサクラの開花に一喜一憂する理由は、日本人のDNAに刻み込まれた、古代の「田の神」信仰なのでしょう。神が舞い降りたことへの感謝の気持ちを表した「お祭り」こそ、「花見」のルーツなのだといいます。

 「農耕の神」にまつわる「サ」は、サクラ以外にもその名残を今に残します。もちろん、農耕の神様だけに稲作に関わるものばかり。収穫の源でもある田植え用の稲のことを「早苗(さ・なえ)」。かつて田植えを担うのは女性でした。その彼女たちを「早乙女(さ・おとめ)」。稲作で欠かせない水資源は、梅雨にもたらされます。旧暦の5月が梅雨時期にあたり、この月を「さ・つき」と読み、この時期の雨は「五月雨(サ・ミダレ)」という。「五」の語源を調べても、「さ」の読みはありません。ということは、最初に「さつき」という言葉があり、そこに順番を意味する五月という漢字をあてたことになります。さらに、梅雨期の雨を「さ水垂(みだ)れ」ともいいます。

 サクラが農耕民族である我々の生活と密接に関わってきたからこそ、その思いが連綿と受け継がれてきた。花咲く頃の肌寒さを「花冷え」、雨を「花散らしの雨」、強風を「花嵐」と、天気にまで「花=サクラ」が入っているほどなのです。これほどまでに日本人の心に宿している、サクラへの想い。往古では、冬の閉ざされた自然環境の中、桜の開花を望むことで耐え抜いてゆくための「心の拠り所」であったかもしれません。

 古代より連綿と受け継がれてきたサクラへの想いは、農を生業とするからこそある種の信仰ともなり、過酷な冬を乗り越える希望ともなった。そして、その花を愛でることで、独特の美意識が胚胎されたのではないかと思うのです。サクラの花は、「咲く」けれども、「すぐに散る」。「美しい」けれどもすぐ散るために「儚(はかない)い」もの。これが「潔(いさぎよ)い」となり、日本人らしい美意識が生まれた。そして、「花の開花期が短い」ということは、花に魅せられすぎているがために「逸る気持ちが募るばかり」。心穏やか日々を送れないと嘆くも、この境遇を楽しんでいるかのようでもある。

 時を経るほどに成熟していったこのようなサクラの想いは、生活が豊かになることで感覚として薄れゆくものの、我々のDNAにはしっかりと刻み込まれているのかもしれません。農を生業とする人が減ってゆく現代にありながら、これほどの気候変動や生活様式の変遷がありながらも、サクラの開花を待ち望み、その知らせに一喜一憂する。確証はないけれども、どうして日本人はサクラにここまで思いを馳せるのか、調べてゆくなかで辿り着いた自分なりの結論です。皆様は、どう思いますか?

 サクラの花には花言葉とは別に、「夢見草(ゆめみぐさ)」という異名があります。

 学業の1年の区切りが、海外では9月であるのに対し、日本では4月です。かつては世界競争力を養う上でも、変更すべきと話題になりました。賛否両論でましたが、やはり4月から変更しなかったことは、このサクラにちなんだ、日本人ならではの感性が大きな要因だったのではないでしょうか。出会いや別れの重なる春らしく、サクラととともに思い出と輝かしい夢を重ねながら、新たな門出を迎える時期。サクラの豪華絢爛な満開の姿が、これから迎える人生の門出を盛大に祝福していると見たからなのでしょうか…

 

 最後に2首を紹介させていただきます。平安時代中期を代表する女性作家で、「源氏物語」を遺した紫式部。そして、鎌倉時代後期から南北朝時代と激動の時代に生きた大禅僧の夢窓の歌です。

世の中に なに嘆かまし やまざくら 花見るほどの 心なりせば  紫式部

 「源氏物語」の成功とは裏腹に、紫式部の才能への妬みや嫉妬に苛(さいな)まされ、宮廷の中心にいながら孤独感を覚えていたといいます。この「才能ゆえの深い孤独」という自らの境遇を「世の中」と表現したのでしょう。生き難い世の中にありまながら、ヤマザクラが凛と咲き誇っている。この花を眺める心にゆとりがあるならば、今の世の中の何を嘆こうというのか。何も嘆くことがないではないか。花を愛でる豊かな心があれば、妬みや嫉妬、争いは無益と悟り、世の中からなくなるだろうに…

散ればとて 花はなげきの 色もなし わがために憂き 春の山かぜ  夢窓

 一年という長き中で、一輪の花が開く期間はほんの4日ほど。花風によって花を散らすのが世の常であり、花風がなければもう少しはなの寿命は長いでしょう。少しでも花は存命したいと思っているか…いや、サクラの花は散ることに嘆く気配を全く見せてはいない。人は自分の都合だけで外界を見ているため、愛おしいサクラの花を散らしてしまう風に恨みを抱いてしいます。自分本位な考え方ではなく、サクラ花の立場になってみれば、春の山風も花風とは言わず爽やかな風となる。

 

 バランスの良い美味しい料理を日頃からとることは、病気の治癒や予防につながる。この考えは、「医食同源」という言葉で言い表されます。この言葉は、古代中国の賢人が唱えた「食薬同源」をもとにして日本で造られたものだといいます。では、なにがバランスのとれた料理なのでしょうか?栄養面だけ見れば、サプリメントだけで完璧な健康を手に入れることができそうな気もしますが、これでは不十分であることを、すでに皆様はご存じかと思います。

 季節の変わり目は、体調を崩しやすいという先人の教えの通り、四季それぞれの気候に順応するために、体の中では細胞ひとつひとつが「健康」という平衡を保とうとする。では、その細胞を手助けするためには、どうしたらよいのか?それは、季節に応じて必要となる栄養を摂ること。その必要な栄養とは…「旬の食材」がそれを持ち合わせている。

 その旬の食材を美味しくいただくことが、心身を健康な姿へと導くことになるはずです。さあ、足の赴くままにBenoitへお運びください。旬の食材を使った、自慢の料理やデザートでお迎えいたします。

 

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ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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2026年1月 「寒中のご挨拶」と「今年の干支≪丙午≫のご案内」です。

寒中お見舞い申し上げます。

 旧年中は並々ならぬご愛顧を賜り、誠にありがとうございます。おご挨拶が遅くなりましたこと、ご寛恕ください。

 新年を迎え、皆様より賜りましたご温情は徒(あだ)や疎(おろそ)かにせず、倦(う)まず弛(たゆ)まず研鑽の日々に努めます。そして、「観梅の心、観桜の目」を忘れることなく、少しでも皆様のご期待にお応えできるよう、万全の準備をもってお迎えいたします。何かご要望・質問などございましたら、何気兼ねなくご連絡ください。

 「冬至冬なか冬はじめ」…冬本番はこれからのようです。今季は寒暖のサイクル、気温差が激しいようす。さらに、巷ではウイルスや細菌が猛威を振るっております。どうか無理をなさらず、十分な休息と休養をお心掛けください。適度な湿気もお忘れなきように。皆様が、そしてご家族ご友人の皆様が、幸多き一年をお過ごしになられますよう、神宮前の地よりお祈り申し上げます。

 

 2026年の干支は「丙午(ひのえうま)」です。この干支の漢字2つに、古代中国の賢人は何を託したのかと、語源辞典「漢辞海」に問いかけ、干支の話を毎年のように書いています。もちろん自分は占い師でも専門家ではないため、あくまでもこの漢字の意味することを探って、文章にしたためています。今回、「丙午」の「丙」を調べる中で、1つの古代中国の平公と師曠による「炳燭(へいしょく)」の故事に出会いました。

 平公は、春秋時代の紀元前557~532に在位していた晋の君主です。史書によれば、平公は若くして晋の君主となり、賢臣に恵まれ徳を重んじた政治を執ることで栄え、軍事面でも楚を破り斉を攻め立てるという強さを誇ったといいます。しかし、後半では権力闘争に悩まされ、一時は自殺を図るも家臣に止められるということも。強さと脆さが同居する人間味のある君主だったそうです。

 他方、師曠は宮廷楽師なのですが、只者ではありませんた。盲目であったが琴の名手であり、音の清濁を驚くほどに正確に聞き分けたといいます。その抜きんでた能力ゆえに、「師曠の聡」という成語ができるほど。師曠が琴の弦を弾(はじ)けば、南から鶴が舞い集まり、「風曲」を奏でれば風が吹き、「雨曲」を弾(ひ)けば雨が降るという伝説まで遺っている。あまりにも聡明であったからこそ、公平に対してたびたび諫言(かんげん)を行っているほどです。

 この二人のやりとりの一つが、「炳燭」という故事です。平公が師曠にふっと悩みを洩らし、それに師曠が答えている。漢文なために、読み難(にく)いですが、まずは原文から紹介させていただきます。

晋平公問於師曠曰:「吾年七十,欲學,恐已暮矣。」

師曠曰:「何不炳燭乎?」

平公曰:「安有為人臣而戲其君乎?」

師曠曰:「盲臣安敢戲其君乎!臣聞之:

少而好學,如日出之陽

壯而好學,如日中之光

老而好學,如炳燭之明

炳燭之明,孰與昧行乎?」

平公曰:「善哉!」

 

少し気持ちを込めて、日本語訳に…

 

平公が嘆く、「私はもう70歳だ。今さら学ぼうとしても、もう遅いだろう。」

すると、師曠が答える、「どうして炳燭をなさらないのですか?」

平公は怒る、「臣下のくせに、なぜ私をからかうのだ!」

しかし、師曠は落ち着いて答えた、「盲の臣が、どうして主君をからかいましょうか。私はこう聞いています!

若くして学ぶのは日の出の陽射しのよう。

壮年で学ぶのは日中の光よう。

老いて学ぶのは炳燭の明かりのよう。

暗闇を歩くより、炳燭をして歩くほうが良いではありませんか?」

平公は深くうなずき、「善哉(よいかな)!」と喜んだ。

 この故事の名前にもなっている「炳燭(へいしょく)」とは、「灯火(ともしび)を手に取って照らす」という意味です。経験が少ない若いころは、陽射しが射し示すものを学んでいく。真理や道理が分かりかけた壮年では、日中の陽射しの力強さに勢いづき、照らされた全方向を広く学んでいく。老年ともなると、灯火のように学ぶという気力が萎(な)えてくる?

 師曠は、そうではないと喝破する。老年ともなると、人生経験が長いだけに、真理や道理を少なからずは識(し)ることとなる。そうなると、自分がまだまだ無知であることを悟ることになり、無知という暗闇の中でもがくことになる。だから、灯火で照らしたほうが歩きやすいではないですか。やみくもに学ぶのではなく、学ぶべきことが分かるようになるのだという。

 なるほど、と思うものの、師曠は盲目の楽師です。「光」を感じることはなかったはずで、彼の専門分野である「音」で表現するものなのでは?と、そんな疑問が頭をもたげるのです。一説では、平公は視覚を持つ人間だから、彼を説得するために視覚的な「光」を比喩に使ったのだという。師曠は、生まれながらにして盲目なのか、それとも人生半ばで光を失ったのか。人生半ばであれば…と思うも、紀元前の人物だけに記録は残っていません。

 思うに、師曠は視覚的ではなく感覚的に「光」と捉えていたような気がするのです。目に見えずとも、肌に感じる陽射しには温もりを感じるもの。この太陽の恩恵を「光」と考えていた。陽射しを浴びることで、人間の身体では生きるために必須となるビタミンBが形成される。もちろん、彼の時代のそのようなことなど分かろうはずもありません。しかし、心身ともに健康な日々を過ごすため、生きとし生けるものにとって欠かすことのできないものであると実感していたのでしょう。

 古代中国には、「明=知」であり「暗=無知」という概念があったという。師曠は、「学び」が人生を照らす「光」のようなものであると解したのではないか。「学ぶ」ことに遅いということはなく、「学び」はどんな年齢でも人生その時々の道標(みちしるべ)となるかのように照らしてくれる。

 老年ともなり人生を省みると、自らがまだまだ無知であることことを悟るもの。「暗闇(無知)」を「朝日が照らし始める(学び始める)」、「日中の陽射し(無我夢中に学ぶ)」、そして夜の帳が下りる「暗闇(無知)の中であっても、「炳燭(学び)」が導いてくれる。この師曠の意図を悟ったからこそ、「炳燭之明,孰與昧行乎(暗闇を歩くより、炳燭をして歩くほうが良いではありませんか)?」が、平公の心に強く響いたのではないでしょうか。

 

2026年の干支「丙午(ひのえうま)」のお話です。

 むかしむかしのこと、お釈迦様が動物たちに「新年の挨拶に赴いた順番を十二支にしよう」と語ったのだといいます。そこで、動物たちは我さきにと、お釈迦様の下へと馳せ参じることになる。己をよく知る牛は足が遅いことを理解しているため、前日からすでに出発します。一番先に門口(かどぐち)に到着するも、その背に乗っていた賢いネズミがひょいと先に門をくぐる。順を追ってぞくぞくと主役が到着する中で、犬猿の仲といわれる両者の仲裁に入ったがためにニワトリは10番目。猫はなぜ登場しないのか?猫はお釈迦様への新年の挨拶の日を忘れ、ネズミに聞いたところ2日だと。翌日に事実を知った猫は怒り、これ以降ネズミを追いかけ続けるのだとか。

 古代中国の賢人が「十二支」を周知してもらうため、それぞれの漢字に身近な動物をあてがったといいます。今年の十二支「午」に、彼らは「馬」の意味をあてました。しかし、古代賢人が伝えたかったことは、「馬」ではありません。2026年の干支を形成する「丙」と「午」という漢字が意味を成しているのです。

 いったいどういうことなのか?語源辞典「漢辞海」を片手に、自分なりに読み解いてみた干支「丙午」をブログに綴ってみました。なぜ自分がこのメールの冒頭で「炳燭の故事」をご紹介したのかも、ご理解いただけるかと思います。皆様、気になりませんか?お時間のある時に以下よりご訪問いただけると幸いです。※自分は占い師ではありません。

kitahira.hatenablog.com

 

 バランスの良い美味しい料理を日頃からとることは、病気の治癒や予防につながる。この考えは、「医食同源」という言葉で言い表されます。この言葉は、古代中国の賢人が唱えた「食薬同源」をもとにして日本で造られたものだといいます。では、なにがバランスのとれた料理なのでしょうか?栄養面だけ見れば、サプリメントだけで完璧な健康を手に入れることができそうな気もしますが、これでは不十分であることを、すでに皆様はご存じかと思います。

 季節の変わり目は、体調を崩しやすいという先人の教えの通り、四季それぞれの気候に順応するために、体の中では細胞ひとつひとつが「健康」という平衡を保とうとする。では、その細胞を手助けするためには、どうしたらよいのか?それは、季節に応じて必要となる栄養を摂ること。その必要な栄養とは…「旬の食材」がそれを持ち合わせている。

 その旬の食材を美味しくいただくことが、心身を健康な姿へと導くことになるはずです。さあ、足の赴くままにBenoitへお運びください。旬の食材を使った、自慢の料理やデザートでお迎えいたします。

 

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ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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2026年の干支「丙午(ひのえうま)」のお話です。

2026年の干支(えと)は、「丙午(ひのえうま)」です。

 世界の言語は、「絵画文字」、「表音文字」、「表意文字」などに大別されます。絵画文字は、古代文明に書き記された絵文字を代表とし、表音文字はアルファベット(音素文字)や日本の仮名(音節文字)などがあります。そして、表意文字は、一文字で単語を成し、実質的な意味を持つもの。それが「漢字」です。

 古代中国の賢人は、毎年の世相を分析し続け、世相は繰り返すことを見出した。そこで、時代時代を表現する漢字二文字を選び、この漢字の組み合わせをもって後世に伝えようとしました。それが「干支(えと)」というもので、十干(じっかん)と十二支の組み合わせで成り立っています。甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)…と続く「十干(じっかん)」と、馴染みの子(ね)・丑(うし)・寅(とら)…の十二支。

 この10と12という数字が、我々の生活の中でどれほど溶け込んでいることか。算数を学ぶ上で、数字の区切りとなるのが10。そして、半日は12時間、1年は12ヶ月。10と12の最小公倍数は「60」。還暦のお祝いとは、この漢字の通り「暦が還(かえ)る」人生60年目の節目を迎えたことを祝うもの。

 干支にあてがわれた漢字は、それぞれに樹の成長を模したものだといいます。賢人は、今年の世相をどのように分析し見定め、干支という形で我々に遺したのでしょうか。今年は「丙午(ひのえうま)」。素人ながら、漢字語源辞典「漢辞海」を片手に、賢人の想いを書き綴ってみようかと思います。

 干支が十干と十二支の組み合わせであることは前述いたしました。2つの漢字一文字ごとに意味があり、2つの立ち位置の違う「世相」を組み合わせているのだと考えます。最初の漢字の世相は、人が抗しがたい「時世」の勢いであり、賢人は10年というサイクルを見出し、「十干」をあてがう。人生とは栄枯盛衰を繰り返すもの、これが「人世」である。賢人は、その人世を12年であるとし、十二支をあてる。干支とは、古代中国の賢人が「時世」と「人世」を読み解くことで導いた、その年ごとの世相のこととみる。

 

 「時世」を意味する十干、2026年は「丙(ひのえ/へい)」で、昨年の「乙 (きのと/おつ)」を引き継ぎます。一昨年の「甲(きのえ/こう)」から始まった十干。最初の2文字の組み合わせに成句に「甲乙つけがたい」というものがあり、2つのものに差がないため優劣をつけることができないとい時に使うもの。さらに、昔の学校の成績を「優・良・可」ではなく、十干の順にならい「甲・乙・丙」と表記していたといいます。では、「丙」は底辺をゆくどうしようもないことなのか?と思うも、これらの使い方は、ただ単に十干の順番を意識しただけのことで、漢字そのもののもつ意味は全く反映していません。

 「丙」は、十干の第三位、方位では翌年の「丁(ひのと/てい)」とともに南に配され、五行でも同じく「火」にあてています。そして、「説文解字(せつもんかいじ※文末に説明を記載します)」はこう説いている。「丙」は会意(既成の象形文字指事文字を組み合わせたもの)であり、「一」「入」「冂」から構成される。南方に位置し、万物が成熟して炳然(へいぜん=輝きわたる)としている。そして、陰の気が兆しはじめ、陽の気が欠けることになるという。さらに、「釈名(しゃくみょう※文末に説明を記載します)」によれば、「丙」は「炳(へい)」である。ものが生まれて「炳然(へいぜん=輝くようなさま)として、みな表に現れるのだという。

 「丙丁(へいてい)」とは、五行でともに「火」にあてていることから、燃え盛る「火」そのものを意味しているといいます。昨年の「乙」が、指事文字(抽象的なものを点や線で文字化したもの)であり、春に草木が屈曲しながら伸びだす姿を象(かたど)るという。なぜ屈曲しているのか?冬の陰の気が相変わらず強いので、その芽吹きは「乙乙(いついつ=、出ようとして難渋するさま)」なのだという。おや!せっかくの芽が、「火」で燃え尽きるのか?

 どうも「火」というよりも火に照らされる「明るさ」にことを伝えようとしている気がします。語源辞典が教えてくれるように、「丙」は「炳」である。この馴染みのない漢字には、形容詞として「炳(あき)らか(=輝いているさま)」、動詞として「炳(と)る(=手に持つ)」や「炳(とも)す(=明かりをつける)」という意味がありました。「炳蔚(へいい=文様やいろどりがあざやかなさま)」や「炳然(へいぜん=明白なさま/明らかなさま)」、そして「炳燿/炳耀(へいよう=照り輝く/顕彰する)」という単語があります。

 時世という樹(十干)は、2024年に還ってきました。先の十干(10年)で育まれた新たな種は、大地に落とされたものの、機を計っているのか、その種に動きはなかった。「甲」「乙」は、五行という思想の中でともに東の方位をあてている。そして、五行では東に春があてられています。季節は風が運んでくると古人は考えていたようで、東風(こち)が春を導いてくる。菅原道真の秀歌「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」も、これで合点がいきます。

 そして、上の画像からお分かりいただけるかと思いますが、季節と色を組み合わせたもが「青春」「朱夏(しゅか)」「白秋(はくしゅう)」「玄冬(げんとう)。「青」には「緑」という意味も含み、「朱」はまさに「赤」、「白」は色とというよりも「透明」に近く、「玄」とは「黒」のこと。「玄鳥(げんちょう)」とは、カラスではなくツバメの異名。秋の「白」については、ブログに詳細を綴っているので、お時間のある時にご訪問いただけると幸いです。

kitahira.hatenablog.com

 余談ですが、画像中央の「土用」は、ウナギを食べることで周知されている「土用の丑の日」の土用です。決して夏だけのものではなく、各季節の始まりである「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の前、18日間のこと。「事(どおうようじ)」の略で、「土が旺(さかんに)なり事を用うる」という意味です。土が最も働く時期ということで、土を動かすことを避けるのが良いという。黄色には、自然界の調和やバランスを象徴する色といい、農作や知恵/徳、さらには魔除けや願いが成就するための色でもあるという。

 この陰陽五行説を基として、日本で雑節(日本の気候に合わせて作られた季節の言葉)「土用」が定着したといいます。体調を崩しやすい季節の変わり目なため、農耕民族だけに「土をいじらない(農作業をしない)」、「引っ越さない」、「新しいことを始めない」のが良いとしています。とはいえ、18日間も何もできないというのは困りもの。そこで、土の神様が地を離れるひととき「土用の間日(まび)」だけ、上記の避けるべきことが許されるのだという。この黄色は、日本の寺社仏閣ではあまり見かけない色なため、日本では注意喚起の意味が加味されてきたのではないかと思うものです。

 本題に戻ります。四季と色の組み合わせは、「青春」→「」朱夏」→「白秋」→「玄冬」と移りゆく。これが人生をも言い表しているといいます。「青春」は少年期から若々しい青年期で、活力に満ち夢や希望に溢れている時期である一方、「青二才」のように未熟さがまだ残る時期。孔子論語の中で「学を志す」と言い遺す。「朱夏」は、燃え盛る勢いに満ちた壮年期。論語の中で、前半は「身を立て」「惑わなくなる」、そして後半には「天命を知る」ことになる時期であると綴る。「白秋」は、落ち着いた雰囲気や様子に深みを覚える中年期でありとなる。論語では「人の話を素直に聞けるようになる」時期だと記す。「玄冬」、玄にはく黒のほかに、「天や万物の根源となる道」という意味もある。素人(しろうと)に対して玄人(くろうと)という言葉もあります。人生最後で物事を完成させる時期。論語では「思うままにふるまっていても道を外れない」と教えてくれる。

 青春時代から学び続け、大いに悩み熟考した人生だからこそ、暴走老人にはならないという。書きながら思う…なるほど、頑固爺(がんこじじい)にならないようにという自分への戒めなのかな…

 

 時世は、春の陽気に誘われるかのように、種の芽吹きが促される。「守る」ためにあるのが陰の気であり、「成長」のためにあるのが陽の気であれば、種の堅い外皮や殻は、芽を守るために陰気のプロテクターともいえる。2年前の「甲」は、まだまだ芽が未熟であったからこそ、いまだ堅い外皮や殻である「陰の気」によってその芽吹きが妨げられ、その兆しを見ることなかった。それが、「乙」をもって、いよいよ陽の気が勝りはじめ、芽が姿を見せ始める。しかし、まだ陰の気が残っているため、その成長は「乙乙(いついつ)=進みがたいさま」としたものだった。

 2026年となり、「乙」から「丙」へ移る。「丙」は、「一」「入」「冂」から構成された漢字で、「一」は陽であり、「乙」を受けて人の肩に象るという。まさに、陽の気が人の両肩に宿るかのよう。いよいよ「丙」をもって、「丙向(へいこう)すること=火/南/陽へ向かうこと」になる。そして、時世の樹は、いよいよ陽気に引き上げられるかのように上へ上へ幹を伸はし、枝を広げている。

 生きとし生けるものにとって欠かすことのできない太陽こそが、お天気でも陰陽でも陽気の源である。(お天気でも陰陽でも)陽気が勝ってくることで、守りから成長を促す。「青春」から「朱夏」へ!南の太陽の放つ陽の気が両肩に宿る。この時世の勢いは、「炳然(へいぜん=輝くようなさま)」とし、燃え盛るかのように勢いのある陽の気が満ち満ちている。論語にいう「身を立て」「惑わなくなる」の如し。

 「人世」を意味する十二支。人世における栄枯盛衰に、賢人は12年を見い出し、樹の成長にならった漢字をあてがいました。2026年は「午(うま/ご)」、十二支の中で7番目です。方位は「南」で、五行では昨年より続き「火」に、動物では「馬」に当てます。一昨年の架空の生き物「辰 (たつ/しん)」を、昨年には誰しもが知る動物の「蛇」引継ぎ、お馴染みの動物「馬」へ。農産物を守る益獣であるにも関わらず、嫌われているしまっている「蛇」から、往古より人間と深い関りをもった愛らしいクリクリの目をした「馬」へ。

 語源辞典「漢辞海」で「午」を紐解いてみる。「午」には、お馴染みに「正午(午前12時)」という意味もあり、一日(24時間)の半分の時。そして、「縦横に交わるさま」ということで、「十字に切ること」を「午割(ごかつ)」という。さらに、「そむく」と「出迎える」という意味まである。

 「説文字解」によると、象形文字で、陰暦5月を表すという。この月は、陰の気が陽の気に逆らい、大地を冒(おか)して出てくる。そして、「午」は「矢」と同じ意味であるという。「冒す」とは、危険や困難に立ち向かう。物事に挑(いど)む。この一方で、何かを侵(おか)すという意味もあります。危険を冒して山に登るというような肯定的な意味がある半面、規則を冒す行為は許されないと否定的な使うこともある。さらに、「釈名(しゃくみょう)」によれば、「午」は「仵(ご)」であるという。陰の気が下から上がって陽の気と「仵逆(ごぎゃく=ぶつかりあう)」する。「仵」とは、「匹敵する/同等である」と「そむく」という両意があります。

 人世の樹は、一昨年の「辰」から引き継いだ大いなる成長を引き継いでいる。しかし、中国古代賢人は、昨年にあえて「蛇」に字をあてることで我々に「蛇蛇(いい)」とならないようにと教えてくれる。「蛇行(だこう)」してもいい、よくよく自らの行動を省み、陽の気が広がり已(や)む巳年に活かせと。そして、くれぐれも「蛇足」せんことを、と注意喚起しているように思える。「蛇蛇」とは、浅薄(せんぱく)でおごったさまをいう。思慮が足りない(全くない)「浅はか」ではなく、思慮が(ある程度あるが)足りない「浅薄」を使っているところが意味深い。

 2026年、「巳」から人世を引き継いだ「午」の樹は、陽に牽引されて上へ上へと幹を伸ばすも、横へ横へと枝葉を広げなようとする力に、頭を抑えられているように見えなくない。人の成長という同じ勢いでありながら、縦と横とに分岐し「午(=十字に交わっているようなさま)ということなのでしょうか。

 陽が極まれば陰に転じる。東から登ってきた太陽が真上に転じる正午、この先にはその陽射しの恩恵に授かった成果が如実に表れてくる。「午」をもって、今までの行動の成果を実感できるのかもしれません。しかし、「午」に関わる言葉の全てが、肯定的と否定的という相反する両面を持っているだけに、その成果は分かれるのか。

 「午」の否定的なことを避けるためにも、「午」は「矢」と同じ意味であると教えてくれている。「矢」にはもちろん、弓につがえて射る武器の意味もありますが、「正しくまっすぐなさま」ともいう。「矢言(しげん)」とは、正直な言葉のこと。さらに「釈名」によれば、「矢」が「指」であり、指向する目標があって、迅速だということ。目指す目標に向かって自分に指示を出し、速やかに行動に移すようにと言いたいのかもしれません。

 余談ですが、5月5日は「端午の節句」です。ここにも「午」が姿を見せる。「午月(ごげつ)」は陰暦5月のことで、「端午」とは、「端(=はじめ/最初)」の「午の日」ということ。この中国生まれの「端午」が日本に導入される中で、「午(ご)」と「五(ご)」が同じ発音であったために、陰暦5月5日を「端午の節句」として定着したいいます。

 ちょうどこの時期は、梅雨が始まる前に季節の変わり目であるために、殺菌効果のある菖蒲の葉(しょうぶ※似ていますが、花菖蒲の葉ではありません)を入れた湯に浸って、高温多湿の過酷な時期を乗り切ろうというのです。江戸時代になり、この菖蒲が勝負と発音が同じで、菖蒲の葉が刀に似ていることから、「男子の健やかな成長を祈る行事」になったといいます。

 確かに5月5日は梅雨入り前だけれども、梅雨入りはまだまだ先のこと、と違和感を覚えた方も多いのではないでしょうか。陰暦と陽暦の偏差が40日ほどもあるにもかかわらず、そのまま陽暦に移行したために、今の季節感とはずれが生じているのです。

 2024年は「甲辰」。時世は「甲」であり、「孟」を導いた。「孟」によっていよいよ時世が動き出すことを知るも、いまだ「孟浪(もうろう)」としているからこそ、「孟」が努力の継続を求めてきている。それが芽となり育まれるも、いまだ「孚信(=真実)」と「介心(=高潔な心)」の介添えを必要としていた。人世は「辰」であり、「竜」「晨」「伸」を導いた。十二支の中で5番目に位置しているが、今まで4年にわたり育んできた種が、目に見える動きを見せる。時世の純粋な「晨光(しんこう=夜明けの光)」に導かれるように、大いに「伸展(しんてん=勢力や事業がのび広がる)する。

 2025年の「乙巳」。時世は「乙」であり、草木が屈曲して地中から出るさまを象るという。陽の気に誘(いざな)われるように芽が出始めるも、まだ陰の気が残っているために、まっすぐに「丨(こん=進む)」することができないでいる。その傍らには人世の「巳」がある。一昨年の「辰」は「竜」であり、架空の生き物であったものが、なんとなく姿は似ているが「蛇」となる。陽の気が已(すで)に広がり已(おわ)っている勢いの中で、今までの努力の賜物を実感できないでいたものが、姿を見せることになるのでしょう。

 2026年「丙午」。時世は「丙」であり、陽の気が極まることで、物事が大いに外側に展開してゆくことになる。万物が成熟し「炳然(へいぜん=輝くようなさま)となり、表に現れてくるという。その中で陰の気が生まれ、陽の気が欠けることになる。人世は「午」。五行説では、「丙」は「火」であり、「午」もまた「火」である。この勢いが追い風のようになり、陽の気が満ち満ちている中で、今までの頑張りが具現化してくる。そう、人世の樹は大いに生い茂るのです。

 しかし、時世で陰の気が大地を冒して姿を見せることが気になります。人世での良きことか悪しきことかは拮抗しており、自らの考え、進むべき方向如何で変わってくるという。「午」は「矢」であり、「矢」は「指」である。目指すべき目標/目的に向かって、自らに指示を出し、迅速に進むべしという。では、どうやって良し悪しを判断し、進むべき方向を見つけ出すのか?そのヒントは、時世の「丙」がこう教えてくれています。「「炳燭(へいしょく=灯火を手に取って照らす)」であると。はて?

 今までさんざん書いてきた「陽の気」と「陰の気」の関係は、決して運がいい悪いといったものではありません。呼吸は、息を吸って息を吐く、この2つの動作で成り立っていて、どちらかが欠けては成り立ちません。昼があるから夜がある、夏があるから冬がある。「陽の気」が朝陽の昇るときのように外に向かう力であれば、「陰の気」は夜の帳が下りてくるときのように内に沈む力。陽が極まれば陰に転じ、陰が満ちれば陽が生まれる。

 「陽」は動く力であり、エネルギーの発散を意味します。明るい、温かい、活発、上昇する性質。行動力に溢れ、人と会う機会が増える。対して「陰」は静まる力であり、エネルギーの吸収を意味します。暗い、冷たい、静か、下降する性質。体力や気力を蓄える。さらに、学びの機会が増えるために、知力が養われる。

 人世の「午」は陽と陰の気が拮抗しているといっている。一年中を「陽」の行動をすると人は疲弊してしまうため、上記の相反する2つのバランスを求めてきた。そのバランスを維持し、より素晴らしい人世を送るため、時世の「丙」が教えてくれたのが「陰」の「学び」であると、「炳燭(へいしょく)」の故事が教えてくれていました。

 「炳燭の故事」とは、春秋時代の紀元前557~532に在位していた晋の君主「平公」と盲目の宮廷楽師「師曠(しこう)」とのやりとりです。史書によれば、平公は若くして晋の君主となり、賢臣に恵まれ徳を重んじた政治を執ることで栄え、軍事面でも楚を破り斉を攻め立てるという強さを誇ったといいます。しかし、後半では権力闘争に悩まされ、一時は自殺を図るも家臣に止められるということも。強さと脆さが同居する人間味のある君主だったそうです。

平公が嘆く、「私はもう70歳だ。今さら学ぼうとしても、もう遅いだろう。」

すると、師曠が答える、「どうして灯火(ともしび)をともさないのですか?」

平公は怒る、「臣下のくせに、なぜ私をからかうのだ!」

しかし、師曠は落ち着いて答えた、「盲の臣が、どうして主君をからかいましょうか。私はこう聞いています。

若くして学ぶのは日の出の陽射しのよう。

壮年で学ぶのは日中の光のよう。

老いて学ぶのは灯火をともす明かりのよう。

暗闇を歩くより、灯火をともして歩くほうが良いではありませんか。」

平公は深くうなずき、「善哉(よいかな)」と喜んだ。

 経験が少ない若いころは、陽射しが射し示すものを学んでいく。真理や道理が分かりかけた壮年では、日中の陽射しの力強さに勢いづき、照らされた全方向を広く学んでいく。老年ともなると、真理や道理を識ることとなり、やみくもに学ぶのではなく、学ぶべきことが分かるようになる。だから「「炳燭(へいしょく=灯火を手に取って照らす)」でいいのだ。学ぶことに遅いということはない。学びはどんな年齢でも人生をその時々で照らすものだ、と師曠は教えてくれている。

 老年となり、自分がまだまだ無知であることを悟ることになる。その無知という暗闇の中でさまようのであれば、灯火(ともしび)で照らしたほうが歩きやすいではないですか。やみくもに学ぶのではなく、学ぶべきことが分かるようになるのだという、と師曠は喝破する

 なるほど、と思うものの、師曠は盲目の楽師ですと。「光」を感じることはなかったはずで、彼の専門分野である「音」で表現するものなのでは?と、そんな疑問が頭をもたげるのです。一説では、平公は視覚を持つ人間だから、彼を説得するために視覚的な「光」を比喩に使ったのだという。師曠は、生まれながらにして盲目なのか、それとも人生半ばで光を失ったのか。人生半ばであれば…と思うも、紀元前の人物だけに記録は残っていません。

 思うに、師曠は視覚的ではなく感覚的に「光」と捉えていたような気がするのです。目に見えずとも、肌に感じる陽射しには温もりを感じるもので、この太陽の恩恵を「光」と考えていた。そして、古代中国には、「明=知」であり「暗=無知」という概念があったといいます。師曠は、「学び」が人生を照らす「光」のようなものであると解したのではないか。「学ぶ」ことに遅いということはなく、「学び」はどんな年齢でも人生その時々の道標(みちしるべ)となるかのように照らしてくれる。

 老年ともなり人生を省みると、自らがまだまだ無知であることことを悟るもの。「暗闇(無知)」を「朝日が照らし始める(学び始める)」、「日中の陽射し(無我夢中に学ぶ)」、そして夜の帳が下りる「暗闇(無知)の中であっても、「炳燭(学び)」が導いてくれる。この師曠の意図を悟ったからこそ、「炳燭之明,孰與昧行乎(暗闇を歩くより、炳燭をして歩くほうが良いではありませんか)?」が、平公の心に強く響いたのではないでしょうか。

 この師曠は、ただの楽師ではなく、公平に対してたびたび諫言(かんげん)を行っています。その中に、「師曠の五墨(ぼく=暗さ/曇りの比喩)」というものがあり、政治が曇る5つの原因を語っています。①「上が奢(おご)り、下が諫(いさ)めないこと」は、すぐに政治が暗くなる。②「小人が用いられ、賢者が退けられること」は、国の判断が濁る。③「賞罰が私情で行われる」と、秩序が乱れ民心が離れる。④「財貨を好み、民を苦しめること」は、国の基盤が暗く沈む。⑤「音を失うこと」は、国全体のバランスが崩れる。師曠は、盲目の楽師だからこそ、世界は光ではなく「音」と表現している。「音」は調和の象徴で、政治が乱れると音が濁ると考えていたようです。「師曠の聡」という成語があるように、音の清濁を驚くほどに聞き分けたという師曠だからこその捉え方なのでしょう。

 「耳」偏の「聡」の漢字には、「よく音を聞き分ける耳の鋭さ」という意味があります。「よく見分ける目の鋭さ」を意味する「明」と組み合わせると、「聡明」という熟語ができます。「すべてを聞き分け、すべてを見分ける」 という意味ですが、そこには知識だけでなく、人柄や判断の清さといったニュアンスも含まれる、古代中国の思想に基づく誉め言葉といいます。師曠とは関係がないといいますが…「明」が「日(太陽=陽)」と「月=陰」の組み合わせと考えると、陰陽の気が拮抗する「午」の年に大いに学び、「音(=調和の象徴)」を聞き分ける「聡」を会得し、「聡明」たれ!と教えてくれているのかもしれません。

 1984年の「甲子(きのえね)」に幕開けした60年の世相のサイクル。「世」の字には30年という意味が込められていると聞きます。60年の中に30年の2つの世相。2014年「甲午(きのえうま)」からはすでに後半の世相が始まっています。世相における栄枯盛衰は世の常であり、これを乗り越えなくてはなりません。その先で、我々は宝の地図(人世のさらなる高み)を必ず見つけることができると信じています。

 

 

 本文中に出てくる用語を少しだけご紹介させていただきます。

 たびたび出てくる「説文解字」と「釈名」という名前。本というよりも辞典と言い表した方が良いかもしれません。しかし、これらが編纂されたのは、古代中国でした。「説文解字」は紀元後100年頃、六書(りくしょ)の区分に基づき、「象形」「指事(指示ではないです)」「会意」「形声」に大別され、さらに偏旁冠脚(へんぼうかんきゃく)によって分類されています。

 「象形文字」は、実物を絵として描き、その形体に沿って曲げた文字。「指事文字」とは、絵としては描きにくい物事や状態を点や線の組み合わせで表した文字をいい、「上」や「下」が分かりやすいと思います。十干の「己」は指事文字です。そして、「会意文字」は、既成の象形文字指事文字を組み合わせたもの。例えば「休」は、「人」と「木」によって構成され、人が木に寄りかかって休むことから。干支の「壬」は指事文字、「寅」は会意文字です。

 「偏旁冠脚」は、漢字を構成するパーツのこと。そのパーツの主要な部分を「部首」と定め、現在日本の漢和辞典は「康熙字典」の214種類を基本にしています。しかし、偏旁冠脚では、漢数字、十干や干支もこのパーツに含まれ、その分類区分は、「一」から始まり「亥」で終わる、総数が540です。数あるパーツの中から、殿(しんがり)を担ったのが「亥」です。十二支の最後もまた「亥」です。この後、さらに時は流れ紀元後200年頃、音義説によった声訓で語源解釈を行い編纂されたものが、「釈名(しゃくみょう)」です。

 万物を陰と陽にわける陰陽説と、自然と人事が「木・火・土・金・水」で成り立つとする五行説が合わさった考え方が、陰陽五行説です。兄(え)は陽で弟(と)は陰。陽と陰は、力の強弱ではなく、力の向く方向性の違いのこと。陽は外から内側へエネルギーを取り込むこと、陰は内側から外側へ発することだといいます。運の良い人とは、陽の人であり、外側から自分自身へ力を取り込んでいる人のこと。「運を呼び込め」とはよく耳にいたします。陰の人とは、運が悪いわけではなく、自分自身のみなぎるエネルギーを外に発している人のこと。一方が良くて、他方が悪いわけではなく、すべては陽と陰の組み合わせです。陰陽の太極図を思い浮かべていただきたいです。2つの魂のようなものが合わさって一つの円になる。一方が大きければ、他方は小さくなり、やはり円を形成するのです。森羅万象全てがこの道理に基づくといいます。

 

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ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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2025年11月から2026年1月まで 知る人ぞ知る熊本県「やまえ栗」が同県天草のみかんと出会い、Benoitのデザートに姿を見せる!

Benoitの秋冬は、「洋栗に始まり、和栗で終える」

 今の時期ともなると、Benoitのディナーは「栗で始まり、栗で終える。」というプリ・フィックスメニューの流れが多くなります。ときに栗の前菜がスープなために、コース2番目に配することもありますが、気持ちの中ではやはり「栗で始まる」ようなもの。前菜の栗はフランス栗。であればこそ、最後は和栗で終えたいものです。

 そこで、今季も「やまえ栗」を熊本県から送っていただき、デザートに仕上げます。この栗の名前を耳にして、「お!」と思った方は、栗を愛してやまない方か、栗を取り扱う専門家でしょう。もちろん、自分も知りませんでした。そこで、少しばかりこの栗が育まれた地と歴史をご紹介させていただきます。

 「やまえ栗」の「やまえ」とは、熊本県の南部に位置している、球磨郡(くまぐん)山江村の村名です。球磨川を上流へと向かった先にある人吉市。そこから、北に聳(そび)える標高1,302mの仰烏帽子山(のけえぼしやま)へと向かうように山路(やまみち)へと入った先に、この村があります。121㎢という広大な地でありながら、その90%を山林が占めているという。

 山江村は、三方を山で囲まれるかのような地。その山々に源を発する清流「万江川」と「山田川」が、南へと流れる中で彼の地を潤し、そして球磨川(くまがわ)へ落ち合う。そこで、この豊富な水資源と、開けた地の緩やかな傾斜は、かつては山田が拓かれ村が誕生したのでしょう。しかし、如何せん平野部が限られていることもあり、多くの人々を養うことができなかった。

 そこで、この盆地だからこその夏冬・昼夜の寒暖差、さらに山の斜面を利用した果樹の栽培を先人は考えた。しかし、賢人は柑橘ではなく栗を選んだのです…鎌倉時代から明治維新までの約700年間、すでに年貢として栗を納めていたという記録があるほどに、彼の地では特産となっていたといいます。

 時を経てついに!1977年9月、山江村の福山栗園の栗が昭和天皇へ「やまえ栗」として献上されることになるのです。今に至るまで連綿と受け継がれてきた栗栽培が、そして労を惜しまず丹精込めて育ててきた「やまえ栗」が、ついに認められた時がきたのです。どれほど山江村の人々の励みとなり希望となったことか。その年の大阪市場では、「献上栗に輝くやまえ栗」という横断幕が掲げられ、競りの最後に姿をみせた「やまえ栗」を見た村民は、「栗が輝いているようだった」と述懐しています。

 しかし、世相は「やまえ栗」に試練の時を与えたのです。1992年、山江農協が球磨(くま)地域農協合併されたことで、「やまえ栗」は他地域とブレンドされ「球磨栗(くまぐり)」として出荷されるようになるのです。歴史から、「やまえ栗」が消えたのです。

 球磨栗だって十分に美味しい栗です。しかし、山江村の人々は自分達の育んだ栗の美味しさに確固たる自信があったのです。今まで培われてきた栗栽培の歴史に加え、献上栗に選ばれたことが、山江村の誇りを見失うことに歯止めをかけたようです。粛々と時が経つ中で、「栗は命」であると言い切る彼らは、村の中という狭い範囲ですが「やまえ栗」を残し続け、復活の機会を待ち望んでいたのです。

 2008年、ついに世相が山江村の人々に微笑みかけた。時は大量生産から高品質を求めるように。そう、栗も例外ではありませんでした。和栗から球磨栗へ、さらに細分化された栗のブランド化が加速してゆくのです。そして、待ちに待っていたこの機運を、山江村の人々が見逃すわけがありません。ここに、「やまえ栗」の名前が復活を遂げたのです。

 2015年8月の台風15号の直撃し、栗畑は壊滅的な被害を受けました。献上栗に選ばれたころの生産量約400tもあったものが、約40tにまで落ち込んだのです。栽培者にとっては存亡の危機にいたる…心折れるほどのことだったはずです。さらに、翌2016年に熊本地震、2020年の豪雨災害と、度重なる自然の猛威の前に、なすすべなく打ちのめされます。

 しかし、彼らは諦めなかった!「やまえ栗」の品質向上を継続しつつ、「収量200t」との目標を掲げ、「やまえ栗」復興に向けて奮励努力することを厭(いと)わなかった。その結果、今では100tを超える実りを得ることができるに至ります。

 「やまえ栗」は、山江村で丁寧に渋皮を剥き、炊き上げ、ペースト状に加工されてBenoitに届きます。これだけでも十分に美味しいため、巷に溢れる栗尽くしデザートを期待してしまう。確かに、美味しい栗なのでたっぷり使ったデザートは、インパクトがあり美味しいだろう…しかし、人間の味覚というものは単調であると飽きてしまうもの。そこで、アジア圏のエグゼクティブシェフパテシエのアリテアが選んだのが、日本原産の美味なる柑橘、「ミカン」です。

 熊本県の天草といえば、海産物はもちろんですが、島を形成する山の麓を利用した果樹栽培が盛んな地。今回は、彼の地で、荒木さん親子が柑橘を丹精込めて育てあげたミカンをBenoitへ送っていただいています。彼らは、天草の地の利に甘んじることなく、さらなる美味しさを求めて続けています。今は、甘みを出すためにマルチシートという白いビニールシートを園圃全面に敷き詰めています。雨などの水分をギリギリまで与えないことで、みかんが生命を守るために甘みを蓄える、この仕組みを利用した栽培方法。確かに理屈は分かるのですが、昨今の異常競う中では、樹が枯死する可能性もある。それでも、毎日のように樹々の様子を観察しながら実践しているのです。

 今、Benoitに届いているミカンは、熊本県オリジナル品種の極早生「豊福(とよふく)」です。これもまもなく終わりを迎えるので、次は早生品種で、「肥のひかり」という、これまた熊本県のオリジナル品種。どちらも、荒木さん親子によって甘みを増した果実に育まれるのですが、ただ甘いだけではありません。キレイな心地よいミカンらしい酸味が、食べ飽きるという言葉を忘れさせてくれたいます。

 毎年のように、Benoitの栗デザートは「モンブラン」です。しかし、毎年のように姿が変わりこのデザートは、今季は栗のタルトのように仕上げます。土台となるタルト生地に栗粉と栗クリームを加え、サクッと焼き上げる。その生地の上に、栗粉と栗クリームを加えたフラン生地かぶせるようにし、バターで香り付けしたフランス栗そのものとミカンをのせて、オーブンで軽く焼いていく…

 そのタルトの粗熱をとれた後に、モンブランが冠雪するかのように生クリームをのせ、和栗ペーストを細く細く搾りのせ、ミカンを飾り、仕上げにミカンの果皮から作ったパウダーをはらはらっと振りかけて完成!この果皮のパウダーに、緑色を見たら「豊福」で、見なかったら「肥のひかり」。別に添えるミカンソルベを時折はさみながら、お召あがりいただきたいです。

 和栗と洋栗を使って、食感を変え風味を変えながら、層をなすように組み立てらえたタルトです。栗だけでは、まったりと重いデザートになってしまうところを、軽やかに仕上げてる。そして、ミカンの心地よい甘みと酸味によって、食べ進めても飽きがこない…秋ですが…。思う存分、秋の味覚の代表である栗デザートをご堪能いただきたいです。Benoit東京史上、もっとも標高の低いモンブラン!であることは、どうかご容赦ください…

Mont-blanc à notre façon, sorbet mikan

熊本県”やまえ栗“のモンブランBenoit風 ミカンのソルベ

※ランチ/ディナーのプリ・フィックスメニューで、+1,500円でデザートとしてお選びいただけます。

 

 

 バランスの良い美味しい料理を日頃からとることは、病気の治癒や予防につながる。この考えは、「医食同源」という言葉で言い表されます。この言葉は、古代中国の賢人が唱えた「食薬同源」をもとにして日本で造られたものだといいます。では、なにがバランスのとれた料理なのでしょうか?栄養面だけ見れば、サプリメントだけで完璧な健康を手に入れることができそうな気もしますが、これでは不十分であることを、すでに皆様はご存じかと思います。

 季節の変わり目は、体調を崩しやすいという先人の教えの通り、四季それぞれの気候に順応するために、体の中では細胞ひとつひとつが「健康」という平衡を保とうとする。では、その細胞を手助けするためには、どうしたらよいのか?それは、季節に応じて必要となる栄養を摂ること。その必要な栄養とは…「旬の食材」がそれを持ち合わせている。

 その旬の食材を美味しくいただくことが、心身を健康な姿へと導くことになるはずです。さあ、足の赴くままにBenoitへお運びください。旬の食材を使った、自慢の料理やデザートでお迎えいたします。

 

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 猛暑な日々も影を潜めてきたようです。これと入れ替わるかのように季節性インフルエンザやコロナウイルスが猛威を振るっているようです。過ごしやすい日々が訪れますが、ここで気を緩めると猛暑疲れがドッと押し寄せてくるでしょう。さらに、疲労・ストレスなどが原因による免疫力の低下を招きます。皆様、無理は禁物、十分な休息と休養をお心がけください。

最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。皆様のご健康とご多幸を祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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2025年11月 旬食材で仕上げるBenoitのスープ、昼はカボチャで夜は栗!

冬至にはカボチャ、でもその前にBenoitでカボチャ!

 今秋、Benoitのランチで「ご用意しているスープは、栗カボチャです。ねっとりと優しい甘みのあるこのカボチャをたっぷりと使い、なめらかなトロッとするスープに仕上げます。カボチャの美味しさを引き立てるかのように、バターと玉ねぎがいい仕事をしている。フランス料理の世界では、さらっとした液状のスープを「Soup」、とろりとした濃密なものを「Velouté(ヴルーテ)」と表現するようです。もちろん、BenoitのかぼちゃのスープはVeloutéと表現するにあい相応(ふさわ)しいもの。

 カボチャは、とてもとても栄養価の高い野菜。もちうる免疫力を最大限発揮することを促す、カロテンやビタミン類を豊富に含んでいます。さらに、ホルモン調整機能をもったビタミンEが、肩こりなどの更年期障害の症状を改善するといいます。

 夏には恨めしく思っていた陽射しは、これから冬に向かうことで日増しに短く弱くなってきます。ついつい憂鬱な気分に陥ってしまう時期だからこそ、免疫力が下がり体調を崩しやすくなるもの。「冬至にカボチャを食べると病気にならない」とは古人の教えであり、今でも十分に説得力を持っています。しかし、Benoitでは冬至まで待つことはありません。「秋からカボチャを食べることで、きっと病気にならない」と信じております。美味しく食することで、効率よくカボチャの豊富な栄養を摂ることができ、さらに人を笑顔にする。上向きの気持ちの時11月旬食材で仕上げるBenoitのスープ、昼はカボチャで夜は栗!には、病気にはかからないものです。

Velouté de potiron et fromage frais “

かぼちゃ"のスープ リコッタチーズ

※ランチのプリ・フィックスメニュー、前菜としてお選びいただけます。

 

 

秋は時雨(しぐれ)から始まるでも、Benoitの秋は栗で始まる

 秋を代表する食材の中で、料理とデザートで主役を担うことのできるものとして、和洋を問わず筆頭に挙がるのが「栗」でしょう。栗なる木の実を大きく分類すると3つに分けることができ、それぞれに美味しさが異なります。天津甘栗などで有名な「中国栗」、マロングラッセなどには欠かせない「ヨーロッパ栗」、そして、日本の「和栗」です。Benoitには、ヨーロッパ栗と和栗が届いています。

 ヨーロッパ栗は、もちろんフランスから。フランス栗は特有のコクと甘さがあり、フランス伝統菓子のマロングラッセがやはり美味。栗おこわにすると、和だしや醤油の旨味ばかりかもち米の繊細な風味をも奪い去ってしまうことでしょう。そこで、Benoitでは、洋栗をこれでもかと使ったなめらかなスープに仕上げます。

 フランス栗だけでこしらえるスープは、甘さと木の実のコクが強く出ます。だからといって薄くするという発想はありません。Benoitでは栗の渋皮を加えることで、赤ワインの渋みのような味わいを加えるのです。今の時期になると、必ずと言っていいほど「栗のスープはいつからですか?」と皆様から問い合わせが入る逸品です。Benoitの秋は栗で始まる…

Velouté de châtaignes, garniture mijotée

フランス産栗のスープ

※ディナーのプリ・フィックスメニュー、前菜としてお選びいただけます。

 

 そういえば、栗には古今東西を問わず渋皮があります。美味しく食べるには、この渋皮を取り除かねばなりません。フランスで栗の収穫を迎えると、この渋皮剥(む)きは女性の担当だったといいます。この作業を経験した方はご存知かと思いますが、手が渋皮で黒ずんでくるのです。特に爪が黒ばんでくることを、フランス女性たちの美意識が許しませんでした。そこで、考案されたのが「マニキュア」だと…そのような女性たちの想いを感じながら、Benoitの栗料理と栗デザートお楽しみいただくことも一興かと。

 

 バランスの良い美味しい料理を日頃からとることは、病気の治癒や予防につながる。この考えは、「医食同源」という言葉で言い表されます。この言葉は、古代中国の賢人が唱えた「食薬同源」をもとにして日本で造られたものだといいます。では、なにがバランスのとれた料理なのでしょうか?栄養面だけ見れば、サプリメントだけで完璧な健康を手に入れることができそうな気もしますが、これでは不十分であることを、すでに皆様はご存じかと思います。

 季節の変わり目は、体調を崩しやすいという先人の教えの通り、四季それぞれの気候に順応するために、体の中では細胞ひとつひとつが「健康」という平衡を保とうとする。では、その細胞を手助けするためには、どうしたらよいのか?それは、季節に応じて必要となる栄養を摂ること。その必要な栄養とは…「旬の食材」がそれを持ち合わせている。

 その旬の食材を美味しくいただくことが、心身を健康な姿へと導くことになるはずです。さあ、足の赴くままにBenoitへお運びください。旬の食材を使った、自慢の料理やデザートでお迎えいたします。

 

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