kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

2024年1月 「霜とは何か?どうしたら降(ふ)るのか?なぜ降るというのか?」

寒中お見舞い申し上げます。

 

 新暦では12月から翌年2月までが冬という季節。しかし、今までは、北海道や東北地方での大雪のニュースを目にするものの、都内は温かい陽射しによって冬という実感がわかなかったものです。その関東地方も、「寒の入り」を迎えることで、ようやく、身震いするような寒さを覚えるようになりました。

 都内でも雪が舞うか?との憶測がある中で、どうしても見たいものが「霜(しも)」という現象です。地方育ちなもので、馴染みの「霜」でしたが、都内ではとんとお目にかかれないものです。「露(つゆ)」ですら、皆無であることを鑑みると、関東の冬は乾燥しきっているのでしょう。「露」が凍(こご)えて「霜」となる…?

 

野べよりや 冬はきぬらん 草の葉に おく白露の 霜となるかな 源師時(もろとき)

 源師時の邸宅が京の都のはずれにあったのか、はたまた旅先なのでしょうか。「冬はきぬらん」の語尾は、現在推量の助動詞「らむ/らん」。寒さ堪(こた)える早朝のころ、彼が宿/屋戸を出たとき、野辺の地表が白々しくなっている光景が目に入った。それが、朝日に輝く露ではなく、霜であると気づいたとき、「野辺から冬がきたのだろうか…」と詠わせたのです。なぜか?

 葉の上に置いていったものが「露」ではなく「霜」であったこと。古人は「秋(晩秋)」が「露」を置き、「冬(初冬)」が「霜」を置いてゆくと考えていた。地方によって誤差はあるものの、今でも十分に通ずる考えか思います。源師時は、霜が降りている光景を目の当たりにし、季節が移り変わったことを知りえた喜びが、冬が野辺から始まるわけではことを識(し)っているにもかかわらず、師時をしてこう詠わしめたのではないでしょうか。

 さて、草の葉に置いていった「露」が「霜」となっているではないか…と源師時はいう。「露」が凍(こご)えて「霜」となる…お恥ずかしい話ですが、自分はこう思っていました。そして、師時を含めた往古の人々もまた、同じように考えていたようです。よくよく考えると、氷は無色透明で、急ぎ凍らすことで空気が含まれてしまい白い箇所ができてしまうものの、霜の降りた白々とした光景とはなりません。「露」や「霜」とは、いったいどのようなものなのか、少し調べてみました。

 

 空気中の水蒸気が冷えた物体に触れることで露点を下まわり、水滴とって表面に付着する現象を結露といいます。夏にキンキンに冷えたペットボトルを常温にさらすとどうなるか、皆様すでに経験があるのではないでしょうか。自然界でも、「放射冷却」などにより地表の草や土などの温度が気温よりも下回るとき、空気中の水蒸気がさらに冷えた地表の土や草に触れることで露点に達し、結露がおきます。露は水分なため、撥水性の物質に降りなければ、その存在を見ることができません。

 自然界には、常に水蒸気が含まれています。そして、この水蒸気は気温によってどれほどまで空気に水分が含むことができるかが変わってきます。気温が高ければ多くの水分を空気は含むことができますが、低温であれば少なくなります。この空気が水蒸気として内包することのできる限界量(飽和水蒸気量)となったとき、その気温を「露点(露点温度)」といいます。

 気温が下がってゆき、その気温の飽和水蒸気量をあふれてしまったものが、「露」として降りてくる。気温15℃の時の飽和水蒸気量は12.8g/㎥です。この時に10.0g/㎥の水蒸気を含んでいたとすると、明け方となり気温が5℃(飽和水蒸気量6.79g/㎥)となると、3.21g/㎥の過剰分が結露することになります。

 天気予報では「湿度」という言葉が登場します。湿度は、「その時に水蒸気量÷その時の気温の飽和水蒸気量」で計算されたものです。15℃の気温で6.4g/㎥の水蒸気量であれば、「6.4 g/㎥÷12.8 g/㎥=0.5(50%)」ということです。露点は、水蒸気量によって決まり、気温に左右されません。しかし、湿度は気温によって飽和水蒸気量が変わるため、正確な数字とはなりません。とはいえ、天気予報で「本日の露点は20℃です」と言われても…洗濯物をどうするか悩んだときは、「本日の湿度は30%です」と伝えてもらえた方が、自分のように物理に疎い者にはわかりやすいものです。

 湿気を含んだ海から吹く風が、山にぶつかり上へ上へと促されると、気圧の低下によって気温が下がり(断熱膨張)、雲となり雨となる。それが、川をつたって海に還るという水のサイクルを小学生時代に学んだ気がします。自然界においては、気温が低くなることで飽和水蒸気量を超えた場合、それは小さな水の粒となり雲を形成し、たまりたまって雨となり、「露」にはなりません。では、どのような条件下で「露」が生まれるのか?

 前述したように、「放射冷却」などにより地表の草や土などの温度が気温よりも下回るとき、空気中の水蒸気がさらに冷えた地表の土や草に触れることで露点に達し、結露がおきます。空気全体が冷えていくだけではなく、地表がさらに低い温度になっていなくてはなりません。飽和に近い水蒸気量を含んでいる冷えた空気が、それよりも数℃冷えている地表の草や土に触れたとき、空気が露点に達し、「露をおいてゆく」のです。その触れた狭い空間の温度差を起こすのが「放射冷却」という現象です。風が強ければ、地表の空気が攪拌されることになり、この温度差が生まれません。さらに雨上がりなどで、水が付着していたり、大地が湿っている場合には、水の比熱容量が大きいために、この放射冷却が起こりにくくなります。

 

 では、霜はというと…霜は馴染みの氷ではなく、氷の結晶が堆積したもの。これもまた、「放射冷却」などの影響で地表の草や土などが「0℃」以下に冷えたとき、それよりもほのかに暖かい空気が、その冷え冷えの草や土に触れることで一気に霜点に達する。すると、空気中の水蒸気は露(液体)とはならず、氷の結晶へと姿を変えるのです。小学生の時に学ぶ、「水蒸気→水→氷」の理論とは違う、「水蒸気→氷(結晶)」という「昇華(しょうか)/凝華(ぎょうか)現象」が起きるといいます。

 物質には固体、液体、気体と3つの状態があり、気圧と温度によってその姿が変わります。氷が融点に達すると融(と)けだして水となり、沸点に達すると水蒸気になります。ところが、0.6hPa(ヘクトパスカル)に減圧した0.01℃という状況は、この3つの形態が共存しているといい、ここを「水の三重点」といいます。これよりも減圧するか温度下げると、固体→気体(昇華)や気体→個体(凝華)が起きるという。※かつては、どちらも「昇華」と表現していましたが、2022年の化学の教科書から、固体が液体を経ないで気体となることを「昇華」といい、この逆を「凝華」と呼び分けています。

 1気圧が1,013hPaなため、0.6hPaという気圧は、真空に近い状態ということです。ここまで減圧すると、固体↔気体という「昇華/凝華」が起きることになります。この原理を利用したものが、「フリーズドライ」という食品の保存方法です。食品を凍らせ、減圧した中の保管し、少しだけ温度を上げます。すると、食材内の凍っていた水分が昇華することで乾燥してしまうのです。長期保存が可能となるばかりか、水分が加わると乾燥前の姿に遜色なく戻るのです。お味噌汁でお世話になっている方も多いのではないでしょうか。

 参考までに、馴染みの「ドライアイス」は二酸化炭素の固体で、素手では触れることができないほどに冷たく、常温では液体を経ずに気体へと変わります。この二酸化炭素三重点は、5,200hPaの-56.6℃です。1気圧が1,013hPaなため、常温では昇華してしまうということなのです。

 霜とは、自然界でこの「凝華」が起きている?調べるほどに疑問に思えてくるものです。どこをどう調べても、「霜は水蒸気の昇華/凝華現象によって発生する」という。霜が降(ふ)る夜明けは、気温0℃の中で足元の気圧が0.6Paまで激しく減圧している?そのようなことが起きるとは到底考えられません。字面だけを見ると、「昇華/凝華」という難しい言葉なために、なんとなく納得してしまうものですが、どうも違うような気がしてなりません。確かに、霜は水蒸気が氷の結晶となって地表に降ってきます…

 「霜」が降りるときは、「露」と同じような条件が必要になります。違いは、空気が地表1mほどの気温が4~5℃前後であり、地表の草や土などがが「0℃」以下に冷えているということ。気温が下がり霜点に達することで氷の結晶となるという。確かに、水蒸気が氷の結晶となるため、「凝華」という現象が起きているように思えるものです。しかし、「凝華」には前述したような気圧と温度という条件が必要になってきます。冷凍庫に入れておいた食材が乾燥する「冷凍焼け」も、一種の凝華現象だということから、ないとも言えないけれども…

 自分のような学者でもない素人は、素直に考えるのが良いのではないかと思うのです。飽和水蒸気量を含んだ空気が0℃の地表に触れたとき、空気は急激に冷やされ、露点を超えて霜点に達することになります。順番ではもちろん露点が先なため、空高くで発生する雲のように、水蒸気が水の微粒子に変わり浮遊する。そして、あっというまに霜点にまで及ぶため、微粒子が塊となり「露」となる前に、雪のように氷の結晶となるのではないでしょうか。

 水蒸気が氷の結晶へと姿をかえているように思えるため、「昇華/凝華」という言葉を当てているような気がします。その実は、水蒸気が露点を迎えることで水の微粒子となり、すぐに霜点に達することで氷の結晶へと姿を変える。それが「霜」となる。この変化がゆっくりであると、水の微粒子が粒となり「露」となって降りてくる。そうなると、水の「比熱容量」が大きいために、温度変化が緩慢となり、氷の結晶である霜とはなりません。「露」が凍った場合は、「霜」ではなく「氷」です。霜柱は、地中の水分が凍ったもので、「霜」の字が入っていますが「霜」とは別物です。

 「霜」について考察してみました。化学でいう「昇華/凝華」とは違う現象が、凍えるような地表で起きていると思うのです。大地や草などの地表から数cmほどのごく限られた空間で繰り広げられる、それも毎日ではなく必須条件を満たしたときのみに起こる、美しき自然現象なのでしょう。冬の空気が、そっと地表に「霜をおいてゆく」のです。皆様はどう思われますか?

 

 「露」も「霜」も、空気と地表との温度差が必須です。今まで幾度となく文中に登場した「放射冷却」と「水の比熱容量」が、これらの自然現象のポイントなっていました。「放射冷却」とは、よく天気予報などでも耳にすることのある言葉かと思いますが、晴れた日の夜は冷え込むというほどの認識しか自分はもっておりませんでした。まして「比熱容量」となると、全く意味不明なもの。そこで、この摩訶不思議な言葉を少しだけ掘り下げてみようと思います。

 「放射冷却」とは、簡単に言ってしまうと、物が外へ熱を出して冷えること。熱したフライパンを放置しておくと冷めていきます。温度こそ違え、自然界においても、「もの」は昼夜を問わずして微々たるものですがエネルギー(熱)を発しています。昼間は、太陽の陽射しによって放出以上に温まるため気になりませんが、陽が落ちると熱を放ち続けることになります。

 今の時期に、我々が布団を掛けずに寝てしまうと、体から熱が放たれつづけるため、寒さに耐えきれずに目が覚めてしまいます。これを防ぐのが、掛け布団です。これと同じような現象が、自然界での雲の存在です。空を雲が覆うと、まるで掛け布団のように、地表から放たれた熱を滞らせてくれる。さらに、風が強い場合には、寒暖の空気が混ざり合うように地表に吹き付けるため放射冷却が弱まる。なるほど…そして、身近な存在である「水」の存在も忘れてはいけないようです。

 水は常温にて安定している物質ですが、比熱容量が他の物質に比べてとても高い。こと、通常の温度範囲の液体だけみれば、最高値を誇ります。比熱容量とは、1g の物質の温度を1℃上げるのに必要な熱量のこと。この数値の大きい物質は、温まりにくく冷めにくい。逆に、小さい物質は、「温まりやすく冷めやすい」ということを意味します。少し言葉を変えると、水を温めるのに大きな熱量を必要としますが、「いったん温まると冷めにくい」ということ。

 よく、「盆地の夏は暑くて、冬は寒い」とよく耳にします。多々理由はあるかと思いますが、要因は「水の比熱容量」だといいます。大地は構成する要素は、水に比べて比熱容量は圧倒的に低いです。真夏の恨めしいほどの陽射しは、比熱容量の低い大地をすぐに熱するも、水はじわりじわりと温める。冬へ移りゆく中で、陽射しが柔らかくなるため、大地は温まるも冷めやすい。半面、水は今までの温(ぬく)さがあるため、ゆっくりと日増しに冷めてゆく。

 日本の北緯35度の2つの地域、盆地の京都府京都市と意味に面した千葉県の館山市。8月初旬ともなると京都は最高気温が32℃最低気温24度 対して館山は30℃に24℃。1月下旬では、最高気温7℃最低気温0℃、館山は10℃3℃となる。数字だけ見ると、たいしたことがないような気がしますが、気温1℃の違いは、身体にはかなりの気温差として感じるものです。

 もうひとつ、真夏の両都市の寒暖の差を見ていただきたい。京都は8℃で、館山は6℃です。太陽が昇ると同時に、大地と海は温められてゆくのですが、温まりやすくて冷めやすい大地と、温まりにくく冷めにくい海との間に、温度差が生まれ涼しいところから暖かい方へと対流移動がおこります。海側からが海風、反転したときが陸風です。海辺は真夏でも過ごしやすいと思うのは、大海原の景色に加え、この心地よい風が要因なのではないでしょうか。盆地である京都は、清々しい緑美しい光景に山より吹き下ろす山風が来る…しかし、大地も樹々も比熱容量が水にくらべて圧倒的に小さいのです。山風が吹くも、ぐんぐんと温度の上がる大地を冷ますにはいたらないのでしょう。

 常温において、これほどまでに安定していて、生きとし生けるものにとって必要不可欠な「水」。あまりにも身近なものであるための、その驚異的な能力を見過ごしがちです。「キンキンに冷えたビールが飲みたい!」という時に、缶ビールを冷やし忘れた!という経験はないでしょうか?この時に、冷蔵庫や冷凍庫に缶ビールを入れるよりも、氷水に入れたほうが早く冷えて飲み頃ごろになります。これも空気と水の比熱容量の違いなのです。水は4.18で空気(20℃)は1.01、参考までに鉄は0.45 で銅は0.38 ※単位はJ/(g・k)。断トツに数値が高い水は、接しているものから大量の熱を奪うことで水温を上げてゆくということなのです。

 もうひとつ、真夏の猛暑対策として、「夏の打ち水」をされたこがあるのではないでしょうか。水という液体が気体になるときに必要な熱量を周りから奪うことを利用して、気温を下げようというものです。水を撒くよりも、液体窒素を撒いたほうが冷えるのではないか?ということで、これも少し調べてみると…いかに自分の考えが浅はかだったかが判明しました。

 液体が気体になるときに必要な熱量を蒸発熱といい、数値で表しています。水(沸点100℃)の状発熱は2,250で、あれば、エタノール(沸点80℃)は393、 こと液体窒素(沸点-196℃)は199でしかない、※単位はkJ/(kg)。細かな数字の意味は、物理を専攻している方に任せるとして、この抜きんでた水の数値に注目していただきたいのです。液体窒素は、確かに触れたものを瞬時に凍らせることができるが、周囲の気温を下げるには蒸発熱が低すぎる。これに対して、水は気化するために大量の熱を必要とする。真夏の道路に水を撒くもすぐに乾いてゆく光景は、水が道路や空気から「どしどしと熱を奪っている」ので、涼しくなるのです。これほどまでに安定した物質で、無害な液体は他にはありません。

 地球は、砂漠にアマゾン、さらにシベリアなどと、地域によって寒暖差が激しいものです。しかし、他の惑星に比べれば大きな差ではありません。参考までに火星は平均気温が-62.7℃で、最高気温30℃で最低気温は-140℃といいます。いろいろな理由があるかと思いますが、要因のひとつは地球の表面の70%を占める海の存在です。そして、我々が体温を一定に維持できるのも、成人の約60%をなす水分のおかげだといいます。水が喉の渇きを癒すだけではなく、その比熱容量の大きさが、知らず知らずのうちに我々に大いなる恩恵をもたらしていたのです。

 「露」や「霜」が、涼しいから、寒いからだけで「降りる」ことはありません。秋から冬を挟み春までの、よく晴れた風の弱い日に「放射冷却」による地表の冷え込みが大きくなるといいます。雨上がりの水滴などが大地や草などに付着していては、「放射冷却」の効果は薄れます。しかし、空気中には飽和に近い水蒸気量を含んでいなければなりません。すべての要因が合致したとき、寒さに応じて「露」や「霜」が降ってくるのです。

 古人は、夏の空気から秋の空気へ、秋の空気から冬の空気へと引き継がれてゆく感じたとき、「露」や「霜」が降ることを予見した。源師時は、「草の葉に おく白露の 霜となるかな」と詠っているが、「露が凍えて霜となる」というよりも、「秋」が「朝露」をおいていた時期から、とうとう「初冬」が「朝霜」を降らせることを確信したのでしょう。子供が大人になるというような、時間的な経過が言外に含まれている「なる」なのではないか。そして、季節の機微を捉え言の葉を自在に操るという歌人だからこそ、この兆候に気づいたとき、誰よりも先んじて詠じようとしたのではないかと思うのです。

 「露」や「霜」の現象のメカニズムを知ってか知らずか、この美しく不可思議な自然現象を、「露/霜が降りる」「霜が降(ふ)る」という表現を古人は導いてきた。自然の機微を捉えようとする彼らの観察眼が成しえた表現であり、なんと的を射たものかと驚嘆するばかりです。

 氷の結晶は無色透明ですが、同じ氷の結晶である雪が光の反射によって白く見えます。これと同じように、霜もまた目には白く映るのです。源師時が朝霜を目にした光景は、「草の葉についた霜」ではなく、「(冬が)草の葉においた霜」であった。主語がなく「露/霜をおく」という表現が、読み手に想像をかきたてさせ、美しい光景を脳裏に浮かばせることになる…

 「霜がつく」では、おかしくはないが、「をかし(趣がある)」くない…のだと教えてくれている気がします。

 

 「霜」というのは、美しい自然現象ですが、こと農産物の栽培者にとっては厄介極まりないもので、霜や凍ることで起きる被害を「凍霜害(とうそうがい)」といいます。冬に旬を迎える野菜や果樹は、この寒さに抗(あがら)うかのように、糖類やアミノ酸類などを合成・蓄積して細胞内部の溶質濃度を高めて細胞内が凍りつかないように準備するといい、これこそが、冬ならではの美味しさです。しかし、何事にも限度というものがあります。

 寒さが「冬の味覚」を導くも、その寒さが限界を超えてしまうと、一夜にして今までの苦労が水泡と帰すことになりかねません。だからと言って、大寒波の訪れに対し何か対策がとれるのかというと、ベランダの植木鉢とは違って、広大な農園では移動もままならず、何かを施すとしても限られたものです。

 生きとし生けるものとって欠かすことのできない陽の恩恵を享受し、抗うことのできない自然の厳しさを甘受する。農を生業とすることの難しさがここにある。だからこそ、無事に収穫を迎えることができたときの喜びは一入(ひとしお)なもの。彼らが丹精込めて育て上げた野菜や果実を手にした時の我々の笑顔、さらに食したときに「口福」を覚えたとき、彼らの労が報われることになる。そして、我々は「いただきます」と感謝の気持ちを持つことで、彼らの労に応える。

 「農」の世界に魅せられ、就農を決意し、馴染みのない地に赴いた若者がいる。地元ではなく、香川の土地や雰囲気が気に入ったからということで、彼は讃岐平野を選んだ。今、Benoitの届く見事なまでのブロッコリーは、彼の地で彼が手塩にかけて栽培した逸品なのです。

 ブロッコリーは今が旬であり、多くの産地で育まれたものが所狭しと野菜売り場を占めています。どこで育ててもブロッコリーブロッコリーと思うことなかれ。なぜBenoitが、送料をかけてまでも大東さんのブロッコリーを購入しているのか…美味しいからに他なりません。なぜ美味しいのか?自分が尊敬してやまない鹿庭さんの力を借りて詳細をブログに書き綴ってみました。

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 バランスの良い美味しい料理を日頃からとることは、病気の治癒や予防につながる。この考えは、「医食同源」という言葉で言い表されます。この言葉は、古代中国の賢人が唱えた「食薬同源」をもとにして日本で造られたものだといいます。では、なにがバランスのとれた料理なのでしょうか?栄養面だけ見れば、サプリメントだけで完璧な健康を手に入れることができそうな気もしますが、これでは不十分であることを、すでに皆様はご存じかと思います。

 季節の変わり目は、体調を崩しやすいという先人の教えの通り、四季それぞれの気候に順応するために、体の中では細胞ひとつひとつが「健康」という平衡を保とうとする。では、その細胞を手助けするためには、どうしたらよいのか?それは、季節に応じて必要となる栄養を摂ること。その必要な栄養とは…「旬の食材」がそれを持ち合わせている。

 その旬の食材を美味しくいただくことが、心身を健康な姿へと導くことになるはずです。さあ、足の赴くままにBenoitへお運びください。旬の食材を使った、自慢の料理やデザートでお迎えいたします。

 

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最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。皆様のご健康とご多幸を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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