kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

2024年 干支「甲辰(きのえたつ)」のお話です。~なぜ竜/龍なのでしょう?~

 2024年の干支(えと)は、「甲辰(きのえたつ)」です。

 世界の言語は、「絵画文字」、「表音文字」、「表意文字」などに大別されます。絵画文字は、古代文明に書き記された絵文字を代表とし、表音文字はアルファベット(音素文字)や日本の仮名(音節文字)などがあります。そして、表意文字は、一文字で単語を成し、実質的な意味を持つもの。それが「漢字」です。

 古代中国の賢人は、毎年の世相を分析し続け、世相は繰り返すことを見出した。そこで、時代時代を表現する漢字二文字を選び、この漢字の組み合わせをもって後世に伝えようとしました。それが「干支(えと)」というもので、十干(じっかん)と十二支の組み合わせで成り立っています。甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)…と続く「十干(じっかん)」と、馴染みの子(ね)・丑(うし)・寅(とら)…の十二支。

 この10と12という数字が、我々の生活の中でどれほど溶け込んでいることか。算数を学ぶ上で、数字の区切りとなるのが10。そして、半日は12時間、1年は12ヶ月。10と12の最小公倍数は「60」。還暦のお祝いとは、この漢字の通り「暦が還(かえ)る」人生60年目の節目を迎えたことを祝うもの。

 干支にあてがわれた漢字は、それぞれに樹の成長を模したものだといいます。賢人は、今年の世相をどのように分析し見定め、干支という形で我々に遺したのでしょうか。今年は「甲辰(きのえたつ)」です。賢人は、漢字に何を託し、我々に伝えようとしたのでしょうか?素人ながら、漢字語源辞典「漢辞海」を片手に、賢人の想いを書き綴ってみようかと思います。

 

 干支が十干と十二支の組み合わせであることは前述いたしました。2つの漢字一文字ごとに意味があり、2つの立ち位置の違う「世相」を組み合わせているのだと考えます。最初の漢字の世相は、人が抗しがたい「時世」の勢いであり、賢人は10年というサイクルを見出し、「十干」をあてがう。人生とは栄枯盛衰を繰り返すもの、これが「人世」である。賢人は、その人世を12年であるとし、十二支をあてる。干支とは、古代中国の賢人が「時世」と「人世」を読み解くことで導いた、その年ごとの世相のこととみる。そして、それぞれの漢字が樹の成長になぞらえているという。

 

 「時世」を意味する十干、2024年は「 (きのえ/こう)」です。

 昨年2023年は「癸(みずのと)」であり、十干の殿(しんがり)を担っています。この見慣れない漢字を、「説文字解(せつもんじかい※文末に説明を記載します)」はこう説いている。「癸」は冬の時節に配される。そして、川も土地も凍り、草が枯れることで、地は平坦となることで「揆度(きたく)」するこができる、と。揆度とは「はかる」こと。さらに、川が四方から流れて地中に注ぐ形に象(かたよ)るという。

 さらに、「釈名」によれば、「癸」は「揆」である。時機を揆度して生じ、やっと土からでる。「揆」には、「はかる」という意味があり、その幅は広い。数値として「測る」に「量る」、タイミングを「計る」、計画を「図る」。「揆測(きそく)」は、「揆度」と同義であり、推しはかること。

 さて、十干は還ってきました。「甲」は十干の第一位です。漢字そのものは、草木の芽の外皮や殻、動物の体を包む甲羅などのから、さらに甲冑(かっちゅう)というように、鎧のことも意味します。この甲冑の甲は鎧で、冑は兜を意味しているのですが、象形文字だけに、頭を守る兜のように見えなくもない。さらに、鉄で組み立てたものが鎧であり、皮革で作ったものが甲という。十干での方位は「東」で、五行では「乙(きのと)」とともに「木」に当てています。

 もう少し、語源辞典「漢辞海」を使って深く調べてみます。「説文字解」によれば、「甲」は東方に配され五行の「孟(もう)」である。東に配される春には、陽気が兆し動くので、「甲」は木の芽などを包む、殻をかぶるような様子から構成される。さらに「釈名(しゃくみょう)」では、十干の「甲」は「孚甲(ふこう=種子の皮)」である。万物が種子の皮を解いて生ずる。鎧の「甲」は、生物が「孚甲(=から)」をもって自らを守るのに似ている。またこれを「介」「函(かん)」「鎧(がい)」という。

 「甲」は「孟」であるという。四季はそれぞれ3か月間あり、それぞれを「孟」「仲」「季」といい、春は孟春(正月)→仲春→季春。「孟」には「はじめ」という意味があります。さらに、「努力する」という動詞もある。しかし「孟浪(もうろう)」という、「とりとめがない」やら「だらしがない」という言葉がある。

 「孚甲」の「孚」。馴染みがない漢字だけに意味が思い浮(←似ているけれども)かばないものです。「説文字解」によれば、「爪」と「子」で構成される「会意」に分類されます。卵がかえること意味する。鳥は卵を抱きながら、爪で卵を回転させ孵化を促すという。そこで、「孵化する」という意味もあり、そこから「信服する」と派生し、さらに名詞では「誠意」と。「孚信(ふしん)」とは、心の中にある誠(まこと)、「真実」という意味です。

 時世という樹は、昨年2023年までの10年間で成長し、新たな種を大地に落とした。そこへ、四方から落合い落合い流れ込む川が大地を潤し、誕生することを促しているも、、「癶」が進むことを躊躇(ためら)わせているかのよう。時世はその機を計っているかのように、急ぐ気配はなかった…そう、なかっ「た」…

 昨年の時世である「癸」は「揆」である「釈名」はいう。「揆」には、「はかる」という意味があり、その幅は広い。数値として「測る」に「量る」、タイミングを「計る」、計画を「図る」。「揆測(きそく)」に「揆度(きたく)」と、タイミングを見計っていた。今年2024年の「時世」は「甲」であり、「孟」を導いた。「孟」によって、いよいよ時世が動き出すことを知る。

 種が動き始め芽吹くことになったものの、いまだ時世は「孟浪(もうろう)」としている。「孟」が努力することを求め、「孚甲」によって自らを守っている。「甲」には「介」「函(かん)」「鎧(がい)」という堅重な「よろい」を意味する漢字に通ずる。「鎧」はそのもの。しかし、「介」には他に「介添え(=引き合わせる)」という意味もあり、さらに「助け守る」や「心のとどめる」とまで。「函」には、「函迫(はこせこ=江戸時代に懐中した懐紙入れ)」のように、奥深くに含まれる、包み込むという意味もる。

 時世は、向こう10年にむけて動き出すも活発にでは、ひっそりとしたものであり、いまだ「孟浪」や「函胡(かんこ=曖昧ではっきりしない)」ものであるという。そこで、その時世を守るかのように、何かが介在する。それが、「孚信」であり「介心(=高潔な心)」なのだと。

 「人世」を意味する十二支。人世における栄枯盛衰に、賢人は12年を見い出し、樹の成長にならった漢字をあてがいました。2024年は「辰 (たつ/しん)」、十二支の中で5番目です。

 昨年2022年は4番目の「卯」。方位では「東」に位置し、五行では「木」にあてる。「説文解字」によれば、象形文字であり、門が少し開いた形に象るという。万物が大地を冒(おか)して伸び出すことを意味するという。卯木(うつぎ)の花が咲く月だからということで、日本では旧暦4月が「卯月(うづき)」です。しかし、古代中国では2月を指す。

 今年の「辰」は、もちろん十二支の5番目。方位は「東南東」で、五行では「木」に当て、「竜」の意味も併せ持つ。「芳辰(ほうしん=吉日や春の良き時期)というように、時間や時期を意味する「晨(しん/あした)」を含意し、さらに「北辰(=北極星)」や「三辰(=太陽・月・星の総称)」にように天空に見る星の意味もある。

 語源辞典「漢辞海」を紐解いてみる。「説文字解」によると、この字は意味ある漢字を組み合わせた「形声」文字であるという。震(ふる)う。3月に陽気が動き始め、雷鳴とどろかすことで空気や大地が震動することで、民が農作業をする時節であることを知る。万物がみな生じるときなので、「乙(=草が屈曲しながら地上に出るさま)」と「匕(=変化)」から構成される。草がまっすぐに達する意に象(かたど)るという。さらに「釈名」によれば、「辰」は「伸」であるという。物がみな「伸舒(しんじょ/のびること)」して出てくるという。

 さらに、「辰」は「晨」を導いていました。馴染みのない漢字ですが、鶏が夜明けを告げる、時を告げるという意味があり、「早晨」とは夜明けのこと。「晨」は、「辰」の上の「日」がのる。この「日」は「晶(=純粋な光)」を意味し、朝になると太陽光がまた伸びて現れることだと。この「また」というところが、繰り返されるこの太陽の陽射しに感謝の気持ちが込められている気がします。

 古代賢人は、「辰」に「竜/龍(以下は竜と書きます)」をあてた。十二支とは、それぞれ意味のある漢字を皆に周知してもらうため、身近な動物をあてたのだという。その中で、竜だけが唯一実在しない生きものです。帝王の象徴だから、古来はその存在を皆が信じていたからという。しかし、十二支の5番目に「竜」をもってくることに、何か意味があるような気がします。春分に天に昇り、秋分に淵に潜るという「竜」。「臥竜(がりゅう)」とは、非凡の人のこといいます。さらに、「竜」は自由に雲を起こして雨を降らすことができることから、めぐみや恩恵という意味もあります。

 昨年2023年の「卯」は象形文字であり、門が少し開いた形に象るという。万物が大地を冒(おか)して伸び出すことを意味するという。人世は、土が覆いかぶさった中で、各々が培ってきた種が着実に育まれていた。昨年は、土が人世の勢いを抑えるかのよう蓋となっていたものが、ついに押し上げられるよう。水が大地を覆い潤すことで勢いを得た。そして、いよいよ辰をもって、本格的に芽吹くことを暗示している。

 2022年は「壬寅」。時世の「壬」は「妊」であり、人の妊娠の姿を象る。人世の「寅」は「演」であり、物を演(ひ)いて誕生させるという意味も含む。偶然なのか必然なのか、時世も人世も新しいものが誕生していることを暗示している。人智及ばぬものが時世であり、人がどこうできるようなものではありません。2020年の「辛」を受け注いだ「壬」、新しい時世が誕生してはいるものの、まだまだ赤子のような姿で、どのような性格を持ち合わせているのかは定かではありません。

 そして、時世と歩調を合わせるかのように、それぞれの人世も育まれているかのようです。混沌とした世界の中で、もがき苦しみ行動してきたことが実を結び「種」となる。時世という地に植えられた「種」が動きだそうとするも、時世が抑え込むかのようで動きは鈍い。時世は、我々に肥沃な地を用意してくれたものの、今が芽吹く時ではないといっている。

 2023年は、ついに育んできた時世の種が動き出す。古代中国で生まれた五行説では、時世の「壬」と「癸」は「水」であり、人世の「寅」と「卯」は「木」である。水は木を生み出すという…五行相生(ごぎょうそうじょう)という相性のいい関係。陰の気が極まった「壬寅」から、「癸卯」は陽へと舵を切る。時世が大地を潤したことで、我々個々が育んだ種が演出した(=新たに生まれた)。それが、いよいよ動き出す。

 2021年「辛丑」は、止まるべき時に止まり、行うべき時には行う。動くも止まるも、時(天命)を見失わなければ、その道の見通しは明るい、と伝えていた。2022年「壬寅」は、従順さであらゆる事柄を受け入れることにより、大いに順調にゆく、そう教えてくれた。川がその大地を演(うるお)すも、時世に寄り添うように身をゆだねながら、芽吹きの機を待てといってた。

 そして、昨年2023年は、「癸」は「揆」であり、「卯」は「冒」であるという。時世は、我々に行動に移す時ではある教えると同時に、タイミングを「揆度(きたく=はかること)」しろといっている。さらに、「揆撫(きぶ=よくよく反省して考えること)」することを促しているかのよう。水でいう「水平」の如き確固たる準則を、いうなれば信念を持って判断するようにと。

 2024年は「甲辰」。「時世」は「甲」であり、「孟」を導いた。「孟」によっていよいよ時世が動き出すことを知るも、いまだ「孟浪(もうろう)」としているからこそ、「孟」が努力の継続を求めてきている。それが芽となり育まれるも、いまだ「孚信」と「介心」の介添えを必要としている。

 「人世」は「辰」であり、「竜」「晨」「伸」を導いた。十二支の中で5番目に位置しているが、今まで4年にわたり育んできた種が、目に見える動きを見せる。信念をもってはいたものの思い悩んでいた数々が、やっと実感できるときがくるのです。時世の純粋な「晨光」に導かれるように、大いに「伸展(しんてん=勢力や事業がのび広がる)する。しかし、「竜」が架空の生き物であることを忘れてはいけない。実在するには何かが足りない?それこそが、時世が教えてくれた「孟」の努力と、「孚信」「介心」なのではないかと。「探竜頷(りゅうがんをさぐる)」とは、竜のあごの下にあるという玉(ぎょく)を探りとろうとすること。これは、大きな利益を得るために、非常に危険をおかすことの例えのことをいいます。

 

 2023年の「癸卯」は、五行説でいう「癸」は水で「卯」は木、2024年の「甲辰」はともに木です。水が木を育む「相乗」の関係から、同じ気が重ねることでますます活発となる「比和」へと移りました。良いことは益々良くなると同じく、悪いこともまたしかり。今を間違わぬよう、くれぐれも慎重に行動することを求めている。

 「巳」には十二支でヘビをあてがっています。初めは盛んだが、終わりに振るわないことを「竜頭蛇尾(りゅうとうだび)」という。2025年の干支は「乙巳(きのとみ)」。まさに竜頭蛇尾とならないよう、本年の行動を今一度考える必要があるのかもしれません。「辰巳(しんし/たつみ)」とは、南東の方角を意味しながら、「巽(たつみ)」を導きます。この「巽」は八卦の一つで、「巽為風(せんいふう)」といい「風」を象徴します。この卦は、従順に道理に従うことで、対象にどこまでも入り込めるのだという。

 今までの人生の中で、成功と失敗を繰り返しながら学んできたものが、弛まぬ努力によって種となり地に植えられたのは4年前のこと。やっと実感できるときが到来することを「辰」は告げている。十二支を「十二辰」とも書くことは、成長を感じ取れるからこそ始まると考えたからなのではないでしょうか。

 自分自身の成長の片鱗を感じ取ることができるもの、まだ種はその全貌を明かしてはいない。種や芽は、「甲」で守られていました。守られている時期であれば、霜が降りようが寒波がこようが、耐え抜くことができるもの。しかし、いったん萌芽を迎えてしまうと、「ひととき」の無防備が生まれることにあるのです。ここで霜などが降りると芽が凍死してしまうのです。動きが目に見えたときに、隙が生まれる。

 古代賢人は、十二支の5番目「辰」に、タツノオトシゴではなく、架空の生き物である「竜」をあてている。なにやら、今までの努力が実を結ぶような感覚を覚えるも、実態はつかめていない。時世が勢いを増してくる中で、その勢いさながらに人世が「竜飛(りゅうひ=英雄が時を得て立ち上がる)」することに、少し慎重になれといっている気がします。急(せ)いては事を仕損じる。今年(/)は良くとも来年(/)に力尽きる…「頭蛇尾」となることを危惧している。さらに、「辰巳」は「巽」を導き、これが風(道理)に従えと説いている。

 古代賢人が十二支に「竜」を選んだ理由は、皇帝の象徴というよりも、その神格化した竜ほどの勢いが人世にありながら、その実態を掴みきれていないからではないかと思うのです。だから架空の生き物である「竜」をあてたのではないか。今までの努力の証ともいえる「臥竜」たらん資質を備えてきている。そう感じつつも、確認した(見た)わけではないために定かではない。

 確認できないまでも、その資質を感じていることは確か…だから「竜」なのではないでしょうか。架空の生き物だからこそ、好機を見計らうことが大切であり、軽率な行動を戒めている。「潜勿用(せんりゅうもちいることなかれ)」と古人は遺している。水中に潜み、まだ天に昇る時節がこない竜は、行動してはならない。そう、竜のごとき英雄豪傑であっても、機会に恵まれないうちは、強いて行動をしてはいけないということを意味します。

 しかし、行動せずに時世の勢いに流されたままでは、「頭蛇尾」となると告げている。いつ「飛」すべきなのか?よくよく考えて行動せよ…そして、その存在に時間を覚えたときこそが、行動に移すべき好機だというのか。そして、架空の「竜」だからこそ、その好機は人それぞれによって違う。だから実体のない「竜」こそが相ふさわしいと考えたのでは…皆様はいかが思いますか?

 

 1984年の「甲子(きのえね)」に幕開けした60年の世相のサイクル。「世」の字には30年という意味が込められていると聞きます。60年の中に30年の2つの世相。2014年「甲午(きのえうま)」からはすでに後半の世相が始まっています。世相における栄枯盛衰は世の常であり、これを乗り越えなくてはなりません。その先で、我々は宝の地図(人世のさらなる高み)を必ず見つけることができると信じています。

 

 本文中に出てくる用語を少しだけご紹介させていただきます。

 たびたび出てくる「説文解字」と「釈名」という名前。本というよりも辞典と言い表した方が良いかもしれません。しかし、これらが編纂されたのは、古代中国でした。「説文解字」は紀元後100年頃、六書(りくしょ)の区分に基づき、「象形」「指事(指示ではないです)」「会意」「形声」に大別され、さらに偏旁冠脚(へんぼうかんきゃく)によって分類されています。

 「象形文字」は、実物を絵として描き、その形体に沿って曲げた文字。「指事文字」とは、絵としては描きにくい物事や状態を点や線の組み合わせで表した文字をいい、「上」や「下」が分かりやすいと思います。十干の「己」は指事文字です。そして、「会意文字」は、既成の象形文字指事文字を組み合わせたもの。例えば「休」は、「人」と「木」によって構成され、人が木に寄りかかって休むことから。干支の「壬」は指事文字、「寅」は会意文字です。

 「偏旁冠脚」は、漢字を構成するパーツのこと。そのパーツの主要な部分を「部首」と定め、現在日本の漢和辞典は「康熙字典」の214種類を基本にしています。しかし、偏旁冠脚では、漢数字、十干や干支もこのパーツに含まれ、その分類区分は、「一」から始まり「亥」で終わる、総数が540です。数あるパーツの中から、殿(しんがり)を担ったのが「亥」です。十二支の最後もまた「亥」です。この後、さらに時は流れ紀元後200年頃、音義説によった声訓で語源解釈を行い編纂されたものが、「釈名」です。

 万物を陰と陽にわける陰陽説と、自然と人事が「木・火・土・金・水」で成り立つとする五行説が合わさった考え方が、陰陽五行説です。兄(え)は陽で弟(と)は陰。陽と陰は、力の強弱ではなく、力の向く方向性の違いのこと。陽は外から内側へエネルギーを取り込むこと、陰は内側から外側へ発することだといいます。運の良い人とは、陽の人であり、外側から自分自身へ力を取り込んでいる人のこと。「運を呼び込め」とはよく耳にいたします。陰の人とは、運が悪いわけではなく、自分自身のみなぎるエネルギーを外に発している人のこと。一方が良くて、他方が悪いわけではなく、すべては陽と陰の組み合わせです。陰陽の太極図を思い浮かべていただきたいです。2つの魂のようなものが合わさって一つの円になる。一方が大きければ、他方は小さくなり、やはり円を形成するのです。森羅万象全てがこの道理に基づくといいます。

 

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 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。皆様のご健康とご多幸を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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