kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

「熊本県天草への旅心地」をお家でお楽しみください。≪前編≫

 熊本県天草諸島(以下「天草」と記載)から、Benoitは旬の柑橘を購入していました、そして購入する予定でした。この地域の類稀なる環境は、得も言われぬほど美味なる柑橘が、季節を追うように多くの種類がたわわに実ります。12月から始まる「早生みかん」を先陣に、天気のご機嫌しだいですが5月の末まで収穫できるか「天草晩柑」を殿(しんがり)とする、約半年間もの期間、Benoitのみならず、皆様の食卓に季節の彩りを与えてくれます。

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 いまだ終息の見えないウイルス災禍に対し、今我々にできることは家にいること。そこで、一般社団法人天草宝島観光協会の助けをお借りし、皆様を少しばかり天草観光への旅心地をお楽しみいただこうかと思います。人が住み良い場所に集落ができ、その人が行き交うことで道ができる。そして、その行く先々に歴史があります。ということで、今回の食材を巡る旅は国道266号線を辿ってみようと思います。

 この国道は、天草上島の最南端に位置する牛深という地から始まり、熊本市まで続く国道です。起点となる牛深港から北上し、「天草瀬戸大橋」を目指します。この橋を渡り、天草上島南側の海岸を沿うように進み、今度は天草五橋へ。島々を巡りながら大矢野島を経由し、宇土半島へ上陸。半島南側を通過しながら、今度は北上することで熊本市へ辿り着きます。

 牛深の美しい海の景観に後ろ髪を引かれながら、この国道を北上してゆきます。海を背に山あいを進んでゆくと、目の前に羊角湾が飛び込んできます。この湾に沿うかのように北上すると、この湾の先端に辿り着く、ここが天草市河浦町です。あまりあるほどの歴史深い地ですが、ここから寄り道のために、左折して国道389号へ、一路西へ西へと向かいます。さあ向かう先は?

 

 皆様がまっ先に思い浮かぶ天草観光といえば、ここを置いて他にはないのではないでしょうか。2018年7月に、世界文化遺産に認定された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つ、「﨑津集落」です。天草下島の南西に位置し、深く切り込んだ入江、羊角湾の中ほどまで入り込んだところの、さらに狭くくぼんだ地にこの﨑津集落があります。

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 世界遺産に認定されるには理由がありました。そこで、今回の「熊本県天草への旅心地≪前篇≫」では、この「﨑津集落」をご案内させていただきす。きっと彼の地を訪れたくなること間違いありません。もちろん、訪問は新型コロナウイルス災禍の後ほどに。≪後編≫は﨑津集落から再出発します。

さあ皆様、目的地に辿り着いたようです。

 

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 地図で見ると何かと大きそうな湾ですが、GoogleMapで見る限り、狭くいりくんだ形をしており、色濃い緑の覆われる天然の要害のような雰囲気を醸し出しています。上の画像は教会背後から写したもの。羊角湾から﨑津集落のある入江を遠くに見ることができます。左右に正面にと、なかなかに険しい峰々が海からせせりたっていることがお分かりいただけるのではないでしょうか。なかなかに生活するには難儀な場所です。

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 其処此処で見ることのできる、生活知恵。狭い平地の有効活用として世界共通なことは、人が通るのがやっとの小径(こみち)が走っていること。﨑津では「とうや」という名称がついている小径が、住居の間から海へ向かって整備されています。さらに、海産物を捌くため、「かけ」という場をこしらえています。土の上は居住スペースを優先するため、古人が考えたのが海の上でした。

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 海岸沿いに少しでも開けた地に住居を作り、そこに集落が形成されます。平地を田畑にする余裕はなく、山を切り開くにも急峻であるために、居を構える人々皆が漁業を生業としていました。海と山に囲まれている地形だからこそ、今では国道が走り交通の便は格段に良くなっていますが、かつては海路しか交通手段がありませんでした。

 﨑津集落を見る限り、農地が作れるスペースなどありません。しかし、人間は魚だけでは生きてはゆけません。では、生きるための糧をどうしたのか。漁村「﨑津」と農村「今富」の連携によって、ひとつの生活圏が形成されていたようです。下のGoogleMapを見ていただくと、赤丸が「﨑津」で、その北(上)に穀倉地が広がります。この山あいの里が「今富」です。

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 﨑津で水揚げされた海産物は、漁師の奥様方によって今富まで行商(メゴイナイ)に出かけてゆきます。その帰りに、米・野菜などの食料品に加え炭などの生活必需品を持ち帰ってくる。さらには、今富の人々の農閑期には、漁船の労働力を提供する。規模が小さながら、他との物流に頼らずとも、この地域だけで生活が成り立つのです。

 なぜ、潜伏キリシタンとして独特の文化を育むことができたのか。この類稀なる地理的環境と、2つの集落による極々小さい規模での生活圏が成り立つ環境が、大きな要因の一つなのではないでしょうか。2012年に国の重要文化的景観として「天草市﨑津・今富の文化的景観」が選定された理由はここにあります。

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 気嵐(けあらし)の中に、﨑津教会の尖ったタレットが幻想的に浮かび上がる。冬の寒さが厳しいころ。温かい海水が蒸発し、寒い外気で急激に冷やされることで発生する、この霧のような現象を「気嵐」といいます。もちろん、冬の季語にもなっている自然現象です。

 さあ、﨑津集落のシンボルともなっている、この﨑津教会。昔々の戦国時代、当時の領主であった天草氏は、1566年に布教を許し、教会が建てられました。もちろん、その教会ではありません。ヨーロッパからキリスト教徒と共に建築技術が伝えられれば、可能であったかもしれません。しかし、日本の歴史はそれを許しませんでした。

 

 豊臣秀吉の治世に、天草氏は一時反乱(天草合戦)を起こすもキリシタン大名と名高い小西行長支配下に入ります。1587年に秀吉の「伴天連(ばてれん)追放令」が施行されるも、南蛮貿易の魅力に負けた秀吉は、禁教を徹底できなかったため、天草の地では宣教師を比護し続けました。さらに、コレジヨ(高等神学校)やノヴイシアド(修練院)を、﨑津の東に位置している河浦町へと移転します。

 1582年から、キリシタン大名と名高い大友宗麟大村純忠有馬晴信の名代として4人の少年が選ばれ、ローマ教皇に謁見するため船旅にでます。「天正遣欧少年使節」と呼ばれた彼らが帰国したのは8年後の1590年。一変した日本の状況にきっと驚いたことでしょう。秀吉の伴天連追放令が、厳しくなくとも発布されているのです。

 彼らのもたらした情報は貴重極まりないものばかり。さらに持ち帰ってきた中には、グーテンベルク印刷機ありました。この画期的な印刷機によって、教理本や日本・ポルトガル辞書、源氏物語などの「天草本」が印刷されました。

 今回のメインルート国道266号線から、﨑津方面へ向かう国道389号とへ分岐する地「天草市河浦町」。ここに「天草コレジョ館」が建てられ、この印刷機の複製など、今に残る貴重な資料を目にすることがでによってきます。天草コレジョ跡地は公園に整備されており、当時の面影を少しばかり感じ取れることでしょう。

 

 時代は下り、徳川の治世になると、キリスト教への厳しい沙汰が始まります。1612年江戸幕府より「伴天連(バテレン)門徒御制禁也」と下知がくだされます。このキリスト禁教令については、士農工商という身分制度をもって秩序を保ってきた江戸幕府治世が危機感を覚えたからという話もありますが、当時の国内および世界情勢を鑑みると、そればかりが理由ではない気がいたします。多くの諸説があることが、この謎を物語っています。

 この徹底した禁教令は、もちろん天草の地も例外ではありません。表向きは仏教徒や氏子であるも、密かにキリスト教の信仰を続ける、ここに「潜伏キリシタン」が誕生します。宣教師は国外に追放された後は、「キリストの教え」を独自に引継いでゆきます。彼らの心の支えともなる信心具は、仏像の裏側に巧妙に隠し彫ったものや、巧妙に並べられた文字列、さらにはアワビやタイラギなどの貝殻の内側をマリア様に見立てたものなど、すべて発覚を逃れるため工夫を凝らしたものばかり。

 毎年のように行われる「絵踏(えふみ)」や幕府の厳しい監視の目によるキリシタン発覚に怯えつつ、月日は過ぎてゆきます。ところが、疑わしいと幕府が内偵を進めると、同地域から大多数の潜伏キリシタンが発覚。これが1805年の「天草崩れ」です。﨑津、大江、今富村などの住民の半数が、﨑津に限っていえば住民の70%もの人数が摘発されたといいます。

 あまりの多さに厳重な処罰はかえって難しいと判断した幕府は、得体のしれないキリスト教ではなく、幕藩体制に従順な異教徒と判断するのです。そこで、代官所の役人は、﨑津諏訪神社の境内に設置した箱に、自ら信心具を投げ捨てることを指示します。そして、「心得違いをしていたが改心した」とみなして放免したのです。そのため、多くの潜伏キリシタンは信仰を捨てることはありませんでした。

 

 幕府側からの監視の中で、犠牲を払いながら幾度となく危機を乗り越えてきた潜伏キリシタン。幕末のアメリカの黒船外交によって長崎に外国人居留区が設けられ、1864年長崎県大浦天主堂が建立されます。そして、この教会に潜伏キリシタンが信仰を告白しにくるのです。この「信徒発見」の報は、厳しい迫害によって信徒は途絶えたと信じられていたヨーロッパ諸国に驚きと感動をもって伝えられ「世界宗教の奇跡」と讃えられました。しかし、まだ日本では禁教令の最中であり、告白者のこの行動は浅はかとも思えるもの。ところが、この「信徒発見」が歴史を動かしたのです。

 幕末に締結された列強との不平等条約の改正を求め、ヨーロッパへ赴いた明治政府の面々は、キリスト教徒を迫害する政府は信用ならんと猛抗議されることになります。そう、まだ明治の時代を迎えても禁教は続いていたのです。ついに、政府が重い腰を上げ、「キリシタン禁制の高札撤去」を行いました。時は1873年(明治6年)のこと。潜伏キリシタンは260年もの間、じっと耐え忍んだのです。

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 天草に赴任したフェリエ神父は、1883年(明治16年)に大江に、1888年(明治21年)に﨑津にと、教会を建立します。時を経て、ガルニエ神父が地元信者と協力し、1933年(昭和8年)に大江天主堂(上の画像)が完成します。大江は、﨑津から国道389号を西へ西へと進み、そのまま海岸線を沿うように少しばかり北上した地です。丘の上にロマネスク様式の美しい教会を、今も望めます。

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 そして、翌年1934年(昭和9年)に﨑津天主堂(上の画像)が完成の陽の目を見ます。ハルブ神父の強い要望もあり、禁教下で絵踏の行われた吉田庄屋役宅跡地が選ばれました。当時、数多くの教会建築に携わった大工、鉄川与助の設計施行のもと、十字架を掲げる尖塔部分は鉄筋コンクリートで他は木造建築、重厚なゴシック様式に仕上がります。堂内は畳敷きで、祭壇はかつて絵踏みが行われていた位置に当るのだと。海に溶け込むかのような景観から、「海の天主堂」とも呼ばれています。

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 こうして、潜伏キリシタンの迫害の時期は終わりを迎えました。彼らの必死な潜伏期が、長崎県の「信徒発見」を導き、「世界宗教の奇跡」として、この報はヨーロッパ列強を駆け巡りました。数々の宗教戦争を経験しているだけに、我々が思う以上にヨーロッパの人々にとっては万感(ばんかん)の想いだったはずです。この「宗教の奇跡」無くして、不平等条約の改正という「日本史の奇跡」は成し得なかったかもしれません。

 

 天草でキリシタンと言えば「日本史上の一大事件」がありました。小学校でも習う「島原・天草の乱」。なぜ、この一大事件に、一度も触れずに、﨑津集落の歴史が明治を迎えてしまったのか。この類稀なる地理的な環境が、大いに関係していたのです。

 「島原・天草の乱」の後(のち)、苛烈を極める禁教の時代を迎えます。この乱に参加した人々は、長崎県島原の原城で討ち死にしています。その関係者には厳しい沙汰が下り、連施設は破壊しつくされます。人口の激減と幕府側の徹底的な禁教により、天草の地は荒廃してゆきます。ところが、﨑津を含めた下天草の地は例外でした。なぜか?

 地理的環境により小規模な生活圏を形成してるからこそ、他地域との交流が少なかった。今ほどに情報が、すぐに伝播する時代ではりません。特に何か不穏なことが無ければ、内偵を出すこともありません。峰々で遮(さえぎ)られていたことで、山向こうの争乱を知らなかったのです。

 「天草崩れ」では﨑津の70%が潜伏キリシタンだったということを鑑みると、彼らがこの乱に参画しないわけがありません。しかし、「知らなかった」ことが幸いし、比較的穏便な禁教下で﨑津の人々が生活できた。だからこそ、多くの貴重な遺物が現存しました。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として、世界文化遺産に認定された要因のひとつなのではないでしょうか。

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 いまだ終息の見えないウイルス災禍に対し、今我々にできることは家にいること。そこで、歴史を顧みながら少しばかり「﨑津集落」への旅心地をご案内させてただきました。≪後編≫では、いよいよ「島原・天草の乱」に触れながら、旅路を進めてゆこうと思います。

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 今回の旅路には、一般社団法人天草宝島観光協会のお力添えが欠かせませんでした。この場をお借り、深く御礼申し上げます。

 

旬の食材には、今我々が欲している栄養価が満ち満ちています。

 いつもであれば、ここで熊本県天草の特選食材「柑橘」を、贅沢に使用した料理やデザートをご紹介するのですが、残念ながら今春はそうもいかないようです。ただ、このまま旬の食材を見過ごすこともままならず、Benoitで購入していた、購入予定であった食材をご紹介させていただきます。スーパーや八百屋さんで見かけた際の、参考になれば幸いです。

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最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

末筆ではございますは、ご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より切にお祈り申し上げます。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com