kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

春の陽射しで雪がとける…「溶ける」、「融ける」それとも「解ける」?

 春の陽気は、雪や氷をとかしてゆき、その雪の下には春を待ちわびた草草が萌えいずる機を伺っています。さて、雪や氷が「とける」、これを漢字で書くと、「溶ける」、「融ける」、それもと「解ける」?

f:id:kitahira:20210323230054j:plain

 現代文では、「氷がとける」を「氷が解ける」と書き記します。ネットで調べてみると、産経ニュースの中で、産経新聞社の用字用語集「産経ハンドブック」の紹介がされていました。それによると、 「解かす・解く・解ける」=とけてなくなる、緊張がゆるむ、ほぐす。(用例)氷・雪が解ける〈自然現象〉。 「溶かす・溶く・溶ける」=とけ合う、固体を液体にする。(用例)氷・鉄・雪を溶かす。

 自然現象を意識するからこその漢字なのだと。なるほど、春の風物詩でもある、せせらぎに流れ込む清らかで冷たい水を「雪解け水」といい、暖かくなり氷がとけることを「氷解」という。他方、熱を加えることで人為的に雪や氷をとかすときには「溶かす」という。自動詞と他動詞の違いもあるかもしれません。漢字それぞれの語源を調べてみれば、さらに明快な回答が得られるのではないか。そこで、語源辞典「漢辞海」で調べてみると、意外な事実を知ることになるのです。

 「溶」は、「川の流れが盛んなさま/ゆったりと流れるさま」という形容詞としての語義があります。明治期に入り、「熔(よう)」から類推して「溶ける」という動詞が日本で誕生した国訓であるというのです。これが、中国でも採用されたのだと。国訓とはl「椿」のように、中国で誕生した漢字に、日本独自に読みを与えた漢字のこと。中国の「椿」と日本の「椿(日本固有種)」は全く別物です。

f:id:kitahira:20210324092334j:plain

 「融」もとけるに使います。動詞として、「氷や雪が水になる」という意味を持ちます。しかし、この漢字は説文解字(古代中国の語源書)によれば、「鬲(れき)」から立ち上る蒸気を象(かたど)るのだといいます。古代の調理道具に見ることのできる鼎(かなえ)と鬲。鼎は食材を煮るためのもので、鬲は蒸すために用いたようです。鬲には器の中に仕切りがあり、その構造は今でいう蒸し器と大差はありません。蒸し器だからこそ、器の外に漏れた湯気は渦を巻くように立ち上る。このもやもやっとした湯気を象ったものが「虫」であり、昆虫の「虫」という意味はありません。

 個体が加熱されて液体となることを「融解」といい、金属が高温となり液状化することを「熔解」といいます。「熔」から国訓の「溶」が生まれ、「溶解」もまた同義。なんとなく、「溶ける」も「融ける」も、人為的に熱が加わることで「とける」ということが分かります。言葉を生業(なりわい)としている新聞社だけに、「産経ハンドブック」は的を射た使い方を教えてくれます。ただ、「融解」、「熔解」、「溶解」、すべてに「解」の字を導いていることが気になるものです。

 「解」は「とく/とける」という動詞なのですが、「切り拓く/動物を解体する」「分裂する・引き離す」「(結んだものを)とく/服を脱ぐ」や「答える・釈明する」などという意味があります。説文解字によると、「解」は刀で牛と角をわけるようすから構成された「会意」であると教えてくれる。どこをどう探しても、「氷や雪がとける」という意味はありません。

f:id:kitahira:20210323230046j:plain

岩間とぢし 氷もいまは 溶けそめて 苔のしたみづ 道もとむなり 西行

 岩と岩の隙間を閉ざしていた氷も、いまは溶け始めたようだ。僅かな水は苔に染み入り、その下で流れ出でるべき道を探しているのだろうか。全ての音を吸収しているかのような、しんしんとした山奥の庵から、春の到来を教えてくれるかのように、氷が「とけた」幽(かす)かな水の音を見出したのでしょう。西行は「氷が溶ける」と書き遺している。

 おやおやと混迷をきたす中で、漢字の発祥の地である中国ではなんというのか?多くの知恵を拝借させちただいているお客様に聞いてみたところ、中国では氷や雪がとける表現に用いる漢字は「化」でした。「氷や雪が解ける」とは、誤った漢字を使用し続けているということなのでしょうか?

 f:id:kitahira:20210323230050j:plain

 過ぎし1月のこと。日本列島を寒波が覆うことで、都内でも最低気温が氷点下となる日々が続きました。寒々とした風吹きすさぶ公園の池は、ものの見事に氷が張っていたのを思い出します。朝の陽射しが、水面(みなも)とは違って、鋭く照り返してくる。そして、その氷の面には周囲の公園の気色が映しだされていました。

 この、氷の面に周囲の気色が映りでることは、今ではコンクリートの建造物が入りますが、今も昔も変わりません。何事もふさぎ込みがちな冬にありながら、先人たちは「美を見出す」ことを忘れないようです。氷が鏡のように周りの景色を映しだすことを、「氷面鏡(ひもかがみ)」と書き遺しました。なんという美しい音の響きでしょうか。

 和歌の世界では、この「氷面鏡」は序詞(じょことば)に分類されており、氷は暖かくなると「とける」ことから、「とける」「とく」を導くのだといいます。似ているものに枕詞(まくらことば)があります。「あしびきの」は「山」を導きます。枕詞は、意味をなさずに歌い手の想う情景を加味しながら和歌の文体を整えるというもの。序詞は、意味を成していることが大きな違いでしょうか。詳細は、専門家のご意見をお伺いください。

 これほどに美しい言葉でありながら、中世頃の造語なのではないかと言われているのです。万葉の時代、後世から歌聖と称えられた柿本人麻呂が書き遺した一首があり、その誤解から生まれたのだと説明されています。

f:id:kitahira:20210323230039j:plain

紐鏡(ひもかがみ) 能登(のとか)の山も ()がゆゑか (きみ)来ませるに (ひも)()かず寝む

 

 ふと思う。

 歌聖は「紐鏡」を「紐解かず」と詠う。「解」には、結ばれたものを解くという意味があることから、紐鏡の紐を解かないのだと理解できます。しかし、詠者は歌聖と称されている賢人だけに、この歌にはもっと深い意味が込められているのではないかと勘ぐってしまうのです。そこで、素人ながら自分が勝手気ままに歌聖の想いを探ってみることをお許しください。

 「紐鏡」を「氷面鏡」と解くことは、歌聖だからこそ意図的に歌に組み込んだのではないかとも思えてしまうものです。「紐」は「解く」を導きます。「紐解く」とは蕾(つぼみ)がほころぶという意味もあることから、「紐解かず」は蕾がまだ硬く閉じていることであり、まだまだ寒さが厳しい時期であると推測されます。

 歌聖の屋戸(やど)には、池があったのかもしれません。はたまた、近隣に池や湖沼があったのかもしれません。春夏秋と、季節ごとに草木は美しく姿を変えます。ただ眺めるのも良いですが、水面(みなも)に映る姿も趣きがあるもの。風によってささやかに波打った水面は、咲き誇る季節の花々を散らしてしまうのではないかと思うほど。しかし、冬では景色に彩りが少ない上に、水面も氷で覆われます。風情(ふぜい)がないのかと思いきや、冬の陽射しに照らされる氷の美しさはもちろん、はっきりと景色が映る水面(みなも)とは違い、氷面(ひも)には「ぼかし」が加味されているようで、何が映っているのかついつい見入ってしまうもの。「氷面鏡」とはなんと魅力ある美しい言葉なのでしょうか。

f:id:kitahira:20210323230043j:plain

 「氷」が「溶ける」を導くように、「氷面鏡」も「とける」を導きます。前述したように、「溶ける」は国訓であり、確固たる地位を得るには明治期まで待たねばなりません。「融ける」は、今でも常用漢字外になっているほど、何か学術的な雰囲気を持っています。まして伝来してきた中国語の「化」では、あまりにも日本の美意識の中ではそぐわないと考えたのでしょう。

 誰がいつ定めたのか?いまだに分かりません。春の陽気で「氷面鏡」が「とける」ことで、花々が「紐解く」のです。だからこそ、「氷面鏡」が「解ける」であり、「氷」が「解ける」と賢人は考えた。異論反論あるかと思いますが、なかなかに面白い推測ではないでしょうか。氷の消えた近隣の池を眺めつつ思い耽(ふけ)た戯言だ、そうご笑納いただけると幸いです。

 寒暖を繰り返しながら春は歩を進め、雪や氷も解けているか、解けつつあるかでしょう。それに呼応するかのように、花々も紐解かれてゆきます。「花微笑(ほほえ)み」、そして「花笑う」季節が訪れています。

 

 2021年3月14日、例年よりも早く東京都の開花宣言が発せられました。靖国神社の境内にある標本木を、気象庁の方が「1、2…5輪。開花ですね」と数えてゆく光景は、この時期の風物詩といっても良いのではないでしょうか。この桜の開花宣言や、ウグイスやセミなどの初音などは、「生物季節観測」という名称で気象庁が実施している公式発表です。

 アナログとも思える目視や耳を使った確認方法ですが、桜の花を見ることで春の訪れを実感することを思うと、あながち的外れなことでもありません。この「生物季節観測」に関して、昨年に気象庁から観察対象となる動植物の大幅な削減がなされました。寂しい気もするのですが、昨今の環境を考えると致し方ないのかもしれません。

 Benoit3月の特別プランと旬の食材とともにブログでご紹介させていただきます。お時間のある時にご訪問いただけると幸いです。

kitahira.hatenablog.com

 

 最後まで読んでいただき、誠にありがとうございます。

 今年の辛丑が始まりました。その「辛」の字の如く優しい年ではないかもしれません。しかし、時は我々に新地(さらち)を用意してくれている気がいたします。思い思いの種を植えることで、そう遠くない日に、希望の芽が姿をみせることになるでしょう。

f:id:kitahira:20210104080957j:plain

 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご多幸とご健康を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com