kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

2022年干支「壬寅(みずのえとら)」のお話です。

2022年の干支(えと)は、「壬寅(みずのえとら)」です。

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 むかしむかしのこと、お釈迦様が動物たちに「新年の挨拶に赴いた順番を十二支にしよう」と語ったのだといいます。そこで、動物たちは我さきにと、お釈迦様の下へと馳せ参じることになる。己をよく知る牛は足が遅いことを理解しているため、前日からすでに出発します。一番先に門口(かどぐち)に到着するも、その背に乗っていた賢いネズミがひょいと先に門をくぐる。順を追ってぞくぞくと主役が到着する中で、犬猿の仲といわれる両者の仲裁に入ったがためにニワトリは10番目。猫はなぜ登場しないのか?猫はお釈迦様への新年の挨拶の日を忘れ、ネズミに聞いたところ2日だと。翌日に事実を知った猫は怒り、これ以降ネズミを追いかけ続けるのだとか。

 干支の中にある「寅」という漢字に、トラという意味もあるため、其処彼処(そこかしこ)で目にするトラの姿。猛々(たけだけ)しい姿もあれば、愛嬌のある姿もある、さらにはトラ柄の商品までも。しかし、「とら」には「虎」という立派な象形文字が存在していることを考えると…前述の口伝は、干支を生み出した古代中国の賢人が周知してもらうため、身近な動物にあてはめた際に寅に虎の意をあてたのではないかと思う。そう言えば、辰(龍)という架空の生物も含まれていますが、当時は深くその存在が信じられていたことの証でしょう。

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 虎は山中の獣の王であり、中国では野生の虎に恐れおののくこともしばしば。賢人は干支に何を託し、我々に何を伝えようとしているのでしょうか?勇ましい年なのか?恐怖なのか?故事では「虎の威を借る狐」ですが、干支の世界では「虎の威を借る寅年」ということなのでしょうか。はたまた、単に「虎の意を借る寅年」なのでしょうか。

 

 世界の言語は、「絵画文字」、「表音文字」、「表意文字」などに大別されます。絵画文字は、古代文明に書き記された絵文字を代表とし、表音文字はアルファベット(音素文字)や日本の仮名(音節文字)などがあります。そして、表意文字は、一文字が単語を成し、実質的な意味を持つもの。それが「漢字」です。

 古代中国の賢人は、毎年の世相を分析し、時代時代を表現する漢字一文字をあて、後世に伝えようとしたのではないかと思うのです。そこで、十干(じっかん)と十二支の組み合わせた干支というものこしらえた。甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)…と続く「十干(じっかん)」と、馴染みの子(ね)・丑(うし)・寅(とら)…の十二支。

 この10と12という数字が、我々の生活の中でどれほど溶け込んでいることか。算数を学ぶ上で、数字の区切りとなるのが10。そして、半日は12時間、1年は12ヶ月。10と12の最小公倍数は「60」。還暦のお祝いとは、この漢字の通り「暦が還(かえ)る」人生60年目の節目を迎えたことを祝うもの。

 表意文字だからこそ、漢字は一文字一文字に意味があります。さらに、干支にあてがわれた漢字は、それぞれに樹の成長を模したものだといいます。賢人は、今年の世相をどのように分析し見定め、干支という形で我々に遺したのでしょうか。漢字を読み解くことで、我々がいかに無事息災に、はたまた多くの幸を見過ごさないために、この古(いにしえ)の賢人の想いを知ることができると思うのです。素人ながら、漢字語源辞典「漢辞海」を片手に書き綴ってみようかと思います。

 

 干支が十干と十二支の組み合わせであることは前述いたしました。2つの漢字一文字ごとに意味があり、2つの立ち位置の違う世相を組み合わせているのだと考えます。最初の漢字の世相は、人が抗しがたい「時世」の勢いであり、賢人は10年というサイクルを見出し、「十干」をあてがう。人生とは栄枯盛衰を繰り返すもの、これが「人世」である。賢人は、その人世を12年であるとし、十二支をあてる。干支とは、古代中国の賢人が「時世」と「人世」を読み解くことで導いた、その年ごとの世相のこととみる。

 時世を意味する十干を、樹の成長になぞらえて漢字をあてています。最初から6番目までは樹そのものの成長期間、残る4つは次の時世への引継ぎを準備する期間であるという。かたい殻に覆われた状態の「甲 (きのえ)」、芽が曲りながらも力強く伸びるさまが2番目の「乙(きのと)」。芽が地上に出て、葉が張り出て広がった姿が「丙(ひのえ)」。そして「丁(ひのと)」は、重力に逆らうかの如く、ぐんぐんと勢いよく天に向かい成長し、「戊(つちのえ)」で大いに茂る。成長最後は、勢いよくぼうぼうと生い茂った樹が、理路整然と体裁を整え、効率よく光合成をおこなうことで養分を蓄えてゆく「己(つちのと)」です。

 2020年の7番目「庚(かのえ)」から最後の「癸(みずのと)」の期間は、花を咲かせ種を生み出すにいたります。秋にたわわに実がついた様子を象るのだといいます。「庚」は「己」を継承し、人のへそに象るとも。「庚庚(こうこう)」とは、樹木がしっかりと実をつけたさまを意味するのだといいます。

 2021年は8番目の「辛(かのと)」。「辛い」としか思い浮かばないかもしれませんが、意外な意味が含まれてることを語源辞典は教えてくれます。「説文解字(せつもんかいじ)」によると、「会意文字」で秋の万物が成長して熟すとある。さらに、「釈名(しゃくみょう)」によると、「辛」は「新」であるという。「はじめは新たなものがみな収まってしまう」、そう書き記されている。

 今年2022年は9番目の「壬(みずのえ)」で、いよいよ佳境に入る。「説文解字」によると、「指事文字」であるという。巧みで美しいという象形文字「エ」という漢字の中央に「ー」が加わる。「巫」という漢字は、両袖を広げて美しく舞っている姿を象(かたど)るのという。すると、「壬」は両手を広げるというよりも、指事文字だけに両手で中央を指し示しているように見えなくもない。

 北の方角に位置している「壬」。北の陰の気が極まると陽の気が生ずる。易経(えききょう)では、陰の気そのものである「坤卦(こんか)」極まり、陰陽の竜が外で戦うと伝えている。戦うとはいささか物騒ではありますが、これは交接を意味しており、お腹に子を宿すこと。妊娠の「妊」の漢字に「壬」が見て取れる。「壬」の両手は、新たな時世を宿したお腹を指し示していることに、ついつい納得してしまいます。

 

 人世における栄枯盛衰に、賢人は12年を見い出し、樹の成長にならった漢字をあてがいました。2020年は人世一年目の「子(ね)」。子供のことでもあり、果実の実や植物の種をも意味します。「釈名」では、「子」は「孳(し・じ)」であると。陽気が萌えて下に孳生(じせい)する。「孳」とは、「増える/産み育てる」という意味があり、「子」は「蕃孳(はんし)=おおいに茂ったさま」の状態だといいます。

 昨年2021年の「丑(うし)」は「象形文字」であり、手をぎゅっと紐(むす)ぶす姿を象るといいます。さらに、「釈名(しゃくみょう)」によると、「丑」は「紐」である。寒気がみずから屈紐(くっちゅう=ちぢこまること)のである。「易経」では「艮卦(ごんか)」に相当するという。「艮」は「限」であり、この時節に物が生まれるということを聞かない。生誕を限止(=制限)するという。

 2022年は十二支の3番目「寅」は、「説文解字」によると「会意文字」という。陰暦の正月に陽気が動き始めて地下の黄泉の国から地上に出ようとするも、陰気が強く叶わない。ウ冠(=屋根)があって突き抜けられず、地下に退けられるさまを象る。さらに「釈名」によると、「寅」は「演」であるといい、「物を演(ひ)いて誕生させる」のだという。多少の違いこそあれ、何かが誕生したことに間違いはないようです。

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 「演」は、「劇や演技を行う」という、今でも馴染みの漢字です。しかし、部首に「さんずい」が入っていることから、元々の意味は、水に関わることを意味していたはずで、川の名称だったという説もあります。「長距離を流れる/遠くへ流れる」という原義から、「展開する/広がる」という意も含むことに。「水土通演」は、「すいどつうジうるおフ」と読むことからも、「湿る・潤う」という意味がある。脚本をもとに効果的に上演や撮影の工夫を加えることを「演出」といいますが、もともとは「変わって新たに生まれること」を意味する、そう語源辞典は教えてくれます。

 

 「易経」とは古代中国の賢人が生み出した占い法です。自分が占い師ではないため、詳細は専門家のHPを参照ください。易を構成する基本形を八卦(はっか)と呼び、その八卦を上下で組み合わせたものが「六十四卦(ろくじゅうしか)」であるとう。「壬」ででてきた「坤卦(こんか)」とは、この八卦のひとつ。これを図象化したものが下の画像です。

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 横3列で表現される卦にあり、全てが半ばに切れ間のある陰が並ぶ。「坤卦」の象意は「地」、母であり女性である。「坤元(こんげん)」とは万物を生む大地のことを、「坤徳(こんとく)」とは大地が万物を育てる力のこと。「母なる大地」とは、ここからきているのか?性質は「順(=すなお)」で消極的。体は「腹」を象徴する。六十四卦で、この卦が上下に並ぶ(坤下坤上)は、「坤為地(こんいち)」と呼ばれ、「従順さであらゆる事柄を受け入れることにより、大いに順調にゆくこと」を暗示しているという。

 昨年は「艮卦(ごんか)」でした。「艮」は「山」を象徴し、「限=制限する」であるといいます。天命である自らの道のりを、動かざること山の如し、俯瞰(ふかん)するように好機を見極め、動き止まる。その判断は、昨年に培われてきた良識を基準にせよと教えてくれました。この「艮卦」を図表化したものが下の画像です。下2列の陰の勢いを抑えるかのように、一番上に陽がくる。まるで、万物を山が受け止めているかのような姿です。

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 昨年にこの「艮卦」を考えた時、横棒1本は山であるならば、その下2列の半ばに切れ間のある2本が川に思えてなりませんでた。川は山間(やまあい)を流れ、谷を形作る。言い換えると、山が川の流れを抑え込むこことで、水の路を作っている。上下の2本が横棒であれば、真ん中の切れ間のある1本は上流域の川なのだろう。そう考えると、「艮卦」は山間から扇状地へと抜ける中流域に、そして「坤卦」は平野をゆったりと流れる下流域に思えなくもない。

 水の勢いは、人が抗することが難しいほどに力強い。日本の歴史は治水の歴史ではないかと思えるほど、現代に至っても水害がなくなることはありません。山間から湧き出でた「か細い」水の流れも、落合い落合い川へと姿を変えます。山が侵食されながらも水の勢いを制し、川の路を作り上げていく。平野に行き着いた川は、大いに大地を潤/演(うるお)し、種の芽吹きを促し、成長させてゆく。

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 「ゆく川の 流れは絶えずして しかも もとの水にあらず~」とは、あまりにも有名な「方丈記」の冒頭です。湖沼と違い、水の流れがあるから川である。とうとうと流れる川面(かわも)を見つめた時、変わらないような姿でありながら、今の水は先ほどの水とは違う。鴨長明は、川の流れをもって、目には見えない時世と人世の流れを説いているのではないか。すると、前述した「卦」が、なにやら意味深いものに思えてしまう。同じように新年を迎えるも、昨年とは違う時世・人世の流れに身を置いている。そう、川の流れを山が抑え込んでいた昨年とは違い、今年の「坤卦」は、川が大地を覆うかのように広がり、潤/演(うるお)しているかのように見えなくもない。

 

 2019年は、時世「己(紀)」が教えてくれるように、ひとつの区切りとして人倫の道を外さぬよう、なりふり構わず頑張ったことを省み、紀識(きしき=しるすこと)し紀念(きねん=こころにとどめて忘れないこと)することを促すのだと。忘れ去るのではなく、真摯に受け止め真実の核心となし、次へ引き継いでゆく。

 「庚」は「更」であることから、2020年は「更始(こうし)=古いものを捨て、初めからやり直すこと」の年でした。時世は成長から継承へと移る中で、先行きの見えない世相の一年でした。賢人は我々に人世は「子」であると教えてくれました。「子」は「孳」であり「坎(かん)」でもある。「孳孳(しし)」とは勤勉に努めることを意味します。「坎」の卦が上下に姿を見せる、六十四卦でいう「坎下坎上(かんげかんじょう)=坎為水」は、「重なる険難はあるが、真実をもって行動すればうまくいく。」ということを象っているといいます。

 2021年は「辛丑」。時世の「辛」には、「辛艱(しんかん)=苦しむ・難儀する」や「辛苦」「辛酸」など厳しい単語が多いもの。未曾有のコロナウイルス災禍は今なお猛威を振るっていることもあり、この漢字が心に突き刺さります。全ての希望に楔(くさび)を打ち込んでくる。しかし、「辛」は「新」でもある。何事も新しいことの門出には苦労や厳しさがつきものです。「新地(さらち)」となった時世には、新しいものが何でもいくらでも植えることができる。しかし、どのような種を植えるかの取捨選択は各々にまかせられている。

 そして今年2022年は「壬寅」。時世の「壬」は「妊」であり、人の妊娠の姿を象る。人世の「寅」は「演」であり、物を演(ひ)いて誕生させるという意味も含む。偶然なのか必然なのか、時世も人世も新しいものが誕生していることを暗示している。人智及ばぬものが時世であり、人がどこうできるようなものではありません。2020年の「辛」を受け注いだ「壬」、新しい時世が誕生してはいるものの、まだまだ赤子のような姿で、どのような性格を持ち合わせているのかは定かではありません。

 そして、時世と歩調を合わせるかのように、それぞれの人世も育まれているかのようです。ついに地に植えた「種」が動き出す。混沌とした世界の中で、もがき苦しみ行動してきたことが実を結び、種となす。陰の気が極まった姿が「壬」であるならば、八卦では陰気そのものである「坤卦」ということ。「坤卦」の象意が「地」であるのであれば、時世は我々に肥沃な地を用意してくれたことになる。そして、川がその大地を演(うるお)すことで、我々個々が育んだ種の芽が演出する(=新たに生まれる)。

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 古代中国で生まれた五行説では、時世の「壬」は「水」であり、人世の「寅」は「木」である。水は木を生み出すという…五行相生(ごぎょうそうじょう)という相性のいい関係。言葉遊びのように思える干支の話も、ここまでくると何やら意味深いものと思えてしまうもの。しかし、ただただ時世に流されただけの人世であれば芽を出さないのかもしれません。芽が出だとしても、どのような芽で、どのように成長し実を成すのかは、千差万別であり、その人の努力の賜物ということなのでしょうか。

 昨年の「艮卦」は、止まるべき時に止まり、行うべき時には行う。動くも止まるも、時(天命)を見失わなければ、その道の見通しは明るい、と伝えていた。では今年の「坤卦」は?従順さであらゆる事柄を受け入れることにより、大いに順調にゆく、そう教えてくれる。「寅」の漢字が、陰が極まり陽気が誕生するも、ウ冠(=屋根)の陰気が強く突き抜けることができないさまであれば、地が潤い、各々の種が芽吹き始めるも、時世に寄り添うように身をゆだねながら、機を待てといっているのかもしれません。

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 「ゆく川の 流れは絶えずして しかも もとの水にあらず~」、そう「時(とき)」は止まることなく流れ続けています。「待て」と言われても…すでに賽は投げられた…いや、種が蒔(ま)かれた。水の流れのように、一時に集中するのではなく絶え間なく努力を続けること、そして水でいう「水平」の如き確固たる準則を、いうなれば信念を持って、今年の時世を乗り切りなさいと教えてくれている気がします。新しい時世と人世がその姿を見せるのは、もう少し時が経たなければならないのかもしれません。

 1984年の「甲子(きのえね)」に幕開けした60年の世相のサイクル。「世」の字には30年という意味が込められていると聞きます。60年の中に30年の2つの世相。2014年「甲午(きのえうま)」からはすでに後半の世相が始まっています。世相における栄枯盛衰は世の常であり、これを乗り越えなくてはなりません。その先で、我々は宝の地図(人世のさらなる高み)を必ず見つけることができるはずです。

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 蛇足ながら、「寅」は「演」であると前述しました。そして、この「演」は「延」であると「釈名」は書き遺しています。この字は、「長くする」や「続く」に加え、「蔓延して広がる」という意味が込められています。皆様は、まっさきに「コロナウイルス」を思い浮かべたのではないでしょうか。

 1年ほど前に、医薬品製造に携わっていた方から、このようなことを教えてくれました。「ウイルスも馬鹿じゃないからね、毒性が強いと感染した人が亡くなってしまうことで自滅してしまう。そこで、追々は毒性を弱くして感染力を強くすることになる。」なるほど!昨今のコロナウイルスのオミクロン株が、すでにその兆候をみせているようでなりません。

 100年ほど前にパンデミックを起こしたスペイン風邪も、姿を変えながらインフルエンザウイルスとして、いまだ地球上に存在しているという。ウイルスを根絶することが難しいのであれば、上手く付き合ってゆくしかありません。そこで、「蔓延する」の主語をこう変えてみてはいかがでしょうか?「コロナウイルス」から「コロナウイルス対策」へと。病は気からとはよく言ったもので、心の持ちようひとつで、未来は変わってゆくかもしれません。さて、皆様はどう思われますか?

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 本文中に出てくる用語を少しだけご紹介させていただきます。

 たびたび出てくる「説文解字」と「釈名」という名前。本というよりも辞典と言い表した方が良いかもしれません。しかし、これらが編纂されたのは、古代中国でした。「説文解字」は紀元後100年頃、六書(りくしょ)の区分に基づき、「象形」「指事(指示ではないです)」「会意」「形声」に大別され、さらに偏旁冠脚(へんぼうかんきゃく)によって分類されています。

 「象形文字」は、実物を絵として描き、その形体に沿って曲げた文字。「指事文字」とは、絵としては描きにくい物事や状態を点や線の組み合わせで表した文字をいい、「上」や「下」が分かりやすいと思います。十干の「己」は指事文字です。そして、「会意文字」は、既成の象形文字指事文字を組み合わせたもの。例えば「休」は、「人」と「木」によって構成され、人が木に寄りかかって休むことから。干支の「壬」は指事文字、「寅」は会意文字です。

 「偏旁冠脚」は、漢字を構成するパーツのこと。そのパーツの主要な部分を「部首」と定め、現在日本の漢和辞典は「康熙字典」の214種類を基本にしています。しかし、偏旁冠脚では、漢数字、十干や干支もこのパーツに含まれ、その分類区分は、「一」から始まり「亥」で終わる、総数が540です。数あるパーツの中から、殿(しんがり)を担ったのが「亥」です。十二支の最後もまた「亥」です。この後、さらに時は流れ紀元後200年頃、音義説によった声訓で語源解釈を行い編纂されたものが、「釈名」です。

 万物を陰と陽にわける陰陽説と、自然と人事が「木・火・土・金・水」で成り立つとする五行説が合わさった考え方が、陰陽五行説です。兄(え)は陽で弟(と)は陰。陽と陰は、力の強弱ではなく、力の向く方向性の違いのこと。陽は外から内側へエネルギーを取り込むこと、陰は内側から外側へ発することだといいます。運の良い人とは、陽の人であり、外側から自分自身へ力を取り込んでいる人のこと。「運を呼び込め」とはよく耳にいたします。陰の人とは、運が悪いわけではなく、自分自身のみなぎるエネルギーを外に発している人のこと。一方が良くて、他方が悪いわけではなく、すべては陽と陰の組み合わせです。陰陽の太極図を思い浮かべていただきたいです。2つの魂のようなものが合わさって一つの円になる。一方が大きければ、他方は小さくなり、やはり円を形成するのです。森羅万象全てがこの道理に基づくといいます。

 

 最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

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 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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