kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

2021年10月 季節から少し外れたお話「蓮に想う惜夏の念」

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 8月の終わりに書こうと思っていた話です。しかし、すでに蓮の花も咲き終わったこともあり、来年への持ち越しを検討していました。その折に、栃木にお住まいに木村様よりハスの画像が届いたのです。そこには、見事な種を成したハスの実の姿が写っていました。上野公園の不忍池では、頃を見て管理人さんが種を成す前に刈り取ってしまうのでしょう。自分がこの姿を見るのは、初めてのことだったのです。

 ハスの古名はハチスというそうです。花びらを支える場所を「花托(かたく)」といい、大和言葉では「うてな」と柔らかな表現があります。ハスの花が散り、この「うてな」が種を包むように大きく成長した姿が、蜂巣に似ていることから、古人はハスの花をハチスと名付けたようです。そして、これが転訛(てんか)してハスと呼ばれるようになったといいます。

 

こぼれおつる 池も蓮(はちす) 白露は 浮き葉の玉と またなりにけり  伏見院

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 蓮葉にのる水玉は、白露とまで表現されるほどに、丸々と輝かんばかりの、吸い込まれるような美しさに息を呑む。この蓮葉の白露は、他の植物の葉に残る水玉とは別物と思えるほどの違いがあります。その美しさは、絵では描けず、言の葉でもあわれおよばぬもの。しかし、多くの歌人が詠い遺した和歌を識(し)ることで、共感できる理由は、今も昔もその美しさに変わりはないからです。

 雨上がりに池の辺(ほとり)に伏見院はいたのでしょうか。ハスの「立ち葉」が生い茂り、その下にはひっそりと「浮き葉」が開いています。白露は、立ち葉の傾きに沿うように中央に集まり、その重みで蓮葉がたわむ。転がるかのように流れ落ち、水面に広がる葉がそれを受け止めることで、また浮き葉の「玉(たま)」になっているではないか…。「玉」とは宝石や宝石のこと。

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 夏休み中の娘が上野動物園へ遊びに行き、こう言い放った…「ハスの葉の水がキレイで、ころころ転がるのが面白いので、これを自由研究にする!」。何の先入観もない小学3年生が蓮葉の水玉の美しさに魅せられ、葉を揺らすことで水玉が他の葉とは違いコロコロ転がることが楽しく、不思議に感じたようなのです。

 大きな蓮葉は、スイレンのように水が滑るようなツヤツヤしている葉ではありません。耳年増な自分は、これほど多くの歌人が、蓮葉の白露は玉であると詠っていることもあり、きれいな水玉になるのだろうと…そう、近くで見たことがなかったのです。なぜ蓮葉の上では水が転がるように動くのか?

 冷たい海で生活するラッコは、身体に海水温以上の体温を維持するための脂肪の層を持っていません。そのかわりに、1㎠あたり約15万5千本という、地球上の生物の中で最も密度の高い体毛を備える進化を遂げました。この毛の多さは、身体の回りに空気の層をこしらえることになり、海水が直接皮膚に触れることを防いでいます。

 動物・植物の違いはありますが、蓮葉にも小さな毛がびっしりと生えていて、葉の表面に空気の層を生み出し、水玉はこの空気の層の上に載るために、転がるように動く。そのため、蓮葉に触れるとざわざわする…そう思っていました。子供の自由研究は、親の自由研究なり!この迷言に共感していただける親御さんも多いのではないでしょうか。今まで、自分が蓮葉に触れるたことがなかったこともあり、なんという親思いの娘なのかと、今夏ひっそりと、水を入れた水筒をもって不忍池へ足を運んだのです。

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 近くで見る立ち葉の大きさに圧倒されながら、見入るように近づいていく。もちろん遠目からでも、雨合羽のようにつやつや水をはじくような質感でないことはわかります。さあ、触れてみると、小さな毛が密集していて「ざわざわ」している…わけではありませんでした。艶もない蓮葉の表は、「ざらざら」だった…よくよく見ると、小さいながらも大小の凹凸があり、言うなれば「ごわごわ」している。

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 「ロータス効果」、lotusとは蓮のことで、この蓮葉の撥水の仕組みのことをいいます。この研究成果は、建物の外壁など、思いのほか多くの場所で活用されています。このロータス効果の説明には、途方もない時間と字数を必要とするため、ここでは割愛させていただきます。極々簡単に言ってしまうと、不規則のように思える小さな小さな大小の凹凸が、表面張力で丸まろうとする水玉を、「面」ではなく「点」で受け止めているのです。水玉は、「つるつる」の面を「滑る」のではなく、点で支えられているので、蓮葉の上をまるで「転がる」ように動くのです。丸々としているだけに…

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 蓮に似ている植物に睡蓮(すいれん)があります。名前に同じ「蓮」が当てられていますが、ハスはヤマモガシ目ハス科であり、スイレンスイレンスイレン科で、全くの別種です。同じように水の中で成長するのですが、スイレンは浮き葉のみで、其の葉は「つやつや」しています。植物図鑑もウィキペディアもない時代にあり、この2種はあまりにも似ているために、同じ仲間であると考えてしまうのも無理はありません。

 ハスが浮き葉の後に立ち葉を生い茂るように展開することに比べ、浮き葉のみのスイレンを古人は睡眠したかのように活動しないハスであると見た、だから「睡蓮」と名付けたのかもしれません。はたまた、葉の上の白露に着目したのかもしれません。玉のように美しく転がるように動くハスに対し、水をはじくもペタッとしているスイレンの方は、まるで眠っているいるかのようだ…と考えた。真相はいかに?

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 さて、本題に戻ろうと思います。学生時代に、今のように古文への興味があれば、どれほど成績が向上したことでしょうか…などと思いながら、気になる言葉遣いがこの歌の下の句にある、「なりにけり」です。細かな古文法の品詞分解は専門家に任せるとして、二つだけ「に」と「けり」に着目していただきたいです。「に」は、完了の助動詞「ぬ」が変化したもの。完了の「~してしまった」と、強意の「きっと~」という意味が込められていると古語辞典は教えてくれます。そして、「けり」も助動詞なのですが、自分が直接経験していない事実を回想する意味が込められています。そのため、客観的に「~たということだ」と、主観的に初めて気づいた驚きを表す「~だった」「~だったのだなあ」という。

 蓮葉の上の白露が、押し合い圧(へ)し合いくっ付き合う。その重みで葉がもたげることで滑らかに、まるで転がるようにこぼれ落ちていく。この動きを終えた先は、水の中ではなく浮き葉の上ではないか。ここからでは見えないけれども、かつて、浮き葉にも白露を見たことがある。きっと今も、浮き葉の上で輝かしい玉となっていることだろう。「なりけり」ではなく「なりにけり」と詠った伏見院。この「に」が、この歌にある種の余情を与えているような気がいたします。字数合わせではないと信じたい。

 

 木村様よりお送りいただいた種を成した蓮の実の画像。自分にとって、今にも種を落とさんばかりの姿を見るのは初めてということもあり、立ち枯れてゆく蓮葉の中での威風堂々とした姿に感動を覚えました。来年へと引き継がんとするハスの強い意志が込められている。なんと美しいことか…今は昔とは違い、伝聞で知る以外に画像という手段があります。実際に見るのとでは、確かに受ける感動に違いがあることは否めません。

 しかし、昔は回想に頼るしかなかった自然の美を、今では瞳孔から入ってくる画像によって識(し)ることができます。実際にそこへ赴かなくとも、どれほど遠くはなれていても。木村様の画像から、きっと凛々(りり)しく美しいのだろうなぁ…過去の回想ではなく、画像からの想像によって、遠く実を成すハスに想いを馳せる。これもまた「なりにけり」と言えなくもないと思うのです。

 古文解釈を取り組まれている方からはお叱りを受けそうな、勝手気ままな自分の思いを書いているうちに、ふとした疑問が頭をよぎります。花鳥風月に触れ、西行は思いのままに多くの和歌を詠んだといい、他の歌人は言葉の技巧を駆使し和歌を作ったと、どこかで目にした気がします。その時には意味を理解せずに読み流してしまったことを反省中です。

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 当初、伏見院がハスの立ち葉からこぼれおつる白露を(実際に)見て、(過去の回想から)きっと浮き葉でも玉となっているのだろうなぁ、という歌意だと思っていました。ところが、「なりにけり」が、「こぼれおつる」にまで及ぶのではないか?ともすると、この歌そのものが、過去の回想から詠まれたのではないか?はたまた、軒下から滴(した)たる秋雨を見て、着想したのではないか?「蓮は泥(でい)より出でて泥に染まらず」と言われますが、自分はなんて邪(よこしま)な泥に染まってしまったことか…

 確かに伏見院の詠った風景は夏です。しかし、詠ったのはいつなのでしょうか。さて、皆様はどう思われますか?

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 2021年9月21日に仲秋の名月を迎え、すでに暦の上では秋半ばです。今だからこそ夏を懐かしみ、過ぎ去りし夏の風景を思い出していただきたく、「なりにけり」にかこつけて、夏の花である「ハス」を今回のテーマに掲げさせていただきます。コロナウイルス災禍の今夏、外出もままならなかったはず。数年前まで時を遡(さかのぼ)っていただき、眺めたハス池を思い出していただきたいと思います。そして、脳裏に浮かぶ美しい蓮華とともに、冒頭の伏見院、そして次の後鳥羽院、両歌帝の和歌を読んでいただきたいです。

 

風をいたみ (はす)の浮き葉に やどしめて 涼しき玉に かはづ鳴くなり  後鳥羽院

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 ハスは泥の中に地下茎を伸ばし版図を広げます。この地下茎こそが、我々が美味しくいただいているレンコンです。その地下茎から、水面へ向けて葉を伸ばしてゆく。初夏のころは水面で開く「浮き葉」であれば、夏も盛りになるころには水面上に堂々たる「立ち葉」が生い茂ります。

 「浮き葉」がこの歌の中にあることから、初夏の情景のような気もします。風がハスの葉を傷つけんばかりに強く吹いているのであろう。浮き葉を返すほどの野分(のわけ)のような暴風雨であれば、カエルなどのんきに鳴き声を上げることもなければ、後鳥羽院が感慨に浸っている余裕もないでしょう。

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 ともすると、この歌の背景は、立ち葉と浮き葉が混在していた時期かと思うのです。台風ではないまでも、ほどよく強い風であれば、立ち葉が大きな葉であるからこそ吹き揺らすこともできる。さすがに、ハスの葉は丈夫なだけに破れちぎれることはなくとも、立ち葉を「屋戸(やど)」としていた水玉は、吹き払われ浮き葉に落ちてゆき、ここを「宿(やど)」としたのでしょう。「屋戸」は自宅で、「宿」は旅先や赴任先の家のこと。

 後鳥羽院の一首は、「蓮の浮き葉にやどしめて」の主語は何なのだろうかと思案してしまします。水玉であれば、葉の上には水玉があり、カエルはこの美しい水玉に触発されるように高らかに鳴いていたのでしょう。対して、カエルであれば、浮き葉の上の水玉も風で払われ、カエルが占有していたことになり、まるで涼しき水玉のような鳴き声を上げていたことになる。もしくは、他に主語があるのかもしれません。

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 歌意のニュアンスが少し異なるも、ハスの花が開き、立ち葉が生い茂る池、そこに響くカエルの声。なんという美しい光景を詠っていることでしょうか。今回は歌帝と評される後鳥羽院だからこそ、きっと深い意味が隠されていると勘ぐってしまうもの。隠岐の島に流されても、新古今和歌集の編纂を続けたというほどの熱意のある人物ですから。31文字の限られた中に、どのような想いを込めたのでしょうか。

 今の時期ともなると、蓮の池は、成熟した大きな種をこぼしながら、すでに立ち枯れしている風景となっていることでしょう。実際に自分が見ているわけではないで、過去の回想から想い描く風景ということは、まさに「なりにけり」。其処彼処に秋の風情を感じることのできる中で、蓮池に思いを馳せつつ、惜夏の念にかられていただけると幸いです。

 

 日本語の「主語の欠落」、特に人称代名詞が入らない文章は、文章を短く簡潔にする利点もありますが、意味が通じなくなることもあります。Benoitでオーダーをとる際に、外国語であれば必ず「主語」が入るので、誰の注文か分かります。女

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性を気遣って男性が彼女の料理をオーダーをしてくださる方がいらっしゃいますが、往々に主語が無いため、「このお料理のご注文は…」と、どちらのご希望料理なのか聞き返さねばなりません。

 物事を正確に相手に伝えるためには、主語は明確にしておかないと伝わらないないものです。しかし、和歌や長連歌、俳句などの古典詩と呼ばれているのは、限られた字数の中に詠い手の世界観を反映させつつ、主語を「読み手に任せる」ことで、歌にふくよかさを与えている気がしてなりません。読み手によって歌のニュアンスが変ってくるからこそ、多くの国文学者が研究しているのでしょう。

 かつて、日本語には話し言葉しかなく、書き言葉は漢字の音を当て字のようにした「万葉仮名」を使用していました。これが、平安時代に「ひらがな」が誕生し、日本語が飛躍的に発展していった気がいたします。しかし、当時の公用文は漢文であったといいます。両言語の勢力が拮抗していたのか、日本語では業務連絡には不向きだったのか…それでもなお、和歌の役割は大きな影響があったからこそ、日本語が時代の趨勢を勝ちとり、今の日本語が確立していったのではないかと思うのです。こう考えると、「主語の欠落」は、ひらがな誕生の平安時代からの風習であったのかとも思います。

 烏帽子をかぶり白粉(おしろい)塗った顔の貴族が、扇子の片隅からお歯黒の歯をのぞかせながら…「まろの気持ちをお察しなさい…」と笑みを浮かべる、そのような光景が脳裏をよぎる…あくまでもイメージです。「言葉の端端から気持ちを察する」というの能力は、この時代から連綿と受け継がれてきたのかもしれません。しかし、語り合うこと無くして意思疎通ができないことは、歴史が教えてくれています。幾度となく勃発した戦(いくさ)とは、この些細なことがきっかけだったのではないか?そう思う今日この頃です。

 

ゆく川の 流れは絶えずして しかも もとの水にあらず ~方丈記

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 時の流れもまた絶えることはなく、毎年のように季節は巡ってくるもの、今年の秋は昨年の秋ではありません。そして、「旬」もまた過ぎ去るのみで、待ってくれるという「優しさ」を持ち合わせていません。

 我々日本人は、知らず知らずのうちに「旬」を心待ちにしているものです。ぜひ、日々の食事の中に「秋の味覚」を取り入れていただきたいです。「初物食べると寿命が75日延びる」とはよく言いますが、競うように他の誰よりも早く「初物」を求めるのではなく、自分にとって季節の初物であることが重要です。旬の食材は美味しいばかりではなく、今我々が欲している栄養価が満ち満ちています。

 皆様に「秋の味覚」を感じていただきたく、10月11月の特選食材をご紹介させていただきます。「Benoitの料理も秋になりにけり」と感じていただき、お手の赴くままにご予約の連絡をいただけると幸いです。何かご要望・質問などございましたら、何気兼ねなくご連絡ください。

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 最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

 今年の辛丑が始まりました。その「辛」の字の如く優しい年ではないかもしれません。しかし、時は我々に新地(さらち)を用意してくれている気がいたします。思い思いの種を植えることで、そう遠くない日に、希望の芽が姿をみせることになるでしょう。

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 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com