kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

2022年12月 季節のお話「冬は時雨から始まる…」

神無月 ふりみふらずみ 定めなき 時雨(しぐれ)ぞ冬の 初めなりけり  詠み人しらず

 晴れ澄み渡った空にもかかわらず、はらはらっと肌に感じる軽やか雨を「時雨(しぐれ)」と言います。湿気のある風が山にぶつかり、雨粒を落とす。それが風に乗って晴れている地にもたらされるもので、盆地のような地理的環境が整っていないと、なかなか出会えません。そう、京都の「北山時雨」などは、ぜひとも体験したいものです。

 先にご紹介した歌は、万葉の時代詠われ、後撰集の中に綴られています。「詠み人しらず」…よく目にするこの表記ですが、実際に誰の作品か分からない場合だけに限らず、多くの歌人が同じように詠っていたり、身分が低い人であったり。とうわけで、自分などには探りようがないもの。しかし、この歌が後世に及ぼした影響は計り知れません。

 

 「神無月(かんなづき/かみなづき)」は、旧暦10月のこと。現行歴との偏差が40日ほどあることを考えると、12月初旬あたりで詠われたのではないかと思うのです。「降ったり止んだり定まらない時雨こそ、冬が訪れたことの証である。」と喝破する。なるほど、と感じ入る自分がいる中で、どうしても気になる表現が…「ふりみふらずみ」です。

 調べると、「降りみ降らずみ」と書いている。風に乗ってくる雨粒が時雨であるのあらば、ささやかに肌に感じたり、感じなかったり。「ふる」には、「降る」ばかりではなく、「古る/旧る」や「触る」という動詞があります。「触る」は、ふれるや出会うという意味を持ちます。「古り見、触りみ触らずみ」と折り返してみると…古(いにしえ)より、なかなか出会うことの無い時雨が舞う様子を、詠者は待ち望んでいたのではないかと思うのです。

 「しぐれ」と漢字変換すると、「時雨」という漢字が候補に挙がります。とはいうものの、知らないと読めない難読漢字であることに間違いありません。そう、時雨という単語に日本の賢人が特有の読みを付けた、国訓なのです。ということは、「時雨」という単語が、漢字発祥の地である古代中国に存在していたことなります。

 語源辞典「漢辞海」によれば、「時雨(じう)」であるという…ちょうど良い時に降る雨のこと。さらに、国訓「しぐれ」となると、秋の末から冬にかけて断続的に降る雨であるという。なかなか出会えないのが「時雨」であり、この自然現象は今も昔も変わりません。そこで、やっかみが加味されたのでしょうか…狭義では前述したような「青空ではらはらと降る雨」であるも、広義では晩秋から初冬にかけて断続的に降る雨のこととなる。

 

 人は、抽象的な事象を言葉で相手に伝える時、適切な表現が見つからない場合、既存のもの周知のものを拝借して言い表そうとします。例えば、ワインの表現の場合。香りを言い表すのに、「カシス」や「ラズベリー」、「枯れ葉」や「タバコ」という言葉がでてきます。前者は喜んで口にしたいものの、後者はご免こうむりたい。さらに「ビロードのような口あたり」…ビロードを食べたことも飲んだこともありません。

 古人は、目に見えない四季の移ろいを、いかに表現するかと苦心したのではないかと思うのです。明治時代になるまでは、月の満ち欠けが基準となる太陰暦であり、四季を表現できる太陽暦とは偏差が生じます。温度計や気圧計があるわけもない時代です。肌に感じることのみでは「寒い」「暑い」だけであり、ワインも「美味しい」「いまいち」ということになってしまうもの。では、どう伝えればいいのだろうか?それも端的に短い言葉で…

 そこで、四季折々の自然現象が豊かな日本だからこそ、そこに着目することで季節を表現することにした。目に見える草木の姿はもちろん、生活の中で欠かせない「衣替え」や蚊対策から草木をいぶす「蚊遣火(かやりび)」であったり、寒さ対策の「炭火」であったりと。さらに、雲の様子を含めた天候もそこに加わります。これからが、今でいう「季語」となる。

 季語は、古人がいかに季節の移ろいを言葉で伝えるか、それも美しく、その英知の結晶のようなもの。何も難しいものではなく、今でも十分に感じ取ることのできるものが多いです。しかし、現代人はあまりにも便利なカレンダーの数字に囚われてしまったがために、見失ってしまっているのでしょう。

 古人は、晩秋から初冬にかけての断続的に降る雨のことを、「八入(やしお)の雨」と名付けました。そして、この雨粒は木葉(このは)に触れることで、黄葉・紅葉へと染め上げるのだと考えていたようです。染物をする際に染料に生地を一回浸すことを「一入(ひとしお)」いいます。一回ではうっすらと色付くことになり、これを繰り返すことで色濃く染まる。多い数字を意味する「八」が加わった「八入(やしお)」とは、8回ではなく幾度となく染めの作業を繰り返すこと。一入の雨が木葉をうっすら染め上げてゆき、八入ともなると色濃くなってゆくのだと。

 この雨のことを、漢字が伝来する前から、「しぐれ」と読んでいたのではないかと思うのです。大和言葉らしい、丸みと優しが音に込められている気がします。その「しぐれ」は、樹々の葉を一雨ごとに色づかせていくと同時に、「一雨一度(ひとあめいちど)」というように、1℃また1℃と気温を下げてゆく。そして、一歩また一歩と真冬が足を忍ばせて近づいてきていることを、我々に教えてくれる。

 目には見えない季節の移ろいは、この「しぐれ」によって知ることができる。この知ることのできる好機に降るからこそ、漢字を得た古代知識人は、この雨を「時雨(じう)」であると知る。そして、古代日本の賢人はこの「時雨」という単語に、大和言葉である「しぐれ」という読みをあてたのではないか。

 時下り、京都に都が移ることで言葉の美を極めるかのように、典雅にして優雅な和歌の文化が花開きます。多くの歌人が、誰よりも先に四季の到来を感じ取ったことを誇示しようと、技巧を凝らした言葉の数々を生み出してきました。冒頭でご紹介した「北山しぐれ」のような気象用語の「しぐれ」は、雨というには心もとないものです。しかし、この「しぐれ」の後に断続的に降る「しぐれ」が来ることを、風流歌人は知っていた。季節を先取りしたいからこそ、気象用語である「しぐれ」を、本来の意味である「しぐれ」としたのではないかと思うのです。

 さあ、この歌は時雨なのか小雨なのか、詠み人しらずなだけに、確認しようもありません。しかし、この秀歌によって、名言が生まれたことは間違いないようです。

冬は時雨(しぐれ)から始まる

 

 2022年12月22日に「冬至」を迎えました。これからは徐々に陽脚が伸びてくるものの、古来より「畳の目ほど」と表現するほど微々たるものです。「冬至、冬なか、冬はじめ」というだけあり、本格的な寒さはこれから。木々は余計な体力を使わないよう冬籠りの準備中、まさに「山眠る」光景です。寒さ厳しい季節にはいります。

 古人は、冬に陽射しが降り注ぐ日を、恋しいからでしょう「愛日(あいじつ)」と呼んでいます。春秋左氏伝の「冬の日は愛すべし」からできた言葉のようです。冬は太陽が天高くまで昇らず、陽射しが低い角度で部屋の奥まで差し込むため、寒々しい中に暖かい「陽だまり」ができています。屋外でも、夏は木陰となっていた場所も陽だまりができているもの。

 まだまだ、今年にやり残したことがあるかと思いますが、ここはひとつ節目をつけ、「日向ぼっこ」で太陽の恩恵を十二分に享受いたしませんか。陽だまりでほっこりと温まるひとときは、何か心まで満たされる気になってしまいます。今年一年の自らを省みる時、暗闇よりも「陽だまり」のほうが、間違いなく明るい未来を見出すことができるはずです。さらに、愛日には「時を惜しむ」や「親に孝行する日々」という意味もあるようです。「陽だまり」が導く「家族の絆」が心の拠り所となり、この乱世の波を乗り切る活力となることと信じております。

令和5年は希望に満ち満ちた一日から始まる

 

 年の瀬を迎えました。いまだ収束の見えないコロナ災禍にあり、多くのことを考えさせられた一年であったと思います。なかでも皆様から賜ったお言葉が、どれほど励みとなったことか。Benoitは皆様のご温情のもとに成り立っていたのだと感じ入っております。誠にありがとうございます。

 そこで、全ての旬食材は無理でも、Benoitに少しだけ顔を向けてくれた食材で、「口福な食時」ひとときをお過ごしいただきたく、「新春特別プラン」と銘打って、皆様にご紹介させていただきます。さらに、2023年が素晴らしき年となるよう、特選シャンパーニュを特別価格でご案内させていただきます。

新年はBenoitから始まる…

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 最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

  「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com