kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

季節のお話「妖艶なるアサガオの花」

秋の野に 人まつ虫の 声すなり われかと行()きて いざ訪(とぶら)はむ  詠み人しらず

 日ましに秋めく今日この頃。日中の気温こそ、まだまだ汗にじむほどではありますが、朝晩には肌寒さを感じるほどとなりました。仕事柄、帰路に着くころには、すっかりと日が暮れています。人もまばらな道のりに、月夜の頃には、かくも月は明るいものなのかと、秋の月夜に感慨を覚えます。秋の気まぐれな天気だからこそ、雲間からのぞく月の姿もまた趣き深いもの。星月夜ともなると、知らず知らずのうちに月を探して夜空を見まわしてしまう自分がいます。

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 古人も「秋の名月」を眺めていたはずであり、その姿は今も昔も変わりはありません。そして、コオロギを筆頭に、マツムシやスズムシの奏でる音色も変わりはないはずです。この響き渡る秋の虫たちの音色を、古人は「虫時雨(むししぐれ)」と名付けました。秋の哀愁の念をともない、心に染み入るかのような音色を、毎夜のように楽しんでいたことでしょう。

 「秋の野」にゆかずとも、其処彼処(そこかしこ)で響き渡る「虫時雨」。どなたかのお家の庭であり、駐車場であり、もちろん公園であり、静まり返った夜半ともなると、都内でも十分に楽しむことができます。ここはひとつ、ただのうるさい「虫の鳴き声」とはせずに、美しく響く「虫の音色」として耳を立ててみてはいかがでしょうか。

 さて、マツムシは「待つ・虫」であると、古人はなかなかに粋なことをいう。帰路の道中、人を待つというマツムシ声が聞こえてくる。自分を待ってくれているのではないかと、マツムシを訪ねてみようではないか。もちろん、野に入り込むわけではなく、虫時雨に導かれるように歩を進める。すると、待っていたのは虫ではなく、美しい凛と咲き誇る白い花でした。

 

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 夜半に花咲くこの植物の名は、アサガオのような花なので「夜顔(ヨルガオ)」なのではないかと調べてみると、意外な花の名前にでくわしました。この花は「朝鮮朝顔(ちょうせんあさがお)」といいます。アサガオという名の付く花は、花の形が似ていることが特徴で、花開くタイミングによって「朝顔」「昼顔(ヒルガオ)」「夕顔」、そして「夜顔」とあります。ここに、「朝鮮朝顔」が加わったのです。植物の分類上では、アサガオヒルガオ科に与しています。列挙した「○○ガオ」の中に、、仲間外れが2つ入っています。

 花こそ似ていますがユウガオはウリ科、チョウセンアサガオはナス科の植物です。ユウガオは干瓢(かんぴょう)として馴染みの食材、チョウセンアサガオがナス科であれば、美味しい実を成すのではないかと思うものです。今の時代にあって、見知らぬ草木をホイホイと口にすることはないかと思うのですが、決して口にしてはいけません。この植物自体が危険極まりない毒性を持っているのです。

 この植物の毒性薬効転用は古くから知られており、15世紀に興った中国明王朝医学書にすでに書き記されており、日本には江戸時代に薬用植物として持ち込まれたといいます。当時代の外科医、華岡青洲(はなおかせいしゅう)は、この薬効に着目し、精製することで麻酔薬「通仙散(つうせんさん)」を調合し、世界初の全身麻酔による手術を成功させています。猛毒であるフグ毒が鎮痛剤になるように、チョウセンアサガオ毒は麻酔薬に姿を変える。そのため、今の公益社団法人日本麻酔科学会のロゴにデザインされているのは、この花です。

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 チョウセンアサガオの「チョウセン」とは、朝鮮が原産であるということではありません。日本の固有種に似ているが、少し違う在来種である草木であるという意味で名付けれたのだといいます。原産地は南アジアです。そういえば、地中海沿岸が原産地であるアーティチョークのことを、「朝鮮薊(ちょうせんあざみ)」と日本語で表記します。なるほど、日本に似ているアザミがあるが少し違う…少しどころではありませんが…

 

 このチョウセンアサガオにも、もちろん花言葉があります。「夢の中」「陶酔」「小悪魔的な魅力」…どのような花なのか知るほどに納得してしまう花言葉です。危険な植物であるのですが、暗闇の中で、月明かりやほのかな街灯で照らされる、この妖艶なる花の姿に魅せられる。いっとき現実を忘れてしまうかのような夢心地にひたる。一線を越えてしまうと夢の中から抜け出せなくなる危険性もある、「小悪魔的な魅力」とはかくものなのか。しかし、「毒を以て毒を制す」とはよく言ったもので、有効活用することで我々に恩恵をもたらしました。

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 マツムシの音色に誘われるかのように、自分がこの花に出会った場所は、建物裏の草むらの中。家主は知ってか知らぬかわかりませんが、育てている感はありません。声高らかに「危険だ」と声をかけるのは野暮というものでしょう。自分が出会う前から自生していた自然の理(ことわり)です。そっと眺めるのが良いのかと。コロナウイルス災禍による混沌とした世界の中で、疲労困憊しながら夜半に帰路につく我々へ、チョウセンアサガオはこう語りかけているのかもしれません。

「今日も一日お疲れ様でした…」と。

 

 このチョウセンアサガオが花開いているの丸一日程かと思います。朝顔と名がつくだけに、朝も目にすることができるのですが、心急(せ)いているのか見落としがち。闇夜で凛として花開いている姿こそ、花言葉にあい相応(ふさわ)しいと思うのです。そして、2日目の夜には「別れ」を迎えることになります。この刹那(せつな)さがまた、花の美しさを際立たせているのではないでしょうか。

 「会者定離(えしゃじょうり)」とは世の常ながら、「出会い」が無ければ、「別れ」もありません。人世には悲喜こもごもありますが、「出会い」の無い人生は全く平凡なもので、つまらないものだと考えています。食の世界でも同じことで、季節折々で旬を迎える食材の無い、食事では飽きてしまうことでしょう。旬の食材の美味しさを知っているからこそ、旬の短い「ひととき」を待ち焦がれ、大いに楽しむものです。

 「美味(おい)しい」とは、「美しい味」と書きます。美しさには限りがあり、限りがあるからこそ美しい。いずれは終わりを迎える食材の美味しさを見逃してはいけません。我々は、美味しいなかに「口福な食時」のひとときを感じ取ります。さあ、足の赴くままにBenoitへ、旬の食材を数々が、「料理」へと姿を変え、皆様をお待ちしております。もちろん、チョウセンアサガオは食材として使用してはおりません!

 

 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com