kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

新潟県白根 山田さんの≪白根白桃≫のご案内です。

 其処此処(そこここ)に秋を感じることのできるこのごろ。樹々は秋の実りの準備すすめ、足元では秋草が花開く。見上げれば入道雲は影を潜め、うろこ雲やいわし雲がうっすらと広がる。この「行き合いの空」を吹き抜ける風もまた、朝晩には「涼風(すずかぜ)」となり、虫の音を響かせているかのよう。この秋を待っていたかのように、「白桃前線を追え!」はアンカーの新潟県白根代表品種「白根白桃」へとバトンが渡されました。

 米どころで有名な新潟県ですが、白根という地域は、知る人ぞ知る県下最大の果樹栽培地なのです。いったいどのような地なのか?今回は、過ぎし夏の盛りのころのお話です。

 

 東海道中山道などの五街道日本橋を起点にしているのに対し、日本の中枢を担う鉄道は「東京駅」から広がります。乗降者数は新宿に及ばないものの、堂々たる第3位。しかし、悲喜こもごもの感傷が、他の駅との違いを鮮明にしています。暑さ盛りの頃ともなると、悲しみを抱えている人よりも、期待と希望に満ちている人々が満ち溢れています。特にこのホームでは、暑さに疲弊している感は否めませんが、里帰りや旅行に出かける人と、東京に旅行に来ている人が交錯する場所となります。これが、他の駅とは一線を画するところなのではないでしょうか。子供たちの喜びの雄叫びがこだまする夏は、「なにごとも楽しみなさい」という童心を思い出しなさいと大人に促しているかのようです。

 東京駅から四方八方に向かう新幹線乗り場。緑色のご案内に従い向かった先に辿り着くホームで待ち受けるのが上越新幹線です。東海道新幹線が「青いライン」、上越新幹線が「緑のライン」という懐かしい姿が特徴でしたが、今やどの新幹線もハイカラなお姿に変わり、まるでカモノハシのよう。この感想を抱く時点で、自分も年を取ったのでしょう。今回は上越新幹線に乗り込み、9月のBenoitの特選食材が育まれた地へ向かいます。東北や関西ではありません。上越新幹線ですから、越後の国「新潟県」です。

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 上越新幹線が越後トンネルをくぐり抜けると、川端康成の小説「雪国」の舞台「湯沢」、さらに進むと幕末時代に繰り広げられた北越戦争の舞台、時代の趨勢に翻弄された「長岡」へ。さらに過ぎると、世界に誇る銀器を作り出す「燕・三条」、その次は終点の「新潟」です。今回ご紹介したい地は、燕三条駅を過ぎてすぐ、進行方向右手に見える「白根(しろね)」と呼んでいる地域です。新幹線の車窓からは、「米どころ」の名声を勝ち得ただけあり、見事なまでの田園風景が広がります。その中にあり、この白根地区は稲作も行っていますが、新潟県人であれば知らぬ者はいないほどの「フルーツ」の産地なのです。今では市町村合併により、白根市新潟市に加わり、新潟市南区白根へと名を変えました。

 今から300年ほど前、江戸時代も中期にさしかかろうとする頃には、すでに新潟県での「ナシ」の栽培が始まっていたといいます。越後平野を流れる2大河川、信濃川阿賀野川。この流域で頻繁に見舞われる水害は、人々を疲弊し、水に強い他の農作物を模索するということは自然の成り行きだったのでしょう。そこで白羽の矢が立ったのが「ナシ」でした。すでにこの時代にあり「越後のお国自慢」として、幕府に献上していたという記録が残されています。もちろん、今馴染みの「ナシ」とは別物で、「類産(るいさん)」という品種だったようです。しかし、他の食味に優れた今の和梨によって淘汰されることになり、日本に残る唯一の原木が新潟県の月潟(つきがた)に残っているのみ。1941年に国指定天然記念物「月潟の類産ナシ」です。新潟市南区別当(おおべっとう)に今もその雄姿を見ることができます。皆様気付かれましたか、白根も大別当(合併前は月潟村大別当)も新潟市「南区」です。

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 信濃川長岡市を過ぎ、三条市に入ると、二手に分かれます。本流が信濃川であれば、支流は画像にある「中ノ口川(なかのくちがわ)」です。この並行するように流れる2つの河川が、新潟市の西区で再び落ち合います。分流する地域が「月潟」、両河川に挟まれた中州のような地の中心に「白根」です。さて、総延長は日本一、と小学校で習った信濃川です。ひとたび大雨によって増水した場合、どれほどの規模で氾濫したことか。まして、下流域が晴れていても、上流で大雨だった場合などは、情報の伝達に時間のかかる昔であれば、日々の生活の中でいかほどの恐怖が付きまとうことでしょうか。実際ご覧いただくと、本流の信濃川も支流の中ノ口川も、日本最長なのかと疑いたくなるほどの川幅です。中州である白根地域は、ひとたび信濃川が暴れ出すと手の施しようもないほどの冠水に見舞われるということも、納得していただけるのではないでしょうか。戦国時代に活躍した直江兼続が、この惨状を見かね、中ノ口川の治水に取り組むも、一定の効果を生み出しましたが、並々ならぬ自然の力に抗することはできませんでした。肥沃な地ながら、水との戦いを余儀なくされ、自然堤防の決壊に幾度となく辛酸を舐めること幾度となく。この難題を解決に導くのに、1922年の大河津分水路の完成まで待たねばなりません。

 大河津分水路によって、低湿地帯や沼地の多かった白根地域が飛躍的に発展していきました。しかし、白根の人々が完成まで手をこまねいていたわけではありません。試行錯誤の治水事業に取り組み、先祖代々受け継がれてきたこの肥沃な地を生かしたいとの切なる想いのもと、彼らは少しでも河川氾濫の被害に見舞われない地には稲を、それ以外の地には少しでも水害に強い農作物をということで、「類産ナシ」を選んだはずです。さらに、大河津分水路の完成の前後には、類産ナシから、品種改良された食味のいいナシへ。時同じくして、夏の果樹の代表ともいうべき「桃」という選択肢が出てきました。古来、中国より持ち込まれた桃は、北方系の品種だといい、桃太郎の絵本に出てくる先のとがった形の桃でした。 南方系が日本に持ち込まれ、偶発実生(意図的ではない自然の交雑から生まれた品種)によって生まれたのが、今の「まん丸の桃」の原型だと言われています。意外に歴史は浅く、時は明治に入ってからです。この美味しさに着目したのでしょう。

 新潟の冬は、シベリア高気圧が日本海を通過する際に、「北西の季節風」を導き、対馬海流(暖流)の蒸発した水分を大量に含んだ大気を越後山脈にぶつけるため、冬の間は厚い雲に覆われ雪深くなるのが新潟です。だからこそ豊かな水資源を得ることができるのですが、空は雲に大地は雪に覆われてしまう冬の間は、如何せん作物を育てるには不向きです。そして夏は、日本海の低気圧に吹き込むような南風が、日本海側の特徴的な夏の気象現象であるフェーン現象引き起こし、猛暑になる厳しさはあるものの、光合成に十分な日照時間を獲得できます。特に美味しい桃になるには、5~6月の陽射しが不可欠といい、果物王国の山梨県、長野県や福島県よりもこの期間の平均日照時間が長いのです。では、新潟県全土で最高品質の桃が育つのか?この豊富な日照時間は、新潟全土を「米どころ」にしているのは間違いありません。しかし、果実王国にはしていない。理由は、「季節風」が思いのほか強いのです。

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 桃農家さんにとって避けては通れない、「モモ穿孔(せんこう)細菌病」。この細菌病は、風雨によって感染していくうえに、枝に感染し越冬したものは春に枝を枯らし、春の小さな青果に感染したものは、熟していく果実の果皮を穿(うが)つ。美味しいにもかかわらず、1級品としての商品価値を失い、果汁が豊かなフルーツだけに、表皮の裂け目から果汁が漏れ、別の病原菌を誘引することにもなります。感染経路が「風・雨」なだけに防ぎようがなく、どうやって被害を最小限に抑えるかのみ。強い風は、この病気を蔓延させ、無風は他の感染症を導く。適度な風が健全で美味しい桃を育て上げるのです。先に添付した新潟県の地図をご覧いただきたいです。夏の南風は越後山脈が防ぎ、フェーン現象の影響で、山越えは乾燥した空気となり勢い削がれた風が平野を覆う。新潟県の地形上、春の西風、さらに海沿い特有の強い浜風を防ぐものはありません。しかし、「白根」に注目していただくと、西には、弥彦山が聳えています。麓に弥彦神社を据え、このスカイツリーと同じ標高634mを誇る山塊全てが神域。この霊峰が、白根を新潟屈指の桃の産地にしているというわけです。

 

 新潟県南区白根地域、清水という地に居を構える山田信義さん。清水という地は、前述した「月潟の類産なし」が現存している地から、中ノ口川を挟んだ向かいにあります。まさに白根地域の中州の中。果樹に関しては県下一の品質と収量を誇る地域です。彼の地で桃栽培のほかに、新潟県なので稲作はもちろん、日本一を誇るチューリップ栽培も行っている、代々農を生業としているプロ中のプロ。山田農園さんではあるのですが、特に小売りをしているわけではない栽培の専門職で、今期Benoitに特別にご協力いただいたのです。自分の夏の帰郷に際し、どうしてもお会いしてお礼を伝えたく、訪問させていただきました。「今から伺ってもよろしいですか?」という自分の無計画な要望を、快く受けてくれるほどの寛大さです。本当にありがとうございます。

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 住所を聞いての、白根地域の清水に到着したときが、ちょうど農協への納品に行っており、民家のなら部小道の中で待つこと5分ほど、ライムグリーンのお洒落な軽トラックでさっそうと登場した山田さん。選果場では、母様もおり、「親戚け?」と信義さんに質問が飛ぶ。そう、まさに個人宅の訪問です。お母様も交えての桃談義は、昨今の現状を知る上で、大いに貴重なものでした。近代化された選果場で目にする「糖度センサー」なるものに頼らず、代々引き継いできた経験に裏打ちされた厳しい目で選果される現場。選果に漏れた桃は、確かに傷がついてはいるが香り高く、産毛が痛々しい。そして、新潟県の猛暑の中、桃畑まで案内していただきました。

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 樹々の間に十分間をとり、程よく生い茂る下草。生い茂る色濃い緑の葉が、樹の健康状態を物語っています。 「安心・安全な美味しい桃」とは、言うは易く行うは難し。新潟県白根のブランドを背負う以上は、栽培者皆が共通の志を持ち、実践しなければなりません。有機栽培の徹底は、肥沃な土地に加え微生物による理想的な生態系サイクルを作り上げます。さらに、病気の蔓延を防ぐうえで、畑への適度な風通しを実現すべく、山々を抜けてくる畑の風の通り道を考へ植樹していく。甘くて大きく、深みのある桃に仕上げるため、1本の樹での収量を抑えるための徹底した摘果、収穫適期を見極め健全な完熟での収穫へのこだわりは、傷みやすい桃だけに、細心の注意が払われ丁寧に摘みとられます。桃を、まるで我が子のように丹 精込めて愛深く育て上げる。さらに、「白根は昔から味で勝負してきた産地だ」、という白根魂を頑なに守り続けた父・母の背中を見て代々引き継いできたからこそ、妥協という文字はない。彼の仕事の丁寧さは、畑に現れ桃の美味しさに反映される。

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 少しでも美味しい桃を長い期間提供できるようにと、収穫時期の違う白桃の品種を選び植栽しています。山田さんの桃カレンダーには「なつっこ」、順に「山根白桃」「川中島白桃」「ゆうぞら」、そして最後は「白根白桃」と名を連ねます。桃の品種は数え切れず、各地で生み出されたものはその地名を名に冠する、桃とはいえまさに食味は千差万別。ここでも白根魂が。上記の品種は、生産性の高い(作りやすい)品種ではなく、栽培が難しくても食味のいい品種を選んでいるのです。晩生の「白根白桃」は、その名の通り白根が発祥の品種です。

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 彼のカレンダーでは、「白根白桃」は、8月末から収穫が始まり、9月末までの期間が記されていた。しかし、自然はそう簡単にカレンダー通りに事を進めてくれないものです。今期の白根白桃の収穫は、9月初旬に始まり、先日の14日をもって終了したのです。「え?終わりなの」という問いに対して、収穫は終わりましたが、この白桃は追熟タイプなので、Benoitのパティシエルームで大切に保管されています。本格的にBenoitに届いた白根白桃が、デザートにデビューするのは、17日前後と予想しています。それほどまでに、追熟を要するのです。美味しい桃だけれども、関東では見かけません。その理由は、追熟させなければならないという気難しさが、最大の要因なのでしょう。

 あまりにも新潟県が「米どころ」として全国にその名を轟かしているため、他の農産物のイメージがつきにくいかと思います。今回の特選食材の「桃」の日本全土での収穫量を見てみると、岡山県に次いで第7位が新潟県です。しかし、新潟県に「桃」のイメージが無いため、ほとんどが地産地消ということは前述しました。大消費地である関東に桃を出荷する場合、全国収穫量ダントツ1位の山梨県、2位の福島県、そして第3位の長野県と競合ひしめく中で勝負をしなければなりません。この状況の中で知名度の低い「新潟の桃」を送り出しますか?普通に考えれば出荷しないでしょう。そこで、直接に桃栽培のプロフェッショナルから購入することにしたのです。地産地消で十分にもかかわらず、山田さんがBenoitへ桃を送ってくれる理由は、「新潟白根の桃」に大いなる自信があればこそ。この新潟白根の威信にかけた桃が美味しくないわけがありません。

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 桃畑の上空を颯爽と飛んでいるのは鷹の案山子(かかし)です。上空で赤くは根を広げている姿で、桃を食い散らかす小動物たちを警戒する役割を担う、最近の流行りなのだといいます。「流行りということは、効果抜群なのですね」と語る自分に、山田さんは「それほどの効果はないですよ」と。ないよりは良いのかもしれないと思いつつ、周りを見渡すと凧ばかりではなく、クジラも優雅に空を泳いでいました。人間と動物との攻防は、騙し騙されつつ、いまだ終わりを迎えようとはしていません。我々が美味しいと思う桃は、動物にとっても美味しいということなのでしょう。

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 山梨県、埼玉県さらには長野県の県境にそびえる甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)を源流に、長野県内では千曲川(ちくまがわ)と呼ばれた清流が、新潟県に入ると名を信濃川と名を変えます。越後山脈谷川岳によりもたらされる豊かな水脈を源に発する魚野川(うおのがわ)は、長岡市のあたりで信濃川に落ち合います。さらに、信濃川の北には阿賀野川(あがのがわ)、北は荒川で南は関川と並行する何本もの大きな川が、豊かな水資源を約束し、この水の流れは山々で培われた肥沃な土が流域へもたらすこととなり、越後平野を形成します。新潟県を「米どころ」たらんとする理由はここにあります。しかし、この豊かな水の流れは、時として牙を剥き我々に襲いかかります。今年の西日本豪雨による未曽有の惨禍は記憶に新しいものではないでしょうか。多くの人々を養うことのできる肥沃な地は、人々が集まり村を形成していく。自然の脅威を甘受するうえで成り立っていることを忘れてはいけません。この越後平野も例外ではありません。

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 古来より多くの賢人が水害対策に挑むも、信濃川龍神にことごとく蹴散らされること数知れず。前述したように、直江兼続でさえ中ノ口川の暴れまわる流れの軌道を整えることのみ、洪水を防ぐまでには至っていません。1896年に本流の信濃川三条市横田で300m破堤した未曽有の大水害(横田切れ)では、遠く河口近くの新潟市中心部まで水が達したといいます。この終わりなき水との戦いに疲弊しつつも、畏怖の念を忘れずにいる。全てを飲み込み、根こそぎ流してしまう水の力。ひとたび勢いがついた時には、人々は成すすべなく運命に身を任せるのみ。これほどのリスクがありながら、この地に居を構えることは無謀なことのように思えます。しかし、今や「越後平野」として日本有数の穀倉地帯としての名声を博するまでになりました。そこには、先祖代々守り続けた地を離れることを良しとしない越後人の心意気、そして必ず成しえるという強靭な精神力、弛まぬ努力があったればこそなのでしょう。

 昔々の信濃川が穏やかだったわけではなく、幾度となく氾濫していまた。だからこその肥沃な地となり、人々が移り住むようになります。今回の白桃の出身地の「白根」は、本流の信濃川と分流の中ノ口川に挟まれた中州のような地域です。皆様のご想像の通りの氾濫頻発地帯、だからこそ、低湿地や沼地が多かったといいます。治水に知恵を凝らしながら開拓し耕作地を増やしていくのですが、自然堤防沿いに居を構え、比較的標高の高いところに新田を開拓していきました。新田といっても「湛水田(たんすいでん)」といい、冬季にも水が残っている田のことです。自然生態系には恵まれるも、収量と品質に少々問題があるのでしょう、今ほとんどの田が「乾田」であることが物語っている気がいたします。しかし、「冬季湛水田」という栽培方法が見直されていきているようで、一概に粗悪と決めつけるわけにもいかないようです。このあたりは農のプロフェッショナルにお任せし、話を進めます。そう、悪戦苦闘しながらの開拓の間も、幾度となく洪水に見舞われていたようです。

 相手が日本最長河川である信濃川だけに、生半可な治水などは焼け石に水なのでしょう。考え抜いた末に計画されたのが「大河津分水路(おおこうづぶんすいろ)」でした。分流しようという発想です。そう簡単な工事ではありませんでした。簡単に書いてしまうと、前述した信濃川から中ノ口川が分流するよりも、上流に位置する燕市に大規模な可動堰を設け、弥彦山の南西と寺泊の間を通し、日本海へと注ぐ、全長9.1kmの分水路を作成しようというもの。この着想は、現長岡市の豪商が江戸幕府将軍徳川吉宗に請願するところから始まりますが、この時に許可はされていません。後年、幕府も計画調査に乗り出しますが、莫大な費用と周辺集落の反対があり着手に至っていません。

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 幾度となく大洪水が発生する中で、明治維新後に白根の庄屋が越後府請願したことが受け入れられ、1870年に工事に着手するも、信濃川の流量が減ることで新潟港の水深が浅くなり、船の航行に支障が出るという政府が雇った外国人技師による報告を背景に大河津分水は廃止され、治水事業は堤防強化を中心としたものに移行しました。それでも地域の人々は大河津分水が必要であると考え、田沢実入など多くの人々が大河津分水の必要性を訴え続けました。そうこうしている中で、前述した未曽有の大水害「横田切れ」に襲われます。燕市を始め長岡から新潟まで、越後平野一帯が泥の海と化し、床上・床下浸水した建物は43,684戸、水をかぶった田畑は58,257ヘクタール、被害総額は当時の新潟県の年間予算とほぼ同額にまで達しました。低地では3ヶ月以上も水が引なかったといいます。

 これを契機に政府も重い腰を上げ、分水路の建設が再開されたのが1909年。当時「東洋一の大工事」と言われた大河津分水路が完成の日をみたのが1922年です。分水地点から河口までは約50km、この距離を分水路では約10kmで日本海に。この流水エネルギーは予想を超えるものでした。当時の分水点は「自在堰(せき)」でした。底に流れを止める障害物を築き、周りよりも低く設定した壁の上を、過剰な水が分水路に流れ込む仕組みです。信濃川龍神のエネルギーは、堰の土台を穿つことになり、堰は陥没。多量の水が分水路に流れ込むことで、本流河口にはほとんど水が流れないという事態に。自在堰の復旧工事での対応が不可能であったため、内務省は自在堰を撤去し、自在堰に代わる新たな可動堰の建設と川底の侵食を防ぐ床留・床固の建設を行う補修工事の実施を決定し、新潟土木出張所長としてパナマ運河の測量設計に携わった技術者・青山士(あおやまあきら)氏を、現場事務所責任者として宮本武之輔(みやもとたけのすけ)氏を派遣しました。補修工事は、高い技術力と信念をもった技術者たちの活躍により、陥没から4年後の1931年に終了しました。

 大河津分水路の完成は、劇的にまでに水害のリスクを減らしました。さらに、燕から新潟港へかけての平野の水はけ問題も改善され、腰まで漬かりながらの作業の多かった「湛水田」が、今お馴染みの「乾田」へ。白根で栽培されていた果樹についても、水害に強い品質という考えが、肥沃な地を利用しての食味重視の品種の選択へ。代々受け継がれてきた、白根の人々に「果樹から田へ」という考えはなく、先人のノウハウを生かしながら、さらなる品質向上を目指す。美味しいが栽培が難しく敬遠されてきた品種への取り組み、この白根の人々の心意気と弛まぬ努力が結実し、県下一のフルーツの産地(梨・桃・ブドウ・洋梨ル・レクチェ)の名声を獲得することになります。新潟県が「コシヒカリ」名産地となったこともしかし、肥沃な地があったという利はあったものの、常に水との戦いを強いられ辛酸を舐めさせられ、それでも諦めない我慢強さが成した偉業なのでしょう。冬は寒風の吹く過酷な環境で育まれた新潟県人の気質なのかもしれません。

 今回の白根地区には、江戸時代から続く伝統の祭りがあります。新潟県無形文化財に指定されている、「白根大凧合戦」、中ノ口川に沿って北風が吹く6月に開催されます。江戸の中頃、中ノ口川の堤防改修工事を終えたお祝いに、白根側の人々が大凧を揚げたところ、西白根側に落ち田畑を荒らしてしまった。これに腹を立てた西白根側は、大凧を揚げ白根側に落とし返した。これがこの祭りの発祥といいますが、もちろん諸説ありです。今では両岸から順に大凧を揚げ、川の上空で凧を絡ませ両岸から引き合う、相手の綱を切った方が勝者になります。それぞれの大凧は、対岸に揚がるよう工夫が凝らされ、各組に伝わる伝統的な揚げ方、紐の掛け方があり、今なお改良を重ねながら伝承しているといいます。

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 東側に本流・信濃川、中央に分流・中ノ口川を有する地です。今までの話の流れからお察しかと思いますが、水との過酷な戦いを強いられ、尊い犠牲を伴い恨み辛みもあったはずです。しかし、先人たちは両河川と向き合い、共生できる道を模索してきたという歴史を持っています。同じ地域に居を構えることは、多少の違いこそあれ水害に悩まされることに違いはありません。昔話にでてくる「意地悪爺さん」のように、対岸が氾濫したときに笑いながら見物していることはなかったはずです。同じ釜の飯ではないですが、故郷を同じくする仲間同士の意識が強いはず。ひとたび引きこされる水害は全てを流し去る、だからこそお互いに助け合いながら日々頑張ってきたのです。その仲間の結束を確かめ、伝統技術を後世に伝える。これを誇りとし、大凧という形で対岸に知らしめることで、相手を鼓舞する。大凧を絡ませ引きあうことで、手にひしひしと感じる相手の力強さに、頼もしさを感じていたのではないでしょうか。「有事の際には安心しろ、俺たちがいる!」、だからこそ白根に人々が集まり、彼らの弛まぬ努力の結果が「米どころ」「果樹の産地」へ導いたのでしょう。「報復で大凧を落としあう」という起源説は、本当の話かもしれません。しかし、感情表現の苦手は新潟県人らしい相手への感謝の表れなのではないでしょうか。

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 この臨場感あふれる大凧合戦の写真は、新潟県在住の加藤さんよりご提供いただきました。この場をお借りして、御礼申し上げます。

 

いつもながらの長文を読んでいいただき、誠にありがとうございます。

末筆ではございますは、ご健康とご多幸を、イノシシ(風水では無病息災の象徴)が皆様をお守りくださるよう、青山の地よりお祈り申し上げます。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com