kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

2020年 ウイルス災禍克服へ「西行の想いと釈尊の教え」 に思うこと

憂き世には とどめおかじと 春風の 散らすは花を 惜しむなりけり  西行

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 人生は苦そのもの「苦諦(くたい)」である、と釈尊は弟子に語りました。「諦」は「あきらめる」ではなく、仏教の観点からは、「真理を見極めること」を意味します。厭世の想いから「人生は苦ばかりだからあきらめなさい」ではなく、「四諦(したい)」なのだと説いている。「苦の真理を見極め(苦諦)、追究(集諦)することで、克服(滅諦)する。その道しるべ(道諦)となるものが八正道(はっしょうどう)なのだ」と。

 「八正道」とは、「正見(正しい智慧)」、「正思惟(正しい思索)」、「正語(正しい言葉)」、「正業(正しい行為)」、「正命(清らかな生活)」、「正精進(正しい努力)」、「正念(正しい思いを持ち続けること)」と「正定(心の安定を保つこと)」の8つ。これらを、ひたに実践しなさいと釈尊は説きました。

 諸行無常の憂きことの多いこの世に、今はとどめてはおくべきではないと、春風が慌ただしく桜の花を散らしてゆく。末法思想が蔓延する憂き世に、純真無垢な美しい花開くべきではない。人々が八正道に習うことで滅諦できるのは翌年なのだと西行は伝えたいのか。春風の桜の花への愛惜(あいせき)の熱い想いが込められている名歌です。

 今年の干支は「庚子(かのえね)」です。「庚」は「更」であり、「更始(こうし)」とは、古いものを捨て初めからやり直すことを意味します。そして、「子」は「坎(かん)」である。古代中国で誕生した占い「六十四卦(ろくじゅうしけ)」において、この「坎」の卦が上下に配置される「坎下坎上(かんげかんじょう)=坎為水」は、「重なる険難はあるが、真実をもって行動すればうまくいく。」と教えてくれています。

 

 冒頭の詠者、西行平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した、武士・僧侶・歌人です。後鳥羽院にして「生得の歌人と覚ゆ(生まれながらの歌人である)」とまで言わしめ、藤原俊成と並び称される人物です。奈良時代から続いた唐風文化から、国風文化へと移り行き、「ひらがな」の誕生が和歌を飛躍させることになります。そして、多くの歌才溢れる天才が歴史に登場してくる、その中でもひときわ異彩を放っていたのです。

 時は激動の最中。平安中期から始まる藤原氏による摂関政治から、上皇が実質的な権力を取り戻し、政務を執り行う院政が始まりました。天皇家復権で、安定するかのように思えたものの、貴族内部の権謀術数による紛争の解決を武士に頼らざるをえず、ここに台頭したのが伊勢平氏の棟梁である平清盛でした。しかし、時長くなく平安末期を迎えます。

 

 治承3年(1179年)の「治承三年の政変」と呼ばれる、平清盛のクーデターにより、後白河法皇が幽閉されることになりました。後白河院平氏との確執が重大局面を迎えることとなり、院の第三王子である以仁王(もちひとおう)と、平清盛が擁立した高倉天皇(院の第七皇子)の両兄弟が対峙することになります。以仁王平氏追討の令旨(りょうじ)を発し挙兵するも、ことを急いだ代償か、平氏側に知られることとなり、追われる立場になります。そこで、藤原家の氏寺である興福寺に助けを求めるために向かいます。時は治承4年(1180年)のこと。

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 源頼政は、以仁王を南に逃し、宇治川を挟み平知盛軍と対峙します(宇治川合戦)。しかし、多勢に無勢、善戦虚しく平等院へ敗走し境内にて自刃することに。この平等院敷地の片隅に、彼の墓碑(下の画像)がひっそりと建立され、いまでも辞世の句とともに宝篋印塔(ほうきょういんとう)を見ることができます。

埋れ木の 花さくことも なかりしに 身のなるはてぞ 悲しかりける  源頼政(辞世の句)

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 一方、奈良県興福寺へ向かった以仁王も、京都府木津川市の光明山寺にあった鳥居前で落命します。興福寺より向かいし援軍の僧兵は、この手前5kmのところまで、あと一歩のところまで駆け付けていたのだといいます。この悲劇の王を哀れんだ里山の人々によって、高倉神社が建立され祀られました。当時は反逆者のレッテルを貼られていたために、脇にひっそりと御陵が築かれてたのだといいます。

 以仁王の館が、三条高倉にあったことから高倉宮とよばれていた名残から名付けられたのでしょうか。対峙していた異母兄弟の弟は高倉天皇であることを思うと、なにか因縁なのかとも思ってしまいます。

 この以仁王の一件を発端として始まったのが治承・寿永(じしょう・じゅえい)の乱。源平合戦とも呼ばれ、6年間にも及ぶ大内乱にまで発展していきました。どのような時代でったのか、多少の脚色はあるかと思いますが、古典「平家物語」が当時の様子や人間ドラマを生き生きと伝えてくれています。

 この平家物語の最後、壇之浦の合戦を下関の観光案内とともにブログに書き記しました。平家物語が、なぜ今なお輝きを放っているのか?かいつまんだ内容ですが、面白く仕上がったと思います。ぜひ、下関へ観光するような気分で、以下よりご訪問いただけると幸いです。

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 西行は、このような時世の中を生き抜いていました。荒廃してゆく京の街を憂い、治承・寿永の乱を耳目に触れ、平氏一門の凋落(ちょうらく)を目の当たりにしたことは、「春に三日の晴れなし」といわれているように、春の晴れくもる不安定な天気を、何が正しく何が間違いなのかが分からなくなる混沌なる憂世(うきよ)になぞらえ、憂悶(ゆうもん)していたのでしょうか。

 諸行無常の憂世の中でも、刻々と過ぎ去る時の流れの中で、陽が昇り陽が沈む。連綿と繰り返してきたこの流れは変わらないものの、陽の昇る高さが変わることで、気温に違いが生まれ、多様な気象条件を生み出しました。そして、これに呼応するかのように、樹々の移ろいや鳥たちのさえずりなど、生きとし生けるものが動き出す。

 太陽が地表に顔を出す時間が一番短い日を「冬至」と定めています。「夏至」と比べると、日照時間が4時間も短くなるのです。暖房の完備されていない昔にあっては、降り注ぐ暖かい陽射しを、どれほど待ち望んでいたか。農耕民族ですから、なおさら切望していたのではないでしょうか。その想いが込められているからでしょう、冬至を「一陽来復」と表現していました。陰陽説の「陰の後には陽がくる」という言葉から派生し、「悪いことが続いたあとには福が訪れる」という意味もあります。

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 毎年春になると咲き誇る桜の花に、太陽に思うような、ある種の敬虔(けいけん)なるものを見出したのでしょうか。今の憂世の中に、桜を咲きおくことは、春風の桜に対する愛惜の思いが許さなかった。来年はきっと良い年となるはず、そこで咲き誇る桜こそ「花笑う」のであると。

 昨今の「新型コロナウイルス災禍」が、心身に与える影響は計り知れません。春風が愛惜の念で桜の花を散らしたように、今すべきことは耐え忍ぶことである。一陽来復、陽はまた昇る!必ずこの災禍を克服できると信じています。来年は、希望に満ち溢れた輝かしい花の笑顔が、陽気な春風とともに我々を迎えてくれる、そう西行は伝えてくれているのでしょうか。

 皆様と皆様のご家族ご友人の健康と命を、愛惜するものを守るために今すべきことは何なのか。Benoitスタッフ一同よくよく考えて行動に移してまいります。ウイルス災禍の終息した住み良い毎日の生活は必ず訪れると信じております。

 自分の勝手な解釈が入り込み、西行の思うことから逸脱していることは否めません。しかし、この世界中の人々を戦々恐々とさせて、「新型コロナルウイス災禍」の真っただ中だからこそ、冒頭に書きました釈尊の教えも心に響きます。西行の名歌にしても、釈尊の教えにしても、きっとなにかの縁があったのでしょう。

 終息の見えないウイルス災禍に対し、漠然と恐れ慄(おのの)くのではなく、「四諦」をもって臨んでいくのが良いかと思います。干支の話で登場した「坎の卦」が、「重なる険難はあるが、真実をもって行動すればうまくいく。」と教えてくれています。これを、偶然のことととするか、必然であるとするかは、皆様の判断におまかせいたします。悩んだ時には歴史に習うことも、一案かと思います。あまりにも古い歴史ですが、日本人に連綿と受け継がれてきた精神のような気がしてなりません。

 今年早々に皆様にご紹介いたしました「干支の話」からの抜粋です。どのような世相なのか?詳細はブログを参照ください。

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さくら色に 衣はふかく 染めて着む 花の散りなむ のちの形見に  紀有朋(ありとも)

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 「惜花(せきか)」の想いは、今も昔も変わることはありません。それが、開花を待ち望んだ桜であればなおのこと。散るを惜しむがあまりに、桜色を染め込んだ着衣を、さらにはお化粧に桜色を取り入れるのも、この時期ならではのこと。古人も観桜の際に、花散ってからも思い出にと、桜色の衣を身につけることが風流だったのだといいます。

 江戸時代には、頬がぽっと色付くような桜色で染める、「うっきり」というお化粧がありました。彼の時代はおしろいを使うも紙で抑えることで化粧をしていないような素肌を演出し、「紅花(べにばな)」で頬を染めていました。血色良く見え艶やかな「うっきり」を演出するのが「桜色」であり、下の画像の色合いです。

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 ところが、古今和歌集の編纂された平安時代は、少し色合いが違っていたようなのです。今の「桜色」であれば、「衣に深く染める」という表現に違和感を覚えます。染料を生地に一回染め込むことが「一入(ひとしお)」であれば、桜色は深く染め込む「八入(やしお)」ではないか。では、紀有朋が詠う「深く染めた着物」は、いったい「どのような色」だったのでしょうか。染織を生業とする人が継承してきた伝統色、八入の「さくら色」は、今の桜色とは別の色合いのようです。

 桜は桜でも、かつては「染井吉野(ソメイヨシノ)」ではなく、「山桜(ヤマザクラ)」のことを指し示します。その若葉の色こそ、桜色なのだと。若葉だからといって「透けるようで、やわらかい緑色」ではありません。百聞は一見に如かず、ご覧ください。

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 決して枯れているわけではなく、これが「山桜の若葉」であり、紅葉といえば紅葉ですが、この色から美しい深緑へと色変わりしてゆきます。これが山桜の「葉萌ゆる色」であり、この色を染織したものを身につけ、桜の花を愛でることが風雅の慣わしであったのだといいます。

 花散りし後に、咲き誇る姿を思い起こさせてくれるようにと、さくら色の染めた衣をまとう。そして惜花を偲びながら、初夏を迎える準備をする。まるで四季の色彩の機微を、自然に習いながら楽しんでいるかのようです。今年は愛でることなく散っていった桜への愛惜の想いを、色で表現してみるのも、なかなかに趣深いものです。

 

 予断を許さないウイルス災禍です。皆様、十分な休息と睡眠をお心がけください。手洗いうがいと言った基本的なウイルス対策をお忘れなきように。近いうちに訪れる、Benoitで皆様と再会できる日を心待ちにしております。その際は、万全の準備をもって、桜笑う前なので自分の笑顔でお迎えさせていただきます。何かご要望・疑問な点などございましたら、何気兼ねなくご連絡ください。いつも温かいお心遣い本当にありがとうございます。

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いつもながらの長文を読んでいいただき、誠にありがとうございます。

末筆ではございますは、ご健康とご多幸を、青山の地よりお祈り申し上げます。そう遠くない日に、笑いながら皆様とお会いできることを信じ、

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com