kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

新潟県の三味線文化

 音楽とは、人類が言葉以前に手に入れることができた、意思疎通を図る手段だったはずです。何かを何がしかで打ち叩くことで音を発する、それがリズムを刻み、吠え声ともとれる声や踊りが加わる。音を楽しむことが音楽であるのであれば、これもまた立派な音楽。そして、人々は「音を奏でる」ことを欲し地方色豊かな楽器を創作することに。叩く、弾く、吹く、さらに素材由来の音色が加わり、まさに千葉の彩(せんようのいろどり)のごとく。

 

 13世紀の中国(時の王朝は元)に誕生したといわれている中国の伝統楽器「三弦(さんげん)」。その名称の通り、弦が3本あり、弦をはじく音を出します。これが、琉球王国に持ち込まれ、「三線(さんしん)」として宮廷音楽に取り入られることになりました。さらに16世紀には、今の大阪府に位置している「堺」の町に伝わり、平家琵琶の要素を取り入れた楽器が日本全国に伝播していくことになります。この伝播(でんぱ)の行方は、南は琉球王国にまで及び、今の三線が完成を見るにいたったといいます。そして、北は本州最北端へ。日本の楽器の中では、比較的歴史の浅い楽器、「津軽三味線」が生まれました。

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 大阪の堺に生まれた三味線が、地方に持ち込まれることで、さらなる改良を加え加え北へ北へと。徒歩というよりも、江戸時代に活況した北前船が一役を担ったといいます。堺を発した北前船が寄港する地域に三味線を持ち込み、さらに地域地域で育まれた芸能に地唄が北へ北へと移ることでさらなる発展を遂げることに。それが津軽地方で大成されたものが津軽三味線でした。棹(さお)と呼ばれる、ギターでいうネックの部分は細棹から太棹へ、音を響かせ複雑かつテンポの速いものを求めるがゆえに、より高度な技術を必要としました。そのため、他とは違い、叩くかのように弦をはじく「叩き三味線」の真髄ともいえる「津軽三味線」というひとつの音楽が誕生したのです。時が経つにつれて、多くの流派が生まれるも中で、叩き三味線を踏襲するも、「弾き三味線」という一味違った音を奏でる人物が登場することになります。地方の一つの音楽であった津軽三味線を全国に知らしめた人物でもある、高橋竹山(たかはしちくざん)師です。

 

 初代高橋竹山師の竹山流津軽三味線を正しく継承していこうと「新潟高橋竹山会」が誕生し、昨年夏までは二代目会主の高橋竹育さんが100名近い会員を束ねています。さて、三味線界の大御所である竹山師の拠点は青森県です。なぜ、新潟県なのか?実は、津軽三味線の楽曲の原型は新潟県にあるというのです。

 

 山梨県、埼玉県さらには長野県の県境にそびえる甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)を源流に、長野県内では千曲川(ちくまがわ)と呼ばれた清流が、新潟県に入ると名を信濃川と名を変える。総延長は日本一、と小学校で習ったのではないでしょうか。越後山脈谷川岳によりもたらされる豊かな水脈を源に発する魚野川(うおのがわ)は、長岡市のあたりで信濃川に落ち合います。さらに、阿賀野川(あがのがわ)、北は荒川で南は関川が並走することで、形成されたものが越後平野です。この豊かな水資源は、時に自然の猛威となり甚大なる水害をもたらす一方、肥沃な大地を約束いたしました。かつて、街道が二つの大きな街道に分かれる地点を「追分(おいわけ)」と呼び、そして、川が合流する地を「落合(おちあい)」といいました。この落合が形成した雄大な流れが、海に落ち合う地が、新潟市です。

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 自然の厳しさを甘受するという条件ながら、この肥沃な越後平野は、人々に広大な稲作をもたらしました。その収量の豊かさゆえに、人々が集い町を成してゆく。新潟の「潟」は、塩分を含んだ土地のことであり、干潟などのように、浅海の一部が砂州などによって外海から切り離されてできた湖沼を意味します。そう、海岸に越後砂丘が広がるため、海の玄関口は信濃川が海に注ぎ込む地に港が作られました。これが新潟港です。

 物流・人流ルートは、古より船舶により大量輸送を主とし、京都を目指す日本海側の地域は、若狭湾から陸に揚がり琵琶湖を経由して淀川で下る道のりでした。これが江戸時代に入り山口県の下関を廻り瀬戸内海に入る航路に加え、秋田県の酒田を拠点に西廻り航路と東廻り航路が確立することで、北前船の全盛期を迎えることになります。これにより、三味線が持ち込まれ、人流と同時に文化芸能が北へ北へと運ばれていくことになります。そして。青森県で「津軽三味線」が大成するにいたるのです。

 新潟県は京都から見て、上越中越下越と続き、越後平野が広がるように長く続く海岸線が特徴です。それゆえ、要所要所で港町が形成され、北前船の中継地として栄えました。その中でも、新潟港(今の新潟西港)は別格です。ペリー率いる黒船が神川県の浦賀に姿を現した5年後の1858年に締結された日米修好通商条約の中で、アメリカが開港を求めた5つの港のひとつに指定しているほどです。多くの人々が行き交い、農を生業として生活をしていたことか。人が多く人々が居住しているということは、そこに文化芸能が育まれることになります。

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 越後平野が日本有数の「米どころ」となり、多くの人々を養うことができた理由は、対馬海流を語らずして、説明できません。北前船にも大いに関係するこの暖流は、フェーン現象により夏が猛暑になる厳しさはあるものの、十分な日照時間を約束し、東北地方の太平洋側に流れる千島海流(寒流)による「やませ」の冷害はありません。しかし、冬は一変し、極端に日照時間が無くなります。シベリア高気圧が日本海を通過する際に、北西の季節風を導き、対馬海流(暖流)の蒸発した水分を大量に含んだ大気を越後山脈にぶつけるのです。湿気を含み厚い雲で覆われる冬のため、厳しい冷え込みこそないものの、世界有数の豪雪地帯へと変貌します。

 この豪雪こそ、稲作に必要な豊富な水資源となることは十分に理解できるのですが、一面白銀の世界となった時の生活が、どれほど厳しいものか。さらには太陽に恩恵に授かれない日々が、どれほど気持ちに悪影響をおよぼすのか。「新潟県の出身です」というだけで、スキーやスノーボードが達者だと思われがちですが、日々雪との格闘を強いられていると、雪遊びをすることをついつい疎んじてしまうものです。降り積もる雪が数mなどに及べばなおのこと。この過酷な環境を打破すべく、人々が冬を乗り切るために考えだしたものが、塩引き鮭や漬物、さらには日本酒などの食文化であり、皆で祝う祭りごとであり、芸能なのだと考えています。人々を勇気づけ、日々の生活の活力となるべく奏でられる三味線の音色が、弱弱しくてはいけません。津軽三味線の楽曲の原型は新潟県にある。この理由はこのあたりにあるのではないでしょうか?

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 昨年、佳史Fumiyoshiさんが、珍しいものをお見せしますよ、とBenoitで三味線を組み立てました。棹が三分割となり収納されていたのです。棹が長い一本だと、曲がってしまうと音色が変わるからといいます。豪雪地帯だからこそ、持ち運びしやすく、湿気によって棹の曲がりを防ぐのか、なんという古人の知恵なのか。そう感じたひと時でした。もちろんその後に奏でられる彼の「弾き三味線」の音色に酔いしれたことは言うに及ばず。

 さあ、「新潟高橋竹山会」二代目会主の高橋竹育さんを母にもち、さらに師匠として9歳より三味線の世界に入り、音の響きを大切にする「弾き三味線」を得意とし、古典を大切なベースとしながらも、伝統芸能の枠を超えた新しい「ニッポンの音楽」を求め、国内外の演奏活動・公演活動を行っている三味線プレイヤー、史佳(Fumiyoshi)。皆様に、Benoitで「際会」していただこうと思います。

イベントの詳細はこちらを参照ください。

kitahira.hatenablog.com

 

際会(さいかい)」 出会うこと。優れた人物などにめぐり合うこと。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com