kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

香川県ひうらの里≪飯田桃園さん≫のご紹介です。

 県道3号線「志度山川線」は、海のほど近い「志度寺」から、香川県を縦断するように内陸を南下してゆきます。讃岐平野の特徴でもある、点在する丘陵や里山の数々。そのため、この県道は、時おかずして右の雲附山(くもつきやま)と、左の石鎚山(いしづちさん)の山間(やまあい)を抜けてゆく。

 すると、「萩の木地蔵」さんが迎えてくれる場所が、飯田桃園さんの直売所です。いやGoogleマップは、なんと便利なことでしょうか。しっかりと「飯田農園」として表示されています。

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 この画像の上方向は北を指し、志度湾です。中央の里山が「雲附山」、その南の麓(ふもと)に近いところに「造田宮西(ぞうたみやにし)」という地名が。それと、画像左下には「昭和」と記載されています。この2つの丘の間、雲附山側に観音寺というお寺が現存しています。江戸時代後期、この観音寺の周辺の集落が「白羽」と呼ばれ、すでに桃の栽培が始まっていたいうのです。

 この歴史は香川県下でもっとも古く、まさに「桃の聖地」ともいうべき地。ここで栽培された桃は「観音寺桃」と名付けられ、当時の人々に親しまれていました。これほどの歴史のある地、造田宮西に飯田桃園さんのスモモと桃畑が広がっているのです。そして、古くから伝わる飯田家の屋号は「ひうら」といい、この屋号から彼らの果樹園を「ひうらの里」と名付けたといいます。

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 「ひうら」という言葉は、地元でも聞き慣れないというのです。広辞苑によると、「(岐阜、奈良、和歌山、徳島で)陽当たりの良い山の斜面。ひなた、陽だまり。表山。」という意味であると教えてくれます。確かに、県道3号線沿いにあるのは直売所で、果樹園は造田宮西の丘にあるのです。それも「南東向きの日当たりが良いなだらかな斜面」で栽培しています。

 そういえば、フランスのワイン畑を見てみると、一部急斜面や平地もありますが、おおよそが「なだらかな丘」に理路整然とブドウ樹が植栽されています。さらに理想的な斜面の向きは「南東」だという。午前の気温が低い時に光合成によって養分を果実に蓄え、午後の気温が上がったときには休息に入る。一日中、炎天下の元では、ブドウも疲弊するのだと聞いたことがあります。

 ブドウも「もももすももも」果樹であることに変わりはありません。「南東」という好条件は、北半球である日本もフランスも変わりません。飯田家で最初に造田宮西の南東に果実を植えたご先祖様も、フランスのブドウ栽培の伝道師である修道士さんも、果樹の特性を極めた賢人だったのです。

 

 余談ですが、「すもももももももものうち」とはよく言いますが、「すももももはべつのもも」です。ともに、中国が原産地で、モモは「桃」で、スモモは「李」と書きます。しかし、なぜかスモモは「日本すもも(プラム)」と名付けられています。スモモ(プラム)とプルーンが混同しがちですが、プルーンは西洋スモモであり、黒海カスピ海に挟まれたコーカサス地方が原産地です。

 

 内海である瀬戸内海の波の如く、穏やかで温暖な気候は桃にとって最適であり、造田宮西の「ひうらの里」は、十分な日照時間と水はけの良さをもたらしています。この地の居を構え、脈々と受け継がれてきた伝統の技を踏襲し、丹精込めて桃とスモモを栽培する飯田桃園さん。ご両親という大先輩より、栽培を任された若き園主、飯田将博(いいだまさひろ)さんにバトンが渡されました。

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 若き園主の果樹栽培への想いは、ご両親に負けず劣らず、さらなる高みを目指します。モモ・スモモに最適な土作り。さらに、採光の良い樹形への仕立ての工夫。樹へのストレスを減らす土壌水分管理。この肥培管理を徹底的に学び、実践しています。さらに、結実してからも安堵することなく、厳しい結実管理を徹底する。

 1年を通してのこの弛まぬ努力すべては、一年に一度しかない収穫で、他に類を見ないほど美味しい果実を手に入れるため。そして、丹精込めて育て上げた美味なる果実を、皆様にお楽しみいただきたいから。皆様の美味しさゆえの笑顔があるからからこそ、どんな苦境をも乗り越え、どんな苦労をも厭わないのです。

 この旬の美味しさを、少しでも長く皆様にお届けし続けたい。飯田桃園さんのこの強い想いは、多品種を植栽することで、約2ヶ月半にわたる長き期間に実りを得ることを実現させました。Benoitでは、7月初旬に紅鮮やかな果皮の「大石早生(おおいしわせ)」から始まり「新大石」へ、ぐっと赤みを濃くした「フランコ」、青みがかった果皮ながら果肉は赤い「ソルダム」と続き、今は濃紅色を思わせる大玉の品種「太陽」です。

 それぞれが美味しく、パティシエが品種によって微調整を加えながら仕上げていく姿は、年に一度の収穫のために、並々ならぬ努力を続けてきた栽培者への敬意を表するため。ほぼ1~2週間で品種が移り変わるため、Benoitパティシエチームを試しているかのようです。

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 上の画像は「太陽」です。まん丸の可愛い姿です。しろく斑(まだら)になっていますが、白い粉のようなものを表皮に見て取れます。これは農薬の残りなどではなく、カビなどの病原菌による腐敗を防ぐため、スモモ自体が蝋質の「ブルーム」と呼ばれるものを作り出すのです。健康な証拠であり、撮影時にどうしても自分が触れてしまうために、斑になってしまうのですが、収穫時はきれいに全体にまとっているのです。これは、スモモに限らず、ブドウやキュウリにも見ることができます。

 

 この「太陽」の前に、飯田さんがいうに「幻のスモモ」というものがありました。残念なことに、今期は天候不順と鳥たちについばまれ、収量「無し」という厳しい年に終わりました。昨年、Benoitで購入していたので、皆様にご紹介させていただこうと思います。その美味しさが鮮明に自分の想い出の中あるのです。冷蔵庫ではなく水で少し冷やして、かぷりといきたい。この瑞々(みずみず)しさと心地良い甘酸っぱさは、猛暑で疲弊した体を癒してくれるようです。

 いったい「幻のスモモ」とは、何なのでしょうか?飯田さんのメッセージを引用させていただきます。

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 「約2週間という短い収穫期間で、通常のスモモの木に比べて約2分の1程度しかスモモの実が取れないので、うちでは『幻のスモモ』と呼んでいます。年によっては、ほとんど取れない、ということもあり、採算が取れないため同じ品種のスモモを作っている農家はほとんどいないと思います。申し訳ありませんが、品種名は伏せさせていただいています。」

 まさに、今年のように「収穫0」のことが多々あるようです。果樹は1年に1回の収穫ができないために、これは農を生業とする方々にとっては死活問題です。

 「では、なぜ飯田桃園ではそんな手間暇がかかり効率の悪いスモモを栽培しているのですか?」

 「スモモのイメージが覆るほどの美味しさに魅せられたからです。エンジェル(天使)のような甘い香りを漂わせ、滴らんばかりの甘味の強い水蜜をもつ。メルヘンで芳醇な味わいです。」というのです。エンジェルのような香とは、いささか分かりにくいものですが、飯田さんは「可愛らしい小さな女の子のような香り」とも表現しています。

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 2人の娘を持つ親として、意外にこの表現には納得してしまいました。赤ん坊のころ、幼児のころ、子供のころで香りが変わるのです。これ、子育てをされた方には共感してもらえるのですが、いかがでしょう。特に幼児のころは、なんとうか「可愛がってね」というフェロモンでも発しているのか、抱っこしている時に、得も言えぬ優しい柔らかい香りがするのです。※間違っても、知らない他人で試してはいけません。

 飯田さんが「幻のスモモ」と銘打っている品種は、あまりの美味しさから「ひうらの里」の多くの生産者が栽培にチャレンジしたようです。しかし、その美味しさゆえに、少しでも気を抜くと鳥獣害虫の餌食になりやすく、まともに収穫できるきれいな果実に育てるには、並々ならぬ努力を必要とする上に、天の気分に大いに左右されるようです。さらに、収穫できたとしても果実があまりにも繊細で流通に耐えにくく、小売店でも扱いにくいため、継続することを諦める栽培者が続出し、ついには「幻」となってしまったといいます。

 

 自分が初めてこの品種にBenoitで出会った時、箱に整然と並んだ時の淡い色合いの美しさ、桃を思い起こさせるような優しくも甘い香りに心惹かれました。エンジェルのような…分かりにくくもあり、分かる気もする表現こそ、的を射ているのかもしれません。果実を割れば、輝かんばかりの透明感のある果肉に目を奪われ、滴る果汁は爽やかながらも十分な甘みを楽しめます。そして、ひとたび果皮を噛むことで、「スモモ」であることを思い出させてくれる、きれいで心地よい酸味が口中に広がるのです。

 

 昔々に中国より持ち込まれた「桃」は北方系の品種だったようです。先のツンととがった形をしており、今でいう「大石早生」に似ているような気がいたします。皆様、昔話の桃太郎のお話をご存知かと思います。子供のころ絵本で読んだ、その桃の柄を思い起こしてもらえますか。桃の形はこのようなものだったはずです。

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 時が下り明治の時代になると、南方系が日本に上陸し、偶発実生(意図的ではない自然の交雑から生まれた品種)によって生まれたのが、今の「まん丸の桃」の原型だと言われています。中国で陶磁器などに描かれている桃の絵は、尖がった桃ばかりであることを考えると、我々にとって馴染みのまん丸の桃のほうが珍しい形なのでしょう。下の画像は「新大石」です。

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 「モモ」と「スモモ」は、同じバラ科で名前こそ似ていますが、モモはモモ属、スモモはサクラ属でサクランボに近い仲間なのだといいます。もしや!「幻のスモモ」はこの南方系の桃なのではないか?と思ってしまう自分がいます。素人の自分に、品種が何なのか分かろうはずもなく、ヘタな詮索は野暮というものでしょう。飯田さんが秘密にしているように、このまま秘密の「幻のスモモ」のままのほうが、何かと歴史ロマンを感じる気がいたします。

 

 果樹園の話にも関わらず、冒頭で登場する「造田」という言葉。飯田さんが居を構える「造田宮西」は、造田地区と呼ばれています。この言葉が指し示す通り、田んぼを造り出していった地だからなのでしょうか?ブログ「さぬき市の旅物語」の中で、香川県の画期的な灌漑システムの話を書きました。奈良・平安時代の話で、讃岐平野に古代条里田を切り拓いていたので、間違いではない気もしますが…

 かつて、大和朝廷は日本国を治めるべく行政区分を策定し、これを「令制国」としていました。そして、その地を管轄するための官職「国造(くにのみやつこ)」を設けています。その「国造」に支給された田を「国造田(こくぞうでん)」と呼び、その国造田があった地だから、「造田」なのだというのです。なかなかに歴史深い地のようです。

 そういえば、飯田家の屋号が「ひうら」だといいます。そもそも、屋号というものが一般家庭にあるようなものではありません。この造田のような歴史深い地区で、南東向きの丘を所有し果樹園を切り拓くことができる。さらに、造田の人々に親しまれている「萩の木地蔵」が敷地内に祀られてある。考えれば考えるほど、普通ではい事象の数々は、飯田桃園さんのご先祖様は只ならぬ方なのではないかと。

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 すると、飯田さんがこう教えてくれました。「果実が実る果樹園には、鎌倉時代後期から室町、そして戦国時代にかけてのお先祖様と思(おぼ)しきお墓、五輪塔墓が数十基と立ち並んでいるのです。さらに、江戸時代中期(正徳時代)から平成にかけてのお墓と、無数の墓石が残されています。」

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 「江戸時代に家が全焼しており、奈良時代から続く菩提寺も兵火や失火で何度も火災に遭っているため、現在の地にいつ頃からいたのか、確たる証拠資料が残っておりません。」と教えてくれるも、「さぬきの道者一円日記」(冠櫻神社所蔵)には、戦国時代の1565年(永禄8年)9月に造田の里で、「いい田兵衛尉」と「いい田八衛門」それぞれが、初穂料として代百文と百十二文を寄進し、で「おひあふき」(帯・扇のこと)を賜るとある。

 飯田家の歴史を、もう少し時を遡(さかのぼ)っていきます。「香川県さぬき市の旅物語」で「国造(くにのみやつこ)」をご紹介いたしました。古代日本では、大和朝廷に服属した地方豪族が、この「国造」に任命されていたようです。大化の改新により律令制が導入されると、中央政権から「国司(くにのつかさ)」が派遣されることになり、この「国造」は「郡司(こおりのつかさ)」に任命されることになりました。

 讃岐国では、讃岐守として国司が派遣され、それまで国造であった凡氏・綾氏・佐伯氏・秦氏和気氏などが郡司に任命されたのです。その中でも一大勢力を誇っていたのが綾氏。その管轄下の長官である大領(おおくび)を務めていたのが、飯田家のご先祖様だったというのです。

 綾氏は姻戚を結ぶことで、讃岐藤家となり、時を経て分家が誕生してゆきます。室町幕府8代将軍足利義政の頃(応仁の乱の頃)に編纂された「見聞諸家紋」には藤家一族の家紋とともに讃州飯田氏の家紋「三階松に二本鏑矢(かぶらや)」が掲載されています。飯田家は鎌倉時代~江戸時代初期までは讃岐の武士でした。

 この「見聞諸家紋」には讃州の大野氏、羽床氏、新居氏、福家氏、香西氏、飯田氏、三宅氏、は共に「左留霊公之孫」(さるれいこうのまご)と記されています。昔々に讃岐の海を舞台にした「悪魚退治伝説」や「城山長者伝説」が残されていて、ここに「讃留霊王(さるれいおう)」や「讃王さん」やその子孫が登場しています。この伝説は、説明するには相応の字数が必要となるため、今回は割愛させていただきます。

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 造田の里に居を構えることを決め、先祖代々に渡り地元と生業をともにしていたはずです。連綿を受け継がれてきたこの地の特徴から、飯田家の誰かが果樹を植栽することを思いついたのでしょう。かつてご先祖様が戦場(いくさば)で、同志からか地の人からか、知り得た言葉が「ひうら」なのかもしれません。果樹栽培に最適な地がでることしったからこそ、屋号を「ひうら」と舌のではないでしょうか。今は末裔にあたる飯田将博さんが、その意思を受け継いでいます。

 香川県は、都道府県の中で一番小さい面積です。都道府県別の農産物のランキングで、モモやスモモが上位に名が挙がることはありません。ともに、山梨県がけた違いの首位を誇ります。しかし、生産量こそ少ないですが、すでに「観音寺桃」が親しまれていた江戸時代から今に至るまで果樹栽培が続いているということは、確固たる理由があるからなのです。

美味しい果実が実るから

 

 飯田桃園さんのスモモ物語から、今回の旅物語の後編へ。今一度、「萩の木地蔵」のある飯田果樹園さんの直売所へ戻ろうかと思います。さぬき市の誇る歴史に触れながら、「香川県さぬき市の旅物語≪さあ、結願へ!≫」を書き記しました。空海の説く「三密」のお話もかいております。お時間のある時に、以下よりご訪問いただけると幸いです。

kitahira.hatenablog.com

 

 今回の旅路の画像および情報は、飯田桃園さんはもちろん、公益社団法人香川県観光協会香川県ウエイ企画森田さん、Benoitと香川県食材を繋いでくれている鹿庭さんのお力添えが欠かせませんでした。この場をお借り、深く御礼申し上げます。

 

 立秋を迎え、暦の上では秋が始まっていますた。しかし、まだまだ猛暑な日々が続くようです。自分の体力を過信し、無理な行動は禁物です。十分な休息と睡眠、こまめな給水と塩分補給をお心がけください。木陰に入り、葉の間を抜ける心地よい薫風(くんぷう)、陽射しにきらめきながら重なり合う結び葉、なんと美しい光景かと夢心地となるも良いですが、夢の(意識の無くなった)世界から抜けることができなくならないよう、ゆめゆめお忘れなきようにお気をつけください。

  「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com