kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

香川県さぬき市の旅物語・後編 ≪さあ、結願(けちがん)へ≫

 長々と書いてきた今回の旅物語も、いよいよ後編です。香川県は歴史深い地だけに、多くの史跡や伝説があり、さぬき市に限定してみても、伝えきれるものではありませんでした。飯田桃園さんのご紹介でも登場した「讃留霊王(さるれいおう)」の「悪魚退治伝説」は、ご紹介したいお話でした。しかし、このお話は次の機会へ持ち越させていただきます。

 なぜ、この伝説を割愛したのか?それ以上に皆様にお伝えしなければならない物語が、造田の里にはあるのです。今、皆様には県道3号線(志度山川線)の「萩の木地蔵」さんのところに戻ってきていただきました。最初の旅物語を思い出していただきたいです。このお地蔵さんにお会いする前に、「当願堂(とうがんどう)」へ立ち寄りました。そこには龍神伝説があると書いたまま、何も説明することもなく通り過ぎてしまったのです。この伝説、気になりませんか?

 f:id:kitahira:20200908175652j:plain

 

 それはそれは、昔々のお話です。時の元号は「延暦」、今から1200年ほども前のことだろうか。この当願堂のある地は、「長行(ながいく)」と呼ばれていたそうな…

 この地に、当願(とうがん)と暮当(ぼとう)という猟師の兄弟が住んでいたという。兄の当願は裕福な家の嫁をめとり、日々の暮らしに困ることはなかったが、弟の暮当は毎日の糧を得ることも難儀な生活であったのだという。

 とある日、志度寺の本堂が建立され、落慶供養(らっけいくよう)の法会(ほうえ)が行われることになった。当願はこの法会に参加すべく志度寺へ向かう。暮当は、生きるために糧を得るために、猟へ行かねばならなかった。志度寺では今ごろは有難いお説教が始まっていることだろうと考えながら、家族を養うためと自分に言い聞かせながらの…。一方、猟を休んで法会に居並んでいた当願は、お説教を聞くのもうわの空で、弟の暮当が猟場で獲物をひとりじめにしていることだろうと、「妬(ねた)み」と「忌々(いまいま)しさ」に心を乱していた。

f:id:kitahira:20200908181727j:plain

 そうこうしている間に供養も終わり、たくさんの参詣人も帰りはじめたが、どうしたことか当願は体が重くなって立ち上がることができず、その上、下半身が熱をおびてどうすることもできなくなってしまった。

 やがて日暮れも迫ってきたので、暮当は獲物を持って、兄に有難いお説教の話などを聞こうと急ぎ足で家に帰って来た。ところが、いくら待っても当願が帰って来ないので、志度寺へ兄を迎えに行くことにした。

 夕暮れ時のこと、暮当は当願ひとりが本堂の薄暗闇の中で座っている姿を目にする。近づいてみると、当願の体はみるみる大きくなり、下半身は蛇身に変わっていった。そして、肩で大きな息をしながら、「おれは空念仏のために畜生になった。信心深いお前の情で幸田池(こうでんいけ)へ入れてくれ」と懇願したのだ。暮当は、あまりの出来事に困惑するも、当願の変わり果てた姿に、苦しむ姿に、懸命にこらえるも涙がこぼれ落ちる。暮当は兄を背負って、幸田の池へと連れて行ったという。

f:id:kitahira:20200908181724j:plain

 三日たって暮当が幸田池へ行ってみると、大蛇になった当願が姿を現した。そして、「幸田池ではせますぎるので、火打山池へ連れて行ってくれまいか?」と。火打山池に移るも、またしばらくして「今度は満濃池へ連れて行ってくれ」という。そして、礼をいい、自分の左の眼をくりぬいて暮当に渡したのだ。「これを甕(かめ)に入れておけば、いくら汲んでも尽きることなく酒になるので、それで暮らしをたてるようにするといい」そう告げて、池の中に身を沈めていった。

 当願の教え通りに酒を造ってみたところ、それはそれは美味なる酒が醸された。この酒を売り歩くことで、少しずつ暮当の暮らしも楽になってきた。不思議なことに、この酒は酌(く)んでも酌んでも尽きることがなかったという。

 暮当の留守に、彼の妻が酒の秘密を知って、ついつい村の者に話してしもうた。その話が郡司(こおりのつかさ)の耳に入り、その眼玉を差し出すようと、暮当は下知を受ける。暮当は逆らうこともできず、泣く泣く当願の片目を差し出した。郡司から国司(くにのつかさ)に、その片目がわたると、国司は喜ぶとともに、こう言い放ってきた。「この玉は双玉のはずだから、もう一つの玉も差し出すよに」と。

 暮当がこの下知に逆らうことで、自分のみならず家族皆の生活が成り立たなくなるばかりか、命の保証もないことを悟る。思い悩むも、どうすることもできない。暮当の足は当願のいる満濃池に向かっていた。

f:id:kitahira:20200908175434j:plain

 事情を察した当願は快くもう一つの目玉を差し出してくれ。こう告げた。「暮当よ、早く持ってゆくがよい。水の底には住み慣れて、目の玉が無くとも何も不自由はせん。」「兄さん、本当にすまない」と、暮当は右の眼を受け取った。

 暮当は、この右の眼を涙で磨いて献上したそうな。国司は沢山の褒美を与えようとしたが、暮当はそれを受けず、そのまま姿を消してしまった。

 事の次第を知った当願は、大いに悲しみ怒り、満濃池の堰堤(えんてい)を突き破り、瀬戸内海へ。その後、大槌島(おおづちじま)と小槌島(こづちじま)の間の海中に移り竜神となって住みつくようになった。干ばつのときには、長行の人たちがこの両島の間「槌の門」に神酒を海中に沈めると、必ず雨を降らせてくれるという。

f:id:kitahira:20200908181909j:plain

(長尾町史より 北平加筆)

 

 暮当と当願が住んでいたという地に建立されたのが「当願堂」です。暮当が当願を背負って志度寺を出て、家に帰る途中の大きな池…この龍神伝説の登場する最初のため池「幸田(こうでん)池」はどこなのか?

 さぬき市旅物語・前編で、志度寺から県道3号線を南下していったところに、「長行(ながいく)池」と呼ばれている大きなため池があったことを思い出していたけますか。この池の別名が「幸田池」です。堰堤の先、遠くに望めるのは小豆島です。

f:id:kitahira:20200908175648j:plain

 火打山は、香川県徳島県の県境に聳(そび)えている山のことです。「火打山池」は、どう調べても分かりませんでした。この池の次が、「満濃池」であることを考えると、県境まで当願が龍に姿を変えた暮当を背負っていったとは考えにくいものです。そうすると、池の大きさを考えると、前編でもご紹介した、満濃池へと向かうと途中に位置する「豊稔池」なのではないか、はたまた「内場池」かなとも思いますが…

 県道3号線をさらに南下したところに、桜の名所「亀鶴(きかく)公園」が姿を現します。池の真ん中にある亀島まで300mの道が繋がっていてその道の両端に約500本のソメイヨシノが植ってます。満開になると池の真ん中に向かって桜並木ができ、それはそれは美しい光景ですよ、と鹿庭さんが教えてくれました。

f:id:kitahira:20200908182004j:plain

 この公園を取り囲むように広がる「宮池」。確たる証拠は何もないのですが、ここが火打山池と書き記していた池ではないかと思うのです。長行池よりも大きく、もちろん満濃池よりも小さい。当願堂からもほどよく近い。そして、この池の西側に「宇佐八幡宮」が鎮座してる。この神社には、当願の両眼が奉納されているという…

 

 幸田池(今は長行池)の堰堤の先には志度寺があり、志度湾が広がる。龍神伝説を知った後に、この志度湾を空高くから望むと、まるで龍が口を開いたかのような姿をしているように見えなくもない。龍の上あごが五剣山を要する半島(左の半島)であるとすると、口中の舌のような小串半島と下あごの大串半島(右側の細く突き出た半島)です。

f:id:kitahira:20200908182129j:plain

 大串半島の先には自然公園が広がり、そこからは志度湾、五剣山、屋島の大地まで一望できます。この景色は、今も昔も変わりません。古代讃岐の人々もここからの絶景を眺めていいたことでしょう。その中に、四国霊場を創設した空海もいたかもしれません。

 f:id:kitahira:20200908182127j:plain

 

 香川県善通寺市にある75番札所「善通寺」(下の画像)は、空海の生誕地といいます。彼は真言宗の開祖であり、歴史の教科書にも必ずその名が登場します。遣唐使の一員として古代中国に渡航し、「密教」を会得した後に帰国。その後、高野山金剛峯寺を建立するのです。醍醐天皇は、その功績から彼に「弘法大師」の尊称を贈ります。

f:id:kitahira:20200908182123j:plain

 空海は、唐で密教だけではなく、優れた土木技術も学んでいたようです。今回の「さぬき市の旅物語」に幾度となく登場する日本最大のため池「満濃池」、その膨大な貯水量は、相応の水圧を堰堤に与えきます。かつては、その圧に耐え切れず決壊していたものを、空海はその優れた土木技術で見事に改修しているのです。

 さて、偉人である空海の足跡を辿ってしまうと、話が全く終わらなくなってしまうため、ここでは割愛させていただきます。皆様、ほっとされているのではないでしょうか?少しだけ、空海が人々を救うために人々に布教していった「密教」のことを書かせていただきたいのです。

 密教というと、なにやら怪しい雰囲気を感じずにはいられません。調べてみると「秘密の教え」という意味といいます。密教以外の仏教のことを「顕教(けんぎょう)」と言い、顕教とは、「あらわになっている教え」、それに対しての密教は「秘密の教え」です。

 顕教は、「煩悩」を捨て去り、「悟り」をひらくことを目的にします。書いてしまうと簡単なのですが、煩悩を捨てるためにどれほど多くのお坊さんが苦行を重ね続けていることか。そう簡単に「悟り」がひらけないことは、史実が物語っています。これでは現世の人々が救われないではないか。そこで、古代賢人は、この世知辛い世の中の、人々はどうしたら救われるのだろうか?と考えた。そして新しく「密教」という宗派が誕生したのです。

 悟りを妨げるのは108にも及ぶ「煩悩(ぼんのう)」だと顕教は教えてくれる。中でも、「欲」「怒り」と「愚痴」は、「三大煩悩」と呼ばれいます。自分さえ儲かればいい、認められれば良いという「欲」。言ってはいけないことを言う、行動に移すことで引きおこる「怒り」。妬(ねた)みに恨み、そして憎しみの「愚痴」。全て、大小にかかわらず、人間が引き起こす争いの原因です。

 では、どうしたらいいのか?この道筋を教えてくれるのが密教のお坊さんです。空海が開いた真言宗においては、人々に救いの方法を伝えるお坊さんを育成するために、高野山金剛峰寺を建立し、高野山全体を修行の場としたのです。空海は、我々に「三密」を実践することを説いています。新型コロナウイルス災禍で話題になった「三密」ではありません。

 空海は、我々に「身密(しんみつ)」「口密(くみつ)」「意密(いみつ)」の三密を実践しなさいという。「身密」とは、正しい姿勢のことです。清潔感のある身だしなみや立ち居振る舞いを心がけること。軽率な行動は人を悲しませ、不快な思いを与えてしまうことを理解しなさいと。「口密」は、言葉遣いのこと。言葉には力があり、人を喜ばせもすれば、悲しませもする。「意密」は、思いやりの心のこと。優しい言葉や言動は、物事を正しく判断することのできる心を養うことで生まれる。

f:id:kitahira:20200908182246j:plain

 空海は、四国に88か所の霊場を設定いたしました。我々がその全てを歩いて辿ることは、空海が何かを感じ取った地であり、それを分かち合うことで、少しでも救われることを空海は願っているのではないでしょうか。自分の人生を省みながらの道のりこそが「遍路」なのだと。「遍」の漢字には、「ゆきわたったさま」という意味がある。

 県道3号線(志度山川線)は、四国八十八箇所霊場の86番札所「志度寺」、87番札所「長尾寺」そして、88番札所「大窪寺」へと導く、遍路としては重要な位置づけにあります。そのため、この道は「結願(けちがん)の道」とも呼ばれています。志度寺から長尾寺の間に、当願堂があります。

 当願堂の龍神伝説は、「妬み」と「忌々(いまいま)しさ」という煩悩が、人が人であることを阻害し、人が人と生きてゆくことを妨げる。そして、全てを失う。空海は、結願(けちがん)するため今一度「三密」の大切さを理解してほしいと願い、遍路の終盤の道筋を当願堂の脇に定めたのではないか。なんの確証もないのですが、そう思えてしまいます。

 

 当願堂を過ぎ、さらに県道3号線を南下してゆく。田畑の広がる平坦な道のりを進み、ことでん長尾線の「長尾駅」へと向かうように右手に曲がると、87番札所「長尾寺」が姿を現します。

f:id:kitahira:20200908182239j:plain

 739(天平11)年、行基によって開基されたといいます。彼がこの地を歩いていた時、道端の柳(やなぎ)に霊夢を感じ、その木で聖観音菩薩像を彫像したものが、ご本尊です。空海は、唐へ渡航する際に年頭七夜にわたり護摩祈祷を修法(しゅほう)しています。燃え上がる炎の中へ、願い事が書かれた木札(護摩木)を投げ入れる。炎の力によって仏さまに願いを叶えていただく。国家安泰・五穀豊穣に加え、入唐の成功を祈ったといいます。

 長尾寺を後にし、目指すは結願の地である88番札所「大窪寺」へ。県道3号線へ戻り、南へ南へと進みます。前述した桜並木の美しい亀鶴公園を過ぎたあたりで、里山へ入ってゆきます。「昼寝山」と名付けられているものの、460mの標高を持つ山だけに、道のりはなかなかに険しいもの。

 山間を抜けるように、奥へ奥へと進むにつれて、難儀な道のりへと姿を変えてゆく。標高787mの矢筈山(やはずやま)を西側から反時計回りに回り込むように道を上ってゆきます。すると、県道3号線と重複していた344号線が分岐する三叉路が見えてくる。ここで県道3号線とは別れを告げ、左へ曲がるように県道344号線へ。不安になるも、そのまま進んでゆくと、88番札所「大窪寺」が迎えてくれます。今でこそ道路が整備されていますが、かつてはそうとうの難所であったことは、想像に難くはありません。

f:id:kitahira:20200908182235j:plain

 矢筈山の東側中腹にある四国八十八カ所最後の地、結願の霊場大窪寺」。717(養老元)年に行基が立ち寄った際に、霊夢を感得し草庵を建て修業をしたのだといいます。815(弘仁6)年に唐から帰国した空海が、今の奥の院のある岩窟で「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」なるものを修法した。そして、堂宇(どうう)を建立、薬師如来坐像を彫像し、ご本尊としました。さらに、唐で空海密教を伝授した恵果より授かった三国(インド・中国・日本)伝来の錫杖(しゃくじょう)を奉納し、大窪寺命名したのだといいます。 

f:id:kitahira:20200908182230j:plain

 

 徳島県の鳴門から西へ10kmほどのところに、坂東という小さな町があり、その町外れに「霊山寺(りょうぜんじ)」があります。ここから始まった「四国八十八カ所霊場」を巡る遍路は、長く険しい道のりを経て、ここ「大窪寺」で結願を迎えます。霊場を渡り歩く間に、自らの煩悩を大いに省み、空海の足跡を辿ることで、空海の説く「三密」を一歩一歩と学んでゆくことになるのでしょう。

 人心の乱れは、厭世観はびこる世界となり、やがては人が人を信じることのできない悪鬼の世界となる。煩悩を抑え込むことは、和やかな人間関係を構築し、人が人として生きてゆける素晴らしい世界になる。空海はこう悟ったのではないでしょうか。

 

行く先も まだ遥かなる 山みちに まだき聞こゆる ひぐらしのこゑ  藤原輔伊(すけただ)

f:id:kitahira:20200908182516j:plain

 山道を歩いていると、目的地にはほど遠いにもかかわらず、早くもヒグラシの声が聞こえてきたではないか。ヒグラシの寂しい声音(こわね)が山間に響き渡る。かなかなかな…独特の澄んだ声色は、夕暮れが迫ってきていることを教えてくれる。さあ、闇夜になる前に先を急ごうではないか。

 我々が煩悩を取り去り悟りをひらくことなどできるわけもない。しかし、一人一人が空海の「三密」を意識することで、同じ方向を見ることができます。素晴らしい世界になるという結願には、まだまだ遥か先のことかもしません。それでも一歩は踏み出したことには違いなく、着実に一歩は前進していると思います。「身密(しんみつ)」「口密(くみつ)」「意密(いみつ)」が自らを変え世界を変えてゆくのです。

 迫りくる夕暮れを告げるかのように鳴きだすヒグラシ。目的の地はまだ遥か先のこと、闇夜となる前に辿り着けるのか。その澄んだ声音は、山路を急げと伝えてくれているのか、はたまた焦るなと教えてくれているのか。皆様にはどう聞こえますか?

 

 四国遍路の旅路が難しい昨今、ここはひとつ。結願の道半ばにある飯田桃園さんの育んだ「スモモ」デザートを楽しみながら、ゆっくりと考えてみることも、一興なのではないないでしょうか。ヒグラシが鳴き始める前に、Benoitへのご予約をなにとぞよろしくお願いいたします。

 

 今回の旅路の画像および情報は、飯田桃園さんはもちろん、公益社団法人香川県観光協会香川県ウエイ企画森田さん、Benoitと香川県食材を繋いでくれている鹿庭さんのお力添えが欠かせませんでした。この場をお借り、深く御礼申し上げます。

 

 立秋を迎え、暦の上では秋が始まっています。しかし、まだまだ猛暑な日々が続くようです。自分の体力を過信し、無理な行動は禁物です。十分な休息と睡眠、こまめな給水と塩分補給をお心がけください。木陰に入り、葉の間を抜ける心地よい薫風(くんぷう)、陽射しにきらめきながら重なり合う結び葉、なんと美しい光景かと夢心地となるも良いですが、夢の(意識の無くなった)世界から抜けることができなくならないよう、ゆめゆめお忘れなきようにお気をつけください。

 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com