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徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

2022年夏 Benoitの特選食材「桃の時期の終わりを迎えて…」

 かつて、野を分けんばかりの台風のことを「野分(のわけ)」と呼ばれていました。人が抗(あがら)うことのできない自然の猛威に加え、いつ来るとも分からない情報の無さは、古人をどれほどの恐怖へと陥れたことでしょうか。

 今は天気予報の精度があがり、台風の進路や勢いが正確に我々に伝わる時代になりました。しかし、抗うことのできない猛威であることは、今も昔も変わりません。まして、昨今の気候変動からでしょうか、勢いが増し、日本上陸の進路が多くなったような気がいたします。

 台風14号が勢い衰えることなく日本を横断するようです。皆様、無理は禁物です。少しでも危険を回避する行動をお心がけください。台風一過、皆様が無事息災であることを、東京の地からではありますが、切に祈念いたします。

 

 「古事記」と「日本書紀」は、「記紀」と総称され、日本の誕生や神話を紐解く重要な文献です。そして、日本最古の歌集「万葉集」もまた、同時代に編纂(へんさん)されています。時(とき)は奈良時代、8世紀ほどのことです。これに先立つこと約300年、近畿地方を中心に連合したヤマト政権が成立していた古墳時代のころ、対岸の古代中国で陶潜(とうせん)が「桃花源記(とかげんき)」を書き遺しました。

 この物語は、武陵(今の湖南省)の一漁夫が俗世間から離れた平和な別天地を訪れるというもの。後に、「桃花源」は「桃源」呼ばれ、さらに今馴染みの「桃源郷」へ。陶潜は今でいう理想郷を語っているのです。当時の中国は、五胡十六国時代という争乱期であるため、ならず者が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)していたことは想像に難(かた)くありません。だからこそ桃花源の世界を想ったのでしょう。

 陶潜が想い描く桃花源は、もちろん浮世離れしたものですが、ユートピアのような別世界ではありません。見るもの聞くもの触れるもの、全て変わったものではい。しかし、それぞれが美しい。人々は笑顔で集い語り合い、主人公である漁夫を歓待する。何をもって美しいと感じたのか。

 悟りを妨げるのは108にも及ぶ「煩悩(ぼんのう)」だと釈尊は弟子に語る。中でも、「欲」「怒り」と「愚痴」は、「三大煩悩」と呼ばれいます。自分さえ儲かればいい、認められれば良いという「欲」。言ってはいけないことを言う、行動に移すことで引きおこる「怒り」。妬みに恨み、そして憎しみの「愚痴」。全て、大小にかかわらず、人間が引き起こす争いの原因です。

 陶潜は、この人心の乱れによる厭世観はびこる世界に嫌気がさしたのではないか。遠い遠い別世界ではなく、煩悩を抑え込むことで、和やかな人間関係となり、素晴らしい世界になるのだと。物語の漁夫が再訪を試みるも、桃花源へは辿り着くことはできませんでした。桃花源の世界を探し求めても見つからない、個々の人間が煩悩を無くすことで導かれる世界なのだ。そう教えてくれている気がいたします。

 さらに、桃の花が紅色に美しく咲き誇り、すでに咲き終わった柳の樹々は、新緑美しい葉が列々(つらつら)と繁らせた枝を風になびかせる。この「桃紅柳緑(とうこうりゅうりょく)」とは、中国でいう春の美しい光景のこと。陶潜は、桃に備わる霊的な力と、春の美しい光景が、人々を我に返らせるのではないかと考える。物語の中で、桃花源へと導くため、乱れ切った心を癒すため、そのキッカケとしたのが「桃」だったのでしょう。5世紀から人口に膾炙(かいしゃ)しているといことは、個々の心に多少なりとも響いたことに他なりません。

 と、ここで疑問が頭をもたげます。なぜ、中国で百花の王と称される「牡丹(ぼたん)」ではなかったのでしょう?

 中国の陶磁器には、絢爛豪華な「牡丹(ぼたん)」と威風堂々たる「唐獅子(からじし)」の文様が描かれています。中国では百花の王は「牡丹(ぼたん)」で、百獣の王が「唐獅子」ということから、この上ない2つの組み合わせであるからこそ、人々に好まれたのでしょう。もともとは「牡丹と唐獅子」という慣用句があり、語義に諸説はあるものの、唐獅子が害虫から逃れるため、その害虫が寄り付かない牡丹の下で休むという逸話が有力だといいます。

 調べてみると「ぶつだんやさん」というHPで興味深い説明がありました。百獣の王である獅子が唯一恐れるものが、獅子に寄生する虫だったという。その虫は、獅子の体毛に寄生し、やがて皮を破り肉喰らいつき、内側から内臓を食い破って獅子を滅ぼすという。しかし、牡丹の花から滴り落ちる露にあたるとその虫は死んでしまう。そこで、獅子は夜な夜な牡丹の下で休むようになったという。なるほど!獅子にとって「安住の地」が牡丹の下だったのです。

 仏教語に「獅子身中の虫」という言葉があり獅子に寄生しておきながら獅子を死に至らせる虫ということで、仏教徒でありながら仏教に害をもたらす者のことをいいました。そこで、「牡丹と唐獅子」が意味深くなります。牡丹はお釈迦様で、唐獅子が我々人間、そして害虫が身を滅ぼしてゆく煩悩であると説く。煩悩に寄生された我が身を、お釈迦様が牡丹の露を落とすかのように諭し戒めてくださるのだとう。 寺社仏閣やお仏壇にも「牡丹と唐獅子」の文様が彫り込まれている理由がこれです。

 書いているうちに、牡丹こそ理想郷にあい相応しい花であると思わずにはいられません。「桃花源記」ではなく、「牡丹源記」であり、「桃源郷」も「牡丹源郷」である。仏教が中国に伝来したのが1世紀ごろのことで、陶潜は「牡丹と唐獅子」を知っていたことでしょう。では、なぜ陶潜は牡丹ではなく桃の花だったのでしょうか。

 これは、紀元前の古代中国ですでに伝播していた神仙思想が影響していたのでしょう。そこで、Benoitではすでに桃のデザートは終わりを迎えましたが、思いのほか歴史深く日本の伝統行事にも登場する、摩訶不思議な桃の世界をご案内させていただきます。

kitahira.hatenablog.com

 

 遅きに失した感は否めませんが、6月半ばからBenoitへご尽力いただいた桃栽培者の方々を、ご紹介させていただきます。南は熊本県から、北は山形県まで。桜前線ならぬ桃前線の北上を追うようにBenoitに届く桃は、どれもが素晴らしい逸品でした。悪天候のため品質ままならず、栽培者の「Benoitへ送る品質ではない」との判断から、出荷断念と涙を呑むこともありました。

 それぞれの桃栽培者の方は、「美味しい桃を育て上げる」という志は同じでも、そこに辿り着く道のりが違うため、桃畑の姿が違います。旅行をするようにお楽しみいただけると幸いです。

 

 和歌山県紀の川市桃山町。自分が初めて桃の産地直送に踏み切ったのが、豊田屋さんとの出会いでした。半農半医という栽培を担う豊田さんには、多くを学ばせていただきました。無謀とも思える「無農薬栽培」に果敢に取り組む姿には感銘を覚えます。彼よりいただいたメッセージが心に響く…

kitahira.hatenablog.com

 

 桃探しも南へ南へと向かい、辿りつた先が熊本県の西川農園でした。お父様の代までは主力産物はメロンでした。しかし、現園長である西川さんが引き継ぐと同時に一念発起し、桃栽培が始まります。「園長?」、そうここに西川さんの桃栽培に対する思いが詰まっています。

kitahira.hatenablog.com

 

 香川県の大西さんは、桃名人の名声を得ながら、「桃が美味しくなるのを手伝っているだけです」とさらり語る。そんなわけはない!彼の桃に対する愛情は並々ならぬものがあり、夜中でも桃畑のお世話のために山に入る。齢80歳、とうとう今期をもって桃栽培は引退するという… kitahira.hatenablog.com

 

 岐阜県飛騨高山で果樹園を営む亀山さん。桃名人とうたわれる父からバトンを受け、見事に果樹園を盛りたてています。交錯するご家族それぞれの想い、葛藤があった中で、彼は引き継ぐ決意をします。父の背を見ながら、彼ならではの新たな道を模索する。彼が名人と呼ばれる日も、そう遠くはないでしょう。

kitahira.hatenablog.com

 

 桜前線と同じように、桃前線も北上してゆきます。Benoitが桃を購入させていただいている北限は山形県にあるタキグチフルーツガーデンです。本来であれば、他の桃農家さんのように滝口さんをご紹介しなければいけないにもかかわらず、簡単なご紹介しか書き上げることができませんでした。自分の怠慢によるもので、決して書くに足らない栽培者というわけではありません。短いですが、滝口さんの「こだわり」をご紹介させていただきます。

kitahira.hatenablog.com

滝口さん、申し訳ありません。この場をおかりし、深く深くお詫び申し上げます。

 

 秋になり、初めて感じる涼しさを「新涼(しんりょう)」や「初涼(しょりょう)」というようです。温度計という便利なものがあるために、数字というものに縛られてしまい、体感できる涼しさを忘れてはいないでしょうか。ヒグラシの声はもちろん、夜な夜な奏でるスズムシやコオロギの音色もまた忘れてはいけません。そして、秋の風は、秋の薫りも運んできます。ここはひとつ、文明の利器を遠慮し、五感を利かせて秋を探してみるのも一興ではないでしょうか。そして、秋の味覚が恋しくなった際には、足の赴くままにBenoitへお越しください。深まり行く秋と歩調を合わせるように、旬の食材がメニューをもって皆様をお迎えいたします。

 

 最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

 終息の見えないウイルス災禍です。皆様、油断は禁物です。十分な休息と睡眠、「三密」を極力避けるようにお過ごしください。「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、笑いながらお会いできることを楽しみにしております。

 皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より切にお祈り申し上げます。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com

2022年夏 Benoitの特選食材「桃についてつらつらと」

 往古(おうこ)、古代中国では東西に仙境があると信じられていました。東の蓬莱(ほうらい)山と、西の崑崙(こんろん)山。この西の仙境に住んでいたのが西王母(さいおうぼ)と呼ばれている仙女最高位の神様です。この西王母は、崑崙山で不老長寿の桃を栽培していたのだといいます。この桃は3000年に1回しか実をなさない仙桃で、前漢七代目皇帝「武帝(在位紀元前141~紀元前87)」は、その西王母からこの仙桃を贈られたという故事が残っています。

 古代中国では、桃の実は長寿の祝いにつかわれ、枝は不吉を除くといわれていました。「桃弧(とうこ)」は厄災を祓うために桃の樹で仕上げた弓のこと。さらに、「桃符(とうふ)」とは、桃の樹で作った「おふだ」のことで、魔よけのために門の脇に飾るのだといいます。桃は、何か神聖な霊力のある仙木としての役割を担っているようなのです。

 桃の原産地は中国で、ヨーロッパにはシルクロードを通り、紀元前にもたらされていたといいます。他方、日本では縄文時代後期あたりから、すでに食用にされていたようで、各地の遺跡から桃の種が出土されています。すでに植栽域を広げている桃に、遣隋使や遣唐使によってもたらされる古代中国思想が加味されることで、桃の樹は百鬼をも退かせる呪力が宿った仙木であり、その果実には何か不老長寿の薬効を含んでいるのだろうと考えたのでしょう。

 

三千代へて ()りけるものを などてかは 百々(もも)としもはた 名づけそめけん  花山院(かさんいん)

 3000年もの歳月を要してやっと結実するという仙桃があるほどのこの果物を、どうして「百々(もも)」と名付けたのでしょうか。「千々(ちち)」と名付けても良かったのではないか…と、日本65代天皇であった花山院ほどの方が真剣に考えていたはずはありません。中国の神仙思想を鑑みた、なんと高尚な言葉遊びなのでしょうか。

 

 万葉の時代、話し言葉としての日本語「大和言葉」はあるものの、書き言葉としてはままならなかったようです。「ひらがな」は存在せず、知れば知るほどに便利で文明的な漢字が中国から伝来した時、大和朝廷の宮中の賢人は驚愕し、貪欲に取り込んでいくことにしました。漢字の音読みを利用して日本語の書き言葉を表現する「万葉仮名」を生み出すものの、宮中での文書は漢文となり、漢詩が主流となるご時世の到来です。

 唐風文化の繚乱(りょうらん)を迎え、日本語の書き言葉が衰退の一途を辿るばかり…和歌にとっては暗黒時代です。そう書き言葉では漢字文明の席巻を許すも、話し言葉としての大和言葉は健在ということでした。言語として際立つ利便性のある漢字や文化を導入するも、大和言葉を崩さなかった。いや、多少なりとも影響はあったかもしれませんが、大和言葉を堅持したという表現が良いのかもしれません。

 世界の言語は、「絵画文字」、「表音文字」、「表意文字」などに大別されます。絵画文字は、古代文明に書き記された絵文字を代表とし、表音文字はアルファベット(音素文字)や日本の仮名(音節文字)などがあります。そして、表意文字は、一文字が単語を成し、実質的な意味を持つもの。それが「漢字」です。

 日本語の漢字には、音読みと訓読みがあります。音読みは、中国の漢字の読みが元となっており、仏教とともに伝わった三国志で有名な王朝「呉」の漢字の発音「呉音」と、時代は下り、「唐」の時代の長安で使われていた読み「漢音」があります。今回はこの音読みではなく、訓読みについてです。

 「訓」とは、「おしえる」を漢字変換すると、「訓える」がでてくるように、教え導くや解釈するという意味があります。さらに「おしえ」を変換すると「訓え」となり、家訓のように何かの規則やいましめというの他に、字の語義や釈義という意味があります。「訓詁(くんこ)」とは、古典の字句の意味や文法・修辞などを明らかにして解釈することをいいます。語源辞典「漢辞海」によれば、「訓」と「詁」はともに不明の字句に対する解説や注釈をいうが、一般的な言葉でもって、難しく分かりにくい字句の意義を解釈するのを「訓」、現代語で古語の字句の意義を解釈するのを「詁」という。

 古代日本には、話し言葉としての大和言葉が存在していました。山や川そのものを見て「やま」「かわ」と呼んでいました。この語源がいったいなんなのかは専門家に託すとし、往古より、「やま」であり「かわ」でした。そして、表意文字である漢字と出会います。そこで、古代日本の賢人は漢字を導入するも、大和言葉は堅持したのです。聳(そび)える山は「やま」であり、漢字の「山」は疑いようなく「やま」であり、流れる川は「かわ」は「川」なのです。訓読みみはかような歴史がありました。

 さて、桃は漢字よりも先に日本に渡来しているため、すでに「もも」という名前が与えられていました。漢字「桃」を知った時、山や川と同じように何の違和感もなく「もも」に桃」の漢字をあてがった。そして、「桃」を「もも」と読んだ…さらに、この漢字の到来とともに、前述した古代中国の故事にあるような神仙思想も日本に持ち込まれたようです。

 日本の誕生を書き記した「古事記」によると、黄泉国(よみのくに)にいる愛する妻イザナミノミコト(伊邪那美命)に会いに赴いた夫イザナキノミコト(伊邪那岐命)が、約束を破り妻の変わり果てた姿を目にしてしまう。怒り心頭に発したイザナミノミコトは、逃げるイザナキノミコトを見るも恐ろしい醜女(しこめ)に追わせるも失敗。

 そこで、八種(やくさ)の雷神(いかづちがみ)と、1,500にも及ぶ黄泉の軍勢を差し向けました。命からがら、黄泉国の出入り口である黄泉比良坂(よみひらさか)に達したとき、近くに育っていた桃の樹から得た桃の実3つを追手に投げつけることで事なきを得たというのです。ほぼ同時期に編纂された「日本書紀」にも、多少の違いこそあれ、同じようなことが記載されています。

 桃の樹に宿る霊力。今でもこの名残を残しているものが、2月3日に執り行われる「追儺(ついな)」という宮中行事です。我々には「節分の豆まき」の日ですが、このルーツともなる神事だといいます。

 季節の変わり目が「節分」、新しい季節を迎える前に今の季節の厄「鬼」を祓うため、「桃の樹の弓で、葦(あし)の矢を射る」というのです。五穀や小豆をまくこともあったようで、これが我々馴染みの節分の豆まきとして今に至るのでしょう。鬼(厄)を退治する(祓う)といえば、我々に馴染みも「桃太郎」の昔話。なぜ桃から生まれたのか?もうお気づきかと思います。諸説あるかと思いますが、このお話は納得していただけるのではないでしょうか。

 さらに翌月の3月3日。この日は、皆様ご存知の「ひな祭り」です。もともとは「上巳(じょうし)の節句」といことで、中国から遣唐使によって、この風習が持ち込まれたようです。陰陽五行の中では、「陽(奇数)が重なると陰を生ず」と言われ、霊的な力のある植物の力を借り、邪気を祓おうと考えたのだといいます。

 童謡「うれしいひな祭り」の歌を口ずさんでいただきたいです。「明かりをつけましょ♪ ぼんぼりに~ お花をあげましょ♫ 桃の花~♫」、新暦と旧暦の偏差が40日ほどあることから、旧暦の上巳の節句の頃には桃の花が笑っていたのです。「桃」にはなにやら不老長寿の薬効を含み、百鬼をも退かせる仙木であるという思想が、日本でも確固たる地位を得ていたのです。

 桃、桃と書いてきましたが、今馴染みの桃と昔の桃では少しばかり様相が違います。前述した昔話「桃太郎」は誰しもが知っていることと思います。お婆さんが川に洗濯にゆくと、川の上流からどんぶらこ~どんぶらこ~と大きな桃が流れてきます。この桃の形を思い浮かべていただきたいです。お近くに絵本がある方は、手の取っていただき開いてみてください。見ていただきたいのは「桃の形」。まんまるというよりも、先のとがった形ではありませんか?

 古来、中国より持ち込まれた桃が、北方系の品種らしく、この果実の形が桃太郎の桃。昔に描かれた桃の画もまた同じ形です。明治に入り、南方系が日本に届き、偶発実生(意図的ではない自然の交雑から生まれた品種)によって生まれたのが、今の「まん丸の桃」の原型だと言われています。

 「桃の形」、子供の絵本とはいえ歴史考察の上では貴重な資料なのかもしれません。そういえば、纏向遺跡のある奈良県の隣は和歌山県。その北側に紀の川市桃山町という地名を見ることができます。むやみやたらに地名が付くわけではありません。地名に「桃」の漢字が入るとうことは、往古より桃の産地であり、纏向遺跡と何かしらの繋がりがあったかもしれません。桃が古代の歴史を物語るかもしれない…方言もそうですが、身近なものにこそ歴史を探るヒントがあるのではないでしょうか。

 Benoitの夏を代表すデザートは、疑いようもなく「ピーチ・メルバ」です。いかに、パティシエールチームの腕が立つとはいえ、美味しい桃なくして皆様を魅了するピーチ・メルバはありえません。桃はいち品種が約1週間という短い収穫期なため、桃農家さんは実る時期の違う多品種を植栽することで、日々の労を分散し、さらに桃の出荷期間が長くなるように工夫をされています。そのタイミングを見計らいながら、Benoitの桃在庫を考慮し購入し続けた日々も、2022年9月11日をもって終わりを迎えました。

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 遅きに失した感は否めませんが、6月半ばからBenoitへご尽力いただいた桃栽培者の方々を、ご紹介させていただきます。南は熊本県から、北は山形県まで。桜前線ならぬ桃前線の北上を追うようにBenoitに届く桃は、どれもが素晴らしい逸品でした。悪天候のため品質ままならず、栽培者の「Benoitへ送る品質ではない」との判断から、出荷断念と涙を呑むこともありました。

 それぞれの桃栽培者の方は、「美味しい桃を育て上げる」という志は同じでも、そこに辿り着く道のりが違うため、桃畑の姿が違います。旅行をするようにお楽しみいただけると幸いです。

 

 和歌山県紀の川市桃山町。自分が初めて桃の産地直送に踏み切ったのが、豊田屋さんとの出会いでした。半農半医という栽培を担う豊田さんには、多くを学ばせていただきました。無謀とも思える「無農薬栽培」に果敢に取り組む姿には感銘を覚えます。彼よりいただいたメッセージが心に響く…

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 桃探しも南へ南へと向かい、辿りつた先が熊本県の西川農園でした。お父様の代までは主力産物はメロンでした。しかし、現園長である西川さんが引き継ぐと同時に一念発起し、桃栽培が始まります。「園長?」、そうここに西川さんの桃栽培に対する思いが詰まっています。

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 香川県の大西さんは、桃名人の名声を得ながら、「桃が美味しくなるのを手伝っているだけです」とさらり語る。そんなわけはない!彼の桃に対する愛情は並々ならぬものがあり、夜中でも桃畑のお世話のために山に入る。齢80歳、とうとう今期をもって桃栽培は引退するという…

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 岐阜県飛騨高山で果樹園を営む亀山さん。桃名人とうたわれる父からバトンを受け、見事に果樹園を盛りたてています。交錯するご家族それぞれの想い、葛藤があった中で、彼は引き継ぐ決意をします。父の背を見ながら、彼ならではの新たな道を模索する。彼が名人と呼ばれる日も、そう遠くはないでしょう。

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 桜前線と同じように、桃前線も北上してゆきます。Benoitが桃を購入させていただいている北限は山形県にあるタキグチフルーツガーデンです。本来であれば、他の桃農家さんのように滝口さんをご紹介しなければいけないにもかかわらず、簡単なご紹介しか書き上げることができませんでした。自分の怠慢によるもので、決して書くに足らない栽培者というわけではありません。短いですが、滝口さんの「こだわり」をご紹介させていただきます。

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滝口さん、申し訳ありません。この場をおかりし、深く深くお詫び申し上げます。

 

 秋になり、初めて感じる涼しさを「新涼(しんりょう)」や「初涼(しょりょう)」というようです。温度計という便利なものがあるために、数字というものに縛られてしまい、体感できる涼しさを忘れてはいないでしょうか。ヒグラシの声はもちろん、夜な夜な奏でるスズムシやコオロギの音色もまた忘れてはいけません。そして、秋の風は、秋の薫りも運んできます。ここはひとつ、文明の利器を遠慮し、五感を利かせて秋を探してみるのも一興ではないでしょうか。そして、秋の味覚が恋しくなった際には、足の赴くままにBenoitへお越しください。深まり行く秋と歩調を合わせるように、旬の食材がメニューをもって皆様をお迎えいたします。

 最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

 終息の見えないウイルス災禍です。皆様、油断は禁物です。十分な休息と睡眠、「三密」を極力避けるようにお過ごしください。「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、笑いながらお会いできることを楽しみにしております。

 皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より切にお祈り申し上げます。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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2022年夏 Benoitの特選食材≪桃≫ 「山形県の滝口果樹園(タキグチフルーツガーデン)さん」のご紹介です。

 桜前線と同じように、桃前線も北上してゆきます。Benoitが桃を購入させていただいている北限は山形県です。仙台市から国道48号を西へ西へと向かい、山形盆地に入ったところに将棋の駒で有名な天童市があります。標高はゆうに240mを超えるこの地で、滝口亮輔さんが果樹園「タキグチフルーツガーデン」を切り盛りしています。

 桃の栽培は堆肥など有機物を多く使うこだわりよう。収穫は一気にしてしまわずに、一つの木でも4回くらいに分けて味がのったものだけを選びながら収穫してゆきます。そのため、常に出荷できるわけではなく、収穫のタイミングでそのときいいものだけを選ぶので出荷数が限られたりすることもしばしば。しかし、誰一人として文句を言わないのは、彼の育て上げた桃があまりにも美味しい上に、味にバラツキが少ないから。きっと滝口さんは、常に果樹園と真摯に向き合い、土地の土質やバランスを見極めているからなのでしょう。

 今年は、皆様ご存知のように8月の北日本の大雨は、滝口果樹園に対しても例外ではありませんでした。早生の品種である白鳳の出荷見送りという連絡が入ったのです。おそらく、多少は収穫があったと思うのですが、彼はBenoitへ送るに見合う品質ではないという苦渋の決断を下しましたのです。いつもであれば、9月末までBenoitではピーチ・メルバを皆様に提供しておりました。しかし、今期は8月末でこのデザートを終えようと考えた理由がこれだったのです。

 その後の天候の回復と、滝口さんの桃畑への迅速な対応により、晩生の川中島白桃が収穫できそうだとの報が届きます。毎年のように桃を購入させていただきながら、今期は「なし」なのかと危惧していただけに、この報をどれほど待ち望んでいたことか。そして、収穫が始まった!

 2022年は皆様に8月末までと公言していたこともあり、9月末までとはいきませんでしたが、滝口さんの川中島白桃を購入できた分のみ、ピーチ・メルバの提供を継続いたしました。いつもであれば、最後の追熟タイプの「さくら白桃」まで続けるのですが、今期は9月半ばでBenoitの桃デザートは終わりを迎えました。

 本来であれば、他の桃農家さんのようにご紹介をしなければいけないにもかかわらず、自分の怠慢から書き上げることができませんでした。来年に、滝口さんより多くのお話を伺い、皆様にご案内をさせていただきます。自分の怠慢によるもので、決して書くに足らない栽培者というわけではありません。この場をおかりし、深く深くお詫び申し上げます。

 

 遅きに失した感は否めませんが、6月半ばからBenoitへご尽力いただいた桃栽培者の方々を、ご紹介させていただきます。南は熊本県から、北は山形県まで。桜前線ならぬ桃前線の北上を追うようにBenoitに届く桃は、どれもが素晴らしい逸品でした。悪天候のため品質ままならず、栽培者の「Benoitへ送る品質ではない」との判断から、出荷断念と涙を呑むこともありました。

 それぞれの桃栽培者の方は、「美味しい桃を育て上げる」という志は同じでも、そこに辿り着く道のりが違うため、桃畑の姿が違います。旅行をするようにお楽しみいただけると幸いです。

 

 和歌山県紀の川市桃山町。自分が初めて桃の産地直送に踏み切ったのが、豊田屋さんとの出会いでした。半農半医という栽培を担う豊田さんには、多くを学ばせていただきました。無謀とも思える「無農薬栽培」に果敢に取り組む姿には感銘を覚えます。彼よりいただいたメッセージが心に響く…

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 桃探しも南へ南へと向かい、辿りつた先が熊本県の西川農園でした。お父様の代までは主力産物はメロンでした。しかし、現園長である西川さんが引き継ぐと同時に一念発起し、桃栽培が始まります。「園長?」、そうここに西川さんの桃栽培に対する思いが詰まっています。

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 香川県の大西さんは、桃名人の名声を得ながら、「桃が美味しくなるのを手伝っているだけです」とさらり語る。そんなわけはない!彼の桃に対する愛情は並々ならぬものがあり、夜中でも桃畑のお世話のために山に入る。齢80歳、とうとう今期をもって桃栽培は引退するという…

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 岐阜県飛騨高山で果樹園を営む亀山さん。桃名人とうたわれる父からバトンを受け、見事に果樹園を盛りたてています。交錯するご家族それぞれの想い、葛藤があった中で、彼は引き継ぐ決意をします。父の背を見ながら、彼ならではの新たな道を模索する。彼が名人と呼ばれる日も、そう遠くはないでしょう。

kitahira.hatenablog.com

 

 秋になり、初めて感じる涼しさを「新涼(しんりょう)」や「初涼(しょりょう)」というようです。温度計という便利なものがあるために、数字というものに縛られてしまい、体感できる涼しさを忘れてはいないでしょうか。ヒグラシの声はもちろん、夜な夜な奏でるスズムシやコオロギの音色もまた忘れてはいけません。そして、秋の風は、秋の薫りも運んできます。ここはひとつ、文明の利器を遠慮し、五感を利かせて秋を探してみるのも一興ではないでしょうか。そして、秋の味覚が恋しくなった際には、足の赴くままにBenoitへお越しください。深まり行く秋と歩調を合わせるように、旬の食材がメニューをもって皆様をお迎えいたします。

 最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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2022年夏 Benoitの特選食材≪桃≫ 「岐阜県の亀山果樹園さん」のご紹介です。

 「飛山濃水(ひざんのうすい)」とは、見事なまでに岐阜県の地形を言い当てています。往古、彼の地には美濃と飛騨という2国があり、これが合併して岐阜県となります。もともと2国だったということは、あまりにも自然環境が違うことを示唆しているのでしょう。

 北部の飛騨地方は、標高3000m級の飛騨山脈を誇る山岳地帯。その山の麓(ふもと)に広がる裾野が、南部の美濃地方。この南北を貫くように川があります。北部の山々を源流とする数多(あまた)あるせせらぎが、落合い落合うことで川となり、海へそそがれる。木曽三川(きそさんせん)と呼ばれる、揖斐(いび)川、長良(ながら)川、木曽川の豊富な水資源なくして、美濃の肥沃な濃尾平野はありえません。

 かつては、急峻な山道は危険があり往来が難儀であったことでしょう。そして、ひとたび雨が続こうものならば、木曽三川が暴れ川になることもしばしばあったことでしょう。「飛山濃水」とは、そのような厳しい自然環境を揶揄するかのように使われていたようです。

 ところが、道路が整備され治水が施されることで、飛山濃水という環境が類稀なものであることを悟るのです。深山(みやま)が雨水を清らかなせせらぎへと変え、豊富に保水しているからこそ絶えることがありません。その水の流れは、悠久の時の中で山を削り岩を穿ち、自然美が極まったかのような景勝地を造り上げる。そして、あまりある水は肥沃な濃尾平野を潤すことで、美味なる農産物を約束してくれる。全てが飛山濃水の賜物であり、今では人々から羨望の目を向けられるようになるのです。

 さて、木曽三川の一つが木曽川であることは前述いたしました。この川は、長野県の西部の鉢盛山(標高2,446m)の南側を源流とし、長野県では南へと流れ、岐阜県に入ると西へと流路を変え、岐阜市の南側を通過した後に南へと向きを変え、木曽三川の他二つ長良川揖斐川に合流し、伊勢湾に流れ着きます。

 その木曽川には、美濃加茂市可児市境界で、北部から流れ落ちてくるかのように落ち合う川がある。飛騨山脈の山々と平原の集合体である乗鞍岳の南麓に端を発します。湧き出ずる「せせらぎ」が、山間(やまあい)をぬうように西へ西へと進みます。その流れも、高山市の久々野(くぐの)町で南へと向きを変え、御嶽山(おんたけさん)からの数々の流れと落ち合うことで勢いを増しながら、美濃加茂市まですすみ、木曽川へ流れ落ちる「飛騨川」です。

 流れ落ちる?高山市から美濃加茂市まで、直線距離では80kmほどです。しかし、両市それぞれの海抜が約800mと約80mということを考えると、80km距離で高低差720m、1km進むごとに90m下がる…1mで9cmという勾配で水が流れてくる。緩急はあるものの、水の勢いはなかなかのものです。この水勢があるからこそ、見入ってしまうほどに美しい渓谷の数々があるのです。飛山濃水の所以(ゆえん)たる荘厳たる山々の姿は、まるで緑の叢(むら)のようであり、その色調の違いの美しさに魅せられる。さらに、その山間(やまあい)を流れる川は、透き通らんばかりに澄んでおり、多様な表情を見せる岩肌を演出するかのように輝きをはなっているかのようです。

※画像は一番上から「笠ヶ岳」、ガイド同行が必須の「五色が原の森」、飛騨川の支流「馬瀬川」、七宗町(しちそうちょう)の「飛水峡」です。

 

 なぜ飛騨川をご紹介したかというと、今回ご紹介したい果樹園は、この川を上がった先にあるのです。濃尾平野の一翼を担う美濃加茂市から、この川と並走するかのように国道41号線が走っています。山々の稜線に沿うように進むこの国道は、今でこそ道が整備されていますが、かつては相当の難所だったはずです。しかし、この道からは、人々をして「岐阜百山」と称させた美しい山並みを堪能できます。四方に聳(そび)える峻嶮なる嶺(みね)が尾根をなし、雄大なる自然の造形美を堪能できます。

 国道41号線を北上するように、飛騨川の上流へ。先に書いたのは水の流れを追うように「川を下る」であれば、今度は道路をつかって「川を上る」ことに。なんと忙しい内容なのかと思いつつ、温泉で有名な「下呂市」を過ぎ、向かう先は高山市です。高山市は、観光ガイドで「飛騨高山」という表記で紹介されていることが多いのですが、やはり中心地は高山市の中心街でしょう。江戸時代から続く城下町の風情を、市民皆の努力によって保全していることで、「飛騨の小京都」と称されているのです。海外のガイドブックでは軒並み高評価、名高いフランスのガイドブックでは3ッ星です。

 高山市の南側で飛騨川の流れは、久々野町で西から南へと転じると前述しました。今回の訪問先は、この高山市の南に位置している久々野町に居を構える「亀山果樹園」さんです。

 標高750mの高冷地の大自然の中に2.5haの園地を有し、今は二代目園主の亀山忠志さんが陣頭指揮を執っています。甘く香り高い高品質の果実を皆様へお届けすべく、研鑽に励む日々。1年に一度迎える果樹の収穫は、6月のサクランボの収穫に始まり、8月に「モモ」、そして9月の「ナシ」、それを追うようにして12月までの「リンゴ」をもって終わりを迎えます。そう、彼にとってこの期間は休みなどあろうはずもなく、毎日畑に赴き、自然の機微を感じとり、果実の声を聴きながら、深い経験に裏打ちされた慧眼(けいがん)で果実の熟度を見極め、収穫に臨(のぞ)みます。

 標高の高さは、夏にもかかわらず昼夜の寒暖差を約束してくれます。ましてや、800m近い標高ともなれば、寒暖差はかなりのもの。これは、果実に大いなる甘みをもたらすのです。生きとし生けるものにとって共通していることは、「呼吸」によって酸素を取り込み、体に蓄えられた養分をエネルギーに変え、代謝として生み出された二酸化炭素を「呼吸」によって体外に排出します。ここに、植物特有の「光合成」が同時に行われるとどうなるか。降り注ぐ太陽の下では、呼吸によって消費する養分よりも、光合成によって蓄えられる養分の方が多くなるのです。

 動植物全てが、昼夜に関係なく「呼吸」をしていること、これが生きているということ。植物は、光合成によって養分を蓄える能力を持つため、陽の射すときは、養分の消費よりも貯蓄が大きくなる。陽が沈むと、呼吸によって養分は消費するのみ。この消費と貯蓄の差が、日増しに果実に蓄えられていくことで、養分に満ちた完熟の美味なるものへと姿を変えるのです。日照不足が、どのように影響するのかは、ご想像の通りです。では、昼夜の温度差は、どのように影響するのか。

 果樹の場合、昼夜に呼吸していることは前述しました。あまりある陽射しによって光合成が成され、養分を消費よりも貯蓄するほうが上回ることで、その過剰の養分が果実に包含されてゆきます。陽が沈むと、果樹は呼吸によって養分は消費するのみ。夜明けまでの間、気温が高いと樹は活発に活動することになり、低いと鈍るのです。この消費量が少ないということが大切で、余剰な養分が果実に多く残ることに。これを繰り返すことで、寒暖差のない地域よりも間違いなく、養分に満ち満ちた、つまりは美味しさの詰まった果実が実るのです。

 では、全ての果樹を標高の高い山に植栽すればよいかというと、そうではありません。それぞれに適した温度帯があり、寒すぎても暑すぎても成長を止めてしまうのです。これは人もまた同じです。動物の冬眠とは、厳しい寒さを利用し、体内の活動を鈍化させ、養分の消費量を抑えることで春まで乗り切ること。冬が寒くならなければ、冬眠することもできず、生きるエネルギーを得るために、さまよい歩くことになるのです。

 桃栽培の北限は、新潟県山形県のラインでした。「た」、このラインは過去形のものとなり、いまでは温暖化の影響で秋田県まで上がっているようです。暑ければ良いわけではなく、寒ければよいわけでもありません。亀山果樹園のある地は、本州中央に位置していますが、標高が高いこともあり「高冷地」と言われています。昼夜の温度差はあるものの、桃栽培においてはかなり厳しい自然環境であることは確かです。

 過去、2018年9月の台風21号と24号、特に24号の日本縦断の被害は深刻なものだったようです。早朝に果樹園の見回りに向かった時、惨禍な姿に変わり果てた樹々に、「ガックリ肩を落としました」と。「桃栗三年柿八年~」、実際には新植しても実を成すのに4~5年を要します。

 そして2019年では、4月は開花したにもかかわらず、冷害によって受粉せずに花を落とす「花ふるい」や結実不良を引き起こし、さらに6月には雹(ひょう)によって、緑果や葉が痛めつけられました。2021年は、春に霜が降りたことによって、新芽が霜焼けとなり枯死、収量の激減を招きました。さらに、予想だにしなかった台風の進路によって、実を落とすばかりか、樹自体にダメージが加わることに。追い打ちをかけるように昨年ほどではないですが今年も7月に長雨が続き、これによって日照不足に陥ったのです。

 農業は天候に左右されるばかりではありません。獣害もまた、深刻な被害をもたらします。他の桃産地であれば、イタチやタヌキにハクビシンという厄介者ですが、ここは山々に囲まれた風光明媚な大自然ゆえに、果樹園に姿を見せる動物たちの危険度が違い過ぎるのです。イノシシやシカの被害ばかりではなくクマまでもが、美味しい果実を目当てに園地を訪問してくるようです。

 この招かれざる珍客は、闇深き中を甘い桃の香に誘われるかのように果樹園に入り込み、たわわに実る美味なる桃を貪(むさぼ)り食らう、まさに食べ放題のように。丁寧に一玉一玉を味わいながらお召し上がりいただければ、少しは心穏やかになろうものを…

 しかし、野生はそう一筋縄ではいかないものです。熊は枝に寄りかかるように枝はバキバキに折られ、中途半端にかじった桃が点在している光景を目の当たりにした時には、怒りを通り越して、無感に襲われたように呆然と立ち尽くすのみなのだと。園地全体を囲うように柵を張り防御しようとするも、この彼と動物のせめぎ合いは、いまだ終わりを見せようとはしておりません。

 それでも、「農業は自然相手です。」と言い切る亀山さん。抗しがたい自然に辛酸を舐めること幾度となく。「厳しい」と簡単に書くことができないほどの試練に直面しながら、「自然災害に負けない安定した収量を確保する為の対策も考える良い機会となりました」と、前向きなコメントが届きます。自然の厳しさを克服するのではなく受け入れるのだと。なぜ、亀山さんは「諦める」という選択肢を選ばないのか?

 亀山忠志さんが幼き頃より、この果樹園で素晴らしい品質の桃が実を成すことを、毎年のように見ていたからです。厳しい自然環境であることは百も承知。それを乗り越えた先には、最初の一口の出会いの瞬間(とき)に「香り」「甘さ」「食感」に感動していただける逸品との出会いが待っていること身をもって知っているのです。

 この果樹園は、彼のお父様である亀山烈(いさお)さんが一代で築き上げました。開拓と同時に栽培ノウハウの試行錯誤を繰り返す日々だったことでしょう。しかし、彼もまたこの地で美味しい桃が実ることを肌身で感じていたはず。妥協することなく「美味しい桃」を実らせることを追求する弛まぬ努力が、父烈さんを「飛騨美濃特産名人」の認定へと導きました。そして、そのノウハウと心意気はそのまま息子さんの忠志さんへ引き継がれるのです。

 桃名人と称される父を持ちながら、「さらなる高みへ」という志は今なお衰えを見せません。栽培に関しましては、有機質肥料を主体とし養分の微量要素のバランスも考え、食味の良さ、栄養価の高い実を成すように。そして、農薬の使用は最低限に抑え、安心して皆様がお召し上がりいただけるように。彼は「努めています」と短い言葉で話をまとめていますが、弛まぬ努力と途方もない手間暇を必要としていることを忘れてはいけません。そして、まだあまり認知されておりませんが、岐阜県GAP(農産物の安全を確保し、より良い農業経営を実現する取り組み)を実施しており、2020年9月には県から認定されています。

 

 数々の試練を乗り越えながら桃栽培を続けることに、「桃名人」と称される父の存在は、どれほど心強かったでしょうか。家族という絆は、「優しさ」とは違う深い深いつながりであり、厳しさの中にも「子思う愛」がある。反面、「桃名人」の後を継ぐことに、忠志さんに気負いはなかったのか?ご本人に聞いてみました。

 「正直なところ、若い頃は農業を継ぐ気はありませんでした。営業という仕事が楽しくて、黙々と農作業をこなすという事が自分には向いていないと思っていたからです。」と、今の後継者不足による農業の衰退を思えば、至極まっとうな考えだと思います。そして、農業を生業とはしない進路を進みます。

 しかし、「父親が一代で築き上げてきた職業を、長男である自分が無くしてしまうことに対して申し訳ない気持ちが、心の中にありました。」と当時の心情を吐露してくれました。

 長男が継がなくてはならない、という考えは今や昔の話であることを、父である烈さんは感じていたのでしょう。家族での会話の中で、「継いでほしい」と思いつつも無理強いはせず、農業以外の進路に反対をしなかった。農業とは、自然に左右される不安定なものである、苦労と危険をともなうものを肌身で感じているからでしょう。息子には息子の人生がある。

 この亀山果樹園存続の危機ともなる、この親子の決断が大いなる好機を導きました。「作業を手伝っているときに、ふと分野が違うだけで果物も商品だと思った瞬間があり、自分で作った物を自分で売る事もできるのだ!と思った時に、農業に対しての自分の中の思い込みが無くなり、視野が広くなった気がしました。」と、忠志さん。亀山果樹園の歴史が動いた時です。

 若かりし頃は、暑いわ重いわ疲れるわと、悪態をつきながら農作業の手伝いをしていたはずです。栽培しているこだわりの農産物が、あまりにも身近であったために、価値が分からなかった。それが、農から離れることで、父によって育まれたものが、どれほどの逸品であるかを知る由となるのです。父親の背中を見ながら成長しながら、その大きさを実感した時です。

 さらに、営業という職業を社会人として経験したからこそ、「自ら育てた逸品」を、「自ら販売する」という発想を生み出しました。日本全国に、桃の名産地が多々あるなかに、亀山果樹園としての販路を見出すことに、楽しみを見出したのです。そして、苦労を厭わず誠心誠意を込めて収穫したものを、自ら販売することで、我々消費者の声を聴くことができた。溢れんばかりの笑顔で「美味しい」と声は、職人冥利に尽きるというものです。

 忠志さんが「亀山果樹園を継ぐ」と心に決めると同じくして、父の偉大さを気付かされることになります。「桃名人」の称号は、生易しいものではありませんでした。

 「プレッシャーは、ありました。絶対、比較されると…。」と。圧し潰されそうな重圧の中で、「それが逆に良いプレッシャーとなり、息子の代になって落ちたねと言われないよう、常にお客様に喜ばれる果物を作ろうという、強い向上心へと変わりました。まだまだ未熟ですが…」。慢心ではなく、未熟という気持ちが大切なのです。

 自然の機微を捉え反映しながら栽培方法を臨機応変に変えなければならない。この難しさは、経験に裏打ちされたものであり、マニュアル化はできません。父である烈さんの桃は美味しかったことでしょう。まだ父の桃を越えられない、と心の中で感じているかもしれません。経験を知識で置き換えることはできないが、補うことはできます。忠志さんの桃栽培とは、父のノウハウを踏襲しつつ、父とは別となる高みを目指しているのです。「妥協」を知らない彼には、一生「学び」がつきまといます。一段上れば、さらに上にもう一段。階段のように連なる先に、彼の追い求めるものがある、そう信じながら。

 「亀山果樹園 亀山忠志です。大自然に囲まれた果樹園の中で、季節を感じながら果物作りを楽しんでいます。農業は、天候に左右されやすい一面もありますが、お客様に、今年も美味しかったよ!と言っていただけるよう、努力と勉強を重ねていきたいと思います。」

 昨年の2021年、お盆を過ぎたあたりのことです。亀山さんから「昭和白桃」収穫予想日の連絡が入りました。そして待ち望んだその当日に、「もう3日ほど待たせてほしい」との連絡が入ります。「桃の追熟で桃の持つ甘さが増すわけではなく、もぎ取る前に十分に桃に糖分を蓄えさせてほしい。」と亀山さんが教えてくれました。

 Benoitへは中途半端な桃は送れない、発送が遅れて迷惑がかかることは十分承知しているが、桃農家としいて妥協はできない。語らずとも、ひしひしと伝わる彼のプロとしての意気込み。桃の重みが違う…これほどまでに想いの詰まった彼の桃が美味しくないわけがありません。

 2022年、あまりにも早い梅雨明けによる水不足。そうかと思えば、線状降水帯による局地的な大雨と、荒れた天候が続きました。亀山さんの果樹園のある岐阜県も例外ではありません。しかし、標高が高いために他地域よりも収穫期が遅くなることが幸いしたのです。7月の雨は恵みの雨となり、8月に日照時間を十分に確保できたのです。

 亀山さんの言葉の端端に表れる、自信と喜び。いただいた画像には、素敵な笑顔の姿が写っています。1年の集大成である収穫を無事に迎えることのできた安堵なのか、納得のいく美味しい桃へと育てることのできた喜びなのか。はたまた、照れ笑いなのか。さて、皆様はどう思われますか?

 

 遅きに失した感は否めませんが、6月半ばからBenoitへご尽力いただいた桃栽培者の方々を、ご紹介させていただきます。南は熊本県から、北は山形県まで。桜前線ならぬ桃前線の北上を追うようにBenoitに届く桃は、どれもが素晴らしい逸品でした。悪天候のため品質ままならず、栽培者の「Benoitへ送る品質ではない」との判断から、出荷断念と涙を呑むこともありました。

 それぞれの桃栽培者の方は、「美味しい桃を育て上げる」という志は同じでも、そこに辿り着く道のりが違うため、桃畑の姿が違います。旅行をするようにお楽しみいただけると幸いです。

 

 和歌山県紀の川市桃山町。自分が初めて桃の産地直送に踏み切ったのが、豊田屋さんとの出会いでした。半農半医という栽培を担う豊田さんには、多くを学ばせていただきました。無謀とも思える「無農薬栽培」に果敢に取り組む姿には感銘を覚えます。彼よりいただいたメッセージが心に響く…

kitahira.hatenablog.com

 

 桃探しも南へ南へと向かい、辿りつた先が熊本県の西川農園でした。お父様の代までは主力産物はメロンでした。しかし、現園長である西川さんが引き継ぐと同時に一念発起し、桃栽培が始まります。「園長?」、そうここに西川さんの桃栽培に対する思いが詰まっています。

kitahira.hatenablog.com

 

 香川県の大西さんは、桃名人の名声を得ながら、「桃が美味しくなるのを手伝っているだけです」とさらり語る。そんなわけはない!彼の桃に対する愛情は並々ならぬものがあり、夜中でも桃畑のお世話のために山に入る。齢80歳、とうとう今期をもって桃栽培は引退するという…

kitahira.hatenablog.com

 

 桜前線と同じように、桃前線も北上してゆきます。Benoitが桃を購入させていただいている北限は山形県にあるタキグチフルーツガーデンです。本来であれば、他の桃農家さんのように滝口さんをご紹介しなければいけないにもかかわらず、簡単なご紹介しか書き上げることができませんでした。自分の怠慢によるもので、決して書くに足らない栽培者というわけではありません。短いですが、滝口さんの「こだわり」をご紹介させていただきます。

kitahira.hatenablog.com

滝口さん、申し訳ありません。この場をおかりし、深く深くお詫び申し上げます。

 

 秋になり、初めて感じる涼しさを「新涼(しんりょう)」や「初涼(しょりょう)」というようです。温度計という便利なものがあるために、数字というものに縛られてしまい、体感できる涼しさを忘れてはいないでしょうか。ヒグラシの声はもちろん、夜な夜な奏でるスズムシやコオロギの音色もまた忘れてはいけません。そして、秋の風は、秋の薫りも運んできます。ここはひとつ、文明の利器を遠慮し、五感を利かせて秋を探してみるのも一興ではないでしょうか。そして、秋の味覚が恋しくなった際には、足の赴くままにBenoitへお越しください。深まり行く秋と歩調を合わせるように、旬の食材がメニューをもって皆様をお迎えいたします。

 最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com

2022年夏 Benoitの特選食材≪桃≫ 「香川県の大西さん」のご紹介です。

いく先も まだ遥かなる 山みちに まだき聞こゆる ひぐらしのこゑ  藤原輔尹(すけただ)

 

 この話を書きながら、ふっと思い浮かんだのがこの歌でした…

 

 シェフの力量はメニューに、ソムリエの実力はワインリストに、八百屋さんは取り扱っている野菜や果実に表れる。商品に添えられるPOPを読んだ時、スタッフに問うた時、この八百屋さんの野菜や果実に対する愛情を垣間見ることができる。一口お召し上がりいただけば、その愛が本物であることを知ることになる。

 香川県に新進気鋭の八百屋さんがいます。3年ほど前のことでしょうか、同県香南町の薫る農園さんからグリーンアスパラガス「さぬきのめざめ」を購入させていただくとき、その農園の代表である河田薫さんからこう紹介していただきました。「信頼のおける八百屋さんだから」と。

 サヌキスという店舗名で八百屋さんを展開しながら移動販売までをもこなす、鹿庭大智さん。畑に赴くと、言葉では伝えることのできない大切な何かを感じ取ることができる。さらに、それぞれの栽培者の「こだわり」は一言では言い表せない、だから自ら畑に赴き、栽培者の方々の話を聞くことを常(つね)としている。そして、彼らが苦労しているときは見過ごすことができず、手伝いをすることを厭わない。まだまだ経験不足なため手伝いとはいえませんと言うが、この行動がどれほど栽培者の方々の励みとなっていることだろう。

 彼のfacebookの中で、タケノコのお父ちゃんの話がありました。竹が生い茂る山に足繁く入り、竹のお世話をしなければ、春に美味しいタケノコを収穫することはできません。言うは易いですが、山の斜面での作業は、平地とは比べものにならないほど過酷であり、危険がつきものです。それでも、お父ちゃんは今年も山に入ってくれた。タケノコはもうやめると言っていたけど…鹿庭さんが毎日来るから、自分も登る気になったのだと、彼のおかあちゃんが教えてくれた。80歳の力を振り絞って急な斜面を登り、タケノコに鍬(くわ)を入れる…

 鹿庭さんに自分が連絡をする度に、彼はどこかに赴いている。最初は移動販売なのかと思っていたが、どうやら毎日のように野菜を仕入れに自らが畑に足を運んでいるようなのです。それも、ただ仕入れのためだけではなく、草むしりや収穫のお手伝いなどをこなしている。「商品としての野菜を仕入れるのではなく、美味しい野菜がそこあるから自ら赴く」のです。彼の行動範囲は香川県内にとどまらず、隣県にまで、さらに瀬戸内海までも渡ってしまう。

 愛媛県の中央部に久万高原(くまこうげん)町で、ダイコンを丹精込めて育てている方がいるので、鹿庭さん自らが毎回そのダイコンを受け取りにゆく。彼が取りに来るからと、待っていてくれるおとうちゃんとおかあちゃん。お互いが顔を合わせ、何気ない会話の弾んだ後に、手渡されるダイコン。お礼を伝え持ち帰る車の中で、彼は喜びを隠せないでいるに違いない。八百屋に戻れば、「美味しいダイコンです!」と自信をもって進めるスタッフがいる。そして、美味しいからと再度買い求めてくださるお客様がいる。そう、鹿庭さんが掲げたサヌキスの看板の下に皆が集う。

 自分が鹿庭さんに食材の相談をしている中でも、栽培者への思いやりと、野菜や果実に対する愛がひしひしと伝わってくるのです。彼は自らの行動を誇ることなく、真摯に栽培者の方々に寄り添い応援している。八百屋の経営者であるからこそ利潤を追求しなければならない。しかし、彼の求めるのは近江商人のいう「三方よし」の経営なのでしょう。だからこそ、河田さんが「信頼のおける八百屋さんだから」と紹介してくれたです。

 鹿庭さんとの出会いが、どれほどBenoitに影響を与えたことか。自分から皆様に料理説明をする際に、ちょくちょく特選食材で名が挙がる香川県という地名は、鹿庭さんのご尽力無くしてありえません。いや、何かしっくりこない…鹿庭さんが仕入れている野菜や果実が抜群に美味しいからBenoitで頻繁に「香川県」が登場するのです。

 鹿庭さんのお勧めする「桃」がある。香川県で桃?とお思いの方も多いのではないしょうか。歴史を紐解くと、江戸時代にはすでに桃の産地としての地位を確立していました。今では全国9位の生産量…都道府県の中で、一番面積が小さいことを考えると、この順位は桃の名産地であることの証でしょう。

 12年ほど前のこと、鹿庭さんはまだまだ八百屋駆け出しの頃である。こんぴらさんの参道入り口でお土産屋さんをされている方が、「美味しい桃を作ってる方がいるから」と紹介してくださったのが大西幸三郎さんでした。この出会いが、後ほどの鹿庭さんが八百屋として農家さんから大いなる信頼を得ることになるきっかけになったのかもしれません。

 大西さんは、「わしゃ桃がおいしくなるんを手伝うだけじゃが。そのために何をしたらいいのか考えるんよ。」という。雨が続いたり、霜が急に降りたり、雹が降ったりと、毎年いろんなことが起こるけど、それでも桃が自分の力でおいしくなれるよう手助けをしてく。

 彼が桃の栽培を始めたのは、なんと50年も前のことです。讃岐の西寄り、「こんぴらさん」で親しまれている金比羅宮が鎮座する象頭山(ぞうずさん)の麓(ふもと)あたりの斜面に桃畑を切り拓きました。彼の若かりし頃は本業が別にあり、平日の桃の作業は奥様が担っていたといいます。彼は何をしていたのか?麻疹ワクチンなどの開発に携わる仕事に就いていました。この経歴は、大西さんの農業への取り組みに大きな影響を与えます。

 大西さんは、得意とするこの化学の知識を農業に活かそうとします。土壌の分析や肥料の有効的な効かせ方、有機肥料の使い方など、農業研究の第一人者の技術や知識をどんどん学び、ご自身の畑で実践してきたのです。自らがこしらえた有機堆肥と、賢人に学んだ良質な有機合肥料を駆使することで、土の中の微生物を生き生きとさせる。これにより、土は豊かになり根が良く張る。さらに、桃の木から出る糸のような細い根っこの大切さを識るからこそ、その根を傷めないように除草剤は使用していません。

 桃を含めた他の多くの樹の根っこは、太い「主根(しゅこん)」が数本広がり、そこから「側根(そっこん)」が、何本も何本も左右に広がっている。さらにその先にはもしゃもしゃと髭のような短い「ひげ根」があります。地上部に出ている樹の本体を支える役割を果たすのが、地下部の主根と側根です。では、成長に欠かせない水分や養分を吸い上げるのはどこ?それが、「ひげ根」です。

 我が家では、家にいながら少しでも自然の移り変わりを感じたく、ブドウのベランダ栽培を18年間続けています。過去、コガネムシの襲来を受け、植木鉢の2/3が枯死しました。やけにふかふかした土だな~とのんきに思っていたのが、土の中ではやつらの幼虫の猛威に晒されていたのです。側根を貪り食われ、ブドウの樹を引き抜いてみると主根しか残っていなかったのです。あ~大西さんの話の中で、なんと小さな小さな、どうでもいい情報なのだろうか…

 大西さんは、糖度の高さではなく、味の濃さと「渋」がない桃を育てることを目指していたという。同じ有機肥料でも、安価なものは不純物が多く、それが桃の雑味にもつながるのだと喝破する。微生物が活発に働く土作り。葉にまんべんなく光が当たる枝の剪定。実にしっかりと養分の入る肥料の使い方。「桃が自分でおいしくなる手伝いをしているだけ」と彼は言うが、言うは易く行うは難しとはこのことで、「手伝い」という軽い表現ではまったく意味をなさない。並々ならぬ努力の賜物こそが、大西さんの桃なのです。

 前述したように、大西さんが桃栽培を始めたのは50年ほどまえのこと。そう今年で御年80歳です。桃は斜面に植栽されている上に、冬の剪定や、春からの摘花に初夏の摘果と脚立を使っての作業も多く、若いからといって楽なものではありません。斜面の草刈りや施肥することも難儀になってきた。

 

 大西さんは今期をもって桃の栽培から身を引く決断を下しました。

 鹿庭さんは、「代わりにやりたいけれども、美味しい桃を作る技術はちょっとやそっとでは学べない」という。大西さんの身体の事を思うと、無理はいけないことを十分理解しているものの…安堵の中に寂しさがある。自然の機微を感じ取り臨機応変に行動に移す判断は、50年という経験がものをいう。微生物を大切にした土づくりや、畑の管理をした大西さんの桃は今年もやはり美味しいと、鹿庭さんはしみじみと感じ入る。

 農産物は栽培者の想いが宿ると自分は思っています。大西さんの桃は美味しい…いや、大西さんだから彼の桃は美味しいのです。

 桃を手に取った時、ちくちくとする心地良い肌触りに、やさしい甘い香りに魅せられる笑みを浮かべる人がいる。喜びにはしゃぐ子供たちかもしれない。口に運んだときには、声にならない桃そのものの美味しさが口中に広がり、心の奥底からこぼれる…美味しいというひとこと…そして笑みがこぼれる。子供たちは喜びの声を上げ、次をねだる。大西さんは皆が美味しそうに桃をほおばる姿を望みながら、桃を送り出していたのでないでしょうか。

 お召し上がりいただいた皆様から、大西さんが直接にお礼や感想を伝えられることは稀でしょう。しかし、鹿庭さんのような志のある方が代弁しているはずです。口伝であれ、大西さんには日々の心労を癒す一番の処方箋だったはずです。だからこそ、50年もの長きにわたり、労を惜しまず桃を育て続けてこれたのだと思うのです。

 自分などは、鹿庭さんから大西さんの桃を紹介いただいて、3年という短い期間でした。それでも、出会えたことに感謝しております。大西さんの桃をBenoitパティシエールチームに自慢し、さらにお客様にどれほど美味しい桃なのかを語らせていただき、皆様が「口福なひととき」を過ごされたのを見てきました。大西さん、深く深く御礼申し上げます。

 お気づきの方も多いのではないでしょうか。このメールの前半でご紹介した「たけのこのお父ちゃん」とは、大西さんのことです。彼にとって鹿庭さんは孫のような年齢差があります。それでもこれほどの深い信頼関係で結ばれているのです。

 鹿庭さんはfacebookでこう綴っています、「生産者さんの心は顔に出て 生産者さんの想いは味に出る 想いはただ見えないだけじゃない 見えるもの、感じられるものになって現れてくる」と。笑みを浮かべる大西さんは、鹿庭さんに「自分の夢」を託したのかもしれません。

 

 屋号である、「サヌキス」について鹿庭さんに聞いてみました。まだ雇われ八百屋だったころ、高松市内のコンビニ2店舗に野菜を置く取り組みをしていたといい、キャッチコピーのような店舗名が必要になりました。香川県の野菜を中心にと考えていたので、「讃岐(さぬき)」は入れたい。そして、昭和の時代にはどこにでもあった地域の小さなストアのような親しみのある名前にしたい。ということで、当時は「まいにちストアsanukis」として活動し、独立してから「sanukis」と名前を変えたのだといいます。

 「深い意味はないのですが、お客さまとの距離が近くて地域に密着したマーケットのような感じにしたいと言う意向がありました。」と鹿庭さんから。言霊ではないですが、彼が思を込めた屋号は、十分に深い意味があり、着実に地域に密着した店舗へと成長しています。新店舗もオープンし、仲間が集うことがなによりの証でしょう。

 

いく先も まだ遥かなる 山みちに まだき聞こゆる ひぐらしのこゑ  藤原輔尹(すけただ)

 

 夢に向かって着実に歩みを進める中で、ヒグラシの声を耳にする。かなかなかなかな…まもなく夜の帳(とばり)がおりてくると教えてくれるかのよう。休憩というよりも、一晩の休養を促しているかのよう。人生は苦難の連続かもしれない。しかし、壁にぶつかるもその高さは、各々の力量によるもので、乗り越えられないものではない。時には立ち止まり、ゆっくり休養することで心身リフレッシュすることも必要なのではないか。一陽来復、闇夜の後には太陽は再び姿を見せてくれる。

 困難にぶつかった時、ひとたび休養することで正しい判断を下せるようになるものだよ…50年もの長きにわたり桃栽培を続けてきた大西さんが、そう教えてくれているような気がします。この歌が脳裏から離れないのは、このような理由からなのかもしれません。

 

仕事のこだわりってなかなか伝わらない

いくら伝えても美味しくないとまた選んでもらえない

要は味なんだよ

でも、そのこだわりを知って販売しているから、また選んでもらえた時の喜びは大きい

そして食べる時もそのこだわりを知っていた方がきっとより美味しいはず

だから知っていたいし伝えたい 「見えないこだわり」は野菜の味を濃くする添加物であり、味覚を彩る調味料 そんなことを考えながら、今日も車に満載の仕入

 寒風吹きすさぶ極寒の畑仕事では、鼻水も凍ります…確かに凍るが…このようなことはありません。鹿庭さんの写真をお願いした時に笑いながら送ってくれた一枚です。この遊び心がなければ、果敢に挑戦することはできないでしょう。鹿庭さんの言葉が心に響くなかで、くすっと笑みを浮かべる。このような形でこのご案内を締めくくらせていただきます。

 香川県へ足を踏み入れた暁には、必ずsanukisを訪問させていただきます!Benoitへご尽力いただき、誠にありがとうございます。

 

 遅きに失した感は否めませんが、6月半ばからBenoitへご尽力いただいた桃栽培者の方々を、ご紹介させていただきます。南は熊本県から、北は山形県まで。桜前線ならぬ桃前線の北上を追うようにBenoitに届く桃は、どれもが素晴らしい逸品でした。悪天候のため品質ままならず、栽培者の「Benoitへ送る品質ではない」との判断から、出荷断念と涙を呑むこともありました。

 それぞれの桃栽培者の方は、「美味しい桃を育て上げる」という志は同じでも、そこに辿り着く道のりが違うため、桃畑の姿が違います。旅行をするようにお楽しみいただけると幸いです。

 

 和歌山県紀の川市桃山町。自分が初めて桃の産地直送に踏み切ったのが、豊田屋さんとの出会いでした。半農半医という栽培を担う豊田さんには、多くを学ばせていただきました。無謀とも思える「無農薬栽培」に果敢に取り組む姿には感銘を覚えます。彼よりいただいたメッセージが心に響く…

kitahira.hatenablog.com

 

 桃探しも南へ南へと向かい、辿りつた先が熊本県の西川農園でした。お父様の代までは主力産物はメロンでした。しかし、現園長である西川さんが引き継ぐと同時に一念発起し、桃栽培が始まります。「園長?」、そうここに西川さんの桃栽培に対する思いが詰まっています。

kitahira.hatenablog.com

 

 岐阜県飛騨高山で果樹園を営む亀山さん。桃名人とうたわれる父からバトンを受け、見事に果樹園を盛りたてています。交錯するご家族それぞれの想い、葛藤があった中で、彼は引き継ぐ決意をします。父の背を見ながら、彼ならではの新たな道を模索する。彼が名人と呼ばれる日も、そう遠くはないでしょう。

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 桜前線と同じように、桃前線も北上してゆきます。Benoitが桃を購入させていただいている北限は山形県にあるタキグチフルーツガーデンです。本来であれば、他の桃農家さんのように滝口さんをご紹介しなければいけないにもかかわらず、簡単なご紹介しか書き上げることができませんでした。自分の怠慢によるもので、決して書くに足らない栽培者というわけではありません。短いですが、滝口さんの「こだわり」をご紹介させていただきます。

kitahira.hatenablog.com

滝口さん、申し訳ありません。この場をおかりし、深く深くお詫び申し上げます。

 

 秋になり、初めて感じる涼しさを「新涼(しんりょう)」や「初涼(しょりょう)」というようです。温度計という便利なものがあるために、数字というものに縛られてしまい、体感できる涼しさを忘れてはいないでしょうか。ヒグラシの声はもちろん、夜な夜な奏でるスズムシやコオロギの音色もまた忘れてはいけません。そして、秋の風は、秋の薫りも運んできます。ここはひとつ、文明の利器を遠慮し、五感を利かせて秋を探してみるのも一興ではないでしょうか。そして、秋の味覚が恋しくなった際には、足の赴くままにBenoitへお越しください。深まり行く秋と歩調を合わせるように、旬の食材がメニューをもって皆様をお迎えいたします。

 

 最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com

2022年夏 Benoitの特選食材≪桃≫ 「熊本県の西川農園さん」のご紹介です。

「どうやって各地の食材を探してくるのですか?いつ現地に行っているのですか?」

 皆様からこうよく質問をいただきます。確かに、ほぼほぼBenoitにいる自分が、地方へ赴くことは不可能であることを、皆様は知っているからこその問いなのでしょう。

 皆様が驚かれるのですが、実はどこも訪れたことはありません。現地に赴き、栽培者の皆様にお話をすること、畑などを直に見ること、その地方の風土を感じることは、大いに重要なことであり、行かなければ分からないことも多々あります。それも、一度や二度ではなく、足繁く通わなければ、その栽培者の「こだわり」を理解できないことは重々承知しているのですが…

 そこで、毎年のように購入を継続することで、栽培者の方々とメールや電話で話をさせていただきながら、貴重な情報を得るようにしています。そして、自由気ままに彼の地の歴史風土を調べることで、その食材の美味しさだけではなく、旅行をしているように皆様にご案内できればと考えています。だから、年を追うごとにご案内が長くなるのか!と納得いただけるのではないでしょうか。

 では、どうやって生産者さんと出会い、Benoitが地方に眠る美味なる食材を手に入れることができているのか。土地勘のない自分が探すことは不可能なため、彼の地に住んでいる方の助けを借りています。さらに、お客様との会話の中で重要な検索ワードを教えていただけることもあります。このあたりの詳細は折を見て書かせていただきます。今回は、というと…

「野村さん、どなたか桃を栽培されている方をご存じないですか?」

 Benoitが柑橘でほぼ1年中お世話になっている熊本県宇城市不知火の野村和矢さんへのこの一言から、同県で桃栽培をされている西川果樹園さんと出会えたのです。柑橘に向き合い、飽くなき探求心から挑戦し続ける野村さん。「類は友を呼ぶ」とはよく言ったもので、彼の知りうる仲間もまた、同じような「志(こころざし)」を持っているのです。

 野村さんからお声をかけていただいたこともあり、西川農園さんから快諾の連絡をいただいたのが、桃の花が咲き始めた3月のこと。自分は心躍る心地で今期の収穫が待ち遠しい限り。西川さんにとっては、年に一回の収穫を待ち望む気持ちは自分以上のこと。と、その前に…少しでも美味しい桃を皆様に届けるべく、摘花(てきか)に摘果(てきか)という、怒涛の日々を迎えます、と笑いながら教えてくれました。桃の樹の成長に合わせ、背中を丸め、腰をかがめ、さらに腕を上げ続けてのハサミ使いの作業は、思いのほか過酷なものなのです。

 熊本市に在住の方々は、「東の阿蘇(あそ)、西の金峰(きんぽう/きんぼう)山」と皆が口をそろえるほどに、東西に聳(そび)える山の美しさに敬意を表しています。

 熊本市西区と身近に聳(そび)える金峰山は、標高665mを誇り、山頂から眺望は抜群。東には熊本市街はもちろん噴煙立ち昇る阿蘇山、西には有明海や雲仙(うんぜん)、南西には天草の島嶼(とうしょ)郡が望めるといいます。その山中には、夏目漱石の「草枕(くさまくら)」に登場する「峠の茶屋」や、宮本武蔵が「五輪の書」をしたためたといわれる「霊巌洞(れいがんどう)」があります。そして、頂(いただき)は金峰山神社が占め、緩急2パターンの登山道を上ってきた人々を迎え入れている。

 この金峰山の北東の麓(ふもと)に、熊本市北区和泉町があります。市内とはいえ、山を背にした海抜70mな地だけに、昼夜の寒暖差が大きい、さらに土壌が肥沃なことから、果樹栽培には最適な地。彼の地で代々引き継がれてきた果樹園が「西川農園」です。今、陣頭指揮を執っているのが四代目となる西川徹さん。今もご健在で徹さんの補佐にまわるご両親まで、主力産物はメロンでした。しかし、18年前に彼が就農すると同時に、桃栽培へと舵を切るのです。なるほど、でもなぜ桃なのか?

 西川さんご自身がご両親と違うものを栽培してみたいと思う中で、何を選ぶのか大いに悩んだことでしょう。そこで思い浮かんだものが、幼い頃から大好きだった桃だったのだといいます。中国が原産なだけに、日本では北は青森県(全国10位)、南は鹿児島県(全国44位)という広範囲で栽培されています。熊本県でも不可能ではない農産物です。まして、和泉町がメロンやスイカの産地であるという環境を鑑みると、適しているのではないかとさえ思ってしまうものです。

 とはいえ、桃栽培に対して不安がなかったわけではありません。1年に1回の収穫しかない果樹栽培に切り替えるということは、相応の決断力とご家族の理解なくして成しえなかったはずです。ほぼ知識ゼロで始めたという桃栽培に、西川さんは何度も何度も挑戦と失敗を繰り返すも、倦(う)まず弛(たゆ)まず日々研鑽に励み続ける日々。「近年は納得のいく桃を育て上げることができるようになってきました!」と、西川さんは控えめです。しかし、Benoitに届く彼の桃を口にすると、「自信をもってBenoitへ送ります!」と桃が彼の想いを代弁してくれている。

 姿や手触り、香りや味わいといった「五感」を通して皆様に桃をお楽しみいただきたい。この思いから、西川さんは枝を横へ横へと広がる平棚栽培を取り入れています。数年先の樹形をどのようにすべきかを考えながら剪定してゆき、今年はこう結実させようという理想形を想い描きながら摘花に摘果、さらには収穫前には摘葉と、桃の花が笑いはじめたときから収穫までの約90日間つねに桃のお世話をしなくてはなりません。そして、樹上完熟というギリギリまで収穫を待つことで、桃本来の美味しさを内包させます。

 平棚栽培では、樹高は高くはならいため、高所作業は少ないという安全性はあります。しかし、樹形を横に広げることは、枝1本1本にかかる負担が大きくなるため、枝が折れる、樹の幹が割けるというリスクがつきものです。野菜と違い、このリスクは果樹にとって回復までに数年を要するもの…なぜ西川さんはこの栽培方法を取り入れたのか?

 「桃の栽培で大事なのは、温度、水、光、空気、栄養です。特に梅雨時期には晴れの日が少なくなります。少しでも多くの葉が光合成できるよう、枝を横に這わせているのです。湿度の高い時期は水を切り、葉を間引いて光の通りをよくします。桃は、太陽が好き!そう太陽の子なのです!」と西川さんは言う。

 そういえば、西川さんの名刺の肩書には、徹さんは「園長先生」、真代さんは「副園長先生」と記されています。確かに西川農「園」だけに、「代表」ではなく「園長」でも良い気がする。しかし、西川さんは桃への余りある愛情からこの肩書を使っているようなのです。

 「桃の木は一本一本同じように見えて、全部違うんですよ!人間に個性があるように、木にも個性があります。いつも子育てをしているように2年先を考えて枝の管理をしています。木、一本一本に育ち方を教えているような感じです。」と。なるほど、西川さんにとって桃は太陽の申し子であり、人生ならぬ樹生を導いてあげるような思いがあるのでしょう。だから「園長先生/副園長先生」なのでしょう。

 西川さんご夫妻は、「子供たちが主役になれ、笑顔あふれる観光農園をつくる」ことを目指してると教えてくれました。収穫期の違う品種を選び、丹精込めて育て上げる。そして桃狩りを週末だけ実施することで、消費者である皆さんとの接点を持つことで、嬉しいご意見ばかりではなく、ときに厳しい指摘をいただける。これにより、ご自身を叱咤激励しているのではなかと思うのです。

 自分の育て上げた桃を、皆様がどれにしようかと思い悩み、楽しそうに収穫する光景を目にすること。桃の香りに魅せられ味わいに酔う、そして「あんたの桃はおいしか!」と言ってもらえること。さらに、桃畑の中を子供たちが桃に魅せられ歓喜の声を上げながらはしゃぐ姿を、怪我が無いようにと細心の注意をはらいながら、温かい眼差しで眺めること。これらは西川ご夫妻にとってこの上ない喜びであるはずです。そして、これが彼らの探し求めている「桃源郷」なのかもしれません。

「皆様へ

この度は西川農園の桃をお召し上がりいただきありがとうございます。

我が家は熊本の家族経営の小さな農園ですが、これから先の農業、また生きる源である「食」の安定供給のため家族や仲間たちと切磋琢磨しながら頑張っていきたいと思います。

これからもどうぞ宜しくお願いいたします。」 西川徹さんより

 西川徹さんは、農園の園長先生として以外にも、2021年4月14日より一般社団法人AGRI WARRIORS KUMAMOTOの理事に就任。「100年先も続く農業」「農業を子供たちの憧れにするため」「カッコいい農業」これらを実現するための活動を始めています。

 

 遅きに失した感は否めませんが、6月半ばからBenoitへご尽力いただいた桃栽培者の方々を、ご紹介させていただきます。南は熊本県から、北は山形県まで。桜前線ならぬ桃前線の北上を追うようにBenoitに届く桃は、どれもが素晴らしい逸品でした。悪天候のため品質ままならず、栽培者の「Benoitへ送る品質ではない」との判断から、出荷断念と涙を呑むこともありました。

 それぞれの桃栽培者の方は、「美味しい桃を育て上げる」という志は同じでも、そこに辿り着く道のりが違うため、桃畑の姿が違います。旅行をするようにお楽しみいただけると幸いです。

 

 和歌山県紀の川市桃山町。自分が初めて桃の産地直送に踏み切ったのが、豊田屋さんとの出会いでした。半農半医という栽培を担う豊田さんには、多くを学ばせていただきました。無謀とも思える「無農薬栽培」に果敢に取り組む姿には感銘を覚えます。彼よりいただいたメッセージが心に響く…

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 香川県の大西さんは、桃名人の名声を得ながら、「桃が美味しくなるのを手伝っているだけです」とさらり語る。そんなわけはない!彼の桃に対する愛情は並々ならぬものがあり、夜中でも桃畑のお世話のために山に入る。齢80歳、とうとう今期をもって桃栽培は引退するという…

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 岐阜県飛騨高山で果樹園を営む亀山さん。桃名人とうたわれる父からバトンを受け、見事に果樹園を盛りたてています。交錯するご家族それぞれの想い、葛藤があった中で、彼は引き継ぐ決意をします。父の背を見ながら、彼ならではの新たな道を模索する。彼が名人と呼ばれる日も、そう遠くはないでしょう。

kitahira.hatenablog.com

 

 桜前線と同じように、桃前線も北上してゆきます。Benoitが桃を購入させていただいている北限は山形県にあるタキグチフルーツガーデンです。本来であれば、他の桃農家さんのように滝口さんをご紹介しなければいけないにもかかわらず、簡単なご紹介しか書き上げることができませんでした。自分の怠慢によるもので、決して書くに足らない栽培者というわけではありません。短いですが、滝口さんの「こだわり」をご紹介させていただきます。

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滝口さん、申し訳ありません。この場をおかりし、深く深くお詫び申し上げます。

 

 秋になり、初めて感じる涼しさを「新涼(しんりょう)」や「初涼(しょりょう)」というようです。温度計という便利なものがあるために、数字というものに縛られてしまい、体感できる涼しさを忘れてはいないでしょうか。ヒグラシの声はもちろん、夜な夜な奏でるスズムシやコオロギの音色もまた忘れてはいけません。そして、秋の風は、秋の薫りも運んできます。ここはひとつ、文明の利器を遠慮し、五感を利かせて秋を探してみるのも一興ではないでしょうか。そして、秋の味覚が恋しくなった際には、足の赴くままにBenoitへお越しください。深まり行く秋と歩調を合わせるように、旬の食材がメニューをもって皆様をお迎えいたします。

 最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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2022年夏 Benoitの特選食材≪桃≫ 「和歌山県の豊田屋さん」のご紹介です。

 悠久の時の流れを遡り、日本で最初に登場したであろう国家らしき「邪馬台国」。小学校で学ぶ日本の歴史に登場するこの名称を、知らない人はいないのではないでしょうか。いまだ謎のベールに包まれ、いったい日本のどこにあったのかすら、未解決。その有力候補と地として名が挙がるのが、奈良県桜井市周辺。この地で見つかったの「纏向(まきむく)遺跡」です。

 難解な漢字を使う名称だけではなく、不可解な点が多いのがこの遺跡なのです。人々が集まる地だからこそ、文化文明が生まれるもの。しかし、この遺跡には人の住んでいた形跡がなく、まさに古墳群によって形成されたかのような場。そこから出土される貴重な品々は、纏向の地が祭祀の場であったことを物語っています。そして2010年、3世紀に掘られたであろう土坑という穴から、2,000個にも及ぶ桃の種が見つかったと発表がありました。

 このような大量の種が出てくる事例は他にはありません。桃に邪鬼を祓う力が宿っていると信じられ、その樹や実が、古代祭祀の道具や供物として使われていた。かつて、この場で大規模な神事が執り行われた証ではないのか。今は、歴史ロマンに魅せられた人々が、太古の雄大な夢を想い描きながら集う場所になっているようです。

 

 熊野古道高野山世界遺産を2つも有する和歌山県。南北にのびる山々は、清らかな豊かな水を約束しています。風光明媚な上に、これほどまでに食材に恵まれた地が他にあるでしょうか。黒潮の流れが紀伊半島にぶつかることで、太平洋側と瀬戸内海は豊かな漁場へとかわり、カツオやクエ、ハモなどの多種多様の海産物に恵まれています。緑豊かな山々から湧き出(いず)る清らかな水は、美しい川へと姿を変え、そこには鮎が遡上する。その豊富な水資源は、生きとし生けるもの生活圏を育み、多種多様な生態系によって切磋琢磨され、他に類を見ない特産を生み出すことになります。みかんに柿、それに梅。飛び地の北山村の「じゃばら」などはまさに和歌山県のみで産する柑橘。さらに、発酵食品である味噌や醤油もまた、気候風土が育んだ食品です。

 奈良県に隣接する和歌山県。前述した纏向遺跡から南西に向かった先、和歌山県の北側、紀北地域の中に紀の川市桃山町という地があります。町の名前に「桃」が入っている…先の纏向遺跡の話を知ると、よほど昔から桃の栽培をしていた地なのでしょう。そう、和歌山県が誇る食材に「桃」があることを忘れてはいけません。この桃山町内の限定された地で、農薬や栽培方法などの厳しい審査をクリアした桃のみが、「あら川の桃」というブランドを冠することができます。

 彼の地であら川の桃を育てることを生業とし、代々桃畑を引き継いできた桃農家が、「豊田屋」さんです。ブランドの名に甘んじることなく、少しでも高品質のものをという探求心を捨てず、さらに美味しいばかりではなく、体に良いものでなくてはならないという揺るがない信念のもと、辿り着いたのが「無農薬栽培」。しかし、白桃が、日本の気候の中で無農薬を簡単に受け入れることはなく、試行錯誤の日々。この弛まぬ努力の結果、ご本人はまだ納得いっていないようですが「ほぼ無農薬栽培」が実現しています。

 多大なる恩恵をもたらす「自然」ですが、時として試練を与えてきます。ここ数年、地球温暖化の影響なのでしょうか、台風の進路が本州を横切るようになっていく中で、昨年2018年9月4日台風21号は、25年ぶりともなる「非常に強い」勢力を保ったまま日本に上陸し、近畿地方を中心に甚大なる被害をもたらしました。和歌山県北部も例外ではなく、その猛威は「野分け(のわけ)」の如くに、紀の川市桃山町の桃の樹をへし折りなぎ倒していきました。

 「桃栗3年、柿8年~」といわれるように、野菜と違い果樹は結実までに時を要し、実を成す前も後も、相応の手間暇を要求してきます。まして、無農薬を目指しているならばなおのこと。この台風が一日にして奪い去ったのです。「乗り越えられない壁はない」と簡単にいえるものではありませんでした。見るも無残な惨状と化した桃畑を目の当たりにし、豊田屋さんの栽培の陣頭指揮を執っている豊田孝行さんは、「桃栽培を諦めようかな」とfacebookで吐露しています。そこまで、彼は追いつめられていたのです。

 しかし、現存している樹の手当を施し、新たな植樹を含め、再出発を図ったのです。今思えば、豊田さんが「諦めよう」と気持ちを告白した時、彼の中では桃栽培を継続することを決めていた気がいたします。不可能といわれている白桃の無農薬栽培に挑み続け、幾度となく投げ返されたことでしょう。自然の理を探ることを諦めない「心の強さ」が、桃農家を代々引き継いできたプライドが、「諦める」ことを許しませんでした。

 和歌山県の豊田屋さんとの出会いは6年前でした。彼らの桃を試食した時、自分を含めたパティシエールの驚きがどれほどのものであったことか。その感動は今でも鮮明に覚えています。自分が食材へのめり込むきっかけを与えてくれた時でもありました。どうしてこれほどまでに美味しいのか?豊田さんに話をうかがうことで浮かび上がるのは、先祖代々引き継がれてきた栽培ノウハウを踏襲しつつも、飽くなき探求心ゆえにさらなる品質の高みを目指し日々努力を惜しまない姿でした。

 この画像は、豊田孝行さんの「白鳳」の収穫風景。白桃は実が繊細なため、手で収穫した際に握ってしまうと、数日後に指の跡が茶色く色づくといいます。そこで、この炎天下の中、厚手の手袋をして握らないように優しく、極めて優しく。豊田屋さんから送り出すまでは細心の注意を配りながら、少しでも美味しく熟した状態で皆様の下へと届けるために…

 毎日のように自ら畑に赴き、移りかわる四季の機微を肌で感じ、桃と向き合う。実は豊田さんは現役の医師でもあり、半農半医の激務をこなす強者でもあります。「ご職業は?」という質問には「桃農家です」とさらりと答えるあたりは、患者さんには申し訳ないのですが、桃栽培に重きが置かれている気がいたします。そして、医師だからこそ人々の健康に対する想いが強く、「農薬や化学肥料を使わずに美しく美味しい桃を作る」という、人生をかけた目標を掲げたのです。

 

 桃栽培において、無農薬栽培がどれほどリスクを負わなければならないか、どれほど手間暇をかけなければ成し得ないことか。ただ、真摯に桃と向き合い、労を惜しまず、粛々と桃の樹の手入れをしている後姿は、必ず無農薬栽培を成し遂げるという自信を雄弁に物語っているようです。彼のもとには、無謀とも思える試みに共感を覚えた、苦労を厭わない人々が集う、最強の桃栽培チームが存在します。特に、「農家が自立しないでどうする」という兄の思いから、営業を中心に兄を補佐する弟さんご夫妻は、最高のパートナーなのだと、常日頃より感じています。

 豊田屋さんの桃畑です。樹と樹との間隔をとることは、植物には欠かすことのできない陽射しを、樹全体で余すことなく受けることが可能となるばかりか、風通しが良くなるため、病気の予防にもなるのです。さらに、樹形を上へ上へと伸ばす「切り上げ剪定」を行っています。

 従来の桃農家さんは、作業の効率と安全を考慮し、枝が下へ下へと向かうよう剪定していきます。ところが、豊田さんは、徒長枝(とちょうし)と呼ばれる新梢を残すように選定します。徒長枝は街路樹などでも厳しく剪定した場合に、行き場のなくなった栄養が爆発するかのようにびよーんと間延びした枝のこと。ブドウ栽培の場合、徒長枝はその年に実を成さないため、発梢を抑えるように剪定します。この枝を意図的に生ませ、次の年に生かす。老いた枝を残す従来の方法よりも、若くありあまったパワーの徒長枝を残した方が、樹にとっては自然の形だと豊田さんは言います。

 しかし、無農薬栽培のためには、収穫までに多岐にわたる作業が樹一本に対して行われることになり、途方もない労を要します。そのため、「切り上げ選定」は、脚立の上り下りの果てしない作業ばかりか、危険も伴うことになります。さらに、普段は問題がなくとも、暴風雨が枝や幹を容赦なく打ちつけることで、折れる裂けるという危険が増大することになるのです。実際に2014年8月に、和歌山県に上陸した台風では、収穫間近の川中島白桃に壊滅的なダメージを与えることになりました。実った実が落ちるばかりか、実の重さの分、上へ伸びている枝を支えきれず折れやすく、そこから幹が裂ける事態に陥りました。それでもなお、豊田屋さんがこの仕立てにこだわる理由は、兄の壮大なる目標を達成するためです。

 さらに、桃の樹の周りは草ぼうぼう。つまり、除草剤不使用は一目瞭然。この一年中生い茂る草の中にこそ、生きとし生けるものにとっての自然界のサイクルが存在しているのです。土作りなくしてこの自然環境はありえず、この類稀なる環境こそが、個々が持っている病虫害への抵抗力を引き出すことになるのです。そのため、農薬使用量が激減します。

 書くと簡単ですが、下草にさえどれほど気を使いながら手入れをしていることか。この環境は、毎年いろいろな野生動物、アライグマ、イタチやキジなどの巣作りの場ともなっているようです。最近ではこれらの動物たちに猫が仲間入りしているようです。母猫が出産前から子猫の巣立ちまで草陰に居を構えたのです。猫好きな豊田さん一家が、なにもイジメているわけではないのですが、子猫を守る母猫にとっては人の気配は一大事。桃のお世話に何度となく近寄る度に「怒られました~」とのこと。近隣の畑や山里から多くの可愛いお客様が毎年やってくることも、豊田屋さんにとってはホッとする楽しいイベントだといいます。

 2018年の和歌山県紀の川市は、「モモ穿孔(せんこう)細菌病」が蔓延しました。この細菌病は桃栽培者にとって悩みの種、というのも風雨によって感染していくのです。枝に感染し越冬したものは春に枝を枯らし、春の小さな青果に感染したものは、熟していく果実の果皮を穿(うが)つ。果汁が豊かなだけに、表皮の裂け目から果汁をたらし別の病原菌を誘引します。この厄介な細菌病に、豊田屋さんの白桃は農薬の力借りずに果敢に対抗しているのです。そう、こだわり抜いた土作りがあったればこそ、強靭な桃の樹となる。さらに、豊田屋チームが、丹精込めて手間暇惜しまず桃に向き合ってきたからこそ、桃の樹が健全な生育で応えているのです。

 春には桃源郷の様相を呈する豊田屋さんの桃畑、生い茂る腰の高さまで伸びた草に囲まれた環境は、まさに生き物の楽園です。その地で育まれた桃が美味しくないわけがありません。豊田さんからメールが届きました。カブトムシやクワガタが美味しそうに桃の実にしがみつき、その果汁を楽しんでいますと。すぐに引きはがして!というのが自分の感想ですが、豊田さんは共存・共生を信条にしているからこそ、「虫たちへの分け前ですよ」と言っています。未だ達していない「桃の無農薬栽培」に、もしかしたら彼らが導いてくれるのかもしれません。

 終わることの無い病害や避けることのできない暴風雨に、何度となく心折れることがあったことでしょう。しかし、彼は諦めることなく目標に向かい続ける、なぜでしょうか?目の前に、先祖代々引き継がれてきた桃の樹があるから。そして、その先に桃によって口福なひとときを楽しむ皆様の姿があるからなのではないでしょうか。

 豊田屋さんの桃栽培を担当している豊田孝行さんは、半農半医をこなしていることは前述いたしました。桃栽培をしている中で、農薬によって体調を崩したことで、大いに考えさせられたのだといいます。そして、無謀とも思える「桃の無農薬栽培」へと果敢に挑むことにしたと。その豊田さんから皆様へのメッセージをいただきました。

「日本でのコロナウイルス感染の流行はいまだ収束の兆しが見えず、いつまでこの状態が続くのか?不安を抱えながら生活されている方も多いと思います。生活に対する不安、ウイルス感染への恐怖でストレスフルな毎日ではありますが、今回の騒動の中でじっくりと考えていただきたいことがあります。

それは “” についてです。

私は医師をしながら、農業をしています。まだ完全ではありませんが、肥料、農薬を使わない自然栽培に取り組んでおります。それは、自分が以前に体調を崩した経験、医療現場における病気の方の増加、耐性菌・耐性ウイルスの増加、環境破壊の進行などを考え、できるだけ環境負荷を減らし、農家への負担を減らし、身体にやさしい果樹・野菜を育てたいという思いからきております。

人の身体を作っているのは食物です

どんなに良い薬ができたとしても、食物が悪ければ免疫は維持できず、ウイルスや細菌に負けてしまいます。また、栄養状態が悪いと精神的なストレスにも弱くなり、気分が沈んだり、眠れなくなってしまったり、落ち着かなくなったり、というような症状が出てきます。最近は、診察をしていて、栄養状態の悪い方が増加していると強く感じます。

食事はバランスよく摂っておられますか?

炭水化物・糖質過多ではないでしょうか?

ファストフード・インスタント食品が多くなっていませんか?

毎日の食品添加物の摂取量はご存知でしょうか?

調味料はどんなものを使っておられるでしょうか?

日々の生活に追われ、忙しい中での食生活はどうだったでしょうか?

今回、こんな時だからこそ、ぜひ今までの食生活、さらに、生活習慣を振り返る時間を持っていただければ幸いに思います。

まずは、健康でいることでなければ、思考も偏ってしまいますので。

食料自給率少子高齢化医療制度改革年金問題…あげればきりがないほど、私達は沢山の問題を抱えています。凹んでいても状況は何も変わりませんので、この機会に皆で考えていきましょう。

一人一人の総意でこの社会はできています。目指す方向が同じなら、手を繋いで皆で乗り越えていきましょう。その先に必ずより良い未来がやってくると信じています。

農業の話ではなくなってしまいましたが…(笑)。今年の夏もBenoitさんでピーチ・メルバをいただけることを楽しみにしております。」  豊田孝行さんより

 

 遅きに失した感は否めませんが、6月半ばからBenoitへご尽力いただいた桃栽培者の方々を、ご紹介させていただきます。南は熊本県から、北は山形県まで。桜前線ならぬ桃前線の北上を追うようにBenoitに届く桃は、どれもが素晴らしい逸品でした。悪天候のため品質ままならず、栽培者の「Benoitへ送る品質ではない」との判断から、出荷断念と涙を呑むこともありました。

 それぞれの桃栽培者の方は、「美味しい桃を育て上げる」という志は同じでも、そこに辿り着く道のりが違うため、桃畑の姿が違います。旅行をするようにお楽しみいただけると幸いです。

 

 桃探しも南へ南へと向かい、辿りつた先が熊本県の西川農園でした。お父様の代までは主力産物はメロンでした。しかし、現園長である西川さんが引き継ぐと同時に一念発起し、桃栽培が始まります。「園長?」、そうここに西川さんの桃栽培に対する思いが詰まっています。

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 香川県の大西さんは、桃名人の名声を得ながら、「桃が美味しくなるのを手伝っているだけです」とさらり語る。そんなわけはない!彼の桃に対する愛情は並々ならぬものがあり、夜中でも桃畑のお世話のために山に入る。齢80歳、とうとう今期をもって桃栽培は引退するという…

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 岐阜県飛騨高山で果樹園を営む亀山さん。桃名人とうたわれる父からバトンを受け、見事に果樹園を盛りたてています。交錯するご家族それぞれの想い、葛藤があった中で、彼は引き継ぐ決意をします。父の背を見ながら、彼ならではの新たな道を模索する。彼が名人と呼ばれる日も、そう遠くはないでしょう。

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 桜前線と同じように、桃前線も北上してゆきます。Benoitが桃を購入させていただいている北限は山形県にあるタキグチフルーツガーデンです。本来であれば、他の桃農家さんのように滝口さんをご紹介しなければいけないにもかかわらず、簡単なご紹介しか書き上げることができませんでした。自分の怠慢によるもので、決して書くに足らない栽培者というわけではありません。短いですが、滝口さんの「こだわり」をご紹介させていただきます。

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滝口さん、申し訳ありません。この場をおかりし、深く深くお詫び申し上げます。

 

 秋になり、初めて感じる涼しさを「新涼(しんりょう)」や「初涼(しょりょう)」というようです。温度計という便利なものがあるために、数字というものに縛られてしまい、体感できる涼しさを忘れてはいないでしょうか。ヒグラシの声はもちろん、夜な夜な奏でるスズムシやコオロギの音色もまた忘れてはいけません。そして、秋の風は、秋の薫りも運んできます。ここはひとつ、文明の利器を遠慮し、五感を利かせて秋を探してみるのも一興ではないでしょうか。そして、秋の味覚が恋しくなった際には、足の赴くままにBenoitへお越しください。深まり行く秋と歩調を合わせるように、旬の食材がメニューをもって皆様をお迎えいたします。

 最後まで読んでいいただき、誠にありがとうございます。

 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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