kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

いざ行(ゆ)かん。恵那市明智町へ!

 木曽三川とは、岐阜県の誇る主流の3つの川です。中心都市である岐阜市の南側が木曽川、遠く西側を揖斐(いび)川、市内を横断するように長良川。この豊かな水資源無くして、豊穣を約束されたかのような濃尾平野はありえません。川の話から「恵那川上屋さんの栗」、そして「栃久保棚田の笠置ゆず」と話を書いてみました。木曽三川については、まだまだ書き足りないのですが、ここで川の話は終了です。

 さて、冒頭でも幾度となく登場している「岐阜」という漢字。岐阜県にお住まいの方には本当に申し訳ないのですが、この漢字を読むことはできても、いざ書いてみるとなると考え込んでしまうものです。よくよく考えると、これは難読漢字に分類されるのではないかと思うのです。「岐」は、ひと漢字で「ぎ」と読めるのか。まして、「阜」はあまりにも馴染みが無いもの。岐阜県知名度が高いので、読めるには読めるのだけれども…

 

 岐阜市内に金華山あります。標高は329mなのですが、市街とは300mの高低差があるため、まるで聳え立っているかのよう。その頂(いただき)に鎮座するのが岐阜城で、かつては稲葉山城と呼んでいました。この城が歴史に登場するのは、斎藤道三が1539年に居城としたところからでしょう。後に織田信長が入城し、「岐阜城」と改名したといいます。

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 この改名に一役買ったのが、愛知県名古屋にある「政秀寺」を開山した沢彦(たくげん)和尚でした。彼の進言で、信長が城下の「井ノ口」を改名することを決意したといいます。和尚は「岐山」「岐陽」「岐阜」の3つを提案し、信長自身が選んだのが、「岐阜」だったといいます。

 岐山(きざん)とは、中国の陝西(せんせい)省岐山県にある山の名前。古代中国の殷(いん)を亡ぼし、天下を統一した周の都のあった地で、縁起がいいから候補に挙がったのだといいます。天下布武を目指す信長にはうってつけではないかとも思います。しかし、「岐阜」を選びました。

 語源辞典「漢辞海」で調べてみました。「岐」は、岐路という単語もあるように「道が分かれたさま。」という意味がある他に、「よく理解して優れたさま。賢い。」とある。「阜」は「ふ」以外に読みはなく、「小山」であるという。さらに、「肥えてたくましいさま」「豊富である。数が多い。」「旺盛なさま。」「情が厚い」といった意味を持ち合わせています。「阜」が土からできている小山であれば、「山」は岩石でできている大山、「陵」が土でできている大山なのだと。

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 信長が岐阜城に入城した時、眼下の広大な濃尾平野雄大に流れる長良川を望んだ感想であり、彼自身が天下布武を成しとげるという強い意志が加味され、「岐阜」を選んだのではないでしょうか。なにわともあれ、常用漢字表では「阜」の字は、「岐阜」以外に使わないとあります。それほどの難読県名でした。

 

 さて、皆様にご紹介したいのは、今回のご案内で幾度となく名が挙がる「恵那市」です。岐阜県の南東、南北に伸びたおうに位置しています。この市は、恵那市岩村町、山岡町、明智町、串原村、上矢作町市町村合併で誕生しました。もともとの恵那市が、現在の市の北部に位置していることもあり、何度か話題に出ている風光明媚な「恵那峡」はもちろん、今回の特選食材「恵那川上屋さんの栗」と「栃久保棚田の笠置ゆず」もまた、ともに市北部にあります。

 この旧恵那市は、東京の日本橋から歩みを進め、「中津川宿」の次、数えて46番目の宿場町である「大井宿」のあった地です。JR恵那駅にほどなく近い場所に、格式高い門構え大井宿本陣跡が遺されています。さらに、続く道並みには格子戸のある庄屋宅や、「うだつ」と黒壁の美しい旧家が軒を連ねており、当時がいかに賑わっていたかを感じ取ることができるでしょう。

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 今回は恵那市を縦断するように走る「明知鉄道」に乗り込み、南へと向かおうと思います。この路線は、岐阜県のローカル鉄道の一つで、JR恵那駅に隣接する明知鉄道恵那駅から終点の明智駅まで、所要時間は約1時間ほどです。食堂車が連結されており、、車窓の景色を楽しみながら季節のお料理を堪能できるのです。

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 明知鉄道に乗り込み、恵那駅から6番目に我々を迎えてくれる「岩村駅」。ここは、岩村城を頂に据えた城下町が美しく保存されている地です。往年を偲ばせる商家や旧家、なまこ壁などの古い町並みが美しく、その全長は約1.3kmにも及びます。その見事なまでの景観から、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。NHK朝の連続テレビ小説半分、青い。」のロケ地となったのでご存知の方も多いのではないでしょうか。

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 この町のシンボルともいえる岩村城は、城址として石垣などが遺されているのみです。日本城郭協会により「日本100名城」に選定されている上に、大和の高取城(奈良県)備中の松山城(岡山県)と並ぶ日本三大山城の一つに数えられているのです。城郭はないものの、標高717mの築城は、江戸諸藩の府城の中でも最も高所だといい、高低差180mの地形を利用することで天嶮の堅硬な要塞と化していたというのです。周囲に立ち込める霧をも城の防御に活かしていたといい、「霧ケ城」という別名をもっています。

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 岩村城を名城たらしめている要因は、この堅牢な山城というよりも、日本史上稀に見る長き歴史をもっていることにあります。1185年源頼朝重臣「加藤景廉(かげかど)」がこの地に地頭として着任した時に築城されたのが始まりです。その後、鎌倉・室町・戦国時代と過ぎてゆき、江戸時代が瓦解し、明治時代に廃城令が施行されるまでの、ゆうに700年もの間、連綿と核時代の城主に受け継がれてきたのです。

 

 岩村駅より再び明知鉄道に乗り込み、さらに3駅過ぎると、そこは「明智駅」です。恵那市大井を起点とし、東美濃の山間をぬうように南下する全長25.1kmの列車旅の終着駅でもあります。

 蚕糸(さんし)産業が興ったことが、この町の姿を大きく変えました。時は明治時代半ば、時の勢いをそのまま建物へ移すかのように、洋館が建ち並びます。それも、古き良き建物は残しながら。和洋が織りなす街の景観は、まさにその時代を反映しているのでしょう。

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 元号は昭和となる、日本は高度経済成長期に入ります。その渦中にあり、明智の人々は、大正時代の情緒を色濃く残す街並みを保存する、という英断を下し「日本大正村」と命名しました。これにより、1906年(明治39年)に建築された大正村役場は当時のままに、多くの文化人が通った天久(てんきゅう)カフェは天久資料館として復元され、訪れた我々に往時を偲ばせてくれます。

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 明知鉄道の終着駅は「明智」です。なぜ、この地を訪れたのか、もうお察しいただいたのではないでしょうか。間もなく最終話を迎えるNHK大河ドラマ麒麟がくる」の主人公、明智光秀の生誕地であると言われているのです。鉄道名は「明知」で、地名は「明智」と、なにやら誤植のようですが、間違いではありません。言うなれば、今は「明智」と統一したほうが良いのかとも思うのです。

 日本史上では、下克上を体現するかのように「本能寺の変」で主君を裏切り、短いながらも天下をとった奸臣(かんしん)のように描かれています。この天下を騒がす大事件の追求を恐れたために、この地の「明智」姓を冠する豪族は、「明知」としたのだといいます。足利幕府からの書状の中には、「遠山庄明智村」や「明智遠山景保」といったように、「明智」と書き記されています。ところが、江戸時代になると「明知遠山氏」というように、「明知」となっているのです。そして、昭和の市町村合併恵那市に編集されるに際し、「明知町」は「明智町」と名を変えた、いや「戻した」のです。

 この恵那市明智町には、標高570mの山に明知城址があります。別名は「白鷹(しろたか)城」。織田軍と武田軍による激しい攻防が繰り返され、激戦が繰り返された城主が代わる代わる関ヶ原まで続き、1615年の「一国一城令」によって廃城となり今に至るのです。

 この城の北側に、明智遠山家の菩提寺「龍護寺(りょうごじ)」があり、その境内には明智光秀の供養塔があります。「悲痛な思い」でことごとく割れると言われている通り、彼の供養碑は斜めに大きくひび割れているという。城の南には、光秀が若かりし頃に京都嵯峨天龍寺の雲水・勝恵という学僧を招き、ここで学問に精進したという天神神社。さらに進むと、悲運の最後を遂げた実母「於牧(おまき)の方」の墓所があります。南西に進むと、落合砦と呼ばれている土岐明智城址があり、ここには光秀の産湯(うぶゆ)として使われたされる井戸が現存しています。

 これほどまでに、明智光秀と縁ある地が多いからこそでしょう。NHK大河ドラマ麒麟がくる」の放映期間に合わせ、お城の西側にある「大正ロマン館」で「麒麟がくる ぎふ恵那 大河ドラマ館」を開催しています。本来であれば、すでに終了しているのですが、大河ドラマの延期に伴い、2021年2月14日まで開催中です。

 行きたいけれど、なかなか赴けないのが現状ではないでしょうか。そこで、Benoitにお運びいただきました際に、このイベント開催の限定記念バックをプレゼントさせていただきます。中には、岐阜県観光案内や明智光秀に関する旅のご案内などが入っております。凛々しく描かれている中央は明智光秀、左は織田信長と、これは表裏をなす紙バック。右手がシックに仕上げた布製のバックです。ぜひご希望を自分へ直接お伝えください。

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「歴史は勝者が作る。」

 事の真相は多くの識者が、この光秀の行動を分析検証するも、いまだ謎のままです。タイムマシンでもない限り、過去に遡(さかのぼ)り歴史を変えることはできません。しかし、人間には類稀なる「想像力」という力が備わっています。そこで…

「歴史を自由に検証する。」

 ということを、大いに楽しもうではありませんか。例えば、明智光秀という人物は、謎多き人物ですが、伝承やゆかりの地が今も遺(のこ)されています。火のない所に煙は立たぬというように、何かしらの理由があって伝承されているのです。今はなかなか旅路に着くことはできませんが、その前に予習をしておくのも一興ではないでしょうか。

 

 毎年のように、秋冬にかけてBenoitのメニューに堂々と名を連ねるデザート「モンブラン」。なんと美しく心に響く音色でしょうか。西ヨーロッパアルプス最高峰のMont-Blancが、このデザートの名前の由来といいます。これほどに壮大なネーミングなだけに、Benoitではシェフパティシエールの田中が毎年苦悩しながら組み立ててゆきます。今期のBenoitのモンブランはいかようなものか、ご紹介させていただきます。

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 西ヨーロッパの中央に、7か国にまたがる壮大な峰々がアルプス山脈です。交通の難所でありながら、この山脈に端を発しいる大河川は、ヨーロッパの人々に貴重な水資源を提供しています。そして、その山の端の中で、際立つように聳(そび)えているのが、名にし負うモンブラン」です。

 この山脈を源流とし、フランスを悠々と流れるのが「ローヌ河」。食の都「リヨン」の脇を流れるように南下してゆき、地中海に注ぎます。この河の中流域、ちょうどフランスの中央高地の南東部に、Ardèche(アルデシュ)県があります。Auvergne-Rhône-Alpes(オーベルニュ-ローヌ-アルプ)地域圏に属しており、その名の如く、アルプス山脈の麓(ふもと)に位置しています。この「アルデシュ」と聞いて、ピンときた方はかなりの栗好きの方ではないでしょうか。フランス国内でも栗の産地として有名で、ワインと同じように原産地を名乗ることのできる政府保証付きの銘産地なのです。

 そういえば、日本にも日本アルプスと呼ばれる峰々が本州中央に鎮座しています。これは、北アルプス飛騨山脈中央アルプス木曽山脈、そして南アルプス赤石山脈という3つの山塊で構成され、それぞれを源流とする河川が大地を潤しています。特に、前者2つは豊穣な濃尾平野を形成しているのです。さらに、中央アルプスを源流とする木曽川が、濃尾平野に流れ込む手前、ここは日本でも有数の栗の銘産地です。

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 フランスのパリにある老舗Benoitの「Mont Blanc」が、フランス栗を使うのであれば、同じ名を冠するBenoit東京の「モンブラン」は和栗をつかいます。フランスでは、モンブランにアクセントとなる酸味を加えるべくカシスやレモンを加えます。これが洋栗とのマリアージュを成すのだといいます。では、Benoit東京では何を加えるのか…これもまた、今回の特選食材です。

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 最後まで読んでいただき、誠にありがとうございます。

 今年の辛丑が始まりました。その「辛」の字の如く優しい年ではないかもしれません。しかし、時は我々に新地(さらち)を用意してくれている気がいたします。思い思いの種を植えることで、そう遠くない日に、希望の芽が姿をみせることになるでしょう。

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 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご多幸とご健康を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com