kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

Benoit特選情報「十一月尽」のご案内です。

神無月 ふりみふらずみ 定めなき 時雨ぞ冬の はじめなりけり  よみ人しらず 「後撰集」より

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 「時雨」とは、初冬にかけてパラパラと降ったり止んだりする通り雨のこと。分かったようで分からない、これが正直な意見だと思います。それもそのはず、厳密に時雨とは、都内はもちろん、日本海側全般や太平洋側の海に近い場所では滅多に見ることのできない自然現象なのです。北風が海の湿気を含み、日本列島を縦断している山脈にぶつかり、日本海側に雨をもたらす。乾いた空気はそのまま山を越え太平洋側へ。この山越えの際に、振り落とした雨粒の名残をはらはらと振り撒くのが、時雨なのだという。

 この自然現象を体感できる有名な地は、「北山時雨」の名がつくほどの、京都府です。空が晴れていても、パラパラと風に運ばれてくる雨は、きらきらと美しく輝き、陽射しに温められた顔に、ある種の心地良さを感じることでしょう。しかし、古人にとっては、これから迎える厳しい冬に一抹の不安を覚える時期です。この憂いが、人生の無常観と重なり、何とも言えぬ物寂しさを、時雨に感じるようになったのでしょう。

 樹々の葉には、クロロフィルという緑色とカロチノイドという黄色の色素が介在しています。「黄葉(こうよう)」とは、陽射しが弱まることで、この両者が葉の中で分解されてゆくのですが、クロロフィルが先に消えてしまうために、カロチノイドが姿を現すのです、これが「黄葉」。「紅葉(こうよう)」は、この過程の中で、アントシアニン(赤色)が形成される品種があり、この色が姿を見せること。なるほど、黄葉・紅葉(以下は紅葉と表記)のメカニズムがよく理解できました。が、風情がありません。

 もちろん、この紅葉のメカニズムを古人は知りません。毎年毎年と秋を彩る紅葉をどのように考えていたのでしょうか?そのヒントが「染めの技」にありました。下の画像は、岐阜県郡上市の冬の風物詩「郡上本染の鯉のぼり寒ざらし」です。鯉のぼりの下書きの後に、色付けない箇所には天然の餅糊で「糊置」を行い、そして大豆の搾り汁に顔料を溶いたもので着色を行います。染め上げた鯉のぼりを、一晩清流にさらすことで糊を落とします。真冬で凍える寒さの中での清流が、どれほど冷たいことか。なぜ寒い中にさらすのか?より色鮮やかに仕上がるのだといいます。水がきれいであることが必須条件であることは言うには及びません。だからこそ、郡上八幡の「長良川」の支流である「吉田川」と、さらにその支流である「小駄良川」であり、寒さが一番厳しくなる「大寒」の日が選ばれているのです。この「郡上本染の鯉のぼり寒ざらし」は、岐阜県重要無形文化財に認定されています。

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 郡上本染とは、江戸時代から綿々と400年以上も引き継がれてきた「正藍染(しょうあいぞめ)」を踏襲し、今も天然の藍を使用し、化学素材や化学染料を一切使いません。紺屋(こうや)と呼ばれる、プロ集団の藍染は、着れば着るほどに紺色から青色へと変化してゆくのだといい、この色合こそ「ジャパン・ブルー」と海外で絶賛されているのです。染め工程は、デザインを書き、糊置と続きます。そして、「ジャパン・ブルー」の素となる天然藍の染め液に浸し、清流で濯(すす)ぎます。この染液に浸し濯ぐ行程は、「少しずつ染み込む」という意味から「入」が使われ、1行程を「一入(ひとしお)」といいます。希望の色合いにするために、この「入」は、多い時には十数回にも及び、一入一入で、色合いが深く濃くなるのです。

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 古人はここに着想したようです。紅葉による樹々の彩(いろどり)は、「雨なのだ」と。京都在住であればあれば、寒くなるからこそ姿を現す「時雨」にこそ、紅葉する理由を見出したのです。藍染が、一入一入色合いが濃くなるように、一雨一雨が、樹々を紅葉へと導くと。「八百万(やおよろず)の神々」、「八重桜」や「八方美人」のように、多い数のことを抽象的に「八」と書き記す。晩秋から初冬にかけて、幾度となく樹々を濯ぐ雨のことを「八入(やしお)の雨」という。なんという、風情のある表現なのでしょうか。

「冬は時雨から始まる」

 

 立冬を迎え、暦の上では冬が始まりました。雨が降る度に、気温が下がっていくように感じる季節です。去りゆく「秋」に迎える「冬」、実りの秋でもあるからこそ、多種多様な収穫を得ることができ、これが美味なる料理へと姿をかえてゆく。冬眠を控えるために、動物のDNAには食欲をもたらすことが刻み込まれている。「肥ゆる秋」?いやいや、「口福なる秋」です。11月のお勧めダイジェスト版のご案内です。

「冬はBenoitから始まる」

 

特別プラン!「探訪!日本のテロワール~悠々自適プラン~」のご案内です

 日頃より並々ならぬご愛顧を賜っている上に、さらにはこの長文レポートに目を通していただけている皆様の労に報いなければなりません。そこで、「十一月尽」と銘打って特別プランをご案内させていただきます。期間は、メールを受け取っていただいた日より、1211日までの平日限定。ご予約は、このメールへの返信にてお願いいたします。土日や急ぎの場合には、以下のBenoitメールアドレスより、もちろん電話でもご予約は快く承ります。

 

ランチ

前菜x2+メインディッシュ+デザート

4,800円→4,300円(税サ別)

ディナー

前菜x2+メインディッシュ+デザート

7,100円→6,100円(税サ別)

 日本の食材の素晴らしさを知っていただきたく、「探訪!日本のテロワール」と銘打ってご案内させていただきます。以下は11月に終わりを迎える逸材と、お勧め料理をご紹介させていただきます。12月については、追ってご案内させていただこうと思います。日本の各地方が育んだ食材を通し、まるで彼の地を旅しているかのようにお楽しみいただけると幸いです。

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宮城県志津川港より「南三陸産マサバ」が届いています。

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 世界其処彼処に点在する漁場の中でも、やはり魚種が豊富な地域がある。その中でも群を抜いている、ノルウェー沖、カナダ・ニューファンドランド島沖のグランドバング、そして三陸金華山沖(きんかさんおき)が「世界三大漁場」と称されています。この金華山沖は、イワシ・サンマ・カツオ・マグロなあどの回遊魚の好漁場。この海域で育まれた今回の特選食材が

志津川漁港より南三陸のマサバ」

いったいどれほどの特選食材なのか?どのような料理に仕上がるのか?「はてなブログ」に詳細を記載しております。お時間のある時に以下のURLよりご訪問いただけると幸いです。

kitahira.hatenablog.com

  この特選食材を「エスカベッシュ」という料理に仕上げます。スパッとした響きの心地よい名前の料理は、日本でいう南蛮漬けに似ています。ニンジン、タマネギ、セロリといった香味野菜と共に甘酸っぱいスープに漬け込むように仕上げます。しかし、脂がのりにのったマサバを焼いてしまうなどもったいない話であり、旨味を打ち消してしまうような甘酸っぱさなど言語道断。

 そこで、旬の食材を使って、冬らしい逸品に仕上げようと。サバとの相性が抜群の香味野菜の風味はソースとして生かしつつ、少しばかりにヴィネガーに心地良い柑橘の甘さとほろ苦さをアクセントに加える。そう、前述した熊本県のみかん「豊福」が、ここに登場します。厚めにカットしたマサバの切身に、このソースを絡めるように。青魚特有の臭みなどどこ吹く風、香味野菜以上に、ミカンの風味がマサバの美味しさを一層引き立てるのです。日本の南北を代表する旬の食材が、Benoitで一堂に会し、冬ならではの味覚を我々に教えてくれる。これほどまでに、生の「南三陸のマサバ」が美味しいものかと、驚きを隠せない逸品に仕上がるのです。

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MAQUEREAU en escabèche

三陸産マサバのエスカベッシュ

  鮮度抜群の南三陸の旬のマサバ、生でいただけるこの美味しさは、一食の価値あり。ディナーのプリ・フィックスメニューで、前菜の選択肢に入っています。ランチでご希望の方は、ご予約の際にお伝えいただけると幸いです。

 ここまでご案内をしておきながら、昨今の温暖化の影響なのか、海の中が荒れています。すでにサンマの不漁はご存知のことと思いますが、マサバも例外ではございません。水揚げのある際に南三陸町山内鮮魚店さんより直送をお願いいたしますが、お約束できない状況です。豊洲市場の力を借りて、日本全国津々浦々より「マサバ」を購入し、皆様にマサバの美味しさをお楽しみいただこうと考えております。

 南三陸のマサバの美味しさを、どうしても皆様にお楽しみいただきたい!南三陸の漁獲量が回復するかどうかは、海の神々に祈るしかありません。皆様のご期待にお応えできない日があるかと思いますが、なにゆえ自然のこと、ご容赦のほどなにとぞよろしくお願いいたします。

 

飛騨高山の伝統野菜「宿儺かぼちゃ」が届いています。

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 岐阜県の飛騨高山に伝承される鬼神「宿儺(すくな)」の名を冠する伝統野菜がBenoitに届いています。大きなサイズになればなるほど栽培が難しくなると言われるなかで、この見事なサイズにまで育て上げられた逸品は、高山市で「かぼちゃ名人」と称される若林さんの手によるもの。シェフ曰く、「かぼちゃ個々にムラが無い」と。

 薄い表皮を削ると、見事なほどの黄色がかったオレンジ色が姿を見せます。和かぼちゃの多くは、味わいが素朴であるのに対し、この宿儺かぼちゃはそれとは一線を画します。コクのある甘さを持ちながら、後引く旨さに和かぼちゃらしい優しさがあります。ここに、タマネギの甘さとバターのコクを加え、黄金色のとろりとしたスープに仕上げます。

Velouté de POTIRON et fromage frais

岐阜県伝統野菜“宿儺かぼちゃ"のスープ リコッタチーズ

 洋かぼちゃにはない和かぼちゃの美味しさに舌鼓を打つこと間違いありません。ランチのプリ・フィックスメニューで、前菜の選択肢に入っています。11月末にて終わりを迎えます。

 

≪フランス産「栗のスープ」が11月末で終了を迎えます。≫

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 この時期になると、必ず問い合わせがくるのが、「栗のスープ」です。ビロードのようなという意味の「ヴルーテ」という名前にてメニューに名を連ねます。滑らかでフランスの栗らしい甘さとコクがある。洋栗だけではちろん甘くなる。そこで、味わいを引き締めるために加えるのは、栗の渋皮です。赤ワインのタンニンと同じ「渋味」を加えることで、前菜として立ち位置を獲得したのです。なぜ、毎年秋にBenoitのメニューに登場するのか?あまりにも美味しいからです。お問い合わせをいただく理由をご理解いただけるのではないでしょうか。

Velouté de CHÂTAIGNE, garniture mijotée

フランス産栗のスープ

 ディナーのプリ・フィックスメニューで、前菜の選択肢に入っています。

 

岐阜県奥美濃古地鶏」の前菜も11月末にて終わりを迎えます。

 昔も昔の物語。天照大神を岩戸の中に身を隠し、世は闇の中へ。これは一大事と多くの神々が天照大神を岩戸から引き出すために、試行錯誤した様子が古事記に書き記されています。その時に、肌もあらわに踊った天宇受賣命(あまのうずめりみこと)は、芸能の神様として飛騨市河合町の鈿女(うずめ)神社に祀られています。その鳥居の下には「金の鶏」が埋められた。この鶏は天照大神を自ら「天の岩戸」を開けさせるため、気を引くために鳴かせたという「常世の長鳴鳥」だと。そして、この鶏こそ「岐阜地鶏(天然記念物)」の祖先であるという。岐阜県養鶏試験場が、この「岐阜地鶏」をもとに、「神代の味」の再現しようと研究を重ね、並々ならぬ努力の末に生み出したのが、「奥美濃古地鶏(おくみのこじどり)」です。

雄大大自然のなかで、のびのびと育てあげられる奥美濃古地鶏。すべての生産者の鶏が、この名を名乗れるわけではありません。岐阜県では奥美濃古地鶏普及推進協議会を発足し、厳しい基準を順守する生産者のみに与えられるもので、定期的に調査を行うことで品質の維持に努めています。この徹底した管理のもとで育てられた鶏肉は、ほんのり赤みを帯びた歯ごたえのある肉質を生み出し、深みのある旨味に満ち満ちています。

今回は、奥美濃古地鶏の美味しさを十二分にお楽しみいただきたく、シェフのセバスチャンは型の中で重ねていくように仕上げる「プレッセ」という前菜に仕上げました。コクがあり心地良い食感のモモ肉の小ブロックと旨味溢れる胸肉のミンチ、さらにはフランスから届いたフォアグラとトリュフを少々加えたものを、ミンチにしない胸肉で挟み込むように肩に詰めてゆきます。上から軽く押すようにゆっくりと低温で熱加え、冷ますことで完成です。いうなれば、奥美濃古地鶏の奥美濃古地鶏ばさみ。部位の違いは食感や美味しさの違いを生み出し、口に運ぶ場所場所によって、旨さの表情を変えてゆきます。鶏肉の持つ、美味しさを損なうことなくしっとりと仕上げたこの逸品は、「神代の味」を十二分にお楽しみいただけるはずです。時代を超えた神々の世界へ皆様を誘(いざな)うでしょう。

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Pressée de VOLAILLE de Gifu et foie gras de canard, vinaigrette truffée

奥美濃古地鶏"とフォアグラのプレッセ トリュフのビネグレット

 プリ・フィックスメニューの前菜の選択肢の中で、ランチは+1,500円、ディナーでは+1,200円にてお選びいただけます。この前菜もまた、11月末にて終わりを迎えます。

 

千葉県勝山漁港の「キンメダイ」が届いています。

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 千葉県房総半島の先端から、少し内房に入ったところに位置している「勝山(かつやま)漁港」。東京湾への入り口に位置しているため、内房外房の豊かな漁場から、網で巻き上げられた魚、釣り上げられた魚と、多くの種類が水揚げされる漁港です。しかし、過日の台風の惨禍は、例外なくこの漁港にももたらされました。漁船はひっくり返る、電気は止まる。早朝から続く暴風雨になすすべもなく、ただ過ぎ去るのを待つことしかできない漁港の人々の苦悩は想像を絶するものでしょう。その惨禍を目の当たりにしたときは…。しかし、勝山の人々の漁師魂は屈強なもので、彼らに諦めるという選択肢はありません。1週間もかからずに、漁船の出港を可能とし、後は通電を待つのみ。そして、この界隈でいち早く復興を成し遂げたのです。

 養殖業は、壊滅的なダメージを負うも、天然の漁場は豊かなまま。その中から、Benoitが選んだ魚は「キンメダイ」です。夜中に千葉沖で釣り上げられた勝山漁港のキンメダイは、脂ののりがほどほどに、海流にもまれているからなのでしょう、プリっとする食感と旨味は抜群です。さらに、漁港よりBenoitへ直送するため、水揚げ無しというリスクはあるものの、それ以上に「鮮度抜群」という大きな大きなメリットがあるのです。Benoitへ届けられたキンメダイ大きな目の、吸い込まれそうなほどの透明感が全てを物語っています。

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 「キンメダイ」という逸材のお供をするのは、秋の味覚の代表ともいえる「キノコ」です。冬本番を迎えるにまえに、ぜひとも味わっておかねばなりません。今は、ピエ・ブルー(シメジの仲間)、プルーロット(ヒラタケの仲間)、ジロール(アンズ茸の仲間)とトランペット・ドゥ・ラ・モー(「死のトランペット」という名前ですが毒キノコではありません)とシャンピニョン・ドゥ・パリ(マッシュルーム)の5種類が、フランスから飛行機に乗り、載せられBenoitへ届けられています。

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 ワインを語る際に、よく「テロワール」という言葉が出てきます。これは、土地をとりまく自然環境であり気候風土のこと。地方地方で違うのはもちろん、細かく言うと畑の場所場所で違ってくるといいます。斜面や平面、土壌や土壌微生物などもひっくるめて、間違いなく同じ環境などありえません。ブドウの品質に差異が生じるのは、このテロワールに大きな要因があるのだといいます。

 何もこの考えはブドウ栽培だけのことではありません。例えば、お米の「コシヒカリ」という品種は、日本全国津々浦々で栽培されていますが、地方ごとに味わいに違いがあります。米どころ新潟県に限定しても、各地区だけではなく、同地区でも田ごとに違いがあり、格付けがなされています。日本でもテロワールという概念は古来より存在していました。土があり、四季折々の風が吹く、テロワールとは「風土」ということなのではないでしょうか。そして「風土」が育んだ味わいが「風味」となるのです。

 千葉県沖の風土が育んだ、いや「土」ではない。「風海」なのか「風水」なのかが、育んだ「キンメダイ」は、皮目から焼き上げ、休ませることで旨味を逃がさないように仕上げます。そして、それぞれの種類が個性豊かな名立たるキノコは、丁寧に下ごしらえがなされ、鍋の中で一堂に会します。ちゃっちゃと熱を加えることで放たれる芳しい香りと美味しさは、5種それぞれの個性がお互いがお互いを引き立て合うかのよう。そして盛り付けます。

 キノコの絨毯の上に鎮座するキンメダイ。キンメダイのプリっとする食感は、一口ごとに旨味が溢れ出る。それをキノコの豊かな味わいが後押しているかのよう。通常であれば、白ワインを使うでしょう。しかし、赤ワインです。この「海の幸と森の幸」がどれほどの出会いには、赤ワインを使ったソースこそあい相応(ふさわ)しい。

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SÉBASTE du Port de Katsuyama en matelote

千葉県勝山漁港より キンメダイのオーブン焼き マトロートソース

 プリ・フィックスメニューのディナーのみ、魚料理の選択肢として追加料金なくお選びいただけます。ランチでご希望の際は、ご予約の際にお伝えいただけると幸いです。

 

香川県小豆島の「島鱧」が美味なり。

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 香川県小豆島(しょうどしま)。穏やかで温暖な瀬戸内海に浮かぶ県下最大の島です。オリーブ栽培で有名な地ですが、島だけに海産物も豊富。一見穏やかに見える瀬戸内海ですが、小豆島近海は海流が早い。そして、ここはエビ類カニ類が多く生息する海域でもある。ということは、この小豆島近海のハモは、筋肉質で実が締まり、美味しいエビ・カニをたらふく食すことで、ハモ自らが旨味をもつことになるのです。そのハモがBenoitに届いています。

島鱧(しまはも)とは、どのようなものか?「はてなブログ」に詳細を記載しております。お時間のある時に以下のURLよりご訪問いただけると幸いです。

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美味しい島鱧を、Benoitのシェフはどうするか?もちろん、フランスではお目にかからないハモは、シェフのセバスチャンにとって初めてのこと。焼いたり煮たりと試行錯誤の末、ふっと脳裏に浮かぶフランス伝統の逸品、「リヨンのクネル」だ!フランスでは淡水に棲むカワカマスを使用します。我々には馴染みのないこの魚は、小骨が多く、取り除こうとは微塵にも考えたくないもの。そこで、フランス人は考えたのです、「骨ごとミンチにしよう」と。そして、リヨンが内陸の地ゆえにエビはいない。では、代わりにザリガニで濃厚なソースに仕上げ、カワカマスと合わせようとなるわけです。この発想と同じく、小骨の多いハモは、ミンチにし、団子に姿を変えます。しかし、味わいは雲泥の差ほどにハモが勝る。そこで、海には海のエビでソースを仕上げようと。誕生!「島鱧のクネルBenoit風」です。

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QUENELLES à la lyonnaise, bisque légère

香川県小豆島産 “島鱧"のクネル リヨン風

 プリ・フィックスメニューのメインディッシュの選択肢の中で、ランチは+1,000円、ディナーでは+800円にてお選びいただけます。

 

郡上明宝牧場“クラシックポーク”で仕上げるバラ肉のコンフィと自家製ソーセージがランチに。

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 岐阜市から清流長良川を上流へと上がった先に、山間(やまあい)から突如姿を現す古京都を思わせるような街並み、これぞ奥美濃の小京都と称される「郡上八幡(ぐじょうはちまん)」です。県のほぼ中央、飛騨高地の南側に位置し、山々より湧きいずる美しきせせらぎが落ち合い長良川へ。郡上市のほぼ全域が長良川流域ということもあり、この豊富な水資源は、水路として街並みに引き込まれ、「水の町」としての名声は今でも健在です。

 この郡上市の片隅に、明宝牧場の広大な地が広がっています。澄んだ清らかな水と空気という、この類稀なる自然環境中で、さらにモーツアルトを聴きながら、ストレスなく健やかに育った「クラシックポーク」が特選食材です。最初にBenoitに届いたバラ肉が、あまりの美味しさに、シェフを始めスタッフ一同が絶賛。脂と肉のバランスが良く、特に脂の美味しさは「甘く澄んだ美しさ」です。そのまま食してもかなりの美味なるものを、フランスのシャルキュトリーの「技」にて、姿を変えさせていただきます。

この「郡上クラシックポーク」どれほどの特選食材であるか、詳細を「はてなブログ」記載しております。お時間のある時に以下のURLよりご訪問いただけると幸いです。

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 今回は、肩肉とバラ肉を使い、バラ肉は塩ふって一晩置いた後に塩抜きして焼き上げる。この塩でマリネする一手間が、バラ肉の美味しさを引き出すのです。さらに、肩肉を6割以上加えてバラ肉とともに仕上げるBenoit自家製の生ソーセージ。食品添加物を全く使用しない、クラシックポークそのものの旨味を、フランス伝統のシャルキュトリーの手法で引き出したバラ肉のコンフィとソーセージが、美味しくないわけがありません。

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Poitrine rôtie et saucisse de COCHON aux lentilles vertes du Puy

岐阜県郡上の“クラシックポーク" バラ肉のコンフィとソーセージ レンズ豆の煮込み

 プリ・フィックスメニューのランチのみ、肉料理の選択肢としてお選びいただけます。ディナーでのご希望は、ご予約の際にお伝えいただけると幸いです。

 

Benoitに和牛ブランド「飛騨牛」のランプステーキ、11月末までです。

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 「清流の岐阜」の自然が育んだ逸品。誰しもが知る日本が誇る「和牛ブランド」です。岐阜県の全ての和牛が名乗れるわけではなく、黒毛和種であることはもちろん、飛騨牛銘柄推進協議会の厳しい審査をのりこえた牛肉のみに与えられる称号なのです。その肉質はきめ細かくやわらかで、とろけるような旨味に、舌鼓をうっていただけることでしょう。

 今回は、ランイチという腰の部位を選ばせていただきます。適度に入るサシが肉の旨味を引きたたせる、赤身の多い部位で、ステーキとして楽しむには最適。フランス料理の技法として、特徴的なのが「休ませる」という発想ではないでしょうか。素材を焼き上げた後に、肉でも魚でも必ず「休息の時」を設けます。鉄板焼きの場合には、焼き立てほやほやが提供されますが、Benoitでは、表面を鉄板で焼き色を付けた後に、温かい肉の休息場所へと移されます。肉の中の温まった肉汁は、まさに旨味そのものであり、この休息部屋で過ごす時間は、この旨味をゆっくりと肉に馴染ませるのに必要なひとときなのです。これにより、肉にナイフを入れた時、肉汁があふれでるということが無くなります。カットした一口サイズの肉の塊の中に、美味しさが内包されていることを意味するのです。肉の状態を見極め、切ることなく中の状況を把握せねばならない、まさに職人技。食材の美味しさを、生かすも殺すも調理次第です。飛騨牛の美味しさに感嘆の唸りを上げると同時に、肉の扱いに秀でたフランス料理の真髄を感じ取っていただけるはずです。

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プリ・フィックスメニューのメインディッシュの選択肢の中で、ランチは+2,500円、ディナーでは+2,000円にてお選びいただけます。

 

岐阜県老舗の和菓子処から“和栗”がBenoitへ、2019年版モン・ブランに姿を変えます。

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 毎年姿を変えるBenoitの栗デザート「モン・ブラン」。2019年はどうなるのか?和栗の収穫を待ち続けてしまったがために、全ての食材がBenoitに集結したのは9月30日、まさに直前だったのです。その2019年版Benoitモン・ブランは、いったいどのように仕上がるのか?今回はBenoitパティシエール田中真理と、アジアを統括するパティシエであるジュリアンのニュアンスが加味されました。ジュリアンはアルザス出身、彼の地は栗デザートです。モン・ブラン発祥の伝統の地でもあるのです。彼の中でイメージしてきたのは、アルザスの伝統的なスタイル「Torche de Marron(トルシュ・ドゥ・マロン)」でした。トルシュとはトーチのことで、トーチの先に輝かんばかりに揺らめいている炎の模した姿のデザートということです。

 昨年に引き続き、岐阜県恵那市の「恵那川上屋」さんより、和栗を炊きほぐしていただいた栗のペーストを送っていただきます。55年間もの間、栗に向き合ってきた彼らの慧眼は本物です。昔から、「東山道」「中山道」の宿場町として、栗を旅人に振舞ってきた「栗菓子の技」。これを綿々と引き継ぎ今なお輝きを放つ栗菓子の逸品。フランスの洋栗と和栗が、Benoitで出会います。恵那川上屋さんのお話は、「はてなブログ」に詳細を記載しております。お時間のある時に以下のURLよりご訪問いただけると幸いです。

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 「栗きんとんそのままが美味しいのでは?」と皆様はお思いかもしれません。素材が美味しい上に、匠の技の為せる逸品であり、間違いはありません。しかし、そこのフランスのエッセンスが加味されたとき、和のお菓子とは、一味も二味も違った美味しさを我々に魅せてくれるはずです。2019年のBenoitのモン・ブランは?トルシュの姿だけお披露目いたします。皆様、気になりませんか。

 プリ・フィックスメニューのデザートの選択肢の中で、ランチ・ディナーともに+1,000円にてお選びいただけます。

 

山形県朝日町大谷の遠藤農園さんから、最後のりんご「紅玉」」が届きました。

 自分の日本国内フルーツ探索が、とうとうリンゴにまで及びました。実りの秋・収穫の秋と言われるだけあり、他の食材に手を取られ、3年間もの期間、手付かずにいた食材です。リンゴはいともやたやすく購入できますが、「紅玉」という品種となると、栽培している方は、軒並み減少します。生食にて、しゃくっとした心地良い食感と甘みに満ちた新品種が続々と登場し、昔ながらの硬く酸っぱいりんごである「紅玉」は敬遠されているようです。しかし、ことデザートとしてリンゴを選ぶ場合、生食にて美味なる日本のリンゴでは、加熱した際に甘すぎて酸味がないため適しません。やはり、紅玉を探さねばなりません。

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 今期は山形県朝日町大谷(おおや)の遠藤農園さんから直送していただけることになりました。10月6日に初収穫を迎えたばかりの初物です。この、可愛い小柄な紅玉を、1人2玉半ほど使用して、デザートに仕上げます。皮を剥き、スライスしたものを、ロメルトフというリンゴの形に模した素焼きの器にキレイに盛り込みます。リンゴ以外に加えるものはブラウンシュガーのみ。オーブンで焼くリンゴのそのものの美味しさは、紅玉の心地よい酸味無くして成しえません。今回いただいた遠藤農園さんの逸品を試食した田中は、「見事なバランスで素晴らしい!」と高評価です。

 自分の念願が叶った紅玉の直送。遠藤さんが丹精込めて美味しく実らせた秋の特選食材、とうとう最後の便がBenoitに届きました。ご好評につき、12月7日まで販売期間を延長させていただきます。皆様、この機会をお見逃し無きように。

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POMME au four

山形県朝日町のリンゴ“紅玉”のオーブン焼き

プリ・フィックスメニューのデザートの選択肢の中で、ランチ・ディナーともに+800円にてお選びいただけます。

 

 冬は時雨から始まる。冬の様相を見せ始めたようです。皆様、無理は禁物、十分な休息と睡眠をお心がけください。インフルエンザ予防接種もお忘れなきように。いつもながらの長文、最後までお読みいただき誠にありがとうございます。

末筆ではございますは、ご健康とご多幸をお祈りいたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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Benoit特選食材「南三陸志津川漁港より≪マサバ≫」のご案内です。

 地球の表面積のゆうに7割を占めるのが海。この海の恩恵によって人類は、その漁場による特色を生かした食文化が成り立っています。日本人には馴染みの「アジの開き」は、新潟県で育った自分などには全く持って馴染みのないもの。どこにでもありそうなのですが、大陸とはいえない島国の日本と言えど、やはり太平洋側と日本海側では、大いなる違いがあるのです。世界其処彼処に点在する漁場の中でも、やはり魚種が豊富な地域がある。その中でも群を抜いている、ノルウェー沖、カナダ・ニューファンドランド島沖のグランドバング、そして三陸金華山沖(きんかさんおき)が「世界三大漁場」と称されています。

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 この金華山沖とは、ちょうど宮城県の中間に位置する場所。石巻(いしのまき)から東へ進むと、太平洋へと突き出た牡鹿(おしか)半島に辿り着き、その半島の先端から西へ目をやると、ほんの700m先に緑深き大きな島、まるで海から聳える小高い山の様相。島全体が黄金山神社の神域であり、神職の方しか住んではいないようです。この沖合では、船乗りさんは「金華山沖〇〇m」と、自船の位置を表現するのだそうです。

 さあ、この沖合はいったい何がどうなっているのか?簡単に言うと、寒流暖流が真正面からぶつかり合う海域なのです。南からは暖流である「黒潮」、北からは千島海流(寒流)こと「親潮」が、金華山沖でぶつかり合い、押し合いへし合い東へと進路を変える海の難所。低海水温・低塩分であり、生育に欠かせない栄養塩類と溶存酸素量が多いことから、プランクトンに富んでいる。そのため、これを餌とする魚類にとっては、あまりある好環境は魚たちにとっての親のような潮。これが、親潮と呼ばれる所以のようです。イワシ・サンマ・カツオ・マグロなあどの回遊魚の好漁場なのです。そして、忘れてはいけない今回の特選食材は

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志津川漁港より南三陸のマサバ」

 この類稀(たぐいまれ)なる好漁場で育った一番有名なマサバは、「金華サバ」ではないでしょうか。これは、南三陸金華山沖で水揚げされ、石巻漁港で水揚げ、その中で基準を満たす大きさのもののみ名乗れます。「幻の金華サバ」などと言われますが、金華山沖が隔離されているわけでもなく、海はつながっております。そう、南三陸町志津川港で水揚げされたマサバも、負けず劣らず見事なマサバなのです。それもそのはず、漁場はお隣で、ほぼ同じです。一般的に岩手県沖を「北三陸」、宮城県沖を「南三陸」と呼んでいます。志津川漁港のある南三陸町は、まさにその中間地点に位置しています。

 

 自分が南三陸町に知り合いがいたわけではありません。日頃より並々ならぬご愛顧を賜っているお客様の一言が、この出会いを導いてくれたのです。「私の姪っ子が、インターンシップでお世話になった鮮魚店が南三陸にあるのですが」と。「ご迷惑でなければご紹介したいのですが…。」ご紹介いただいたのは、南三陸町に本店を置く「山内鮮魚店」さんです。

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 親潮黒潮のぶつかり合う狭間は、素人では予知できぬ潮の流れを生み出します。さらに、リアス式海岸という独特の地形が織り成す複雑怪奇な海流の動向とくる。「天気晴朗なれども波高し」と。この海流の流れに右往左往するのは素人の船乗りなのだろう。玄人は波を読む。海際まで山々がせり出すリアス式海岸は、その山々が育んだ山の養分に満ち満ちたものが流れ出ていることになる。この環境下の中で育て上げた海産物が美味しくないわけがない。その山々の養分に満ちた海水と親潮が出会う。この海域に生きとし生けるものは、エサに恵まれ、海流の早さによって鍛えられることで、他地域には見られない筋肉質は個体へと成長してゆくよかのよう。

 山内鮮魚店さんが皆様にお届けしたいものは、この恵まれてはいるものの、環境厳しいかなかで育まれた「確かな品質」である美味しさではない。漁師さんが命懸けで、飼育や捕獲した海産物を、皆様が口にした時の「感動」なのだといいます。数々ある逸材の中で、Benoitが白羽の矢が立てたのが「マサバ」でした。旬は9月から年明けの1月頃といいます。この時期は、豊富なエサのおかげで脂肪が身にしっかりとのるだけではなく、我々にとっての栄養価が満ち満ちているのだとか。さらに、海水温が低くなることで、身が引き締まり美味しさが格段に良くなるといいます。

 

 仕入れ担当の山内さんが、朝早くに港に赴き、鮮度抜群のマサバを競り落とし、すぐさま鮮魚店へ。エラとハラワタを取り除き、すぐさま梱包され、Benoitへと旅立ちます。見事なサイズに加え、パンパンな胴回り。捌いているキッチンスタッフは、「脂の乗りも素晴らしいですよ」と話しています。これほどの鮮度の良いものが手に入るのであれば、とシェフが考えたのが、生食でした!生食?

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 毎年話題になるのは、サバなどを生食することで起こる食中毒です。原因は「アニサキス」によるもの。もちろん、そんな危険なものをBenoitで皆様に供することはできません。では焼くのか?生とかいているが?ということなのです。この食中毒の対処方法は、60℃以上で1分以上加熱すること。と、もう一つ、-20℃で24時間以上凍らすこと。そう、Benoitでは後者の方法をとります。24時間以上凍らせた後に、旨味を逃がさぬようゆっくり解凍、営業直前に表面をバーナーで焙り香ばしさを加えた後に、すぐに冷やすことで中は生のまま。激しい海流にもまれにもまれ、さらに美味しいエサをたらふく食べた、南三陸のマサバの旨さ。これを損なうことの無いよう手間暇を惜しみません。

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ここにもうひとつの特選食材が登場です。熊本県オリジナル品種の極早生温州ミカン「豊福」です。豊後(ぶんご)という旧地名があるだけに、「ぶんぷく」と読み、日本昔話の「ぶんぷくちゃがま」に関係するのか?と面白いネタの得たと思いきや、よくよく考えると、豊後は大分県熊本県のキャラクターは「くまモン」、「分福茶釜」と書きました。このみかんの品種は「豊福(とよふく)」と読みます。今回の熊本県天草の栽培者は、ミカンが完熟に向かう前に、マルチと呼ばれるフィルムを樹の根元に張り巡らすようにし、摂水制限を行います。これにより、濃密なる甘みを内包するミカンに仕上がるのだといいます。確かにシェフも美味しい絶賛。では、このミカンがいったいどうなるのか?

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 「エスカベッシュ」という料理。スパッとした響きの心地よい名前の料理は、日本でいう南蛮漬けに似ています。ニンジン、タマネギ、セロリといった香味野菜と共に甘酸っぱいスープに漬け込むように仕上げます。しかし、脂がのりにのったマサバを焼いてしまうなどもったいない話であり、旨味を打ち消してしまうような甘酸っぱさなど言語道断。

 そこで、旬の食材を使って、冬らしい逸品に仕上げようと。サバとの相性が抜群の香味野菜の風味はソースとして生かしつつ、少しばかりにヴィネガーに心地良い柑橘の甘さとほろ苦さをアクセントに加える。そう、前述した熊本県のみかん「豊福」が、ここに登場します。厚めにカットしたマサバの切身に、このソースを絡めるように。青魚特有の臭みなどどこ吹く風、香味野菜以上に、ミカンの風味がマサバの美味しさを一層引き立てるのです。日本の南北を代表する旬の食材が、Benoitで一堂に会し、冬ならではの味覚を我々に教えてくれる。これほどまでに、生の「南三陸のマサバ」が美味しいものかと、驚きを隠せない逸品に仕上がるのです。

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MAQUEREAU en escabèche

三陸産マサバのエスカベッシュ

 

 鮮度抜群の南三陸の旬のマサバ、生でいただけるこの美味しさは、一食の価値あり。ディナーのプリ・フィックスメニューで、前菜の選択肢に入っています。ランチでご希望の方は、ご予約の際にお伝えいただけると幸いです。

 ここまでご案内をしておきながら、昨今の温暖化の影響なのか、海の中が荒れています。すでにサンマの不漁はご存知のことと思いますが、マサバも例外ではございません。水揚げのある際に南三陸町山内鮮魚店さんより直送をお願いいたしますが、お約束できない状況です。豊洲市場の力を借りて、日本全国津々浦々より「マサバ」を購入し、皆様にマサバの美味しさをお楽しみいただこうと考えております。

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 南三陸のマサバの美味しさを、どうしても皆様にお楽しみいただきたい!南三陸の漁獲量が回復するかどうかは、海の神々に祈るしかありません。皆様のご期待にお応えできない日があるかと思いますが、なにゆえ自然のこと、ご容赦のほどなにとぞよろしくお願いいたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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Benoit特選食材「香川県小豆島の≪島鱧≫」のご案内です。

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 香川県小豆島(しょうどしま)。穏やかで温暖な瀬戸内海に浮かぶ県下最大の島です。オリーブ栽培で有名な地ですが、島だけに海産物も豊富。一見穏やかに見える瀬戸内海ですが、小豆島近海は海流が早い。そして、ここはエビ類カニ類が多く生息する海域でもある。ということは、この小豆島近海のハモは、筋肉質で実が締まり、美味しいエビ・カニをたらふく食すことで、ハモ自らが旨味をもつことになるのです。そこで、島の北西に位置している四海(しかい)漁港では、乱獲を防ぎつつ、厳しい基準を設けることでハモの品質保持し、他に類を見ない美味なるハモとして、「島鱧(しまはも)」の確固たる地位を得ることになるのです。

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 「わたしたち四海漁協は香川県の小豆島にある小さな港町にあります。小豆島は、地中海に似た気候で年間を通じて穏やかです。また、醤油やオリーブが有名であり、瀬戸内国際芸術祭などもあわさり観光客で賑わいを見せています。」と語ってくれたのは、四海漁業協同組合の田中さんです。

 「多くの漁獲物のなかでも、最も多く獲れるものがエビ類とハモです。エビは『サルエビ』といい、関東地方でよく見るシバエビにも似たエビです。味は、甘味が強く地元では、ボイルしたものや殻ごと素揚げしたものがポピュラーです。小豆島の飲食店でもこのサルエビを食べることができます。」これまた美味なる食材、いつの日かBenoitに登場するかもしれません。

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 「もともと香川県(特に小豆島)でのハモは、需要が少なく取扱量が非常に少ない魚種でした。凶暴な魚のため素手で触れない、他の魚を食べるため生態系を崩す、など漁師さんにとっては害魚(弊害のある魚)として認識だったのです。昨今の漁村では、後継者不足に加え、漁獲物の減少や魚価の低迷など多くの問題を抱えており、わたしたちの四海漁協も例外ではありません。10年後には漁業者の数も70%以上減少する見込みがでています。」

 高齢化によるものと後継者がいないことで、大いに思い悩む漁師さん仲間。何か打開策がないものかと、模索の日々が続く。誰が発したのか、「ハモでいいんでちゃう?」と。京都や大阪では風物詩になるほどハモが有名であり、なくてはならない食材です。まして、需要も豊富でハモの値段も良い。そこで、四海漁港では厄介者として扱われていたハモをブランド化し、販路拡大し漁村の活性化を目指そう。とはいえ、皆皆の中で不安という得体のしれないものが鳴門の渦潮のごとく渦巻いていたはずです。長年四海漁港を守ってきた大先輩の方々は、綿々と引き継がれてきた伝統漁業の歴史の重みと、このままでは立ちゆきいかないと肌身に感じる未来への不安、この狭間に苦悩したことでしょう。ここに一筋の光明を射しこんだのが、四海漁業協同組合青年部の皆さんでした。

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 漁港仲間で一致団結し、「小豆島のハモ」への挑戦が始まったのが5年前のことでした。ハモに傷がつかないような漁法を考案し、漁獲時と出荷時にも選別作業をおこなう。さらに、徹底した水質と温度管理をした専用の水槽で一日畜養する。これによって、獲られた時のストレスを解消するといいます。手間暇をかけることにより、他の産地との差別化を図ることを目指したのです。この試みは、これまで害魚として扱われていた魚が有益な魚として周知されると同時に、地元活性化の原動力となる産業となり、新しい雇用を生み出しました。ここに、小豆島の新しい地魚ブランドが誕生したのです、

「小豆島 島鱧®」

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 さあ、この美味しい島鱧を、Benoitのシェフはどうするか?もちろん、フランスではお目にかからないハモは、シェフのセバスチャンにとって初めてのこと。焼いたり煮たりと試行錯誤の末、ふっと脳裏に浮かぶフランス伝統の逸品、「リヨンのクネル」だ!フランスでは淡水に棲むカワカマスを使用します。我々には馴染みのないこの魚は、小骨が多く、取り除こうとは微塵にも考えたくないもの。そこで、フランス人は考えたのです、「骨ごとミンチにしよう」と。そして、リヨンが内陸の地ゆえにエビはいない。では、代わりにザリガニで濃厚なソースに仕上げ、カワカマスと合わせようとなるわけです。この発想と同じく、小骨の多いハモは、ミンチにし、団子に姿を変えます。しかし、味わいは雲泥の差ほどにハモが勝る。そこで、海には海のエビでソースを仕上げようと。誕生!「島鱧のクネルBenoit風」です。

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QUENELLES à la lyonnaise, bisque légère

香川県小豆島産 “島鱧"のクネル リヨン風

プリ・フィックスメニューのメインディッシュの選択肢の中で、ランチは+1,000円、ディナーでは+800円にてお選びいただけます。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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Benoit特選食材「恵那川上屋さんの和栗」のご案内です。

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 「秋」が「実りと収穫」を意味し、「秋」を指し示すものとして盤石の地位を得ている「月」。芸術として中国よりもたらされた月を愛でるという感覚に、農耕民族の感性が加味され、農の神々へ五穀豊穣を感謝する意味合いも持ってくることになったのでしょう。中秋の名月は「十五夜(じゅうごや)」として、後の名月とうたわれる日本発祥の「十三夜(じゅうさんや)」として定着していきました。収穫への感謝の意を込め、「十五夜」は「芋名月」と呼ばれます。ジャガイモとサツマイモが日本に伝えられるずっと以前のお話です、この芋は「サトイモ」のこと。十五夜に飾る小丸の団子はサトイモに見立て、月を介し神々への感謝を表したもの。ちなみに、ススキは頭を垂れた稲穂といいます。では、続く「十三夜」はというと、「豆名月」といいます。和食には欠かせない「大豆」なのですが、この時期は完熟前の「枝豆」のこと。今は、真夏に渇望するビールのお供にと品種改良されたもので、昔々はこの時期が旬でした。さらに、十三夜にはもうひとつの呼び名があります。

栗名月

 

 ブナ科クリ属の果実は、日本ではすでに縄文時代から食料として重宝されていたようです。これは日本に限ったことではありません。世界には大きく分けて四つの品種があり、その自生している大陸名が品種名になっています。フランスのマロングラッセでも有名なヨーロッパグリ、天津甘栗の中国グリ、今はほとんど栽培されていないアメリカグリ、そして和栗こと日本グリです。和栗は世界に誇る栗の品種です。ヨーロッパの洋栗や天津甘栗で有名な中国栗とは一味違った優しい甘さだからこそ栗の風味を十分に感じ取れ、瑞々(みずみず)しさが特徴。栗おこわのように、お米との相性は抜群なのはもちろん、栗きんとんも忘れてはいけません。栗そのものの美味しさを生かす和の技法は、すでに何百年も前から伝統として確立しているのです。

 栗の産地は日本全国多々あります。それぞれの地が、ブランドの栗を有し、美味なる栗を産することに誇りを持つがゆえに、そのブランドを壊さぬよう細心の注意を払っています。そこに、新参者いや洋参者であるBenoitが入って行けるのか?その思いを抱きながら和栗探しに取り組んだのが6年前のことです。何の結果も見いだせず1年が過ぎるも、今までフルーツを主に食材を探してきた意地もある。そうこうしているうちに探し始めて2年目の栗の収穫が終わりを迎えようとしている、その時にBenoitに一筋の光明が射しこみました。美味しい和栗の入手の失敗をお客様に笑いながら話していたその時、「甥っ子が働いているから聞いてみようか?」と。「運命の出会い」とは、このようなこと言うのかもしれません。

 岐阜県東南部の恵那市中山道の宿場町として旅人で賑わを見せている時代、山栗を使った料理やお菓子が評判となり、「栗菓子の里」として歴史に名を残すことになります。彼の地にて、創業以来、「美味しい栗無くして美味しい栗菓子はなし」という信念のもと、恵那山の麓の広大な地に、栗の木を植栽し続けています。伝統にあぐらをかくことなく、栽培を担う人がより良い栗を育めるよう環境づくりを整え、その栗の美味しさをいかんなく発揮できる栗菓子を追求する、スタッフ皆が自らの担当する分野において日々研鑽に励み続けている老舗。栗きんとんの発祥の地である岐阜県の中津川、恵那峡に居を構える、「恵那川上屋(えなかわかみや)」さんです。

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「地元に栗を呼び戻そう」

 老舗である恵那川上屋さんの軌跡は、順風満帆だったわけではありませんでした。これほどの伝統と、栗の名産地としての名声を得ながら、人々の「農業離れ」には逆らうことができず、生産量が最盛期の10分の1にまで激減した時代がありました。栗無くして栗菓子はできず、まして素材以上の美味しさなどありえません。素材の確保と品質追求という難題が老舗を苦しめていたといいます。思い倦(あぐ)ねるままで、これといって解決の糸口が見つからない中、鎌田真悟さんが老舗の代表に就いた1998年を機に、「老舗の時」が動き始めます。JA東美濃が、特選栗評議会のメンバーの中から優れた栗生産者を認定し「超特選栗部会」という精鋭チームを発足いたしました。これは、栗栽培名人である塚本實(つかもとみのる)先生の「低樹高栽培」を学び、自らも指導者としてこの栽培ノウハウを仲間に教え伝えていくプロ集団です。「地元に栗を呼び戻そう」のメッセージのもと、「栗の名産地」復権をめざし、地元一丸となり労を惜しまない日々。この取り組みが功を奏し、栗の生産量も回復を見ることになりました。

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 恵那峡の栗は、長年培われてきた伝統の上に、途方もない人智が加味されたもの。この英知をまとめ上げ、次世代への引継ぎを担う栗博士、塚本實さんがたどり着いた栽培方法が「低樹高栽培」という、並々ならぬ手間暇と技術を要する手法です。剪定方法だけを見てみても、心配になるほど厳しく低く実施します。これによって、年配の方や子供でも日々の手間暇をかけやすくなり、危険も減ることに。だからこそ、病気にもなりにくく、美味しい栗がたわわに実るのです。と書いてしまうと簡単なことですが、庭木の選定をされている方は、剪定作業がいかに難しいかがお分かりかと思います。厳しすぎると徒長枝というビュンビュン伸びた枝を生み、剪定が緩いとだらだら葉だけが茂ります。ともに実をなさないのです。実をなさいということは、農を生業としている者にとっては死活問題。時には厳しく、時には優しく、まるで子育てのようです。

 順調に思えたこの取り組みも、「高齢化」の潮流に逆らうことができませんでした。プロ集団の「超特選栗部会」の平均年齢は65歳だったのです。一難去ってまた一難、このままでは20年いや30年後には地元の栗が消滅してしまうのではないか。そこで、恵那川上屋代表の鎌田さん自らが学び、栗の知識を身にまとい、一人の栗栽培者として、この恵那栗の魅力を自らが伝えてゆくことで、若手を募っていこうと考えたのです。この想いが、2004年「農業生産法人恵那栗」として実を結びました。毬栗(いがぐり)だったものが口を開き、岐阜県のみならず他県へまでこのノウハウを伝播するにまで成長いたします。ここに至るまでにどれほどのご苦労があったことか、計り知れません。

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 この厳しい管理のもと、実った栗が成熟し自然に落ちるのを待ち、朝一番で収穫したものが、プロの眼下の元で選別され、厳しい選果基準を満たしたものだけが「超特選恵那栗」として、工房へ届けられます。栗を知り尽くした職人の技をもって、栗の実はもちろんですが、渋皮の旨味までも生かすように丁寧に蒸されたのちにほぐされ、ほんの少しの砂糖が加えられ、優しく丁寧に炊き上げられます。それを手絞りで仕上げたものが、恵那川上屋さんの栗きんとんです。栗の品種や収穫時期によって、加減を調整しながらの作業は、栗を熟知している彼らだからこそ可能な職人技です。

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 前述した通り、恵那川上屋さんの栗きんとんは栗と砂糖のブレンドです。ここまでの栗に対しての愛着があればこそ、相棒にもそれ相応のものを求めてしまうもの。栗の確保のめどがたった時、ふと思うことは「美味しい砂糖は確保できるのか」という問題でした。居ても立っても居られなくなった鎌田さんは、砂糖探しの旅に出ることを決め、南へ井波へと向かったのです。沖縄県に足を踏み入れるも、難題多く断念、次に向かった先が鹿児島県「種子島」でした。そして、会うべくして出会ったのが砂糖杜氏の竹之内和香さん。彼の黒糖を口にした時、まさにその瞬間に「10年かけて黒糖製造の技術を教えてください」と鎌田さんが申し出たのだといいます。伝統技能の保有者は、その技を伝承しなければならない宿命にあるのでしょうか。出会って10年後、竹之内さんは区切りを付ける英断を下し、全てを鎌田さんに託したのです。種子島「里の菓工房」として本格的に稼働したのが2006年。伝承の技に甘んじることなく、さらなる品質向上を模索する日々が、ついに褐色美しい無添加の黒糖を作り上げたのです。サトウキビが持ちうる甘さを最大限に引き出す。やはり、素材に勝る美味しさはありません。

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 Benoitには、恵那川上屋さん自慢の「栗きんとん」そのもののと(画像左側)、まったく加糖せずに栗を炊きほぐしただけのもの(画像右側)の2種類を送っていただいております。右側は、栗色が美しく、団粒のようにほろほろと、和栗のホクホクとした優しさと和栗らしい甘さが口中いっぱいに広がります。左側が黒糖が入ったもので、サトウキビからの香ばしいながらほのぼのとする甘さが、栗の風味を引き立てる、まさに栗菓子の完成品です。ひとつひとつでも十分に美味しい食材を、絶妙なる比率でブレンドしたものを、今回のデザートで惜しげもなく使用します。

 

 恵那川上屋さんは、お菓子作りだけではなく、「名産品の栗菓子はすべて地元の栗を使いたい」さらに「ふるさとを栗の里にしたい」と夢を追い求めるがゆえに、農業生産法人「恵那栗」を立ち上げ、地元生産者とともに、良質な栗を求め、卓越した栽培方法を実践しています。この栗博士を筆頭としたノウハウは、恵那川上屋さんだけのものとせず、求められるがままに全国へと広がっています。熊本県の特産となっている「くまくり」は、その成果が実った代表例でしょう。さらに、スペイン栗菓子会社のホセ・ポサーダ社との技術・文化交流が進んでいるようです。とうとう恵那川上屋さんの強い思いが国境を超えたのです。彼らの自信と誇りは、今後もさらなる探求の手を緩めることはないでしょう。

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 丹精込めて育ててくれる栽培家、栗を知り尽くした熟練した技術工房スタッフ、そして栗を愛するお客様。恵那川上屋さんは、栗を愛する皆様を「栗人(くりうど)」と名付けました。栗を通して大きな喜びの和となることを目指しています。その和に、快くBenoitを加えていただけたのです。我々が栗の栽培ができないのはもちろん、栗の選別や下ごしらえなどは、経験に裏打ちされている経験がものをいい、さらに途方もない手間暇がかかるのです。その、貴重な栗のペーストを、Benoitへ送っていただいております。皆様にも、Benoitの栗のデザートを通し、「栗人の和」への仲間入りをいたしませんか?

 

十六夜(いざよい)」には「ためらい」という意味が込められています。目標を達すると、生き甲斐を無くすことへの古人からの忠告かもしれません。栗人のように、最高品質の栗を育て上げる方法を模索し続ける、最高の栗菓子に仕上げる方法を探求し続ける。この弛まぬ努力の過程こそ称賛されるべきものであり、だからこそ素晴らしい結果が導かれるのでしょう。多くの支店を持たないため、恵那川上屋さんには、岐阜県内はもちろん県外から栗菓子を買い求めに出かけるのだといいます。この求める人々の多さこそ、彼らの取り組みが正しいことを物語っている気がいたします。さあ皆様、Benoitを介在し、「栗人」とならんことに、何をためらう必要があるでしょうか。足の赴くままにBenoitへ、皆様との再会を心待ちにしております。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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Benoit特選プラン「11月の旅路」と特選ワインのご案内です。

たづねふる ふもとの里は もみぢ葉に これよりふかき 奥ぞしらるる  藤原俊成

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 万葉の時代は、樹々の葉が色を変えることを「もみつ」(動詞)といい、これが名詞のかたちをとり「もみち」なのだといいます。しかし、この時代に「ひらがな」は誕生しておらず、漢字の音読みを利用した当て字のように書き記されています。これが万葉仮名と呼ばれるもの。「もみつ」は「毛美都」、「もみち」は「毛美知」と。ところが、昔々の日本人の美意識は、これを許さなかったようです。同じ万葉集の中には、「黄葉」と書きながら「もみち」と読ませる歌もあるのです。「もみち」が「もみぢ」となり、「黄葉(もみじ)」に「紅葉(もみじ)」が加わるのは、平安時代まで時を待たなくてはなりません。

 「黄葉(こうよう)」と「紅葉(こうよう)」とは、色付きが違うだけなのかと思っていました。ところが、学術的には全くの別物の葉色の変化だったのです。樹々の葉には、クロロフィルという緑色とカロチノイドという黄色の色素が介在しています。ともに陽射しにあたることで力強さを発揮するため、「夏山蒼翠(そうすい)として滴るが如く (郭煕・臥遊録より)」と言われように、夏は深緑の美しい姿です。秋深くなり、陽射しが弱まることで、この両者が葉の中で分解されてゆくことになる。ところが、クロロフィルが先に消えてしまうために、今までクロロフィルの濃緑に潜んでいたカロチノイドが姿を現すのです。これが「黄葉」です。この最中に、アントシアニンを生み出す樹々があります。赤ワインで聞き覚えのある単語でしょう、赤い色素の成分です。弱弱しくなるクロロフィルとカロチノイドとは対照的に、活発なアントシアニン。これが「紅葉」です。老後の余生を楽しもうかとする「黄葉」と、なにをなにをと一念発起している「紅葉」。

 さて、黄葉と紅葉(以下は紅葉で統一します)は、昼間の溢れんばかりの陽射し、そして昼夜の寒暖差が必要なのだといいます。そのため、紅葉は奥山から前山へ、山々の稜線を辿るように里山へ、山の峰から麓(ふもと)へと下りてきます。藤原俊成は、山の麓で目にしたカエデの美しい姿に目を奪われた、きっと。生い茂った葉波は、蒼翠から黄葉へと衣替えをするも、斑(むら)をなしている。その叢(むら)の中に、一葉の紅葉。「これから分け入ろうとする山の奥深くには、いかほどの紅葉の樹々が色付いていることだろう。多種多様にわたる樹々の群(むら)は、私にどのような姿を見せてくれるのだろうか。」と、期待に胸膨らませる俊成の姿が目に浮かびます。

 少しばかり山の奥へと分け入り過ぎたであろうか。ついつい岐阜県の北部に位置している飛騨市まで来てしまう。ここから、世界遺産白川郷」で有名な白川村へと抜ける「越中西街道(国道360号)」の半ばに、泉鏡花の小説「高野聖」や東山魁夷画伯「山雲」の舞台になっている「天生(あもう)峠」があります。この地に根付く広大なブナの原生林、「天生県立自然公園」として管理され、地元の方はもちろん登山愛好家にも人気を博しているのです。待ちに待った雪解けの6月には、湿原一面に咲き誇るミズバショウが我々を迎えてくれ、10月末の紅葉を見納めとし、天生の森は雪に閉ざされます。半年という短い期間ながら、日々移ろいゆく雄大な自然美を楽しめる上に、紅葉時期は格別です。天生県立自然公園から、登山道へと向かい、目指すは籾糠(もみぬか)山の頂へ。片道3時間の道のりを歩きぬくと、眼前に広がる光景に言葉を失います。なぜ登山愛好家を魅了して止まないのか?理由がわかる気がいたします。

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 多種多様にわたる樹々の群(むら)が、叢(むら)を成すように生い茂る。陽当たりに違いや標高の違いによる温度差から、まるで色のグラデーションのような、斑(むら)の美しさを魅せる。まさに、「秋山明浄にして粧うが如く (郭煕・臥遊録より)」とは、かような姿をいうのでしょう。藤原俊成は、麓の一葉の紅葉から、この雄大な美しさを想い描いたのか。今回は山に分け入り過ぎたのがために、すでに天生県立自然公園の紅葉は終わりを迎え、すでに冬支度が始まっております。皆様、来年は身近な樹々に紅葉の兆しが見て取れた際には、俊成の想いを思い出していただき、平安時代には思いもよらない距離の移動ですが、導かれるように籾糠山を訪れるのも一興かと。※今期はもう分け入ることはできません。

 

 もみぢ葉が、去り行く秋を我々に教えてくれています。この幽愁の想いを少しでも癒してくれるのが、山々の粧(よそお)いであり、秋の味覚なのではないないでしょうか。しかし、どちらも秋同様に去りゆくものであり、待ってはくれません。身近で紅葉を目にした時、足の赴くままに青山の地へと分け入りましょう。「青山の奥ぞしらるる」とは、まさにかようなことなり。Benoitが饗する秋食材の数々が、「十一月尽(じゅいちがつじん)」の感慨深さと相まって、「口福な食時」をお約束いたします。

 そ知らぬ顔で、紅葉が山を下りてきています。それに呼応するかのように、秋食材は急ぎ足で終わりを告げてゆき、「待ってあげよう」などという優しさは持ち合わせておりません。そこで、皆様の「青山の奥ぞしらるる」にお応えすべく、お勧めしたいコースプラン「11月の旅路」と「秘蔵のワイン」、フランス料理では欠かせない「チーズ」をご案内させていただきます。

 

探訪!日本のテロワール 11月の旅路」のご案内です

 Benoitシェフのセバスチャンが、アラン・デュカスの料理哲学「素材を厳選し、その素材の持ちうる香りと味わいを十二分に引き出し、表現すること」を踏襲しながら、日本のテロワールの魅力を「探訪!日本のテロワール」と銘打って、「四季折々の日本の旅路」をご紹介させていただこうと思います。日本の各地方が育んだ食材を通し、まるで彼の地を旅しているかのようにお楽しみいただけると幸いです。

日頃より並々ならぬご愛顧を賜っている上に、さらにはこの長文レポートに目を通していただけている皆様の労に報いなければなりません。そこで、特別価格のご案内です。期間は、メールを受け取っていただいた日より、1130日までの平日限定。ご予約は、このメールへの返信にてお願いいたします。土日や急ぎの場合には、以下のBenoitメールアドレスより、もちろん電話でもご予約は快く承ります。

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 各コースは、これ食せずして11月は終われないという料理内容で組ませていただきました。しかし、苦手な食材などありましたら、何気兼ねなくご予約の際にお伝えください。別の料理を提案させていただきます。では11月は以下のような旅のプランのご紹介です。

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宮城県南三陸町志津川湾

 

ランチ  十一月尽・秋の旅路 ~ 4,500(税サ別)

前菜1: 宮城県志津川漁港から “南三陸マサバ” エスカベッシュ

前菜2: 岐阜県飛騨高山伝統野菜 “宿儺かぼちゃ"のスープ リコッタチーズ

主菜: 岐阜県明宝牧場の“郡上クラシックポーク" バラ肉のコンフィとソーセージ レンズ豆の煮込み

飛騨牛のステーキをご希望の方は、+2,500円にて主菜を変更させていただきます。

デザートは以下の2択よりお選びください。

岐阜県恵那市恵那川上屋”と大垣市“和菓子の槌谷”の和栗と洋栗のモン・ブラン ブノワ風

広島県大崎上島 “瀬戸内レモン” ヘーゼルナッツのスフレとアイスクリーム

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岐阜県飛騨高山の「北アルプス大橋」

 

ディナー  十一月尽・秋の旅路 ~ 7,500(税サ別)

前菜: 宮城県志津川漁港から “南三陸マサバ” エスカベッシュ

主菜1: 香川県小豆島四海漁港より “島鱧(しまはも)" リヨン風クネル

主菜2: 岐阜県明宝牧場の“郡上クラシックポーク" バラ肉のコンフィとソーセージ レンズ豆の煮込み

飛騨牛のステーキをご希望の方は、+2,000円にて主菜を変更させていただきます。

デザートは以下の2択よりお選びください。

岐阜県恵那市恵那川上屋”と大垣市“和菓子の槌谷”の和栗と洋栗のモン・ブラン ブノワ風

広島県大崎上島 “瀬戸内レモン” ヘーゼルナッツのスフレとアイスクリーム

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香川県小豆島「四海漁港」

 

ディナー  ヨーロッパへ寄り道プラン ~ 5,500(税サ別)

前菜: フランス産 のスープ

主菜: 岐阜県奥美濃古地鶏"のフリカッセ イタリア産ポルチーニ フェルミエール風

デザートは以下の2択よりお選びください。

岐阜県恵那市恵那川上屋”と大垣市“和菓子の槌谷”の和栗と洋栗のモン・ブラン ブノワ風

広島県大崎上島 “瀬戸内レモン” ヘーゼルナッツのスフレとアイスクリーム

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岐阜県恵那市の「根の上高原」

 

ディナー  悠々自適な旅プラン ~ 6,100(税サ別)

前菜2種、メインディッシュ、デザートはプリ・フィックスメニューからお選びいただけます。ご予約人数が8名様以上の場合は、ご相談させてください。

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広島県大崎上島「岩﨑農園」より

 

 秋風が育んだ風味豊かな食材が、美味しくないわけがありません。その食材の美味しさを引き出すのが調理人です。しかし、いかに腕のたつ調理人であろうとも、食材以上の美味しさへと導くことはできません。両者が出会い相まった時、そこに美味なる料理が誕生します。そして、皆様を「口福な食事」へと誘(いざな)うのです。今回の旅路として、選ばせていただいた料理の数々が、どれほどの特選食材であるのか、いかような料理となるか。詳細は、「11月ダイジェスト版」として数日内にご案内いたします。

 「郡上クラシックポーク」がどれほどの特選食材かは、以下のを参照いただけると幸いです。

kitahira.hatenablog.com

 

Benoitワインセラーより秘蔵の逸品のご案内です

 Benoitシェフソムリエの永田から、「このような逸品が、ワンセラーの奥底に眠っているのです」と。大切なワイン資料をまとめているファイルの中から、A4サイズのワインテクニカルシートを一枚引き抜き、自分に見せてくれたのです。ぼろぼろの資料を手に取った時、これは雑に扱っていたからではなく、経年劣化であることを教えてくれた。このワインを購入したのは、なんと7年前のことだったのです。

 2009年のブルゴーニュ赤ワインは、「偉大なるヴィンテージ」となりました。世界中のバイヤーの耳目を集める中、造り手の意向によって随時瓶詰めされ、出荷されてゆきます。そして、2012年に永田が待ち望んだワイン入荷の情報が入ってきたのです。しかし、まだ3年ほどしか経っていない偉大なワイン、購入したところで飲み頃であるわけがありません。大いに悩んだ末に、購入したまま「時を待つ」ことにしたのです。永田が自分に手渡した「ぼろぼろの資料」は、7年前のものだったのです。

 とうとう、永田が「蔵出し」を決断しました。しかし、ここまで我慢して温存してきた愛娘のようなワインです。並々ならぬご愛顧を賜ってきた方にお楽しみいただきたい。そのため、ワインリストには記載せず、各スタッフがご案内をお送りし、希望者を募ろうという結論にいたったのです。さあ、どのようなワインなのか?

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 ブルゴーニュ地方のFLAGEY-ÉCHEZEAUX (フラジェ・エシェゾー)村に居を構えるDomaine Coquard-Loison-Fleurot (コカール・ロワゾン・フルーロ)は、栽培総面積8ha弱と小規模ながら、 GEVREY-CHAMBERTIN(ジュブレ・シャンベルタン)村からVOSNE-ROMANÉE(ヴォーヌ・ロマネ)村にかけて、6つの特級畑を所有しています。名立たるワインを醸しているにもかかわらず、日本ではほとんど知られておりません。理由は簡単なことで、ヨーロッパの個人客に直売されていたため、市場にでてこなかったのです。さらに、彼のブドウの一部は、ドミニク・ローランやルイ・ジャドなどの一流のネゴシアンに販売されているそうです。フランス国内での評価は抜群で、「Guide Dussert-Gerber des vins de France 2010」では、プルミエ・グラン・ヴァン・クラッセとしてD.R.C.と共にブルゴーニュ最高峰ドメーヌに格付けされ、2015年版では、最高評価の5クールを獲得しています。

 彼の醸す2種類のワインがBenoitに眠っています。「Les Poulaillères (レ・プライリエール)」と「En Orveaux (アン・ルヴォー)」の特級畑に、樹齢69年と59年の区画をもち、そこで丹精込めて栽培され選びに選んだブドウから醸された「Echezeaux grand cru」。樹齢74年の特級畑の区画から収穫され、丁寧な選別の後に醸される。そして、アリエ産の新樽を4割使用し18ヶ月もの期間熟成され瓶詰めされた「Clos Saint Deni grand cru」。ともに2009年という偉大なヴィンテージだったがために、Benoitのセラーで眠りに就いていたのです。令和元年、ついに目覚めの時がやってきました。

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2009 Echezeaux grand cru Domaine Coquard-Loison-Fleurot

2009 Clos Saint Denis grand cru Domaine Coquard-Loison-Fleurot

 上記の2種類は、ともに19,800(税サ別)でのご提案です。希少な逸品なために、もちろん各1箱(12本)しか保有しておりません。ご希望の際は、すぐに返信またはBenoitへご一報をいただけると幸いです。2020年1月末までの期間に、Benoitへお越しいただける場合は、希望数を大切に保管させていただきます。皆様、ネットで検索してみてください。このワインの美味しさと希少性をご理解いただけると思います。そして、今回のこの価格が、どれほど破格値であることか。すべてはシェフソムリエの永田の先見の明と、今の今まで眠らせ続けた我慢強さの賜物です。

 どれほど美味しいワインなのか?自分には分かりません。10年という「熟成」という魔法が、いかような美味しさを導き出したのか。この未知なる扉を開けるのは、皆様です。※Benoitのご飲食用での販売です。

 せっかくなので、アラン・デュカス傘下のレストランでしか楽しむことのできないシャンパーニュも特別価格でご案内です。エチケットを張り替えただけの張りぼてではなく、醸造ブレンドがオリジナルという「NV Champagne selection alain ducasse」。グループ統括ソムリエであるジェラール・マルジョン監修の美味なる逸品です。これを、8,000(税サ別)でいかがでしょうか。上記の赤ワインと共にお楽しみいただくもよし、このシャンパーニュだけを楽しむもよし。ご希望の際には、ご予約の際にお伝えいただけると幸いです。

 上記の特別ワイン3種は、≪トレ・ボン!日本のテロワール 11月の旅路」≫との併用は可能ですが、ワイン半額イベントなどの割引プラントとの併用はできません。ご理解のほど、なにとぞよろしくお願いいたします。

 

Benoit特選フロマージュ「山のチーズ」のご案内です

 私事で恐縮なのですが、この度チーズプロフェッショナル協会の狭き門である認定試験に合格いたしました。もちろん、自分ではなくBenoitの仲間がです。ワインにはソムリエという専門の知識を携えて、皆様のご要望にお応えする専門職があります。これのチーズ版です。想像以上に難しい試験で、自分などでは合格を勝ち取るなどは夢のまた夢。しかし、Benoitの若手がやってくれたのです!あまりの嬉しさに、この場をお借りしてご報告させていただきます。緊張気味で画に写っている彼は、小林健太と申します。

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 有資格者となっても、ただあるものを販売しているのでは何も意味を成しません。ソムリエの集大成がワインリストであるように、チーズもまた管理はもちろん、皆様へ提案してゆいかねばなりません。そこで、いままで自分が好き勝手にやっていたBenoitのチーズを、彼を軸として進めていくことにいたしました。彼の豊富な知識は必ずや、皆様にチーズの魅力を伝えてくれるはずです。経験不足は知識で補えますが、経験することに勝るものはありません。さあ、11月はどうする?そこで、小林は考えました。

 「冬のチーズといえば、山のチーズです。」と言い切り、語り始める。「山のチーズ」というのは、山間に暮らす人々が寒く厳しい冬を乗り越えるための食料として、雑菌の元となる水分を少なくし、塩水に浸ける事で長期保存を可能とした大型のチーズの事を言います。フランスの代表的なものでいうと「Comté(コンテ)」がこれにあたります。今回は、その「Comté(コンテ)」も含みつつ、フランスの「」に関係のあるチーズをいくつかご用意しました。その中でも特に注目して頂きたいのが、

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バスク地方

 ピレネー山脈をはさみ、スペインとフランスの両側にまたがる地方です。この地域では羊の飼育が盛んで、夏になるとピレネー山脈の高地にて放牧され、香り高い牧草を食べながらゆっくりと過ごします。その香り高い牧草から作られる2種類のチーズ「Etorki(エトルキ)」「Bleu des Basques(ブルー・デ・バスク)」をご用意しました。乳種は同じですがタイプによる違いをお楽しみください。それぞれのチーズの熟成期間から逆算すると今が食べごろだと思われます。

 食べたいものをラインナップしていた自分のスタイルとは一線を画します。専門職として自覚した彼の姿勢は、今後のBenoitには欠かせません。第一弾が「」山のチーズ」ならば、次は何か?すでに何かを画策しているようなのですが、まだ何も語りません。

 皆様からの要望や質問を賜ることで、サービススタッフはそれに応えようとする、これがスタッフの成長につながると考えています。言うなれば、皆様がいらっしゃるから、スタッフが成長できるのです。自分もまだまだ未熟ですが、皆様のおかげで少しまた少しと成長している?(成長と老化との戦いです)と考えております。そう、Benoitで見かけた時には、小林にチーズについて気になること他なんでも、何気兼ねなく聞いていただけると幸いです。「家ではどうやって保存したほうがいい?」、彼はどうお答するのか?自分ならば…「食べきってください」と。

 

まだまだ書き足りないことばかり。「11月ダイジェスト版」は、数日内にご案内いたします。11月のご案内が月半ばとなってしまいますこと、深くお詫び申し上げます。

 

 降り注ぐ太陽の陽射しが万物を育て上げ、四季折々の風が吹き抜けることで、その地ごとの「風土」が生まれます。その風土で育まれた食材は、また格別な美味しさを内包します。「風土」が育んだ美味しさこそ、「風味」という。「風土風味」は千差万別。この違いを知った時、我々は「口福な食時」のひとときを過ごすことができるはずです。旬を迎える食材は、人が必要としている栄養に満ちています。そして、人の体は食べたものでできています。「美しい(令)」季節に秋食材が「和」する、まさに令和の年にこそ相応しい。「口福な食事」を楽しみながら、無事息災に年末を迎えていただければ幸いです。

 

最後までお読みいただき誠にありがとうございます。

末筆ではございますが、皆様のご多幸とご健康を、青山の地よりお祈り申し上げます。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com

「郡上八幡への旅路」のご案内です。

もみぢ葉の ながるる竜田 白雲の 花のみよし野 おもひわするな 常縁(つねより)

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 室町の時代、今の千葉県にあたる下総(しもうさ)国に勢力を誇った豪族、千葉氏がいました。その一派が、東荘(とうのしょう)という荘園の荘官になったことから東(とうの)姓を名乗るようになります。源頼朝に旗揚げを促した東胤頼(たねより)、息子の重胤(しげたね)、孫の胤行(たねゆき)。彼の3人は、坂東武者でありながら、文学的才能に恵まれていたといいます。後鳥羽上皇鎌倉幕府(執権北条義時)に反旗を翻した「承久の乱」が勃発、幕府が朝廷を武力で抑え込んだこの合戦の武功により、胤行が美濃国郡上郡(こおり)を拝領します。篠脇城を築き、彼の地を郡上東家は12代340年にも長き期間を収め続けるのです。この歴代の城主の中の9代目に、数奇な運命に翻弄された東常縁がいます。

 常縁が本家である千葉氏の争乱を調停すべく、郡上の兵士と共に下向した。この関東滞在中に「応仁の乱」が勃発し、郡上の所領を斉藤妙椿(みょうちん)に奪われてしまうのです。常縁は「無念といふも愚かなリ」と悔恨の念にかられていたと鎌倉大草紙はいう。これを知った妙椿は「常縁はもとより和歌の友人なり。今関東に居住して、本領はかく成行きこと、いかに本意無き事に思い給ふらむ」と、なんとも奪った本人が言うセリフではない。さらに、「我も久しくこの道(歌道)の数奇なれば、いかで情なき振舞いをまさんや」とまで宣(のたま)う。

 郡上東家初代の胤行は、藤原為家の娘孫にあたり、藤原定家の血筋というのでしょう、文学的才能は抜群だったようです。その気質を受け継ぐ常縁より送られし悲哀のこもった十首、妙椿が感嘆しないわけがありません。返歌とともに郡上郡を返したのだという。なんだこのやり取りは?と思うのは、今の我々のこと。貴金属の美しさにではなく、言葉のもつ美しさに価値を見出す、かたや言霊思想もあるのかもしれません。この室町時代の典雅ともいうべき思考の賜物なのでしょう。この時の居城は「篠脇(しのわき)城」。今の郡上八幡から郡上街道をさらに上に進んだ地です。

 常縁の孫にあたる東常慶(つねよし)は、越前の朝倉氏との攻防に辛勝するも、篠脇城の損傷激しく赤谷山(あかだにやま)に城を築く。常慶を城主とする赤城山城のゴタゴタに巻き込まれるように、東家の分家として活躍していた遠藤胤縁(たねより)が暗殺され、その弔い合戦として弟の盛数(もりかす)が赤谷山城に攻寄ることに。盛数が本陣を張ったのは、この城の北北西に位置する目と鼻の先の山の上、今の郡上八幡城の場所でした。この砦こそ、後の郡上八幡城の礎となったのです。参考までに、この盛数の娘が、大河ドラマにもなった山内一豊の妻となる千代です。

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 時は戻り、常縁が郡上に戻りし頃。連歌宗匠(そうしょう)である飯尾宗祇(そうぎ)が、郡上を訪れ吉田川(上の画像)の支流である小駄良川の脇に草庵を結んで移り住みます。連歌を大成するために、和歌の真髄を極める必要に迫らていた。そこで、和歌の大家である二条派の祖二条為氏(ためうじ)から、連綿と秘説相承の形で口伝されてきた歌道の古今伝授(古今和歌集の解釈及び奥義)を常縁に願い出たのです。

 醍醐天皇は日本初となる勅撰和歌集の編纂の命を下したのは、万葉集の成立からはや150年は経とうとする平安時代。これ以前は漢詩文が宮中でもてはやされた和歌暗黒時代を思うと、画期的な勅命でした。撰者として名が挙がる4人の筆頭が紀貫之。彼は「心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひ出せるなり」と記す。万葉集に選ばれずとも当世に言い伝えられし歌「よみびと知らず」の多くは「古」とし、紀貫之を含めた撰者4名は「新」、この間の六歌仙時代の歌を「古今」とした。感じたままを直感的に表現することで、力強さと大らかさをもつ歌風の万葉集は、「大夫(たゆう)ぶり」と評される。対して、掛詞(かけことば)などの技巧を駆使した、繊細優美な作風「手弱女(ておやめ)ぶり」と評されるのが「古今和歌集」。多分に理知的なため、31文字で詠み人の真意を測るには、「解釈のガイドブック」を必要とします。これが奥義であり、「古今伝授」として連綿と口伝にて引き継がれていくのです。

 常縁の居城とする篠脇城と、宗祇の住む郡上八幡は、確かに郡上市内ではありますが、近くはない上に、篠脇城は山の上とくる。当時はもちろん車などはなく、連歌の達人が馬で駆けるようなイメージもなく、おそらく徒歩で通っていたことでしょう。そこで、常縁は切紙により古今伝授を宗祇に対して行うことにします。切紙とは、奉書紙(ほうしょがみ)を代表とする公文書に用いた真っ白の美しい和紙のこと。この切紙に要点を書き記し、間違いや語弊の無いよう伝授したのです。以降、歌道や神道ではこの「切紙伝授」が踏襲されるようになるのです。この常縁から宗祇への切紙伝授が史上初のこと、だからこそ常縁が「古今伝授の祖」と評されたのです。

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 古今和歌集編纂から100年も経てば、多くの解釈がなされてゆくものです。それを加味しながら、切紙伝授を駆使することで奥義を伝えるも、なんと3年の期間を要したのです。古今和歌集は20巻にも及び、その内の6巻342首が四季の歌です。四季折々の花鳥風月の移ろいを繊細に詠んでいます。場所は違えど、四季の機微を実際に目にしながら捉えなければならなかったのかもしれません。今のように写真があるわけでもなく、インターネットで探せるわけではありません。この長きにわたり古今伝授も終わりを迎えます。その際に、常縁から宗祇へ贈った歌が冒頭の歌です。

 この古今伝授の場は、今も篠脇城址の脇に、「古今伝授の里フィールドミュージアム」として、今もその功績を讃えています。そして、宗祇が草庵を結んだ地は、宗祇も愛飲したという清らかな湧き水が、今もこんこんと湧き出でています。夏は冷たく、冬は温(ぬく)いこの清水は、人々の生活の水として利用されていました。冒頭の歌にちなみ、「白雲水」と言われた時もありましたが、常縁と宗祇の古今伝授の優雅な遺徳に慕い「宗祇水(そうぎすい)」と呼ばれています。そして1985年(昭和60年)に、全国名水百選の第一番として環境庁から認定されました。「水の町」郡上八幡の名実ともに名勝となったのです。

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 皆様、郡上八幡とはかくも歴史深い地なのかと、感慨深く感じていただけたのではないでしょうか。そこで、皆様へは郡上八幡への旅路をご案内させていただきます。東海道新幹線で名古屋に向かい、JR東海道本線名古屋鉄道を利用するのも良いですが、今回は「街道」から、旅人になったように岐阜県に入ろうと思います。

 

 古事記日本書紀にも記載が遺る、京都に端を発した五畿七道(ごきしちどう)。へ向かうは太平洋側を進む東海道」、中央の山塊を抜ける東山(とうさん)」、そして日本海を望む「北陸道」です。これらの街道には、物資ばかりではなく、使者や親書などを、馬を使って迅速に送る「駅伝制」が整備され、30里(約16km)ごとに駅家(うまや)が設置され、駅馬(はまゆ)を10頭備えていたといいます。東山道とは、なかなか聞き覚えの無い名前ですが、江戸時代には整備された五街道の「中山道」が踏襲しています。群馬県には、東北へ抜けるか東京に向かうのかの分岐点があります。

 今回は、この歴史ある東山道を辿ろうと思います。しかし、東京からでは江戸時代に整備された、五街道があまりにも便利なため、最初は甲州街道を利用し、皇居から新宿、高井戸と抜けていった後に山梨県へ、そして山梨県を横断するように長野県に入り、諏訪湖の北側にある「下諏訪」で、中山道へ入ります。南信濃の伊那を過ぎて、岐阜県中津川市へ、美濃中山道十七宿は「馬籠(まごめ)宿」から始まります。

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 栗菓子で旅人をもてなしたという「中津川宿」へ。

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 そのまま岐阜県南部を横断するように、滋賀県へと向かいます。今回、途中の宿場町は割愛させていただき、県内10番目の「鵜沼(うぬま)宿」まで歩を進めます。

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 城下町として賑わいを見せたという県内11番目の「加納宿」。この手前、岐南町にある国道21号(中山道)と国道156号との交差点があり、ここが重要な分岐点「追分(おいわけ)」です。この国道156号こそ、今回の目的地へと我々を導く「郡上街道」です。中山道から郡上街道に入り、眼前に聳(そび)える金華山を東側へ迂回するように北上します。頂に堂々たる姿を見せるのが岐阜城を横目に見ながら、そして長良川に沿うように上流へ上流へと。

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 長良川へと注ぐ支流、津保(つぼ)川を渡ると、関市の「小屋名(おやな)」へと行き着きます。この地域は、山々が肩を寄せ合う中で湧きいずる清らかなる水が、山ひだを削り流れゆき、それぞれが「落合う」場所。中央を流れる長良川と、西から先述の津保川、北からは武儀(むぎ)川が落合います。高台のように思えるも、川の浸食が作り上げた、自然の地です。郡上街道と県道79号(関本巣線)が交差する手前左手に、今もひっそりと追分指標が遺っています。明治18年7月に建立したという石の指標には「美濃国武儀郡小屋名追分」とある。さらに、「右 飛騨街道」「左 郡上街道」とも。もちろん、向かうは「郡上八幡」。進路は左手に国道156号を上っていけばよい。

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 しかし、このまま山間を歩いて北上するには、なかなかに難儀な道のりです。そこで、この小屋名追分を右手に飛騨街道を進んだ先、文明の利器を利用するために関市中心街へ、目指すは「長良川鉄道」の「関」駅へ向かおうと思います。「関」と言えば、鎌倉時代に刀祖「元重」がこの地に移り住んだところから関刀鍛治文化が生まれました。

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 良質の焼刃土が産出し、長良川津保川の清水という恵まれた自然環境。さらに炉に使う松炭も豊富に作り出せるという、まさに刀鍛冶にとっては理想的な条件を兼ね揃えていたのです。室町時代には、刀匠が300人にも及んだといい、「折れず、曲がらず、よく切れる」と評された席の刀は、全国にその名は馳せたといいます。特に「関の孫六」と称された二代目兼元は、四方詰めという鍛治法を考案し、さらなる堅固な逸品に仕上げたといいます。この卓越した伝統技能は、今の刀匠や刃物産業に継承されているのです。

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 長良川鉄道の「関」駅から、北濃行へと列車に乗りこむと、4駅目で迎えるのは「美濃市」駅です。市内には伝統的建造物群保存地区「うだつの上がる町並み」があります。「うだつが上がらない」となると、仕事面ではなかなか出世できなかったり、生活面では日々厳しい家計に悩まされているという意味があります。「うだつが上がる」とは、何か幸せを呼び込むパワースポットなのか?下の画像が、美濃市の「うだつの上がる町並み」です。

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 「うだつ」とは、家と家の間に、壁のように建つ仕切りのようなもの。江戸時代には、隣家との間が狭く、火災の際に隣家に炎を移さない役割を果たすのだといいます。江戸も中期になると、この「うだつ」に装飾が施されるようになりました。上の画像の家と家お間に、ひときわ高く備えられた小さく細長い瓦屋根の壁が「うだつ」です。画像のような立派な「うだつ」を建てるには、それ相応の財力が必要で、これ富の証でもありました。ここから「うだつが上がる」から「うだつが上がらない」という前述した成句が生まれたといいます。画像の左右の家々に立つわ立つわ、「うだつ」が立っている町並みですよ。知らなければ見過ごしてしまうこの景観、確かにこん町並みを歩くことで、美濃商家の知恵を拝借できるかもしれません。

 美濃市と言えば、忘れてはいけないのが「美濃和紙」です。長良川や板取川の美しく澄んだ豊富な水資源、和紙を漉(す)くために必要な原料が、「コウゾ(楮)」を多く産することから、1300年以上も前、すでに奈良時代には美濃和紙が利用されていたといい、正倉院文書の中に美濃経紙が記されています。日本では伝統工芸品認定を受け、2014年11月には美濃和紙を漉く技術が「ユネスコ無形文化遺産」に登録されました。この伝統の技術と歴史は、美濃市にある「美濃和紙の里会館」で楽しめます。

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 前述した東常縁と宗祇の古今伝授が、「切紙伝授」だと書きました。美濃市の隣が郡上市であることを鑑みると、常縁が切紙に使用したのは「美濃和紙」だったのではないでしょうか?真っ白で筆の進みも良い、丈夫で美しい美濃和紙に書き記した古今伝授の数々。宗祇は幾度となく読み返し、宝物のように持ち帰り、大切に保管したことでしょう。古今伝授の奥義には、美濃和紙こそ相応(ふさわ)しい。

 「美濃市」駅から、山間を縫うように進み14番目となる駅が「郡上八幡」です。ここから4駅目の「郡上大和」駅に篠脇城址がある。ということは、宗祇は常縁に古今伝授を受けるために、この4駅分を日々歩いて通い詰めたことになります。さあ、長良川を右手に進んできた長良川鉄道が、この川を横切る橋梁(きょうりょう)を渡ると「郡上八幡」駅に到着です。

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 「郡上八幡」駅を下車すると、右手の山の頂から出迎えてくれる郡上八幡城があり、左手には長良川の美しい水面の輝きが出向かえてくれる。さすが「水の町」と評されるだけのことはある。先に見える支流が、郡上八幡の町を横切る「吉田川」です。

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 駅から長良川の上流方向へ進むと、郡上大橋が吉田川に架けられている。支流というが、十分な川幅の立派な川だ。それにしても、この両河川はあまりにも水が澄んでいて美しい。川の深さは浅いわけではないが、橋の中ほどから覗いてみると、川底の大小さまざまの石が判別できるほどだ。

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 さあ、橋を戻り郡上八幡城を目印とし、町中を歩いていこうと思う。水の町とは、清流があるらでもあり、町中に水路が張り巡らされ、防火用はもちろんですが、生活用水としても欠かせないものでした。古き良き町並みの中は、時の経過を忘れてしまうほど風情豊かなもの。

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 長良川と吉田川の小石を敷き詰めた小道の脇には、音なく流れる清らかな水路が並行する。郡上踊りの時期などは、行き交う人々の下駄の音が心地よく響いてくるのではないだろうか。

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 さらに、城を目指す。其処此処で目する資格の木の箱。端から水が流れ込み、反対から抜け出る。「水舟」と呼ばれる、冷たい川水を流れ溜め、野菜や飲み物を冷やすのに利用されている。水資源豊な上に、湧き出でたばかりだからこそ、夏は冷たく冬は温く感じる一定の水温を保っている。さらに進むと、水路の幅が広がりを見せた「いがわこみち」に出会う。この水路は、他とは一回り大きく、そのために鯉やウグイなどが優雅に泳ぎまわる。洗濯場が今も3か所ほど残っており、ご近所さんの社交場の様相を見せています。

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 そうこうしているうちに、吉田川に架かる八幡橋に辿り着き、眼前に聳える山からは郡上八幡城が我々を見下ろしている。この城については、多くを語ってきたので、ここでは割愛させていただきます。さらに、郡上市のみならず、郡上八幡の訪れたい地はまだまだあるのです。あまりにも多く、ご紹介できないほどで、語るなどは論外です。これは頃合いを見て次の機会へ。

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 郡上八幡城は江戸時代を乗り越え、激動の幕末を迎えることになります。最後の城主郡上青山家11代の幸宜(ゆきよし)。青山家の堅気な気質は、幕末にも影響を及ぼしました。新政府軍か幕府軍か。時代の趨勢は新政府軍にあることは、幸宜が一番肌身で感じとっていたはずです。郡上青山家を支えてきた人々を危険にさらすわけにはいかない。しかし、徳川幕府譜代の大名・藩士として意地と誇りもある。この葛藤の中で、郡上藩は二つに分かれて幕末を迎えるという選択肢をとります。

 郡上青山藩新政府軍側へ、そして有志が結成した凌霜隊(りょうそうたい)は、旧幕府軍に付き会津の戦に向かいます。「苦肉の策」かもしれませんが、これが最良の方法だったのです。誰にも正解は導きだせません。戦禍に見舞われなかった郡上八幡の町並みが、我々のそう語ってくれている気がいたします。そして、郡上八幡城には、この凌霜隊の慰霊碑と顕彰碑が建ち、今もその歴史を物語ってくれています。

 

 会者定離(えしゃじょうり)とはよく言ったもので、死生観を説いたものではりますが、今世でも十分に理解できるもの。伝授の大願を成した宗祇が帰路に就く時がくる。彼の草庵から吉田川に向かうと宮ケ瀬橋がある。その橋の袂(ふもと)まで見送ったのが、師である常縁であった。1473年(文明5年)の4月の頃。季節は山桜が咲いている頃だろうか。常縁は餞別に歌を贈った。そして宗祇が返歌を詠んだ。

もみぢ葉の ながるる竜田 白雲の 花のみよし野 おもひわするな  常縁

三年ごし 心をつくす 思ひ川 春たつさわに わきいづるかな  宗祇

 冒頭では紅葉の葉の画像を添付しました。万葉の時代、「花」は梅を指し示したが、平安時代以降は「桜」を指す。常縁の歌は、奈良県竜田川の紅葉(もみじ)と同県吉野の山肌一面に咲き誇る桜を指すのか。どちらも、群を抜いた美しさで名を馳せる有名な地であり、歌人にとっては憧れの地である。歌人として、この地の美しさを「おもひわするな」と、古今和歌集時代の懐古の念をいっているのか?

 紀貫之古今和歌集で「心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひ出せるなり」と記す。常縁がこの歌を詠んだのは4月のこと。万葉の時代は、樹々の葉が色を変えることを「もみつ」(動詞)といい、これが名詞のかたちをとり「もみち」なのだといいます。この時代に「ひらがな」は誕生しておらず、万葉仮名は漢字の音読みを利用して書き記されています。「もみつ」は「毛美都」や「もみち」は「毛美知」と。色の変わる葉の色を指すのであれば、美しく郡上の山々に咲き誇った山桜の、葉に色を言っているのか。山桜の新葉は画像の通り紅葉で、後に緑濃くなる。ともすると、賢人同士が相まみえたこの3年間は、賢人にしかわからぬ楽しみに満ちていたのかもしれない。

 白雲の美しい青空に輝かんばかりに咲き誇る郡上の山桜、この新葉の紅葉もいずれは積翠のごとく深い緑色へと姿を変える。郡上の山桜のように楽しい日々を過ごしたこと、時経つことで葉の色が変わるように記憶も色あせてゆくことだろう。しかし、私にとってはあまりにも有意義で楽しい3年間だった。誰しもが認める竜田川の紅葉や吉野の桜の美しさを忘れないように、古今伝授を忘れないでほしい。そして、私と過ごした3年間を忘れないでほしい。本当にありがとう。

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 宗祇も返歌を詠む。3年もの期間を、古今伝授に費やしていただきました。どれほどの心労があったことでしょうか。この感謝の想いを胸に、今春郡上を旅立たせていただきます。伝授いただいた奥義の数々は、今でこそ泉の如くではありますが、いずれは長良川のように大河となし、連歌を大成させてみせます。そして、師への感謝の思いは、湧きいずる清水のように絶えることがなく、いずれ川のようになるでしょう。

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 31文字に含めた、師弟の感謝の気持ち。古文文法など理解していない、勝手気ままな自分の解釈です。とはいうものの、なかなかに説得力がないですか。この常縁と宗祇の歌の真意はいかようなものなのか。古今伝授を受けていない我々は、「古今伝授の里フィールドミュージアム」に赴き、直に専門家に問わなければなりません。そして、常縁と宗祇の足跡を辿ることで、何か感じ取れるかもしれません。常縁と宗祇を思いながらの郡上への旅路は、きっと普段気にもかけない発見があることでしょう。長いようで短い3年間、いったいどんなやり取りがなされていたのでしょうか。気になりませんか?さあ、次の休みは

「郡上へ行こう!」

 

 余談ですが、常縁が宗祇に「古今伝授」を行って後、古今伝授はいくつかの流派に分かれます。安土桃山時代から江戸時代へ移る慶長年間、戦国大名であった細川藤孝が剃髪し幽斎と名乗ります。明智光秀の娘のガラシャの夫、忠興の父です。三条西実枝(さねき)に「古今伝授」を受け、これを集大成したことから近世歌学の祖と称されています。時は1600年、幽斎は、智仁親王に「古今伝授」を始めました。

 しかし、この時期は関ケ原の戦いの直前、石田三成方と徳川家康方の対立が極限に至る時期です。徳川方の幽斎は居城である田辺城へ帰るものの、石田三成方が包囲してしまうのです。ところが、「古今伝授」の断絶を恐れた後陽成(ごようぜい)天皇の勅命により、城の包囲が解かれることになりました。それほどまでに、東常縁が確立した「古今伝授」を、朝廷が重要視したのです。

 

 今回は、初となる三本立ての構成です。「郡上八幡への旅物語」を書くには理由がありました。Benoit特選食材「郡上クラシックポーク」です。どれほどの特選食材なの?どのような料理に仕上がるのか?「郡上クラシックポーク物語」は、以下より「はてなブログ」をご訪問ください。感動の誕生秘話が掲載です。

kitahira.hatenablog.com

 

 郡上クラシックポークが美味しいのには理由があり、十分にご理解いただけたのではないでしょうか。この特選食材「郡上クラシックポーク」とBenoitは、出会うべくして出会ったようなのです。「Benoitと郡上八幡」が、並々ならぬ縁があったとはどういうことなのか?「郡上八幡の物語」は、「はてなブログ」に記載しております。お時間のある時に、以下よりご訪問いただけると幸いです。キーワードは「梅窓院」です。

kitahira.hatenablog.com

 

 このご案内を作成するにあたり、株式会社明宝牧場、郡上市役所、一般社団法人岐阜県観光連盟、長青山寶樹寺梅窓院それぞれのご担当者様より、快く画像を提供いただきました。この場をお借りいたしまして、深く御礼申し上げます。さらに、郡上市役所より多くのご案内をお送りいただきました。どれほど自分の助けになったことか、重ね重ね御礼申し上げます。

 

最後までお読みいただき誠にありがとうございます。

末筆ではございますが、皆様のご多幸とご健康を、青山の地よりお祈り申し上げます。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com

「Benoitと郡上八幡とのただならぬご縁」の物語です。

 Benoitと岐阜県郡上八幡との並々ならぬ関係とは、いったいどういったことなのでしょうか?裏金がまわっているなどという野暮では決してありません。江戸時代に端を発した、壮大な歴史ストーリーが絡んでいました。郡上市の明宝牧場の代表である田中成典さんから教えていただいた、「青山に梅窓院というお寺がありまして~」と。ここから導き出された今回の歴史物語を、長文ではありますがお楽しみいただけると幸いです。「Benoit↔郡上八幡」となる理由に、納得していただけるはずです。

以下、登城人物の敬称は省略させていただきます。

 

 今から430年ほども前のこと。時は1590年(天正18年)、天下人である豊臣秀吉より関八州を与えられた徳川家康が譜代の家臣とともに江戸城に入城することになります。数多(あまた)ある合戦を家康と共に生死を分かち合ってきた屈強の名立たる武士(もののふ)の中に、控えめながら「政(まつりごと)」に才のある3人がいました。1603年(慶長8年) 江戸幕府の開府後は、老中に名を連ねるのです。本多正信(ほんだまさのぶ)を筆頭に、内藤清成(ないとうきよなり)、そして青山忠成(あおやまただなり)。一介の家臣から、波乱万丈人生の後に、大名にまで昇格したという事実は、その才を家康に認められ、見事その期待に応えた証なのでしょう。

 このお三方の中で、内藤清成と青山忠成の二人は、歴史に名を残す足跡も説話も似ていることが多いのです。江戸開府前には江戸町奉行であり、開府後は老中に名を連ねています。江戸で拝領した屋敷地が、これまたお隣同士というで、今もその名残を地名に残しています。内藤家の屋敷地は、下屋敷の名残を残す新宿御苑を中心に、西は四谷のあたりから東は代々木、北は大久保、南は千駄ヶ谷と、かなり広大な地でした。「内藤町」という地名が、その名残を今に伝えています。この地は、徳川家康が江戸に入府後、家臣の内藤清成を呼び、新宿御苑一帯を指し示しながら「馬で一息に回れるだけの土地を与える」と語ったとされ、清成を乗せた駿馬は、屋敷地となった広大な範囲を駆け抜け息絶えたのだといいます。今の新宿区内藤町にひっそりとたたずむ「多武峰(とおのみね)内藤神社」に、この伝説に由来する「駿馬塚(しゅんめづか)」を見ることができます。

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 では、お隣同士であった青山忠成の屋敷地はどこだったのか?もうお察しかと思いますが、彼の名字である「青山」が今も残っている地こそ、この青山忠成の屋敷地だったのです。ただし、今よりももっと広大な地でした。先述した内藤清成の逸話と同じように、忠成にも駿馬伝説があるのです。彼が徳川家康の鷹狩りに随行していたところ、家康が赤坂の麓から西の方向を見渡して、「馬で一息に回れるだけの土地を与える」と語ったというのです。原宿を中心に、赤坂の一部から渋谷に至るまでの広範囲を駆けたのだと。かつてこの一帯を「原宿」と言うも、この青山家の屋敷地となって以降のしばらくの間は「青山宿」と呼んでいたそうです。内藤町が、「新宿」の歴史の中に埋もれてしまい、町名だけを残すことになったにもかかわらず、「青山」は今でも地名としてのその名前の効果は抜群です。

 以前、自分は「青山のビストロBenoitの北平と申します。」が電話での第一声でした。現住所が「神宮前」なので、密かに「神宮前の」へと換えてみた期間があったのです。しっくりこなかったことが一番の理由です、元に戻しました。今思えば、「青山」という地名を使うことは、間違いではなかったようです。なるほど、ここに「Benoit↔青山」の繋がりを見せることになります。

 

 人の集う場には、必ず行き交う「道」が必要になります。そして「道」によって、村や町が形作られる。どちらの屋敷地の場合も、この大きな「道」が通っています。日本橋を起点とした「甲州街道(国道20号)」は、江戸城(皇居)を囲むように走る「外堀通り」と重なるように北側を迂回するように導かれ、江戸城西の「半蔵門」から、新宿方面へと舵を切り、内藤家の敷地へと進みます。現在の甲州街道は、皇居の南から迂回しているよ?実は、1699年(元禄12年)に南ルートの変わったのです。今は「内堀通り」もあるのですが、江戸時代にお堀の内側に入れる人は限られていたはずで、世間一般は「外堀通り」が通常ルート。

 外堀通りから甲州街道を分岐する半蔵門から少し南に進んだ、今でいう「赤坂見附交差点」から南西へと延びる道路、これが青山家敷地を横切る主要道路です。神奈川県厚木方面へと進み、静岡県沼津で東海道(国道1号)へ繋がります。今の国道246号ですが、起点の赤坂見附から、渋谷駅近くの明治通り(かつての鎌倉街道の一部)との交点をまでを、「青山通り」と呼んでいます。青山家敷地はこれほどの敷地面積を有していたのです。

 

 江戸時代は「所領の石高」と「家格」によって、階級分けされていました。所領1万石以上が「大名」、1万石未満が「旗本」「御家人」と続きます。このあたりの詳細は割愛させていただきます。一介の武将であった青山忠成が、家督を継ぎ、数々の功績を挙げながら石高が加増されていきます。江戸の入城時は、江戸町奉行に任命され5,000石だったものが、10年後の「関ケ原の戦い」後には、常陸江戸崎藩主として1万5,000石へ。ここに大名「青山家」が誕生です。混沌とした乱世の中で、家康が「政」の稀有の能力を忠成に見出し、厚い信任を得ることでなしえた証ではないでしょうか。

 「生者必滅(しょうじゃひつめつ)」とは、生きとし生けるものにとって例外はありません。時代劇などでも話題になるが家督相続です。江戸時代の武士の家督相続は、長男を嫡子(ちゃくし)として、家督も財産も単独相続が原則でした。では、次男三男はどうするのか?彼らは、養子に出るか僧侶となるか、はたまた兄の扶養家族になるか。分家して禄を与えられ、藩士としていきていくことは稀有だったといいます。青山家宗家では、初代忠成の長男忠次が病死したことにより次男忠俊が家督を相続します。三男泰重が朝比奈家へと養子で出る、そして四男の幸成(ゆきなり)が、彼の時代にあり、稀有なる「分家」を成しえたのです。元服した後に徳川秀忠の近侍として仕え、1602年(慶長7年)に下総国で500石の知行を得るのです。旗本として参加した大阪夏の陣を機に、功績を積み上げてゆき、ついに1619年(元和5年)、所領が1万3,000石と加増となり大名へと名を連ねたのです。ここに、分家である青山家分家初代幸成が誕生します。

 江戸にある広大な青山宗家の屋敷地の中には、もちろん宗家の下屋敷が建てられています。青山分家が誕生したことで、同じ敷地に分家の下屋敷を築くことになりました。もちろん、分家は幸成の家系だけではありません。この分家の下屋敷が建立されるのですが、同じ青山家であっても宗家と分家との違いは歴然としていた時代です。この屋敷の境界となったのが、「青山通り」でした。通りを挟み、北側が青山宗家、南側が青山分家です。

 

 地下鉄銀座線の「外苑前」のホームに降り立ち、階段を上り行くと、都会を象徴するかのように乱立するビル群の中に6車線の「青山通り」が眼前に広がります。近くには神宮球場があり、その奥には2020年の出番を待っている新国立劇場が控えています。青山通りを、皇居の方向へと進むと、いちょう並木の入り口があり、その先には赤坂御用地を左手に望め、他の都心と比べれば緑の多い地域かもしれません。しかし、駅周辺は高々と聳(そび)えるビルの数々に囲まれ、アスファルト舗装かコンクリートしか目に入りません。と、そこに目を惹く一角があることに気付きます。一方通行の細い脇道と、高層ビルの間に、ここだけ時がゆっくり流れているかのような、都内の喧騒とはかけ離れた静寂な空間が。その先に歩を進めると、人々には「梅窓院(ばいそういん)」として親しまれている寺院、「長青山寶樹寺(ほうじゅじ)梅窓院」が迎えてくれます。

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 地図を見ていただくと、メトロの駅「外苑前」は、路線に沿うように「青山通り」が通っています。梅窓院は青山通りの南側に位置しています。梅窓院を少しだけ南に下ると、名立たる英傑が眠る「青山霊園」に行きつきます。この地、かつては青山分家幸成の下屋敷跡地の一部です。そして、青山幸成が逝去された時、青山通りの南側に広がる広大な敷地の中に建立されたのがこの寺院。「梅窓院」とは、幸成の戒名から名付けられたといいます。浄土宗の教えのもと開山され、ご本尊の阿弥陀仏は、江戸時代には「青山の観音様」との愛称のもと、「山の手六阿弥陀仏」の一つとして厚く信奉されていたといいます。青山幸成から十三代にもおよぶ歴代のご当主を祀っている、「青山家の菩提寺」です。

 ここに、「Benoit↔青山↔梅窓院↔青山幸成↔青山家歴代藩主」と、いっきに繋がりをみました。

 

 青山家というのは、猪突猛進の猛者(もさ)というよりも、質実剛健の堅実な家系だったのでしょうか。言い過ぎれば、生真面目な気質が強かった気がいたします。青山宗家初代の忠成からして、江戸幕府町奉行、関東奉行、そして老中にまで昇進してゆく過程は、乱世を戦いぬく表舞台というよりも、煩雑な人間関係うごめく巨大な江戸幕府をまとめるために必要な能力だったのでしょう。家康から何かを託された忖度なのか。青山家存続よりも江戸幕府をもって泰平の世を維持しようとすることに重きを置いていた感すらある。宗家二代目の青山忠俊は、徳川三代将軍家光に幾度となく諫言(かんげん)し、改易(かいえき)の憂き目にあう。改易とは、武士身分の剥奪と領地没収を意味し、刑罰の中では「切腹」の一つ前という重きもの。それでも、今までの功績と、諫言の正しさが理解されたのか、誰かが諭したのか、家光からの再出仕の要請が来るも固辞し、嫡男である青山宗家三代目の宗俊のみが、旗本として返り咲くも、すぐに加増となり大名としてお家再興を遂げます。以降はお目付役的な譜代の大名として、中には大阪城代のような幕府の要職に就きつつ、明治を迎えます。※画像は郡上八幡城です。

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 戦国時代には、その土地土地に根付いた大名が、群雄割拠の様相を見せ、地元を中心に版図を広げていく、もしくは守るという意識が強いものです。これが世界的に見ても稀有の天下泰平の江戸時代にあっては、少しばかり様相を変えていきます。「国替(くにがえ)」という知行地の引っ越しです。大名以下、家臣全てで新天地へ移動する、大々的な引っ越しは、想像を絶するほどの大事業だったことでしょう。歴史上では、豊臣秀吉徳川家康の郷里である静岡県中部の駿河国駿府からに江戸への転封(てんぽう)を指示したことに始まるようです。これほどの大きな国替は、江戸時代にも例を見ませんが、小大名は意外にも頻繁に引っ越しをしていたようです。同じ場所で長年藩主として君臨することで馴れ合いが生じ、悪政につながるかもしれない。はたまた、善政によって藩が力をつけ反旗を翻さないとも限らない。天下泰平だからこその、幕府による諸藩の管理体制でした。この大引越しにともなう不平不満は、功績によって石高の加増によってうまくコントロールしていたのでしょう。もちろん、減ることも。

 こと、青山家に至っては、この「転封」には違った意味合いが込められています。質実剛健の堅実な信頼のおける譜代大名。家系なのでしょうか、この気質は、青山分家にも色濃く残っていたようで、青山家分家の初代幸成は、常陸の国で旗本となるも、まもなくして加増され大名となり、静岡県西部に位置する遠江(とおとうみ)国掛川へ移封され、藩主として歴史に名を刻むことになります。その2年後、兵庫県摂津国尼崎藩へ。幸成から家督相続は順次行われつつ、所領値は長野県の信濃国飯山藩、さらには江戸中期となり青山幸成から4代目となる幸秀(よしひで)の時に京都府の丹後宮津藩へと移りゆきます。

 曽山家直前の遠江国掛川は、駿河大納言と呼ばれていた徳川忠長(徳川秀忠の次男)、彼の附家老(つけがろう)である朝倉宣正(のぶまさ)が入藩するも、忠長の乱行の数々が目に余るようになり、とうとう兄である家光の堪忍袋の緒が切れる。忠長の改易の沙汰が下り、朝倉宣正連座の責任を取らされ改易の負い目を被るのです。藩主が短期間で変わることに加え、この大騒動による混沌とした掛川藩を立て直すべく声がかかったのが、青山幸成でした。その後に転封する地は、全てが幕府にとっての重要拠点ばかり。五畿七道(ごきしちどう)とは、京都大阪含めた江戸時代前の政権の中枢の地から四方へと整備されていった古き時代よりある道。その山陽道の要が摂津尼崎藩山陰道の丹後宮津藩、東山(とうさん)道こと中山道では信濃飯山藩です。※画像は郡上八幡

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 青山幸成から5代目となる幸道(よしみち)が丹後宮津藩2代藩主の時、世間を揺るがす大騒動が勃発しました。江戸時代半ば過ぎから、領主の厳しい年貢の取り立てや引き上げに対し、日本全国で農民一揆が頻発していました。その中でも、この地の藩主は外様大名ながら幕府と諸大名との橋渡し役である「奏者番(そうじゃばん)」という幕府の要職に就くこととなり、出費がかさむようになります。そこで、年貢の取り立てを従来の「定免取り(じょうめんどり)」から「検見取り(けみとり)」へ変えようとしたのです。「定免取り」とは、年貢の取り立ては過去数年の実績をもとに算出した定量を納めるもの。不正などもあり賛否両論はありますが、収入は安定する上に、農法改良による増産分や粟や蕎麦なの副産物は、農民の収入となるため人々の働く意欲を掻き立てました。「検見取り」は、今世のように毎年検地により、納入分を決める方法です。もちろん、農民の反発がおき、百姓一揆へと発展していきます。ここまでは、よく聞く話でが、今回は違ったのです。

 無法無策の上に、藩主であるの金森頼錦(よりかね)の名前が出てこないということは、無関与で奏者番という出世ルートのみが関心ごとだったのでしょうか。そこに、石徹白(いとしろ)騒動という、白山信仰のおひざ元である寺社の権力争いも加わり、泥沼化したのです。厳しい弾圧のもとで、耐え抜いていた一揆側が。ついに老中への駕籠訴(かごそ)に打って出ます。駕籠訴は死罪、そこまでの決意がありました。そこで、幕府が動きだし、終息へと向かうことになる、ここまでになんと4年間という月日を費やしています。この一揆は、藩主金森頼錦の改易はもちろん、一揆に関わる人が全て処分を受けるという、類稀なる大事件でした。さらに、この一揆が原因で、幕府の若年寄勘定奉行などの首脳部まで改易などの処分を受けたことは、江戸300年を通して、今回だけのことです。1754年(宝暦)に端を発したこの一大事件は、「宝暦郡上(ぐじょう)騒動」と呼ばれています。

 この大騒動を納めるべく、白羽の矢が立ったのが、青山幸道でした。ここに「美濃郡上藩初代藩主青山幸道」が、「郡上藩青山家」が誕生するのです。ということは、この青山家の初代である幸成は「青山幸成は郡上藩青山家初代」という肩書になります。郡上八幡城を中心に街並を広げた郡上藩は、いまでも郡上市八幡町にその面影を遺しています。とうとう、ここで「Benoit↔青山↔梅窓院↔青山幸成↔青山家歴代藩主↔郡上藩↔郡上八幡」という道筋がつきました。

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 歴史を振り返りつつ、「Benoit郡上八幡」との関係が、並々ならぬ深き関係があったことを考察してみました。なかなかに、興味深い歴史であり、ここまで江戸時代を探ったことは、自分の人生の中で初めてのことでした。最初の「Benoit」と最後の「郡上八幡」、今でいう「郡上市」が、見事につながったと思いませんか?Benoitにとって「郡上クラシックポーク」は、美味しさはもちろん、選ぶべくして選んだ、まさに運命づけられた特選食材なのです。

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 さて、盆踊りブームも加勢し、日本中の耳目を集めているのが「郡上踊り」。その名の通り、郡上市が発祥の地であり、日本全国を見渡しても、これほどの参加人数と開催日数を誇るものは類を見ません。この盆踊りは、「見る」ものではなく「参加」するもの。「郡上のナァ~」と始まる歌声、鳴り響く太鼓や笛の音が、郡上の町に響き渡る。7月から9月までの長きにわたる期間、踊りが開催される日は31にもおよび、そのうちの4日間は夜通し踊り続ける。踊り終えた時に訪れる静寂の中、せせらぎの水の音が心に響く。心身ともに癒されるひとときです。

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 青山にある秩父宮ラグビー場にて毎年開催される「郡上おどりin青山」は、2019年に26回目を迎えました。なぜ、青山で郡上踊りが毎年開催されるのか?もうお分かりいただけたのではないでしょうか。

 

 天下泰平が300年も続くことは、世界史をみても稀有なこと。その恩恵を謳歌するかのように、文化芸能の隆盛をなしえた江戸時代。豪族が点在する、特に際立った特徴のない荒野、関東八州を徳川家康が所領としてあてがわれたところから、現在の皇居である江戸城を拠点に町が形作られることで、江戸の文化が始まります。さらに、日本橋をスタートとする「五街道」が整備されていきました。人の行きかう処に宿場あり、各街道の最初の宿場町は「江戸四宿(えどししゅく)」と呼ばれ、人々で賑わっていたようです。江戸四宿とは、「東海道品川宿」、「中山道の板橋宿」、「日光街道千住宿」、そして「甲州街道は高井戸宿」です。

 甲州街道(国道20号線)は、日本橋から始まり、皇居の北側(1699年に南側へ変更)を迂回するように西へ西へと進みます。前述したように、一番目の宿場町は高井戸宿でした。しかし、ゆうに16kmと離れるため、いささか遠いのではないか?という理由から、途中に新たに宿場町が作られることになります。途中に良き地があるではないか、ということで、内藤家の広大な屋敷地の一部に「新」しい「宿」場町が作られることになりました。ここに、「内藤新宿」が誕生したのです。

江戸時代、日本橋からこの街道を歩き続け、四谷大木戸の関所(今の四谷四丁目交差点)をくぐると、目の前には宿場町「内藤新宿」が続きます。この人々で賑わう通りの両脇には多種多様の店が軒を連ね、裏手の軒先には畑が広がっていたようです。秋深くなる時期には、緑鮮やかな葉の間に、輝かんばかりの鮮やかな深紅の剣先を空に向けた「内藤トウガラシ」がたわわに実っていたそうです。このトウガラシは八房系に分類され、葉の上に天に向かって房状に実るのが特徴。一面のトウガラシ畑は、赤と緑の見事なコントラストを成し、それはそれは目をみはる光景だったことでしょう。

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 もともと新宿が、唐辛子の産地であったわけではありません。では、この内藤トウガラシは、どうして栽培が始まったのか?諸藩の大名を江戸城に出仕させる制度、「参勤交代」が大きく関わっていたようです。各地方に転封されている各大名が、江戸文化を肌身で感じるまでは良いですが、やはり美味し食べ物には恵まれなかったのでしょう。そこで、地元から持ち込んで育てようとなったのです。内藤家の知行地は、信濃国高遠藩。いまいう長野県南部伊那市です。ここから持ち込まれた多くの中で、新宿の地に適したものが、トウガラシとカボチャでした。前述のように、トウガラシは「内藤トウガラシ」と、かぼちゃは「内藤かぼちゃ」として、江戸の伝統野菜に名を連ねます。特に、内藤トウガラシは、江戸時代の蕎麦ブームに乗じて、新宿の土手が真っ赤になるほど人気を博したようです。

 もうひとつ、西新宿に「成子天神社」があり、この周辺は鳴子坂と呼ばれていました。ここで江戸時代に一世を風靡した野菜が「鳴子瓜(なるこうり)」です。まん丸ではなく長細いメロンと表現したほうが良いかもしれません。しかし、甘さが優しいため、今は馴染みのメロンに地位を追われ、今や栽培する人はほとんどいません。この鳴子瓜もまた、地方から持ち込まれました。甲州街道を西へと進む終着点は「下諏訪」。ここで南下してきた中山道と合流し、さらに西へと向かうと最後の宿場となる「大津宿」、最後は京都の三条大橋へと辿り着きます。滋賀県に入る手前、岐阜県の西濃地方に「真桑村」があり、その地の特産が「真桑瓜(まくわうり)」です。幕命によって真桑村の農民を江戸に呼び、新宿で栽培が始まり、江戸では「鳴子瓜」と呼ばれていたようです。甘いものが少なかった時代だからこそ、この「果実的野菜」の甘みのある美味しさは貴重な存在だったことでしょう。「果樹になる実が果実」なので、イチゴやメロンは果実ではなく野菜に分類されます。

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 人が行き交うところに道ができ、道は行き交う人の憩いの場を作り出す。そして、人が集うところに歴史が生まれる。今回、「青山↔Benoit」を調べるにあたり、バラバラだった情報の断片を結び付けたのが、「道」でした。「五畿七道」にしても「五街道」にしても、行き交うところに村や町が形成され、その名前も何かしらの意味付けがなされ命名されているのです。ここで調べ切れていない点があるのです。郡上青山家は、参勤交代をどのルートを通ったのでしょうか?距離を考えると、「東海道」から国道246の原型となる「矢倉沢往還(やぐらざかおうかん)」から「青山通り」へ向かうのが妥当です。しかし、当時は「入鉄砲出女(いりてっぽうでおんな)」を厳しく監視していた箱根の関所があります。そう考えると、青山家が転封した地があり、青山宗家が信濃国小諸藩にいたこと、さらには下屋敷がご近所の内藤家が信濃国高遠藩であったことから、「中山道」から「甲州街道」へと流れたような気がいたします。皆様は、どう思われますか?

 

 さて、日本橋を起点として「五街道」、それぞれの最初の宿場町を「江戸四宿」とご紹介いたしました。東海道甲州街道中山道日光街道の4街道にそれぞれの4つの宿場町です。おや?五街道のもう一つはどこへ向かう街道なのでしょう?この街道に宿場町は作れませんでした。日本橋小網町にある行徳河岸(ぎょうとくかし)と千葉県市川市の行徳を行き交う海上航路で、「行徳船航路」と命名されています。海上に宿場町ができるわけもなく、江戸五宿ではなく四宿なのです。千葉県の行徳は塩を産する地、江戸住民にとっては欠かせない塩を運びこむ重要なルートだったようです。

 かつて、街道が二つの大きな街道に分かれる地点を「追分(おいわけ)」と呼び、この呼び名は今でも地名に残っています。現在の甲州街道を四谷から西へ向かってゆくと、新宿三丁目交差点に辿り着きます。ここが、甲州街道から青梅街道の追分です。この交差点を中心に伊勢丹さんの点対称の位置に「新宿元標」として追分であったことの記念碑と路面にパネルがはめ込まれています。人々の雑踏の中で見過ごしこと間違いないのですが、しっかりと残っています。ちなみに、川が合流する地を「落合(おちあい)」といいます。まさに川が落ち合う地。今、皆様が住まわれている周辺や、旅路の中で探してみるのも一興ではないでしょうか。

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 今回は、初となる三本立ての構成です。「郡上八幡への旅物語」を書くには理由がありました。Benoit特選食材「郡上クラシックポーク」です。どれほどの特選食材なの?どのような料理に仕上がるのか?「郡上クラシックポーク物語」は、以下より「はてなブログ」をご訪問ください。感動の誕生秘話が掲載です。

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さらに、郡上八幡とはどのような地なのか?史跡を辿りながらご紹介させていただきます。「郡上八幡への旅物語」は「はてなブログ」に記載いたしました。以下よりお時間のある時にご訪問いただけると幸いです。

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 このご案内を作成するにあたり、株式会社明宝牧場、郡上市役所、一般社団法人岐阜県観光連盟、長青山寶樹寺梅窓院それぞれのご担当者さまより、快く画像を提供いただきました。この場をお借りいたしまして、深く御礼申し上げます。さらに、郡上市役所より多くのご案内をお送りいただきました。どれほど自分の助けになったことか、重ね重ね御礼申し上げます。

 

最後までお読みいただき誠にありがとうございます。

末筆ではございますが、皆様のご多幸とご健康を、青山の地よりお祈り申し上げます。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com