kitahira blog

徒然なるままに、Benoitへの思いのたけを書き記そうかと思います。

≪九月尽特別プラン≫と≪お勧め料理・デザート食べ納め≫のご案内です。

 旬の食材には、いま我々が欲している栄養に満ち満ちています。その食材を美味しく食べることで、人は笑顔になり「口福な食事」のひとときとなります。そして、その笑顔は体の内側から湧き出でる力となり、我々をウイルス災禍から守ってくれることでしょう。

 日頃より並々ならぬご愛顧を賜っている上に、自分よりご案内している長文レポートに目を通していただけている皆様の労に報いるため、≪九月尽特別プラン≫を食べ納めとなる食材や料理とともに、ご案内させていただきます。期間は、20209月末まで。ご予約は、自分へのメールをご利用ください。お急ぎの場合には、以下のBenoitメールアドレスより、もちろん電話でもご予約は快く承ります。

benoit-tokyo@benoit.co.jp

 

ランチ

前菜+メインディッシュ+デザート

3,800円→3,530円(税サ別)

ランチ

前菜x2+メインディッシュ+デザート

4,800円→4,460円(税サ別)

ディナー

前菜+メインディッシュ+デザート

6,100円→5,680円(税サ別)

ディナー

前菜x2+メインディッシュ+デザート

7,100円→6,600円(税サ別)

 プリ・フィックスメニューの料理内容は、当日にメニューをご覧いただきながらお選びいただきます。ご希望人数が8名様以上の場合は、ご相談させてください。

 

 猛暑に悪態をつきつつも、名残惜しい夏とのお別れとなる「九月尽」です。10月には大幅にメニューが変更になるため、食べ納めとなるものばかり。そこで、残り1週間を切りましたが、皆様に特選食材とお勧めする料理を、以下にご紹介させていただきます。尽きるにはまだ早い!

 

≪最初の一皿は、冷製ヴィシソワーズでいかがですか?≫

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 毎年Benoitの夏季に登場する冷たいスープは、今期はジャガイモです。馴染みの食材ですが、素材が持ちうる美味しさを十分に楽しむには、やはりコツがありました。ジャガイモの繊細な甘さと滑らかさを生かすために、クリームではなくミルクでのばしてゆくのです。それだけでも美味しい、そこへプルンと鶏のブイヨンが加わることで、味わいに深みが増してきます。そして忘れてはいけないものが、バターをたっぷりつかったクルトンです。「後のせサクサク」とすることで、香ばしさと心地よい食感が生まれるのです。

 まだまだ残暑の残る昨今にあり、この冷たいスープから食事を始めるのも一興なのではないでしょうか。ランチでもディナーでも、プリ・フィックスメニュー前菜の選択肢として名を連ねます。

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VICHYSSOISE rafraîchie, garniture taillée

ジャガイモの冷製スープ “ヴィシソワーズ”

 

 ≪さらば、愛しきレバーテリーヌ…≫

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 Benoitがビストロである真髄は、やはり「テリーヌ」にあるのではないでしょうか。あまりにも有名な料理だけに、これといった決まった素材や調理法があるわけではなく、シェフの個性が表現される料理でもあります。Benoitの王道でもある「テリーヌ・ド・カンパーニュ」へ、割って入ってきたのが9月末までの期間限定「鶏レバーのテリーヌ」です。

 鴨を太らせたレバーが「フォアグラ」であれば、ニワトリを太らせると「白レバー」です。これをたんまり使うのですが、これではレバーペーストになってしまいます。そこで、豚の肩肉で肉肉しい食感と豚の背油で旨味を加えるように、よく混ぜ合わせ、テリーヌの型で焼き上げます。レバーの比率が高いため、熱が入り過ぎればパサパサとなる。断面がほのかにピンク色の、この職人技ともいえる火入れが、まとわりつくような白レバーの旨味を逃がしません。レバー好きにはぜひお楽しみいただきたい逸品です。

 Benoitランチのプリ・フィックスメニューに名を連ねます。もし、ディナーでご希望の際には、ご予約の際にご希望数をお伝えください。

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TERRINE DE FOIE DE VOLAILLE, pain toasté

鶏レバーのテリーヌ

 

≪「魚のスープ」が、皆様を地中海へと誘(いざな)います!≫

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 皆様の目の前で、スープがそそがれた直後から、磯の香りに包まれます。濃厚な茶色を帯びた深みのあるオレンジ色の液体に、透明感はないが輝いている。濃厚ながら、甲殻類のような濃さではなく、さらりとした感さえあるものの、余韻に感じる魚の美味しさに酔いしれることになるでしょう。

 五臓六腑に染み入るかのような美味しさは、猛暑に疲れた体を癒してくれそうな気がします。目を閉じれば潮騒(しおさい)が耳に届き、目を開ければ、Benoitの窓からは地中海が望める…かもしれません。

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Soupe de POISSON de roche, rouille et croûtons aillés

魚のスープ ルイユとクルトン

(追加料金 ランチ+800円 / ディナー+600円)

 

 7月になると、必ず問い合わせが入る、自慢の魚のスープです。美味しさを追求するあまり、どれほどの魚種にこだわっているのか、詳細をブログに書き記しております。2枚目の魚たちの画像が気になる方は、ぜひ以下よりご訪問ください。

kitahira.hatenablog.com

 

 ≪夏の魚といえば、スズキです!≫

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 夏の魚の代表と言えば、「スズキ」ではないでしょうか。脂ののったイワシの群れを追い求め、パクリパクリと喰らいつく。美味しいイワシをたらふく食べているスズキが美味しくないわけがありません。この切り身を、しっとりと時間をかけながら焼き上げてゆきます。

 魚の旨味を凝縮させてたようなジュをベースに、ケッパーとオリーブの旨味を加え、ヴィネガーの心地よい酸味を与えます。この甘酸っぱく仕上がったソースは、ナスとの相性も抜群。特に、魚の下に敷いている焼き叩いた長ナスに、このソースが絡め、スズキとともにお召し上がりいただいた時、それぞれの食材の織りなすマリアージュに、惜夏の想いを感じ取っていただけるはずです。

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Blanc de BAR doré, aubergine confite, condiment câpres/olives noires

スズキのオーブン焼き 茄子のコンフィ ケッパー/オリーブ

 

 ランチでは、宮城県気仙沼港で水揚げされた「メカジキ」です。200kg前後の、筋肉隆々(りゅうりゅう)としたこの美しい切り身をご覧ください。丁寧に捌いてゆき、厚めにカットし、休ませながらしとりと焼き上げます。まさに魚ステーキのように。

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ESPADON au plat, aubergine confite, condiment câpres/olives noires

メカジキのオーブン焼き 茄子のコンフィ ケッパー/オリーブ

 

Benoitではなかなかお目にかかれない仔羊料理、今月末までです!≫

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 仔羊の骨付きロース肉を表面に焼き色を付け、ふつふつとしたバターをふりかけながら、ゆっくりゆっくり熱を加えてゆく。この魅惑的な香りをどう表現したものか。表面には美味しそうな焼目がつくが、中はまだ生のままです。肉が内包している温まった肉汁を利用し、中からじっくり熱がゆきわたるように、温かい肉部屋で休ませます。美味しく焼き上げるために30分以上を要します。

 赤ワインを加えて仕上げたマスタードの上にラムチョップを盛りつけ。仔羊の旨味が凝縮したジュと呼ぶソースで仕上げます。じゅわ~と音が聞こえてきそうですが、もちろん無音です。

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 添えている美しい緑の円盤状のものは、パート生地の上に、たっぷりの荒くカットした枝豆をのせ、ハナニラスナップエンドウを飾り、パルメザンチーズをふりかけて焼き上げたもの。枝豆の触感と甘さが後引く美味しさで、これだけで前菜として通用するのではないかと思えるほどです。

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AGNEAU rôti, légumes verts au jus

仔羊のロースト 枝豆と緑野菜

(追加料金 ランチ+1,500円 / ディナー+1,200円)

 

 2020年の桃のデザートが、終わりを迎えようとしています!≫

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 2020年のBenoitの桃のデザートが、まもなく終わりを迎えようとしております。8月は岐阜県高山市の亀山果樹園さから、「白鳳」に始まり、「昭和白桃」を経て「黄金桃」へ。9月は山形県天童市の滝口果樹園さんへと継投してゆきました。今年の荒れた天候により、この桃の継投がどれほど「きわどい」ものであったことか…

 桃の継投の殿(しんがり)の大役を担ってくれたのは、晩生の品種「さくら白桃」です。画像を見るからに硬そうな印象を持たれるかと思います。これが育種されたのは最近のことで、まだまだ知られていない品種なのです。しゃくっという硬めの、まるでリンゴのような食感です。しかし、白桃の美味しさを持ち、なおかつ甘みが強いのです。

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 滝口果樹園さんにお願いし、9月初旬にごっそりと購入させえていただきました。総数30箱!届いた時には、あまりの量に不良在庫とならないかと心配でしたが、まったく余計な心配だったようです。今や残りが10箱を切ってしまいました。とうとう、今期最後を迎えようとしているのです。

 少しばかり、今回の「さくら白桃」を送っていただいた山形県天童市の滝口果樹園さんのことを。以前から、自分が知っていたわけではありません。9月の桃探しで、八方塞がりの自分に、救いの手を差し伸べてくれたのが「香川県さぬき市物語」でご登場いただいた、鹿庭さんでした。彼の言葉を引用させていただきます。

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 桃の栽培は堆肥など有機物を多く使い、収穫は一気にしてしまわずに、一つの木でも4回くらいに分けて味がのったものだけを選びながら収穫してゆきます。そのため、常に出荷できるわけではなく、収穫のタイミングでそのときいいものだけを選ぶので出荷数が限られたりすることがあるそうです。あまり多くを語らない若い生産者さんなのですが味がいつも安定していますのでおそらく土地の土質やバランスが良いのではないかと思います。

 滝口さんが丹精込めて育て上げた「さくら白桃」を使ったヴァシュランとはどのようなデザートになるのか。詳細は以下よりブログをご訪問いただけると幸いです。

kitahira.hatenablog.com

Vacherin aux PÊCHES

山形県さくら白桃のヴァシュラン

(追加料金 ディナー+800円)

 

Benoitシェフソムリエ永田の秘蔵のコレクションを、特別価格で皆様へ!≫

ワインの銘醸地として、名高いブルゴーニュ地方。南北に拡がる彼の地の、ほぼ中央に位置しているのが「Beaune (ボーヌ)」の街。そこに、1750年から素晴らしいテロワールを表現したワイン造りを行なっている老舗があります。45haの自社畑を所有し、そのうちの殆どがプルミエ・クリュとグラン・クリュ。また、パートナーの契約農家から供給されるブドウで自社畑産ワイン同様に高品質なワインを醸しているこの造り手は…

Domaine CHANSON (ドメーヌ・シャンソン)」

さて、なぜDomaine CHANSONの話をしているのか。いつもであれば、ご当主が来日し、Benoitでワインパーティー開催!と告知するのですが、昨今の状況はこれを許しません。そこで、皆様には、この老舗が醸すワインをBenoitのお食事とともに、皆様のご都合で、お楽しみいただこうと。特選ワインを特別価格で、皆様にご提案させていただこうと思います。Benoitシェフ・ソムリエ永田の、この一言から始まりました。

「このような逸品が、ワインセラーの奥底に眠っているのです」と。

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≪白ワイン≫

2015 Chassagne-Montrachet 1er cru Les Chenevottes

16,000円(税サ別)

2015 Puligny-Montrachet 1er cru Les Folatières

16,000円(税サ別)

 

≪赤ワイン≫

2012 Corton grand cru

16,000円(税サ別)

 

※すでに特別価格なため、ワインの日では割引対象外となることをご了承ください。

 

希少な逸品なために、ご希望の際は、すぐに返信またはBenoitへご一報をいただけると幸いです。2020年10月末までに、Benoitへお越しいただきますこと、なにとぞよろしくお願いいたします。ご予約日まで、希望数を大切に保管させていただきます。どれほど美味しいワインなのでしょうか?ワインごとに自慢話をブログに書き記させていただきます。少しでも参考になれば幸いです。

kitahira.hatenablog.com

 

  「涼風(すずかぜ/しんりょう)」というと、夏の季語。秋に感じる涼しさは「新涼(しんりょう)」や「初涼(しょりょう)」というそうです。秋分を迎え、暦の上では秋の最中。もう涼しさを感じていらっしゃることと思います。秋らしい寒暖の差は、知らず知らずのうちに体力を奪ってゆくもの、十分な休息と睡眠をお心がけください。

 そういえば、「女心と秋の空」とはよく耳にいします。しかし、江戸時代には「男心と秋の空」といったそうです。移ろいやすい心の持ち主は、いったいどちらなのでしょうか。

 

 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com

季節のお話「萩と野分」のご紹介です。

萩の葉に かはりし風の 秋の声 やがて野分の 露くだくなり  藤原定家

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 2020年9月22日に「秋分」を迎え、朝晩の涼しさが増してきたように思います。今年の中秋の名月(旧暦8月15日)は、10月1日にあたるそうです。そう考えると、今は旧暦8月の最中(さなか)ということになります。8月は、美しく生い茂るから葉月(はづき)とも呼ばれています。

 この頃に、涼しさをもたらす北風が吹き、秋深くなってゆくのだと古人はいう。陽炎(かげろう)が立ち上りそうな大気だったものは、すっかりと澄み渡り、空や海の青さが際立つような気がいたします。そのため、この北風は「青北風(あおきたかぜ)」と名付けられました。この青北風は、今ではなかなか目にすることが難しくなった渡り鳥である雁(かり)の渡来を助けるのだと信じ、「雁渡(かりわた)し」とも呼ばれています。この風に呼応するように咲き誇っているのが、秋の七草の「萩(はぎ)」です。

 万葉の時代から秋の代名詞的な花だった「萩」は、草冠に秋と書くだけあって、日本人が考え出した「国字」と思っていました。しかし、「国訓」だったのです。国字とは日本人が作り出した漢字で、国訓は既に存在する漢字に日本人が新たな読みを加えたもの。中国には、キク科の多年草であるヨモギの類のことを指し示す「萩(しゅう)」という漢字がすでに存在していました。日本のハギはマメ科多年草であり別品種です。古人は中国から伝来してきた「萩」の漢字に、日本のハギの美しさを見出したのでしょう。「萩(しゅう)」に「はぎ」という読みを当てたのです。「中国の萩」と「日本の萩」は別物なのです。

 昨今の朝晩の冷え込みによって、夜半に空気中の水蒸気が冷やされ、水滴となり葉や枝に現れたものが「露」です。陽が昇り、その朝露が眩いばかりにきらきらと輝くさまに、ついつい足を止めて見入ってしまうものです。平安時代歌人は、枝垂れるように伸びた先に花咲く萩の花や、その葉に宿る露に得も言われぬ美を見出しました。

萩の下露

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 涼をもたらす、心地良い風の音に秋の訪れを感じ、萩の下露で秋を実感する。そのような風情に浸っているなかで、なにやら不穏な風の音が聞こえてくるではないか。やがて野分(のわけ)が襲来するのだろう。野分はその字の如く、野を分けるような暴風のことで、今で言う台風のこと。その暴風が野だけではなく、萩の花や下露までをも砕き払ってしまうのだろう。

 旧暦の8月は、今頃にあたり、葉が美しく生い茂るから「葉月」であると前述いたしました。この時期は、野分の到来の多いもの。冬とは違い、樹々の葉は元気いっぱいであり、野分には負けじと踏ん張る姿が目に浮かびます。この健気な姿から葉月と名付けたのではないか?はたまた、野分で咲き誇る花々が散りゆき、葉だけ残るために葉月なのではないか?なかなか感慨深いものです。

 その野分の無慈悲に、嘆き悲しむ藤原定家の姿が自分には見えてきません。歌聖や歌仙とも違う、歌帝と評された後鳥羽院をも魅了した和歌の天才だけに、どのような思いをこの歌に込めたのでしょうか?聞き慣れない大きな音は、不気味な上に恐怖心を煽るものです。野分の猛威には今ほどに情報のないために、万全を期すことができません。遠方の友の安否を、心砕くほどの心配を詠んだのかもしれません。

 今年の野分は、想定外の動きと猛威を持っているようです、備えあれば憂(うれ)いなし、万全の準備をもってお過ごしください。そして、昨今の新型コロナウイルス災禍は、人に移動を制限し、人と人が会う機会を失わせることになりました。いまだお会いしていない方が多い中で、このメールを受け取っていただけるということは、無事息災であると信じております。いまだ収束の見えないウイルス災禍です。無理は禁物、十分な休息と睡眠をお心がけください。

 

 旬の食材には、いま我々が欲している栄養に満ち満ちています。その食材を美味しく食べることで、人は笑顔になり「口福な食事」のひとときとなります。そして、その笑顔は体の内側から湧き出でる力となり、我々をウイルス災禍から守ってくれることでしょう。

 そこで、Benoitでは、「九月尽」と銘打った特別プランをご用意させていただきいました。詳細は、以下より次のブログをご訪問いただけると幸いです。お勧めの料理もご紹介しております。

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 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com

「魚のスープ」が、皆様を地中海へと誘(いざな)います!

  7月になると問い合わせが入るBenoit東京の「魚のスープ」。マルセイユの代表料理ですが、Benoitではドロドロしいというよりも滑らかに仕上げています。「魚介」ではなく「魚」のスープは、ワインを使用せず、魚本来の美味しさを引き出す。エビ・カニ・貝類を一切加えないため、食せば食すほどに魚の旨味を堪能できます。

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 マダイにクロダイ、そしてイトヨリダイ。カサゴにホウボウと贅沢に使用した7月から、8月9月はさらに、夏の味覚のマゴチ、オニカジカとオニカサゴが加わります。いかつい姿だからといって、「オニ」「オニ」と、見たこともないのに、鬼にも魚にも失礼千万な話。しかし、この3種は姿からは想像もつかないほど繊細で美味なる身質を持っている魚たちです。

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 「POISSON de roche」という表記に、「roche(岩)」だけに「岩魚」やら「磯魚」との訳をあてています。確かに荒波の磯でもまれにもまれた魚種は美味しいもの。しかし、旨味の多い魚が磯ばかりではないことを、深い魚文化の日本人は知っています。ごつごつだったり、とげがあったり、ぬるぬるしていたり。

 8月に仲間入りした魚たちの特徴といえば、自分のような素人が捌くには難儀な、ごつい顔と堅い骨があることでしょう。これが旨味のもととなります。「roche」とは、そういう「ごつごつの魚」を総称して名付けたのではないとも思うのです。どう調べても確証は持てませんが、そのような気がしてならないのは、あまりにもBenoitの「魚のスープ」が美味しいからです。

 皆様の目の前で、スープがそそがれた直後から、磯の香りに包まれます。濃厚な茶色を帯びた深みのあるオレンジ色の液体に、透明感はないが輝いている。濃厚ながら、甲殻類のような濃さではなく、さらりとした感さえあるものの、余韻に感じる魚の美味しさに酔いしれることになるでしょう。

 五臓六腑に染み入るかのような美味しさは、猛暑に疲れた体を癒してくれそうな気がします。目を閉じれば潮騒(しおさい)が耳に届き、目を開ければ、Benoitの窓からは地中海が望める…かもしれません。

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Soupe de POISSON de roche, rouille et croûtons aillés

魚のスープ ルイユとクルトン

(追加料金 ランチ+800円 / ディナー+600円)

 

 余談ですが、あまり馴染みのない魚たちなので、この場を借りてご紹介させていただきます。

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 まずは北の海からは、「オニカジカ」です。浮袋が無い魚だからなのか、大きな胸ビレを上手に使いながら砂礫の海底をさまよう。いかつい姿から「オニ」を冠する美味なる魚です。ちなみに、「カジカ」は淡水魚のことで、清流にしか生息しない準絶滅危惧種。故郷新潟県北部では、馴染みのある魚で、夏の夜に川に獲りに行き、焼いて味噌つけ食べたものです。きっと、水族館や研究者の方からは、「食べない」で「確保!」と言われることでしょう…同じ仲間ながら、海と川との違いは大きいものです。

 沿岸や浅い海の中を席巻している魚類は、分類上では「スズキ目」に与(くみ)します。「オニカジカ」は、この「スズキ目」であるとする資料があるかと思いきや、「カサゴ目」にあてがっているものもあります。人間が勝手気ままに分類しているのであり、とうの本人には、いやいや本魚にはどうでもよいことなり。

 

 次は沿岸部を席巻しているスズキ目の魚たちに、「にらみ」を利かすように沿岸の岩礁に陣取り、小魚や、エビやカニをバリバリと食しているカサゴ目の魚です。生きとし生けるものは、食べたもので体ができています。魚も人も同じこと旨味の多いものを食し、体に蓄えているのでしょう。この口中に、きれいに並ぶ丈夫な歯なくして、甲殻類を捕食はできません。

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 この口の主は「オニカサゴ」です。とげとげしい「棘条(きょくじょう)」の背びれと尻びれを持つので、捌くときには要注意ですが、旨味に満ち満ちている美味なる魚です。さらに、体の割には大きな頭をもっており、これがまた旨味のもととなる。姿が「いかつい」からと、「オニ「」オニ」と無礼千万と怒っているかもしれません。

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 最後は、上下に薄いこの特徴的な姿、「マゴチ」です。夏の美味なる旬食材として、和食でも名が挙がるのですが、如何せん、大きさの割に可食部が少なく、ぬるっとした体表に堅い頭や骨なため、捌くことも一苦労。このマゴチ、上記2魚と似ても似つかない姿ですが、カサゴ目に分類されています。専門的な話はさておき、美味しい魚であることに間違いありません。

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 さて、築地から豊洲と移るも、創業75年を誇る魚卸しの老舗「大芳(だいよし)」さんが、「コチは漢字で≪鯒≫と書くのです」と貴重な情報を教えてくれました。「色々地域によって説があると思います。」と前置きし、「私の聞いた話では」と切り出してくれました。コチは砂泥底に身を潜め、餌となる魚類を待ち伏せます。そして、砂中から飛び跳ねるようにて捕食する。逆に、捕食されそうになった時、飛び跳ねるように逃げる。その姿は、まるで≪踊≫っているように見えるため、≪鯒≫なのだと。確かに、コチは≪魚≫だけに≪足≫はない。

 コチは、水揚げされた漁港から市場に送られる際に、まず発泡スチロールの箱に氷を敷き詰め、その上に「腹を見せて」のせられ、梱包されます。なぜなのでしょうか?

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 腹を見せて販売する理由は、丁寧に水揚げし輸送にも気を配っておりますという証を見せる意味合いがあるようです。海底の砂底に腹をつけて生活する底生魚のため、腹側は皮が薄く、海底や網に擦れて赤くなってしまうものもある。さらに、輸送時に、自分の重みで身が凸凹になり見た目にも悪い。そこで、皮の厚い背側を下にするのです。ヒラメなどもこうして出荷されます。

 「海の中で生きているときはもちろん、生簀(いけす)でも、腹側が下です。これは、自然界の生存競争に勝ち抜くために臨戦態勢でいる事を意味してるのだといいます。ひょっとすると、人と一緒で腹側を上にした方が本当はリラックスでき、身体にはいいのかもしれません。そういえば人間を含め昆虫類も大概は死を迎えた時、腹が上です。」言われてみれば、大いに頷く自分がいます。

 

 「魚のスープ」が、どれほどの魚を使い、どれほど美味しく仕上がっていることか。今回ご紹介した「オニカジカ」と「オニカサゴ」、さらに「マゴチ」。思うと全てが「カサゴ目」に与(くみ)しています。美味しさの秘訣は「カサゴ目」にあり?魚図鑑の様相を呈してきたところで…おや、お後がよろしいようで…

 

 いまだ終息の見えないウイルス災禍です。無理は禁物、十分な休息と睡眠をお心がけください。ウイルス対策もお忘れなきように。我々ひとりひとりの行動が、この未曾有のウイルス災禍を「収束」へ向かわせ、必ず「終息」するものと信じております。そう遠くない日に、笑いながらお会いできる日を夢見て、日々最善を尽くさせていただきます。今後ともなにとぞよろしくお願いいたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com

≪ひうらの里のすもも≫のクラフティのご案内です。

行く先も まだ遥かなる 山みちに まだき聞こゆる ひぐらしのこゑ  藤原輔伊(すけただ)

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 山道を歩いていると、目的地にはほど遠いにもかかわらず、早くもヒグラシの声が聞こえてきたではないか。ヒグラシの寂しい声が山間に響き渡る。かなかなかな…独特の澄んだ声色は、夕暮れが迫ってきていることを教えてくれる。さあ、闇夜になる前に先を急ごうではないか。

 今の世は、「三密」を回避せよと識者の方々が連日のように口にする。真言宗の開祖である空海は、我々に「三密」の大切さを説く。空海の出生地は讃岐の国、いまでいう香川県。今回ご紹介する特選食材を育んだ地も香川県。なにかと繋がりを感じるのは、ただの偶然なのでしょうか。空海の「三密」とはいかに?

 今回は「香川県ひうらの里の旅物語」と銘打ち、前編≪いざ!飯田桃園さんへ≫、中編≪飯田桃園さんのご紹介≫、後編≪さあ、結願へ≫をブログに書いてみました。このご案内は、このメールの最後にリンク先を添付させていただきます。

 

 さて、香川県といえば、「讃岐うどん」と真っ先に思い浮かべるのではないでしょうか。香川県の人にとっては欠かすことのできない料理であり、もちろん美味しいとくる。シンプルな料理だからこそ、素材やうどん制作過程に手を抜いてはいけないもので、なかなか奥が深いものです。

 そのうどんの名声に隠れてしまっているのですが、香川県には美味しい食材が豊富にあるのです。瀬戸内海の海産物はもちろん、讃岐平野には多種多様の美味なる農産物が育まれています。「グリーンアスパラガス≪さぬきのめざめ≫」は、Benoitの春の食材として確固たる地位を得ております。

 この平野の特徴は、平野部に丘陵が点在していること。香川県は北側を瀬戸内海と面しているため、この海を背にした南側の斜面を利用することで、美味しい果実を実らせることがきるのです。そこで、昨年に続き、今年も、さぬき市で長年にわたり代々モモとスモモ栽培を手掛けるのが、飯田桃園さんからスモモを購入させていただいております。

 輸送に耐えることのできる完熟具合ぎりぎりまで収穫を待ち、Benoitへ送り出す彼らのスモモは、芳醇な香り、弾力のある食感に溢れ出てくる果汁、スモモらしい心地良い酸味。品種が変わるたびごとに、その美味しさに魅せられます。飯田桃園さんの果樹園は「ひうらの里」と呼ばれ、江戸時代からモモ・スモモの栽培を続けているのだといいます。

 代々続く栽培の歴史は、ひうらの里で美味しいモモとスモモが実ることを証明しているようなもの。飯田桃園さんが、どのような果樹園なのか?気になることと思います。そこで、どれほどの果樹園であるのか?さぬき市の旅路とともにブログでご紹介させていただきます。リンク先はこのメール最後に記載いたします。

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 飯田桃園さんより直送されるスモモは、アラン・デュカスグループのアジア圏を統括するフランス人パティシエを納得させるに十分な美味しさです。今年のデザート年間計画を立てる際に、「昨年のスモモは今年も購入できますか?」と自分に問いてきたほど。もちろん、返事は「もちろん、喜んで!」です。飯田さんに何も確認せずに勝手に返事を…

 7月のスモモ「大石早生」から始まり、「新大石」「フランコ」「ソルダム」と続き、今は「太陽」です。画像のスモモが白く粉拭いて見えるのですが、これは残った農薬などではありません。キュウリやブドウなどにも見ることができる、「ブルーム」と呼ばれるものです。健全な植物自体がもっている、抗菌能力のひとつです。手間暇を惜しまず、健全に育てているかの証でもあります。

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 今期もまた、スモモの特徴でもある酸味を利用し、バニラの風味豊かな熱々のデザート「クラフティ」というスタイルに仕上げていきます。クラフティは、甘酸っぱいグリオットチェリーやルバーブで仕上げることの多いフランス伝統のデザート。これを、同じく酸味が特徴のスモモで、ましてや飯田桃園さんの逸品であれば、美味しくないわけがありません。

 Cookpotと名付けられた耐熱の器の中に、アーモンドパウダーをたっぷりと。フルーツは、果皮の内側と種の周りに美味しさが蓄えられます。さすがにスモモの種は大きいので、取り除きますが、果皮を残してくし切りにし、器の中に盛り付けてゆきます。

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 そこへ、卵にクリームを加えたアパレイユと呼ばれる生地をそそぎ入れ、そしてオーブンへ。いたってシンプルな理由は、スモモの美味しさを最大限に生かすためであり、シンプルだからこそスモモが美味しくなければ、美味しいデザートには仕上がりません。

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 焼き上がったスモモのクラフティは、魅惑的なバニラの甘い香りをはなってきます。口に含むと、卵とクリームの焼き上がった時の、あの優しくも滑らかな味わい、さらにアーモンドの香ばしさが加勢する。ごろごろと入っているスモモは、熱が入ることで甘みが引き立ち、酸味がまろやかになり、これまた美味なり。

 レ・リボーと呼ばれる、低脂肪発酵ミルクで仕上げたヨーグルトのようなアイスクリームとともに、皆様のテーブルへお持ちいたします。熱々のスモモのクラフティの上に、このアイスクリームをのせてお召し上がりいただくと、溶けかけのアイスクリームとの得も言われぬ相性をお楽しみいただけると思います。

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Clafoutis aux PRUNES

香川県“ひうらの里のすもも”のクラフティ

 

 ランチでもディナーでも通常のプリ・フィックスメニューの選択肢の中で+500円でお選びいただいております。しかし、この長文メールを受け取っていただいている皆様には、この追加料金なくお楽しみいただきたいと思います。2020年Benoitの「スモモのクラフティ」は、9月末までの予定です。

 ここ最近の動向の読めない台風の数々、天候の亜熱帯化が、どれほど飯田桃園さんのスモモに影響を及ぼすか予想がつきません。そこで、ご予約の際に、「スモモ希望」とお伝えいただければ、準備できる数が少ない場合には確保させていただきます。このメールへの返信、土日や急ぎの場合には、

benoit-tokyo@benoit.co.jp

よりお願いいたします。もちろん電話でもご予約は快く承ります。なにゆえ自然のことゆえ、ご理解のほどなにとぞよろしくお願いいたします。

 香料や化学調味料でも加えない限り、素材以上の美味しさを出すことはできません。その素材の持ちうる美味しさを、生かすも殺すも調理人しだい。優れた調理人とは、素材を見極め、その旨味を最大限に引き出すこと。なぜ2年続けて飯田桃園さんのスモモをBenoitが購入しているのか?飯田桃園さんが丹精込めて育てたスモモが、あまりにも美味だからです。皆様、気になりませんか?

 

 今回の特選食材を育んだ、香川県さぬき市。思いのほか歴史深い地でした。昨今の新型コロナウイルス災禍は、旅行という楽しみを奪ってしまったこともあり、今回は旅をするようにお楽しみいただこうと、「香川県ひうらの里の旅物語」と銘打ち、前編≪いざ!飯田桃園さんへ≫、中編≪飯田桃園さんのご紹介≫、後編≪さあ、結願へ≫とブログでご紹介させていただきます。

 讃岐国で聖を受けた、真言宗の開祖である空海は、我々に「三密」の大切さを説く。今回ご紹介する特選食材を育んだ地も讃岐国。なにかと繋がりを感じるのは、ただの偶然なのでしょうか。はて空海の「三密」とはいかに?そして、今回は冒頭の一句に、さらなる感慨深さを感じ取っていただけると思います。

kitahira.hatenablog.com

 

 香川県さぬき市の旅路は時間のあるときにし、飯田桃園さんがどのような果樹園なのか?気になる方は、一足先に中編≪飯田桃園さんのご紹介≫をご訪問いただけると幸いです。

kitahira.hatenablog.com

 

 立秋を迎え、暦の上では秋が始まっています。しかし、まだまだ猛暑な日々が続くようです。自分の体力を過信し、無理な行動は禁物です。十分な休息と睡眠、こまめな給水と塩分補給をお心がけください。木陰に入り、葉の間を抜ける心地よい薫風(くんぷう)、陽射しにきらめきながら重なり合う結び葉、なんと美しい光景かと夢心地となるも良いですが、夢の(意識の無くなった)世界から抜けることができなくならないよう、ゆめゆめお忘れなきようにお気をつけください。

 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com

香川県さぬき市の旅物語・後編 ≪さあ、結願(けちがん)へ≫

 長々と書いてきた今回の旅物語も、いよいよ後編です。香川県は歴史深い地だけに、多くの史跡や伝説があり、さぬき市に限定してみても、伝えきれるものではありませんでした。飯田桃園さんのご紹介でも登場した「讃留霊王(さるれいおう)」の「悪魚退治伝説」は、ご紹介したいお話でした。しかし、このお話は次の機会へ持ち越させていただきます。

 なぜ、この伝説を割愛したのか?それ以上に皆様にお伝えしなければならない物語が、造田の里にはあるのです。今、皆様には県道3号線(志度山川線)の「萩の木地蔵」さんのところに戻ってきていただきました。最初の旅物語を思い出していただきたいです。このお地蔵さんにお会いする前に、「当願堂(とうがんどう)」へ立ち寄りました。そこには龍神伝説があると書いたまま、何も説明することもなく通り過ぎてしまったのです。この伝説、気になりませんか?

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 それはそれは、昔々のお話です。時の元号は「延暦」、今から1200年ほども前のことだろうか。この当願堂のある地は、「長行(ながいく)」と呼ばれていたそうな…

 この地に、当願(とうがん)と暮当(ぼとう)という猟師の兄弟が住んでいたという。兄の当願は裕福な家の嫁をめとり、日々の暮らしに困ることはなかったが、弟の暮当は毎日の糧を得ることも難儀な生活であったのだという。

 とある日、志度寺の本堂が建立され、落慶供養(らっけいくよう)の法会(ほうえ)が行われることになった。当願はこの法会に参加すべく志度寺へ向かう。暮当は、生きるために糧を得るために、猟へ行かねばならなかった。志度寺では今ごろは有難いお説教が始まっていることだろうと考えながら、家族を養うためと自分に言い聞かせながらの…。一方、猟を休んで法会に居並んでいた当願は、お説教を聞くのもうわの空で、弟の暮当が猟場で獲物をひとりじめにしていることだろうと、「妬(ねた)み」と「忌々(いまいま)しさ」に心を乱していた。

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 そうこうしている間に供養も終わり、たくさんの参詣人も帰りはじめたが、どうしたことか当願は体が重くなって立ち上がることができず、その上、下半身が熱をおびてどうすることもできなくなってしまった。

 やがて日暮れも迫ってきたので、暮当は獲物を持って、兄に有難いお説教の話などを聞こうと急ぎ足で家に帰って来た。ところが、いくら待っても当願が帰って来ないので、志度寺へ兄を迎えに行くことにした。

 夕暮れ時のこと、暮当は当願ひとりが本堂の薄暗闇の中で座っている姿を目にする。近づいてみると、当願の体はみるみる大きくなり、下半身は蛇身に変わっていった。そして、肩で大きな息をしながら、「おれは空念仏のために畜生になった。信心深いお前の情で幸田池(こうでんいけ)へ入れてくれ」と懇願したのだ。暮当は、あまりの出来事に困惑するも、当願の変わり果てた姿に、苦しむ姿に、懸命にこらえるも涙がこぼれ落ちる。暮当は兄を背負って、幸田の池へと連れて行ったという。

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 三日たって暮当が幸田池へ行ってみると、大蛇になった当願が姿を現した。そして、「幸田池ではせますぎるので、火打山池へ連れて行ってくれまいか?」と。火打山池に移るも、またしばらくして「今度は満濃池へ連れて行ってくれ」という。そして、礼をいい、自分の左の眼をくりぬいて暮当に渡したのだ。「これを甕(かめ)に入れておけば、いくら汲んでも尽きることなく酒になるので、それで暮らしをたてるようにするといい」そう告げて、池の中に身を沈めていった。

 当願の教え通りに酒を造ってみたところ、それはそれは美味なる酒が醸された。この酒を売り歩くことで、少しずつ暮当の暮らしも楽になってきた。不思議なことに、この酒は酌(く)んでも酌んでも尽きることがなかったという。

 暮当の留守に、彼の妻が酒の秘密を知って、ついつい村の者に話してしもうた。その話が郡司(こおりのつかさ)の耳に入り、その眼玉を差し出すようと、暮当は下知を受ける。暮当は逆らうこともできず、泣く泣く当願の片目を差し出した。郡司から国司(くにのつかさ)に、その片目がわたると、国司は喜ぶとともに、こう言い放ってきた。「この玉は双玉のはずだから、もう一つの玉も差し出すよに」と。

 暮当がこの下知に逆らうことで、自分のみならず家族皆の生活が成り立たなくなるばかりか、命の保証もないことを悟る。思い悩むも、どうすることもできない。暮当の足は当願のいる満濃池に向かっていた。

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 事情を察した当願は快くもう一つの目玉を差し出してくれ。こう告げた。「暮当よ、早く持ってゆくがよい。水の底には住み慣れて、目の玉が無くとも何も不自由はせん。」「兄さん、本当にすまない」と、暮当は右の眼を受け取った。

 暮当は、この右の眼を涙で磨いて献上したそうな。国司は沢山の褒美を与えようとしたが、暮当はそれを受けず、そのまま姿を消してしまった。

 事の次第を知った当願は、大いに悲しみ怒り、満濃池の堰堤(えんてい)を突き破り、瀬戸内海へ。その後、大槌島(おおづちじま)と小槌島(こづちじま)の間の海中に移り竜神となって住みつくようになった。干ばつのときには、長行の人たちがこの両島の間「槌の門」に神酒を海中に沈めると、必ず雨を降らせてくれるという。

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(長尾町史より 北平加筆)

 

 暮当と当願が住んでいたという地に建立されたのが「当願堂」です。暮当が当願を背負って志度寺を出て、家に帰る途中の大きな池…この龍神伝説の登場する最初のため池「幸田(こうでん)池」はどこなのか?

 さぬき市旅物語・前編で、志度寺から県道3号線を南下していったところに、「長行(ながいく)池」と呼ばれている大きなため池があったことを思い出していたけますか。この池の別名が「幸田池」です。堰堤の先、遠くに望めるのは小豆島です。

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 火打山は、香川県徳島県の県境に聳(そび)えている山のことです。「火打山池」は、どう調べても分かりませんでした。この池の次が、「満濃池」であることを考えると、県境まで当願が龍に姿を変えた暮当を背負っていったとは考えにくいものです。そうすると、池の大きさを考えると、前編でもご紹介した、満濃池へと向かうと途中に位置する「豊稔池」なのではないか、はたまた「内場池」かなとも思いますが…

 県道3号線をさらに南下したところに、桜の名所「亀鶴(きかく)公園」が姿を現します。池の真ん中にある亀島まで300mの道が繋がっていてその道の両端に約500本のソメイヨシノが植ってます。満開になると池の真ん中に向かって桜並木ができ、それはそれは美しい光景ですよ、と鹿庭さんが教えてくれました。

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 この公園を取り囲むように広がる「宮池」。確たる証拠は何もないのですが、ここが火打山池と書き記していた池ではないかと思うのです。長行池よりも大きく、もちろん満濃池よりも小さい。当願堂からもほどよく近い。そして、この池の西側に「宇佐八幡宮」が鎮座してる。この神社には、当願の両眼が奉納されているという…

 

 幸田池(今は長行池)の堰堤の先には志度寺があり、志度湾が広がる。龍神伝説を知った後に、この志度湾を空高くから望むと、まるで龍が口を開いたかのような姿をしているように見えなくもない。龍の上あごが五剣山を要する半島(左の半島)であるとすると、口中の舌のような小串半島と下あごの大串半島(右側の細く突き出た半島)です。

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 大串半島の先には自然公園が広がり、そこからは志度湾、五剣山、屋島の大地まで一望できます。この景色は、今も昔も変わりません。古代讃岐の人々もここからの絶景を眺めていいたことでしょう。その中に、四国霊場を創設した空海もいたかもしれません。

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 香川県善通寺市にある75番札所「善通寺」(下の画像)は、空海の生誕地といいます。彼は真言宗の開祖であり、歴史の教科書にも必ずその名が登場します。遣唐使の一員として古代中国に渡航し、「密教」を会得した後に帰国。その後、高野山金剛峯寺を建立するのです。醍醐天皇は、その功績から彼に「弘法大師」の尊称を贈ります。

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 空海は、唐で密教だけではなく、優れた土木技術も学んでいたようです。今回の「さぬき市の旅物語」に幾度となく登場する日本最大のため池「満濃池」、その膨大な貯水量は、相応の水圧を堰堤に与えきます。かつては、その圧に耐え切れず決壊していたものを、空海はその優れた土木技術で見事に改修しているのです。

 さて、偉人である空海の足跡を辿ってしまうと、話が全く終わらなくなってしまうため、ここでは割愛させていただきます。皆様、ほっとされているのではないでしょうか?少しだけ、空海が人々を救うために人々に布教していった「密教」のことを書かせていただきたいのです。

 密教というと、なにやら怪しい雰囲気を感じずにはいられません。調べてみると「秘密の教え」という意味といいます。密教以外の仏教のことを「顕教(けんぎょう)」と言い、顕教とは、「あらわになっている教え」、それに対しての密教は「秘密の教え」です。

 顕教は、「煩悩」を捨て去り、「悟り」をひらくことを目的にします。書いてしまうと簡単なのですが、煩悩を捨てるためにどれほど多くのお坊さんが苦行を重ね続けていることか。そう簡単に「悟り」がひらけないことは、史実が物語っています。これでは現世の人々が救われないではないか。そこで、古代賢人は、この世知辛い世の中の、人々はどうしたら救われるのだろうか?と考えた。そして新しく「密教」という宗派が誕生したのです。

 悟りを妨げるのは108にも及ぶ「煩悩(ぼんのう)」だと顕教は教えてくれる。中でも、「欲」「怒り」と「愚痴」は、「三大煩悩」と呼ばれいます。自分さえ儲かればいい、認められれば良いという「欲」。言ってはいけないことを言う、行動に移すことで引きおこる「怒り」。妬(ねた)みに恨み、そして憎しみの「愚痴」。全て、大小にかかわらず、人間が引き起こす争いの原因です。

 では、どうしたらいいのか?この道筋を教えてくれるのが密教のお坊さんです。空海が開いた真言宗においては、人々に救いの方法を伝えるお坊さんを育成するために、高野山金剛峰寺を建立し、高野山全体を修行の場としたのです。空海は、我々に「三密」を実践することを説いています。新型コロナウイルス災禍で話題になった「三密」ではありません。

 空海は、我々に「身密(しんみつ)」「口密(くみつ)」「意密(いみつ)」の三密を実践しなさいという。「身密」とは、正しい姿勢のことです。清潔感のある身だしなみや立ち居振る舞いを心がけること。軽率な行動は人を悲しませ、不快な思いを与えてしまうことを理解しなさいと。「口密」は、言葉遣いのこと。言葉には力があり、人を喜ばせもすれば、悲しませもする。「意密」は、思いやりの心のこと。優しい言葉や言動は、物事を正しく判断することのできる心を養うことで生まれる。

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 空海は、四国に88か所の霊場を設定いたしました。我々がその全てを歩いて辿ることは、空海が何かを感じ取った地であり、それを分かち合うことで、少しでも救われることを空海は願っているのではないでしょうか。自分の人生を省みながらの道のりこそが「遍路」なのだと。「遍」の漢字には、「ゆきわたったさま」という意味がある。

 県道3号線(志度山川線)は、四国八十八箇所霊場の86番札所「志度寺」、87番札所「長尾寺」そして、88番札所「大窪寺」へと導く、遍路としては重要な位置づけにあります。そのため、この道は「結願(けちがん)の道」とも呼ばれています。志度寺から長尾寺の間に、当願堂があります。

 当願堂の龍神伝説は、「妬み」と「忌々(いまいま)しさ」という煩悩が、人が人であることを阻害し、人が人と生きてゆくことを妨げる。そして、全てを失う。空海は、結願(けちがん)するため今一度「三密」の大切さを理解してほしいと願い、遍路の終盤の道筋を当願堂の脇に定めたのではないか。なんの確証もないのですが、そう思えてしまいます。

 

 当願堂を過ぎ、さらに県道3号線を南下してゆく。田畑の広がる平坦な道のりを進み、ことでん長尾線の「長尾駅」へと向かうように右手に曲がると、87番札所「長尾寺」が姿を現します。

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 739(天平11)年、行基によって開基されたといいます。彼がこの地を歩いていた時、道端の柳(やなぎ)に霊夢を感じ、その木で聖観音菩薩像を彫像したものが、ご本尊です。空海は、唐へ渡航する際に年頭七夜にわたり護摩祈祷を修法(しゅほう)しています。燃え上がる炎の中へ、願い事が書かれた木札(護摩木)を投げ入れる。炎の力によって仏さまに願いを叶えていただく。国家安泰・五穀豊穣に加え、入唐の成功を祈ったといいます。

 長尾寺を後にし、目指すは結願の地である88番札所「大窪寺」へ。県道3号線へ戻り、南へ南へと進みます。前述した桜並木の美しい亀鶴公園を過ぎたあたりで、里山へ入ってゆきます。「昼寝山」と名付けられているものの、460mの標高を持つ山だけに、道のりはなかなかに険しいもの。

 山間を抜けるように、奥へ奥へと進むにつれて、難儀な道のりへと姿を変えてゆく。標高787mの矢筈山(やはずやま)を西側から反時計回りに回り込むように道を上ってゆきます。すると、県道3号線と重複していた344号線が分岐する三叉路が見えてくる。ここで県道3号線とは別れを告げ、左へ曲がるように県道344号線へ。不安になるも、そのまま進んでゆくと、88番札所「大窪寺」が迎えてくれます。今でこそ道路が整備されていますが、かつてはそうとうの難所であったことは、想像に難くはありません。

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 矢筈山の東側中腹にある四国八十八カ所最後の地、結願の霊場大窪寺」。717(養老元)年に行基が立ち寄った際に、霊夢を感得し草庵を建て修業をしたのだといいます。815(弘仁6)年に唐から帰国した空海が、今の奥の院のある岩窟で「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」なるものを修法した。そして、堂宇(どうう)を建立、薬師如来坐像を彫像し、ご本尊としました。さらに、唐で空海密教を伝授した恵果より授かった三国(インド・中国・日本)伝来の錫杖(しゃくじょう)を奉納し、大窪寺命名したのだといいます。 

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 徳島県の鳴門から西へ10kmほどのところに、坂東という小さな町があり、その町外れに「霊山寺(りょうぜんじ)」があります。ここから始まった「四国八十八カ所霊場」を巡る遍路は、長く険しい道のりを経て、ここ「大窪寺」で結願を迎えます。霊場を渡り歩く間に、自らの煩悩を大いに省み、空海の足跡を辿ることで、空海の説く「三密」を一歩一歩と学んでゆくことになるのでしょう。

 人心の乱れは、厭世観はびこる世界となり、やがては人が人を信じることのできない悪鬼の世界となる。煩悩を抑え込むことは、和やかな人間関係を構築し、人が人として生きてゆける素晴らしい世界になる。空海はこう悟ったのではないでしょうか。

 

行く先も まだ遥かなる 山みちに まだき聞こゆる ひぐらしのこゑ  藤原輔伊(すけただ)

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 山道を歩いていると、目的地にはほど遠いにもかかわらず、早くもヒグラシの声が聞こえてきたではないか。ヒグラシの寂しい声音(こわね)が山間に響き渡る。かなかなかな…独特の澄んだ声色は、夕暮れが迫ってきていることを教えてくれる。さあ、闇夜になる前に先を急ごうではないか。

 我々が煩悩を取り去り悟りをひらくことなどできるわけもない。しかし、一人一人が空海の「三密」を意識することで、同じ方向を見ることができます。素晴らしい世界になるという結願には、まだまだ遥か先のことかもしません。それでも一歩は踏み出したことには違いなく、着実に一歩は前進していると思います。「身密(しんみつ)」「口密(くみつ)」「意密(いみつ)」が自らを変え世界を変えてゆくのです。

 迫りくる夕暮れを告げるかのように鳴きだすヒグラシ。目的の地はまだ遥か先のこと、闇夜となる前に辿り着けるのか。その澄んだ声音は、山路を急げと伝えてくれているのか、はたまた焦るなと教えてくれているのか。皆様にはどう聞こえますか?

 

 四国遍路の旅路が難しい昨今、ここはひとつ。結願の道半ばにある飯田桃園さんの育んだ「スモモ」デザートを楽しみながら、ゆっくりと考えてみることも、一興なのではないないでしょうか。ヒグラシが鳴き始める前に、Benoitへのご予約をなにとぞよろしくお願いいたします。

 

 今回の旅路の画像および情報は、飯田桃園さんはもちろん、公益社団法人香川県観光協会香川県ウエイ企画森田さん、Benoitと香川県食材を繋いでくれている鹿庭さんのお力添えが欠かせませんでした。この場をお借り、深く御礼申し上げます。

 

 立秋を迎え、暦の上では秋が始まっています。しかし、まだまだ猛暑な日々が続くようです。自分の体力を過信し、無理な行動は禁物です。十分な休息と睡眠、こまめな給水と塩分補給をお心がけください。木陰に入り、葉の間を抜ける心地よい薫風(くんぷう)、陽射しにきらめきながら重なり合う結び葉、なんと美しい光景かと夢心地となるも良いですが、夢の(意識の無くなった)世界から抜けることができなくならないよう、ゆめゆめお忘れなきようにお気をつけください。

 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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香川県ひうらの里≪飯田桃園さん≫のご紹介です。

 県道3号線「志度山川線」は、海のほど近い「志度寺」から、香川県を縦断するように内陸を南下してゆきます。讃岐平野の特徴でもある、点在する丘陵や里山の数々。そのため、この県道は、時おかずして右の雲附山(くもつきやま)と、左の石鎚山(いしづちさん)の山間(やまあい)を抜けてゆく。

 すると、「萩の木地蔵」さんが迎えてくれる場所が、飯田桃園さんの直売所です。いやGoogleマップは、なんと便利なことでしょうか。しっかりと「飯田農園」として表示されています。

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 この画像の上方向は北を指し、志度湾です。中央の里山が「雲附山」、その南の麓(ふもと)に近いところに「造田宮西(ぞうたみやにし)」という地名が。それと、画像左下には「昭和」と記載されています。この2つの丘の間、雲附山側に観音寺というお寺が現存しています。江戸時代後期、この観音寺の周辺の集落が「白羽」と呼ばれ、すでに桃の栽培が始まっていたいうのです。

 この歴史は香川県下でもっとも古く、まさに「桃の聖地」ともいうべき地。ここで栽培された桃は「観音寺桃」と名付けられ、当時の人々に親しまれていました。これほどの歴史のある地、造田宮西に飯田桃園さんのスモモと桃畑が広がっているのです。そして、古くから伝わる飯田家の屋号は「ひうら」といい、この屋号から彼らの果樹園を「ひうらの里」と名付けたといいます。

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 「ひうら」という言葉は、地元でも聞き慣れないというのです。広辞苑によると、「(岐阜、奈良、和歌山、徳島で)陽当たりの良い山の斜面。ひなた、陽だまり。表山。」という意味であると教えてくれます。確かに、県道3号線沿いにあるのは直売所で、果樹園は造田宮西の丘にあるのです。それも「南東向きの日当たりが良いなだらかな斜面」で栽培しています。

 そういえば、フランスのワイン畑を見てみると、一部急斜面や平地もありますが、おおよそが「なだらかな丘」に理路整然とブドウ樹が植栽されています。さらに理想的な斜面の向きは「南東」だという。午前の気温が低い時に光合成によって養分を果実に蓄え、午後の気温が上がったときには休息に入る。一日中、炎天下の元では、ブドウも疲弊するのだと聞いたことがあります。

 ブドウも「もももすももも」果樹であることに変わりはありません。「南東」という好条件は、北半球である日本もフランスも変わりません。飯田家で最初に造田宮西の南東に果実を植えたご先祖様も、フランスのブドウ栽培の伝道師である修道士さんも、果樹の特性を極めた賢人だったのです。

 

 余談ですが、「すもももももももものうち」とはよく言いますが、「すももももはべつのもも」です。ともに、中国が原産地で、モモは「桃」で、スモモは「李」と書きます。しかし、なぜかスモモは「日本すもも(プラム)」と名付けられています。スモモ(プラム)とプルーンが混同しがちですが、プルーンは西洋スモモであり、黒海カスピ海に挟まれたコーカサス地方が原産地です。

 

 内海である瀬戸内海の波の如く、穏やかで温暖な気候は桃にとって最適であり、造田宮西の「ひうらの里」は、十分な日照時間と水はけの良さをもたらしています。この地の居を構え、脈々と受け継がれてきた伝統の技を踏襲し、丹精込めて桃とスモモを栽培する飯田桃園さん。ご両親という大先輩より、栽培を任された若き園主、飯田将博(いいだまさひろ)さんにバトンが渡されました。

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 若き園主の果樹栽培への想いは、ご両親に負けず劣らず、さらなる高みを目指します。モモ・スモモに最適な土作り。さらに、採光の良い樹形への仕立ての工夫。樹へのストレスを減らす土壌水分管理。この肥培管理を徹底的に学び、実践しています。さらに、結実してからも安堵することなく、厳しい結実管理を徹底する。

 1年を通してのこの弛まぬ努力すべては、一年に一度しかない収穫で、他に類を見ないほど美味しい果実を手に入れるため。そして、丹精込めて育て上げた美味なる果実を、皆様にお楽しみいただきたいから。皆様の美味しさゆえの笑顔があるからからこそ、どんな苦境をも乗り越え、どんな苦労をも厭わないのです。

 この旬の美味しさを、少しでも長く皆様にお届けし続けたい。飯田桃園さんのこの強い想いは、多品種を植栽することで、約2ヶ月半にわたる長き期間に実りを得ることを実現させました。Benoitでは、7月初旬に紅鮮やかな果皮の「大石早生(おおいしわせ)」から始まり「新大石」へ、ぐっと赤みを濃くした「フランコ」、青みがかった果皮ながら果肉は赤い「ソルダム」と続き、今は濃紅色を思わせる大玉の品種「太陽」です。

 それぞれが美味しく、パティシエが品種によって微調整を加えながら仕上げていく姿は、年に一度の収穫のために、並々ならぬ努力を続けてきた栽培者への敬意を表するため。ほぼ1~2週間で品種が移り変わるため、Benoitパティシエチームを試しているかのようです。

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 上の画像は「太陽」です。まん丸の可愛い姿です。しろく斑(まだら)になっていますが、白い粉のようなものを表皮に見て取れます。これは農薬の残りなどではなく、カビなどの病原菌による腐敗を防ぐため、スモモ自体が蝋質の「ブルーム」と呼ばれるものを作り出すのです。健康な証拠であり、撮影時にどうしても自分が触れてしまうために、斑になってしまうのですが、収穫時はきれいに全体にまとっているのです。これは、スモモに限らず、ブドウやキュウリにも見ることができます。

 

 この「太陽」の前に、飯田さんがいうに「幻のスモモ」というものがありました。残念なことに、今期は天候不順と鳥たちについばまれ、収量「無し」という厳しい年に終わりました。昨年、Benoitで購入していたので、皆様にご紹介させていただこうと思います。その美味しさが鮮明に自分の想い出の中あるのです。冷蔵庫ではなく水で少し冷やして、かぷりといきたい。この瑞々(みずみず)しさと心地良い甘酸っぱさは、猛暑で疲弊した体を癒してくれるようです。

 いったい「幻のスモモ」とは、何なのでしょうか?飯田さんのメッセージを引用させていただきます。

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 「約2週間という短い収穫期間で、通常のスモモの木に比べて約2分の1程度しかスモモの実が取れないので、うちでは『幻のスモモ』と呼んでいます。年によっては、ほとんど取れない、ということもあり、採算が取れないため同じ品種のスモモを作っている農家はほとんどいないと思います。申し訳ありませんが、品種名は伏せさせていただいています。」

 まさに、今年のように「収穫0」のことが多々あるようです。果樹は1年に1回の収穫ができないために、これは農を生業とする方々にとっては死活問題です。

 「では、なぜ飯田桃園ではそんな手間暇がかかり効率の悪いスモモを栽培しているのですか?」

 「スモモのイメージが覆るほどの美味しさに魅せられたからです。エンジェル(天使)のような甘い香りを漂わせ、滴らんばかりの甘味の強い水蜜をもつ。メルヘンで芳醇な味わいです。」というのです。エンジェルのような香とは、いささか分かりにくいものですが、飯田さんは「可愛らしい小さな女の子のような香り」とも表現しています。

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 2人の娘を持つ親として、意外にこの表現には納得してしまいました。赤ん坊のころ、幼児のころ、子供のころで香りが変わるのです。これ、子育てをされた方には共感してもらえるのですが、いかがでしょう。特に幼児のころは、なんとうか「可愛がってね」というフェロモンでも発しているのか、抱っこしている時に、得も言えぬ優しい柔らかい香りがするのです。※間違っても、知らない他人で試してはいけません。

 飯田さんが「幻のスモモ」と銘打っている品種は、あまりの美味しさから「ひうらの里」の多くの生産者が栽培にチャレンジしたようです。しかし、その美味しさゆえに、少しでも気を抜くと鳥獣害虫の餌食になりやすく、まともに収穫できるきれいな果実に育てるには、並々ならぬ努力を必要とする上に、天の気分に大いに左右されるようです。さらに、収穫できたとしても果実があまりにも繊細で流通に耐えにくく、小売店でも扱いにくいため、継続することを諦める栽培者が続出し、ついには「幻」となってしまったといいます。

 

 自分が初めてこの品種にBenoitで出会った時、箱に整然と並んだ時の淡い色合いの美しさ、桃を思い起こさせるような優しくも甘い香りに心惹かれました。エンジェルのような…分かりにくくもあり、分かる気もする表現こそ、的を射ているのかもしれません。果実を割れば、輝かんばかりの透明感のある果肉に目を奪われ、滴る果汁は爽やかながらも十分な甘みを楽しめます。そして、ひとたび果皮を噛むことで、「スモモ」であることを思い出させてくれる、きれいで心地よい酸味が口中に広がるのです。

 

 昔々に中国より持ち込まれた「桃」は北方系の品種だったようです。先のツンととがった形をしており、今でいう「大石早生」に似ているような気がいたします。皆様、昔話の桃太郎のお話をご存知かと思います。子供のころ絵本で読んだ、その桃の柄を思い起こしてもらえますか。桃の形はこのようなものだったはずです。

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 時が下り明治の時代になると、南方系が日本に上陸し、偶発実生(意図的ではない自然の交雑から生まれた品種)によって生まれたのが、今の「まん丸の桃」の原型だと言われています。中国で陶磁器などに描かれている桃の絵は、尖がった桃ばかりであることを考えると、我々にとって馴染みのまん丸の桃のほうが珍しい形なのでしょう。下の画像は「新大石」です。

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 「モモ」と「スモモ」は、同じバラ科で名前こそ似ていますが、モモはモモ属、スモモはサクラ属でサクランボに近い仲間なのだといいます。もしや!「幻のスモモ」はこの南方系の桃なのではないか?と思ってしまう自分がいます。素人の自分に、品種が何なのか分かろうはずもなく、ヘタな詮索は野暮というものでしょう。飯田さんが秘密にしているように、このまま秘密の「幻のスモモ」のままのほうが、何かと歴史ロマンを感じる気がいたします。

 

 果樹園の話にも関わらず、冒頭で登場する「造田」という言葉。飯田さんが居を構える「造田宮西」は、造田地区と呼ばれています。この言葉が指し示す通り、田んぼを造り出していった地だからなのでしょうか?ブログ「さぬき市の旅物語」の中で、香川県の画期的な灌漑システムの話を書きました。奈良・平安時代の話で、讃岐平野に古代条里田を切り拓いていたので、間違いではない気もしますが…

 かつて、大和朝廷は日本国を治めるべく行政区分を策定し、これを「令制国」としていました。そして、その地を管轄するための官職「国造(くにのみやつこ)」を設けています。その「国造」に支給された田を「国造田(こくぞうでん)」と呼び、その国造田があった地だから、「造田」なのだというのです。なかなかに歴史深い地のようです。

 そういえば、飯田家の屋号が「ひうら」だといいます。そもそも、屋号というものが一般家庭にあるようなものではありません。この造田のような歴史深い地区で、南東向きの丘を所有し果樹園を切り拓くことができる。さらに、造田の人々に親しまれている「萩の木地蔵」が敷地内に祀られてある。考えれば考えるほど、普通ではい事象の数々は、飯田桃園さんのご先祖様は只ならぬ方なのではないかと。

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 すると、飯田さんがこう教えてくれました。「果実が実る果樹園には、鎌倉時代後期から室町、そして戦国時代にかけてのお先祖様と思(おぼ)しきお墓、五輪塔墓が数十基と立ち並んでいるのです。さらに、江戸時代中期(正徳時代)から平成にかけてのお墓と、無数の墓石が残されています。」

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 「江戸時代に家が全焼しており、奈良時代から続く菩提寺も兵火や失火で何度も火災に遭っているため、現在の地にいつ頃からいたのか、確たる証拠資料が残っておりません。」と教えてくれるも、「さぬきの道者一円日記」(冠櫻神社所蔵)には、戦国時代の1565年(永禄8年)9月に造田の里で、「いい田兵衛尉」と「いい田八衛門」それぞれが、初穂料として代百文と百十二文を寄進し、で「おひあふき」(帯・扇のこと)を賜るとある。

 飯田家の歴史を、もう少し時を遡(さかのぼ)っていきます。「香川県さぬき市の旅物語」で「国造(くにのみやつこ)」をご紹介いたしました。古代日本では、大和朝廷に服属した地方豪族が、この「国造」に任命されていたようです。大化の改新により律令制が導入されると、中央政権から「国司(くにのつかさ)」が派遣されることになり、この「国造」は「郡司(こおりのつかさ)」に任命されることになりました。

 讃岐国では、讃岐守として国司が派遣され、それまで国造であった凡氏・綾氏・佐伯氏・秦氏和気氏などが郡司に任命されたのです。その中でも一大勢力を誇っていたのが綾氏。その管轄下の長官である大領(おおくび)を務めていたのが、飯田家のご先祖様だったというのです。

 綾氏は姻戚を結ぶことで、讃岐藤家となり、時を経て分家が誕生してゆきます。室町幕府8代将軍足利義政の頃(応仁の乱の頃)に編纂された「見聞諸家紋」には藤家一族の家紋とともに讃州飯田氏の家紋「三階松に二本鏑矢(かぶらや)」が掲載されています。飯田家は鎌倉時代~江戸時代初期までは讃岐の武士でした。

 この「見聞諸家紋」には讃州の大野氏、羽床氏、新居氏、福家氏、香西氏、飯田氏、三宅氏、は共に「左留霊公之孫」(さるれいこうのまご)と記されています。昔々に讃岐の海を舞台にした「悪魚退治伝説」や「城山長者伝説」が残されていて、ここに「讃留霊王(さるれいおう)」や「讃王さん」やその子孫が登場しています。この伝説は、説明するには相応の字数が必要となるため、今回は割愛させていただきます。

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 造田の里に居を構えることを決め、先祖代々に渡り地元と生業をともにしていたはずです。連綿を受け継がれてきたこの地の特徴から、飯田家の誰かが果樹を植栽することを思いついたのでしょう。かつてご先祖様が戦場(いくさば)で、同志からか地の人からか、知り得た言葉が「ひうら」なのかもしれません。果樹栽培に最適な地がでることしったからこそ、屋号を「ひうら」と舌のではないでしょうか。今は末裔にあたる飯田将博さんが、その意思を受け継いでいます。

 香川県は、都道府県の中で一番小さい面積です。都道府県別の農産物のランキングで、モモやスモモが上位に名が挙がることはありません。ともに、山梨県がけた違いの首位を誇ります。しかし、生産量こそ少ないですが、すでに「観音寺桃」が親しまれていた江戸時代から今に至るまで果樹栽培が続いているということは、確固たる理由があるからなのです。

美味しい果実が実るから

 

 飯田桃園さんのスモモ物語から、今回の旅物語の後編へ。今一度、「萩の木地蔵」のある飯田果樹園さんの直売所へ戻ろうかと思います。さぬき市の誇る歴史に触れながら、「香川県さぬき市の旅物語≪さあ、結願へ!≫」を書き記しました。空海の説く「三密」のお話もかいております。お時間のある時に、以下よりご訪問いただけると幸いです。

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 今回の旅路の画像および情報は、飯田桃園さんはもちろん、公益社団法人香川県観光協会香川県ウエイ企画森田さん、Benoitと香川県食材を繋いでくれている鹿庭さんのお力添えが欠かせませんでした。この場をお借り、深く御礼申し上げます。

 

 立秋を迎え、暦の上では秋が始まっていますた。しかし、まだまだ猛暑な日々が続くようです。自分の体力を過信し、無理な行動は禁物です。十分な休息と睡眠、こまめな給水と塩分補給をお心がけください。木陰に入り、葉の間を抜ける心地よい薫風(くんぷう)、陽射しにきらめきながら重なり合う結び葉、なんと美しい光景かと夢心地となるも良いですが、夢の(意識の無くなった)世界から抜けることができなくならないよう、ゆめゆめお忘れなきようにお気をつけください。

  「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

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香川県さぬき市の旅物語・前編 ≪いざ!飯田桃園さんへ≫

 香川県高松市高松駅から高徳線へ乗り込もうと思います。この路線は、高松港から離れるように南西へ向かうも、古墳群の点在する石清尾(いわせお)山塊の麓(ふもと)に稜線に従うかのように向きを変え、進路は東に。

 この山塊の東の麓には、約75haの面積を有する、国内最大の文化財庭園「栗林(りんりつ)公園」が広がっています。湧水が小川となり、庭園の2割を占める大小6つの池を形成する。徹底して管理された草木による四季の彩(いろどり)、築山(つきやま)と大小さまざまなに配された石による景観。この木石の庭園の美しさは、400年経った今も、我々を魅了します。往年の高松藩、造園当時を偲(しの)ばせる史跡なり。

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 海岸線に沿うように走るのですが、海とは距離があるため、住宅街の只中を走り抜けてゆきます。すると、進行方向左手に小高い山が見えてくる頃、5番目の駅「屋島」が訪れます。この山に鎮座するのは、四国八十八カ所霊場の84番札所「屋島寺(やしまじ)」です。車で山頂まで上ることができ、そこからの高松市街を望む景色は一見の価値あり。特に夜景の美しさには言葉を失うといいまいいます。

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 「屋島」という地名に、すでに察した方も多いのではないでしょうか。源平合戦の頃、てっぺんが平らな独特な景観の溶岩台地を利用して、平家は軍事拠点とし、再起を図った地です。都奪還にむけ、兵庫県神戸市にある一ノ谷に陣をはるも、源義経に敗れ、屋島まで撤退することに。そこで「屋島の合戦」が始まるのです。

 「平家物語」。軍記物語でありながら、その文章は流麗であり叙事詩的。その輝きは、今にいたっても衰えを見せません。今回は、この世界に入ってはいけない。時を見て、またご紹介させていただこうと思います。屋島合戦の有名な一コマ「那須与一扇の的」は、この地が舞台。弓を射る前に祈ったとされる「祈り岩」。そして干潮になると馬の手綱を架けた「駒立岩」を見ることができるのです。70mほども離れた海に揺れる洗浄の的を、馬で海に入りながら「ぴゃう」と矢を放ち、射落とすとは、まさに神業の如きなり。

 両軍から拍手喝采も、義経の命で平氏の兵を与一は矢で打ち取ります。兵士とはいえ、なぜ戦闘態勢にない者を討ち取ったのか、義経の意図はなんだったのか?そのような歴史ロマンに後ろ髪を引かれながら、「屋島」の駅では下車せずに、先へ進みます。

  さらに進むと、左側の車窓から、ひときわ高く険しい5つの峰(みね)を望めます。古人は、峰を剣と言い当て、「五剣山(ごけんざん)」と名付けました。ここは、かつて空海が修行をした地だといい、山の中腹には85番札所「八栗寺(やくりじ)」がある。駅は7番目の「八栗口」です。商売繁盛を祈願するために訪れる人々が多いといいます。車で八栗寺まで上ることできず、まして徒歩では難儀なので、ケーブルカーをご利用ください。しかし、ここでも下車いたしません。

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 さぬき市に入るやいなや、車窓から景色に海が現れます。大きな入江で、西側が高松市、東側がさぬき市とに区分された志度湾(しどわん)です。沿岸を走る「琴電志度線」から望む景色は、さぞや美しいことでしょう。蠣養殖の筏(いかだ)が波に揺れ、遠く島々の陰影が美しい。

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 さぬき市役所を有するこの地は、高徳線9番目の駅「志度(しど)」です。この駅名からすでにお寺の名前をお察しの方も多いのではないでしょうか。ここには86番札所である「志度寺」があるのです。さあ、降りる準備をいたします。この駅名からお察しかと思いますが、向かう先は86番札所「志度寺」へ。

 その道中、平賀源内記念館が迎えてくれます。平賀源内といえば、江戸きっての発明王であり、「エレキテル」などは、若かりし頃の日本史の勉強の中で登場してきたのではないでしょうか。先日は、皆様もウナギ料理を堪能されたかと思いますが、「土用(どよう)の丑(うし)の日にはウナギ」の発起人です。さぬき市の志度湾に面した地が、彼の生誕の地であり、天才を育んだ地なのです。そして、彼の才覚に早くから気づき、長崎遊学の費用を工面したというのが、当時の志度寺のご住職さんなのだといいます。

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 「補陀落山(ひだらくざん)志度寺」は、運慶の力作である仁王像と巨大なわらじを左右に配した、国指定重要文化財「仁王門」が我々を出迎えてくれます。十一面観音菩薩をご本尊とし、その同体とされている極楽浄土と蘇生の閻魔(えんま)像が、同じ敷地内にある閻魔堂に安置されています。参拝する人々の心のありようで、その表情が優しくも険しくも見えるのという摩訶不思議な閻魔像なり。そして、境内の北側、本堂の裏手側からは、目と鼻の先から志度湾が広がり、遠くに五剣山の山並みが、さらに奥には屋島の稜線まで望めるという。

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 さあ、志度寺の参拝の後、境内を出てから左に曲がるように、海を背にして南に向かうことにします。このまま道は、県道3号線(志度山川線)となり、まっすぐ南へ南へと我々を導いてくれます。さきほどまで乗車していた高徳線は、海岸線に沿うように走るも、志度駅過ぎたあたりでこの県道と交錯し、進路を南に向け県道と並走するように進みます。そして、高速道路の高架橋をくぐったあたりから、山間(やまあい)を抜けるような景色へと一変するのです。

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 高徳線を横目に見ながら、県道3号線を進んでゆくと、この道路と線路の間に、大きな池が姿を現します。昔からある農業用の貯水池、長行(ながいく)池と名付けられています。香川県の地図を開いて見ると、大小さまざまの大きさのため池が、点在していることに気付かれることでしょう。

 

 今年の西日本豪雨の際し、香川県の食材で大いにお世話になっている鹿庭さんが無事息災であるかの連絡をした時に、「香川県は四国の中でも、讃岐山脈四国山地に守られていて、雨や台風の被害がとても少ないのです。」と教えてくれました。そして、「その反面、香川県は雨が少なすぎて、ため池の数が多いです。面積あたりの池密度は日本一です!」とも。

 四国最大の規模を誇る讃岐平野。徳島県との県境に聳(そび)える阿讃山麓(あさんさんろく)から、北に位置する瀬戸内海に向かうように、緩やかな傾斜をもって平野が広がります。ポイントはこの緩やかな傾斜こそが、讃岐平野を開墾してゆく理油の一つでしょう。水は高いところから低いところへ流れゆく。

 

 古代の狩猟を生きる術としていた縄文時代に、海の向こうから伝来してきた「稲作」と出会うことで、弥生時代が始まります。この「稲作」は、定住を可能としたばかりか、多くの人口を養うことができるようになるのです。そして、この画期的な農業は、多くの水を必要とします。

 万葉の時代から、和歌の中には「山田」という言葉が多く詠まれています。この漢字が指し示すとおりに、「山の田」です。司馬遼太郎氏は、「この国のかたち」の中で、「谷こそ日本人にとってめでたき土地だった。」と書き記しています。なぜ、土砂崩れや河川の氾濫によって甚大な被害をこうむる「谷」に我々は居を構えたのか。

 全ては「稲作」のためであった。灌漑とは、農地に外部から水を供給するシステムのこと。稲作には、この灌漑システムの確立が必要不可欠なのです。水は高いところから低いところへ流れることは自明の理。ともすると、川の流れる谷は、稲作には最高の立地といえる。だからこそ、古日本人は、谷に住むことに価値を見出したのです。戦国時代、甲斐の武田信玄が世に名を馳せることになるほど強国になりえたのは、彼が農業土木の天才であったからに他なりません。山間の谷に見事なまでの灌漑システムが、今なお健在であることがそれを物語っています。

 自然の災禍を鑑みても、谷での利水は稲作をする上では、あまりある魅力のある地なのです。豊富な水資源と水の流れを作り出す傾斜がある。だからこそ、「谷こそ日本人にとってめでたき土地だった。」のです。

 しかし、谷から広がる扇状地では、耕作地に限りがあります。そこで、広大な稲作を可能とする平野部を耕作することを思いつくのは自然のなりゆき。しかし、規模が大きくなればなるほど、卓越した土木農業のノウハウを駆使し、灌漑システムを構築しなければなりません。

 

 かつて、大和朝廷は日本国を治めるべく行政区分を策定し、これを「令制国」としていました。そして、その地を管轄するための官職「国造(くにのみやつこ)」を設けたのです。その「国造」に支給された田を「国造田(こくぞうでん)」と呼んでいた。

 4世紀後半ごろに即位していたであろう15代応神(おうじん)天皇のころ、南海道を辿ると行き着く讃岐国(現在の香川県)に、初代「讃岐国造(くにのみやつこ)」として、須賣保禮命(すめほれのみこと)を派遣した、と「旧事紀(くじき)」「国造本紀」に書き記している。讃岐氏の源流はここにあるという。

 後に、皆様お馴染みの革新的な「大化の改新」が断行されるに至り、律令制の中央集権国家が誕生します。これを境に、管理管轄権のある「国造」は廃止となり、一部地域では残るものの、祭祀を司る世襲制の名誉職へと変わってゆきました。

 「讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)」が存在していた頃すでに、讃岐平野は開墾され、理路整然と美田が広がっていたといいます。1100年も前に書かれた書物によると、現在の讃岐平野の58%にあたる地であったというのです。重機を伴い山肌を削るという難儀な開墾ではなく、当時の農機具でも十分に対応できる平野部が広がっていたこと。さらに、山間部から海に向かって緩やかな斜面であったことは、豊富な水を必要とする稲作には最適だったはずです。そして、地理的な利点も忘れてはいけません。

 前述した鹿庭さんの言葉を思い出していただきたい。「香川県は四国の中でも、讃岐山脈四国山地に守られていて、雨や台風の被害がとても少ないのです。」と教えてくれました。自然の猛威にたいしては、今も昔もなすすべはありません。

 良いこと尽くしではないかと思う中で、鹿庭さんはこう付け加えています。「その反面、香川県は雨が少なすぎて…」と。大きな川が少なく、年間降水量も少ないとなると、讃岐の人々にとって水の確保が何よりも重要な課題となるのです。

 

 讃岐の賢人は、平野を開墾するにあたり、限りある水資源の有効活用を模索いたします。そして、画期的なシステムを考案したのです。山間部に大きな「ため池(親池)」をこしらえ、流した水は少し平野部へと進んだ地にこしらえた「ため池(子池)」に貯水します。それを、再度放流し大地を潤したものを、さらに「ため池(孫池)」貯水してゆく。放流した水をそのまま海に流さずに、同じ水をまるで3世代にわたって活用しようというのです。讃岐平野が、阿讃山麓から北の瀬戸内海にむかって緩やかな傾斜があることが、この灌漑システムを可能としているのです。

 棚田とは違い、条里制という古代土地区画制度に基づき、四角に区割り田を「古代条里田(こだいじょうりでん)」と呼んでいます。「讃岐国造」が指揮監督したのでしょうか。この壮大な古代条里田を開墾し、稲作を営むには豊富な水資源を必要とします。降雨量と大きな河川が少ないからこそ、限られた水資源の有効活用として考案された≪讃岐平野の「ため池」による灌漑システム」≫必要不可欠なもの。しかし、この灌漑システムは理路整然と開墾された条里田だからこそ、その効果を最大限に発揮できているのです。

 「香川県には、ため池の数が多いです。面積あたりの池密度は日本一です!」と語る鹿庭さんの言葉に偽りはありません。では、どうやって「ため池」をこれほどまで多く造り上げたのでしょうか。

 

 自分の出身地でもある新潟県にも、越後平野が広がっています。ここで、Googleマップを利用して越後平野と讃岐平野を見比べていただきたいのです。まずは、越後平野です。

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 緑濃い越後山脈に降り積もる大雪が、豊富な水資源となるのです。越後平野では、川という川が暴れ川であり、いかに氾濫を抑え込むかに注力しています。米どころで有名な新潟県ですが、白根という地域は、知る人ぞ知る県下最大の果樹栽培地です。2019年は彼の地の白桃を購入させていただきました。その時に書いたブログに越後平野を解説しております。お時間のある時に以下よりご訪問いただけると幸いです。

kitahira.hatenablog.com

  次に、讃岐平野です。大きさの規模ではなく、平野部を注視していただきたいです。

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 越後平野は平野部が延々と広がっているのに対し、讃岐平野は丘や小高い山が平野部に点在しているのです。讃岐の賢人は、ここに着目したのです。自然の要害は、水路(みずみち)を作り出すだけではなく、「ため池」の縁(へり)にもなると。

 親となる、大型の「ため池」は、阿讃山麓の麓(ふもと)に分布しています。山間(やまあい)に川が流れることで山肌が削られ谷ができます。この谷が平野部に達するところを堰(せ)き止めたのです。下の画像は、日本一の「ため池」、香川県仲多度郡まんのう町にある「満濃池(まんのういけ)」です。

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 ダムじゃないか?自分も同じように思いました。川を堰堤(えんてい)で塞ぎ、水を貯め込んだ人口の池です。現行の法律「河川法」では、この堰提の高さが15m以上のものをダムとし、国土交通省が管轄します。それ未満は、農水省管轄となり、これが「ため池」です。「満濃池」は、これほどの大きさを持ちながら、堰堤は下の画像の通り。そのため、「ため池」です。「ため池」の中では、日本一規模を誇ります。

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 参考までに、この満濃池から東に進むと「豊稔池(ほうねんいけ)」があります。かつては、「ため池」だったであろうこの地は、度重なる旱魃(かんばつ)対策のために、貯水量を増やすため石積式マルチプルアーチの堰堤を築くことになり、1930(昭和5)年に「豊稔池ダム」として完成の日を迎えました。今は上部がコンクリートによって補強がされるも、下部は当時の面影を残す石積みをみることができる、日本に現存する最古のマルチプルアーチダムです。満濃池の堰堤と比べてみると、ため池とダムの違いは一目瞭然です。

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 「ため池」に話を戻します。山の麓に点在する、「ため池(親)」から流れゆく水は、四方に張り巡らされた灌漑システムによって、田を潤してゆきます。そして、余分な水は川に戻さず、次の「ため池(子)」へと貯水される。さらにここから、傾斜に沿うように広がる田を潤して「ため池(孫)」へ。そしてまた次に広がる田へ。この讃岐平野に張り巡らされた灌漑システムに欠かせない「ため池」の数は、今は1万4千ほども存在するのだといいます。

 自然の丘陵を利用した「ため池」は「台地池」と呼ばれています。しかし、全てが同じように作れるわけではありません。そこで、平野部では、水田のあった場所や、雨の流れてゆく「水路(みずみち)」に、四方を堤防で囲んだ「ため池」を作りました。これを、「野池または皿池」と呼んでいます。

 四方を堤防で囲む「野池」では、常に堤防の決壊の不安にさい悩まされます。堅固な丘陵を利用する「台地池」のほうが、効率もよく間違いなく安全です。越後平野のような形状であれば、山の麓以外は、すべて「野池」でしょう。しかし、讃岐平野では、点在する丘や小高い山々が利用できるのです。

 前述した高徳線と県道3号線に挟まれた地に姿を見せる「長行(ながいく)池」は、海にほど近い地でありながら「台地池」のようです。海に向かって左手には標高239mの雲附山(くもつきやま)、右手には198mの石鎚山(いしづちさん)。この山間を利用しているのです。下の画像の池の水面の先には堰堤があり、その遠い先には小豆島が望めるのです。

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 長々と香川県「ため池」よもやま話を書いてしまいました。話を「長行池」のある県道3号線(志度山川線)へと戻そうかと思います。長行池を過ぎて南下すると左手「雲附山」の麓に「当願堂(とうがんどう)」が姿を現す。この地に伝わる龍神伝説、その渦中の暮当(ぼとう)と当願が祀(まつ)られています。

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 彼の地に伝え遺される龍神伝説とは、どのようなものなのか?大いに気になりますが、ここはぐっと堪えていただき、先へ進もうと思います。そう、今夏のBenoit特選食材であり、フランス人パティシエも絶賛した逸品が、ここから送り出されているのです。

 逸る気持ちを抑えながら県道3号線進むと、瓦屋根の小ぶりの建物が見えてきます。古風なお堂というものではなく、何か今風な建物でもある。近づいてみると、道路に面した大きなガラス窓の脇に、木の立て看板があり、「休憩所」と記されている。窓越しの中を覗いて見ると、お地蔵さんがいらっしゃった。

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 県道3号線を整備するさいに、どうしても避けては通れなかったために、今の場所にお引越しをしたのだといいます。昔々のこと、志度に流れ着いた萩の木を彫って志度寺のご本尊が造られたといい、その余った木で作られたのが、このお地蔵さんだと言い伝えられています。長きにわたり、長行地区で「萩(はぎ)の木地蔵」と呼ばれ、地元の人々に親しまれています。

 萩の木は、か細い枝が枝垂れるように枝を広げ、その先々に美しい小さな花を咲かせます。普段はか細い枝に隠れている幹ですが、其処此処で見かけるものは太いとは言い難いものです。だからこそ、志度に流れ着いた見事な太さの萩の木に、何か神聖めいたものを感じ取ったのかもしれません。

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 ところが、「萩の木地蔵」さん、よくよく見ると木ではなく石で造られているのです。昔のこと、87番札所の「長尾寺」から、萩の木地蔵さんを貸してほしいと打診がありました。長行村の人々は快諾し、お地蔵さんを長尾寺に貸した後に、なんと行方不明になったのです。長尾寺はお詫びの気持ちとともに、今の石の「萩の木地蔵」を長行村へ届けたといいます。

 紛失してしまうとはなんとも粗末な話ではありますが、今も皆から親しまれていることが一番大切なこと。いろいろな縁が絡みあい、今のこの場所から皆を見守っているのです。そう、今のこの場所とはどこのことか。ヒントはお地蔵様の画像の窓から見える「のぼり」にヒントがありました。

 

 この「萩の木地蔵」さんが祀られているのは、「黄金桃」と書かれたのぼりを立てている、果物直売所の敷地内。昨年から引き続き、今夏もBenoitへ見事なまでの「すもも」を送っていただいている、飯田桃園さんです。高松駅を出発し、飯田桃園さんまで、長い道のりでした。

そこで、この物語の続編は、「香川県ひうらの里≪飯田桃園≫さんのご紹介」と銘打って、別ブログに書き記させていただきます。いったいどのようなこだわりのある果樹園なのでしょうか?いや、それよりも「ため池」の話でも書いた通り、稲作のために開墾した地で、なぜ果樹園を切り拓いたのか?

お時間のある時に、以下よりご訪問いただけると幸いです。

kitahira.hatenablog.com

 

 今回の旅路の画像および情報は、飯田桃園さんはもちろん、公益社団法人香川県観光協会香川県ウエイ企画森田さん、Benoitと香川県食材を繋いでくれている鹿庭さんのお力添えが欠かせませんでした。この場をお借り、深く御礼申し上げます。

 

 立秋を迎え、暦の上では秋が始まっています。しかし、まだまだ猛暑な日々が続くようです。自分の体力を過信し、無理な行動は禁物です。十分な休息と睡眠、こまめな給水と塩分補給をお心がけください。木陰に入り、葉の間を抜ける心地よい薫風(くんぷう)、陽射しにきらめきながら重なり合う結び葉、なんと美しい光景かと夢心地となるも良いですが、夢の(意識の無くなった)世界から抜けることができなくならないよう、ゆめゆめお忘れなきようにお気をつけください。

 「一陽来復」、必ず明るい未来が我々を待っております。そう遠くない日に、マスク無しで笑いながらお会いできる日が訪れることを願っております。皆様のご健康とご多幸を、一刻も早い「新型コロナウイルス災禍」の収束ではなく終息を、青山の地より祈念いたします。

 

ビストロ「ブノワ(BENOIT)」 北平敬

www.benoit-tokyo.com